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澄み渡った碧空に、琴の音が溶けてゆく。
視線を落とせば、ゆったりとうねった遣水に、鳥の形をした盃がゆるゆると流れ、そこかしこに席を置く貴族たちが、短冊を手に筆を進めている。
「曲水の宴か」
姿は見えないが、隣りにいるはずの鈴木が「優雅ですね」と答えた。
『曲水の宴』とは、水を流れる盃が自分の前を通り過ぎるまでに歌を詠むという、平安貴族の遊びだ。
先を進むにつれ、煌びやかな衣をまとった公達が意味ありげな流し目を送ってきた。
左を見ると、風もないのに深紅の枝垂れ紅葉が揺れ、ヒラヒラと遣水の水面に落ちクルクルと回りながら流れていく。
不意に見たこともない美しい蝶が現れた。
キラキラと鱗粉を輝かせながら舞いゆく先に目をやれば、陰陽師だろうか、白い狩衣を着た若い男の肩に美しい蝶がとまる。
こちらをチラリと見たその陰陽師はクスッと微笑み、人の形をした紙にふぅーと息を吹きかける。
すると人型は蝶になり、七色の無数の鱗粉になり、輝く粉はやがて形を成し、ひとりの美しい舞姫になった。
どこからともなく聞こえてくる横笛の奏でる曲に合わせ、美しい舞姫が舞いはじめる。
まるで天女のように。
しばらくその舞を見つめていた西園寺洸は、おもむろに「ふぅー」と大きく息を吐いた。
「やっぱり疲れるな」
そう言って、外したヘッドセットをテーブルの上に置き、ソファーに腰を落とす。
首を振り、指先で髪の乱れを整える姿はさり気ないが優雅だ。
それはまるでバーチャルリアリティの世界から抜け出してきた平安貴族のように。
「ほんの5分じゃないか。他に感想はないのかよ」
「不満? じゃあ、技術の進化はすごいね」
それだけ言うと、タイミングよくコーヒーを持ってきた女性に「ありがとう」とにこやかに礼を言って、洸はカップを手に取る。
呆れたようにチッと舌打ちしたのは、今彼らが訪れているオフィスの若き社長、源径生。
「ここが変とか、あそこがいいとかあるだろ?」
「だって他に言いようがないじゃないか。次々と直衣姿の男に色目を使われて、ステキ?とか言えとでも?」
「それは仕方ないさ、乙女ゲームだからな。わかったか?金の直衣を着た男、モデルはお前だぞ」
「モデル料払え。勝手に使うな落ち武者め」
「だから言ってるだろ、落ち武者は平家。源氏じゃない」
源はゲラゲラと豪快に笑いながら、コーヒーを手に取った。どうやらモデル料を払う気はないらしい。
洸の隣に座った鈴木が口を挟んだ。
「あの陰陽師には、もしかしてモデルは藤原さんですか?」
「当たり。あいつは平安時代にやけに詳しいからな、色々教えてもらってるんだ」
「やはりそうですか、よく似ていましたから。藤原家の先祖は陰陽師だと聞いたことがあります」
「ああ、そうらしい。いかにもだよな」
現在の藤原家は華道のお家元である。若き次期家元は、女性誌に取り上げられるなど芸能人に負けない人気があった。どこか謎めいた雰囲気が漂う美男子。実際に紫の単に白い狩衣を着ようものなら、さそがし似合うことだろう。
その次期家元、藤原碧斗は、西園寺洸、鈴木翼、青扇学園に通った。学年でいえば洸のひとつ下、鈴木の2つ下が藤原である。
青扇学園とは全国から集められた資産家の子息や令嬢、抜きん出た秀才、あるいは一芸に秀でた者だけが通う一貫教育校であり、西園寺洸は在校生の中でもキラ星のごとく輝ける存在だった。鈴木は不世出の秀才と謳われ、青扇の高等部に在校中3年間生徒会長を務めた伝説の学生である。藤原碧斗もまた、その不思議な魅力で知らぬ者はいない学年を代表する存在だった。
源は青扇学園出身ではないが、遊び仲間だった洸の友人を通じて彼らと知り合った。表裏のない気さくな人柄のせいか彼らとは気が合い、社会人になってもそのまま長く付き合っている。
という訳で彼らの間柄は友人でもあるが、今日は西園寺洸と鈴木は遊びで源を訪れているわけではなく、仕事で来ている。
西園寺洸は西園寺ホールディングスの創業者一族の御曹司である。29歳という若さではあるが常務取締役で、鈴木は彼の秘書。西園寺ホールディングスは、国内外の都市開発を手掛ける大手デベロッパーだ。建築物は事前に本物を見せることはできない。そんなこともあって、コンピュータが見せてくれるバーチャルリアリティの世界とは縁がある。今日もその打ち合わせを兼ねて、源のオフィスを訪れている。
ビジネスの話が終わり、新しいゲームを作っているから見てみるかと誘われて覗いたのが、今体験した平安絵巻の乙女ゲームだった。
「彼は神秘的ですからね。陰陽師の力があっても驚かないな」
しみじみとそんなことを言う鈴木を軽く睨み、西園寺洸は、「あの手品みたいな力か?」と訝しげに眉をひそめた。
つい先程パーチャルリアリティの世界で見た陰陽師は、人の形をした紙を生き物のように操っていた。
怪しげな蝶に化けたのは、妖怪なのかなんなのか、いずれにしても現実の世界とはかけ離れている。
「もしかすると、平安時代なら実際起きたのかもしれませんよ」
鈴木がふいにそんなことを言った。
「なにが? 怪しげな蝶が金の鱗粉を輝かせるとか?」
「ええ、あの時代なら本当に百鬼夜行が見えたのかも。現代でもこの世には説明のつかない事が起きたりしますからね」
何を想像しているのか、鈴木は楽しそうにクスッと笑った。
そんな鈴木を見て、西園寺洸は呆れたように眉をひそめ左右に首を振る。超リアリストな洸には、想像する気にもなれないらしい。
「夢がない男だな、お前は」
源にそう言われて、「大きなお世話」と、洸はツンと澄ました。
源のオフィスをあとにした洸と鈴木は、リムジンに乗り込むと改めて感想を話し合った。
「やはりVRは疲れますね」
「技術の進化に人間の体がついていかないな」
コンピュータの技術は日進月歩、昨日話題になったことが今日は既に古いということもある。
だからといって同じ速度で人が進化をしているわけではない。人の遺伝子は太古の昔とそう変わっていないのだから。
ふいに洸が言った。
「舞姫がいただろう? あの子には見覚えがある。誰かは思い出せないが……」
「そうですか? 私には覚えがありませんが」
――鈴木が記憶にないということは、気のせいだろうか?
微かに首をかしげながら、洸はVRのなかで羽衣を翻しながら舞っていた女性を思い返した。
「そういえばイメージしていた『五節の舞』とは随分違いましたね」
鈴木が言う通り、以前目にしたことがある『五節の舞』は、ゆったりとした動きの舞だった。
だが、今日目にした舞は違う。
恐らくはほとんど動かなかったであろう平安時代の姫にしては、クラシックバレエのように軽やかな動きで、羽衣を身に着けたまさに天女の舞のようだった。
漆黒の長い髪、赤く小さな唇、抜けるように白い肌。
うら若い、まだ幼さの残る少女のような女性。
心に残るデジャヴ……。
だがそれは、バーチャルリアリティという仮想現実に触れたことで起きた記憶の錯覚に違いない。そう結論づけた西園寺洸は、話を仕事に切り替えた。
「今回は源に頼んで正解だったね。彼は見せかたが上手い」
「ええ、そう思います」
鈴木は頷きながら、チラリと隣に座る上司を見つめた。
彼が女性に興味を持つのは、もしかしたらはじめてのことではないかと思いながら……。