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全4短編 第二回

作者: ソラニン

 僕は母さんの仕事をよく知らない。

 弁護士であること。事務所を構えて女手ひとつで従業員を雇って経営していること。

 それしか知らない。

 母さんは弁護士になる気が無いなら知らなくてもいいと、事務所に入る事をあまり勧めていない。

 僕も仕事の邪魔になるといけないから入ろうとは思わない。

 ……というのは嘘だ。

 本当は、仕事の場が怖くて入りたくないんだ。

 僕はまだ中学生だから、社会に出て仕事をするという事がどういう事なのか分からない。想像力が欠けている。

 仕事の辛さも楽しさも、良いことも悪いことも、全部含めて何も分かっていない。

 だから仕事をしている母さんは僕にとっては曖昧でも理想像であり、その理想が霧散するのがきっと怖いんだ。

 いずれ否応にも知っていく事なのに、そこから目を背けている。

 そんな自分が嫌で、けれど変わる事も踏み出す事も出来ないでいた。

 だから僕は……この夏、その第一歩を踏み込んでみようと思った。


     …


 八王子市郊外のとある住宅地。

 その中に埋もれる様にして、『喫茶店アドリア』は在る。

 店のカウンター内に立っていた僕は、来店した3人の少女達に「いらっしゃいませ」と言った。

「わ、バーテン服の自由くんカッコいいなぁ」

 僕の名前--町田自由を、金髪碧眼の彼女は親しみを込めて言う。

「変じゃないかな? 僕にはこういうの似合わないと思うんだけど……」

「そんな事無いよ! すっごく似合っててカッコいい!」

「ありがとう、アリサ」

 イギリス人ハーフの鷺沼アリサは慣れ親しんだ笑顔を僕に見せてくれる。

 すると横に立つ、肩まで降りた綺麗なウェーブヘアが特徴の美人が話に加わる。

「自由くんのアルバイトって、今日からなのよね?」

「そうだよ。正確にはアルバイトじゃなくて親の知り合いの手伝いなんだけどね。中学生だからアルバイトとしてお金貰うワケにはいかないから……」

「そうなのね。馴染みの店に友達が働いてるのって、何だか不思議なキブン♪」

 幼馴染み四人組の姉的存在な彼女--多磨和泉さんは、妖艶で柔和な笑みを絶やさない。

 そんな彼女達に、僕は行儀よく姫にかしずくナイトのように頭を垂れてみせる。

「お客様方、今日は何に致しましょうか?」

「アタシはアイスコーヒー! 和泉ちゃんは?」

「私もアイスコーヒーかしら。桜子は?」

 和泉さんが視線を下に向けた先に、最後の一人が立っていた。

 腰まで降りた黒髪の少女は、その背の小ささのせいでカウンターの陰からうんと背伸びをして、それでもようやく顔が見られた。

「わ、私は……和泉、メニューを取ってくれ」

「あらあら、テーブルのメニューに届かないのね」

「う、うるさい! わざわざ言う事でも無かろう! ……むぅ、私はオレンジジュースを頼む」

「あれ? 江田ちゃん、コーヒー飲むってさっき言ってたけれど?」

「それはその……気分が変わったんだ。……アリサ、何だそのニヤニヤ顔は?」

「もしかして江田ちゃん、ブラックに挑戦しようとしていざ頼む時になって勇気が出なかったとか?」

「そ、そんなワケ無いだろう! ブラックだって普通に飲める!」

「あらあら。桜子、また次の時にチャレンジしてみましょう」

「そうだな。……ん? チャレンジ?」

 顔を真っ赤にして和泉さんを睨む江田さんを二人は(たしな)めて、3人はカウンターに座る。


「にしても驚いたよ。自由くん、いきなりここで働くって言い出すんだもん」

「そ、そんなに意外かな……?」

「意外っていうか、私達まだ中学生じゃん? 働くなんてまだまだ先の事だって思ってたから」

「あら、私は神社の仕事をしてるわよ。アリサちゃんだって手伝いに来てくれたじゃない」

「それはそうなんだけど……なんて言うんだろ? それはあくまで家の手伝いであって、自由くんの仕事とは、何か違う感じがするっていうか。うーん、和泉ちゃん家の手伝いも仕事に違いないんだけどね。何でだろ?」

「アリサの言おうとしてる事、僕にはよく分からないよ。仕事じゃない仕事って言われても、仕事は仕事だし」

 二人揃って思い悩んでいると、横からグラスを持った太い腕が伸びてきた。

「お待たせしました。アイスコーヒー二つと、オレンジ一つです」

 丁寧な口調で話す筋骨隆々の男は、この店の店長。

 僕らは親しみを込めてマスターと呼んでいる。

 届いた飲み物を、アリサ達は早速喉を潤していく。

「ふはぁ……。やっぱり夏に冷えた飲み物は最高!」

「マスター、今宵の一杯もまた美味なり」

 江田さん、オレンジジュース片手に何を言っているのやら。

「ありがとうございます、桜子くん。皆さんもゆっくりお寛ぎ下さい」

「はーい、ありがとねマスター! ところでマスター、自由くんの働きぶりはどう?」

「自由くんはよくやってくれていますよ。初めてとは思えないくらいに自然に接客ができて、まだメニューが憶えられていないのに慌てた様子も無く。普段から物覚えや落ち着きがあるからですね」

「そっかそっか。アタシも鼻高々だよー」

「アリサは何もしてないだろ」

「江田ちゃんだって同じじゃん!」

 二人が言い合う馴染みの光景。

 不思議な事に、僕は彼女達の輪に入りきれず、一歩引いた立場でそれを眺める。

 どうしてそんな気分になっているんだろう。

 きっと店員という自分の立場とお客様という彼女達の立場を意識せざるを得ないんだろう。

 働いている上で引いている無意識の線引きに、僕は寂しさを感じていた。

 ふと、和泉さんが僕に耳打ちしてくる。

「私も気になるの。自由くんが仕事を始めた理由」

「……どうしても知りたい事があって、その答を模索中なんだ」

「そうなの? なら、見つかるといいわね。その答」

 彼女の見透かした気配りは、いつも素直に関心させられる。

 僕らの中で一番大人な彼女に、僕は「ありがとう、頑張るよ」と返した。

 仕事という物を、僕は未だに知らない。

 母さんの事を、ちっとも理解できていない。


    …


 仕事を初めて三日目の昼下がり。

 店に大層疲れた様子のサラリーマンがやってきた。

 火照った体を冷ます様にクーラーの風が一番当たる席に座った。

 座るなりため息を一つ。ジャケットを脱いでも、ネクタイを緩める事はしなかった。

「いらっしゃいませ。ご注文は何に致しましょうか?」

「そうだなぁ……アイスコーヒーで」

「かしこまりました。少々お待ちください」

 カウンター裏の調理場に立っていたマスターに注文を伝えると、彼はフロアに目線を送るなり僕に耳打ちしてきた。

「自由くん。このご注文はあそこの男性で間違い無いですね?」

「あ、はい。それが一体……?」

「そうですね……一つ、追加で持って行ってくれますか?」

 疑問符を浮かべつつ了解。

 マスターは冷蔵庫からビン詰めの角切り大根を出して小皿に盛り付けると、別途用意してあったレモンの皮と共に添え物を用意した。

「はいお待ちどうさま。お願いしますね」

「は、はい」

 僕は言われたままに男性の元へと届けた。

「お待たせしました。アイスコーヒーです」

 すぐにコーヒーが出てこなかった事に不満の表情をあらわにする男性。

 たかが三分かからないくらいなのだけど、喉が渇いている時というのは気が立つ事はよくある。

 その表情も、僕が並べた添え物を見るなり疑問の表情へと変わる。

「……これ何?」

「店長よりサービスでございます」

「ふーん」

「どうぞごゆっくり」

 カウンター裏に引っ込んだ後も、僕は横目で男性の様子を見ていた。

 コーヒーで喉を潤した後に特に気にした様子も無く、大根を口に運ぶ。

 ……特に変わった様子は見られない。

 何やら酸っぱそうに口を細めたが、それもすぐに戻った。

 男性はその後ネクタイを緩めるとたっぷり三十分ほどくつろいで店を後にした。

「マスター、さっきのは何だったんですか?」

「何てことありません。汗を沢山かいて疲れていた様子だったので、レモン果汁に浸した角切り大根を用意していたんです。酸っぱい物は疲労回復だけじゃなく、減った塩分も補給できて良いんですよ」

「へぇ、そうなんですか。確かに疲れた時に梅干しを食べる話を聞いたことあるなぁ。でも大根のお浸しってすぐに用意できる物じゃないですよね?」

「この時期になると暑さに疲れた方が多いので、そういう方には出す様にしてるんです。自由くんも見かけたら、好きにお出しして構いませんよ」

 マスターの気配りという事か。

 疲れた様子の人に対する気配り。

 今まで、そういう人を見てもどうすればいいのか分からなかったから、何もしてこなかった。

 でも何もしないだけじゃ、相手の事は何も分からない。

 相手の事を考え始めた時が第一歩……という事だろうか。

 これも答の一つ。

「……これ、少し頂いてもいいですか?」


 その日の夜。

 母さんは疲れた様子でソファに身を預けた。

 大人っぽいジャケットもスラリと伸びたパンツスーツも脱がない辺り、僕の前だからか気を緩めようとしない。

「お疲れさま」

「ただいま、自由。……これは?」

「マスターからおすそ分けもらったんだ。食べてみて」

「はむ、もむもむ……何この大根、酸っぱいのね」

「疲れた時に良いと思ってね」

「そう……」

 二、三個口にした所で、母さんはジャケットを脱いで立ち上がり、自室へと入っていった。

 いつもなら二十分ぐらいボーっとしているのに、今日は随分と立ち直りが早い。

 着替えて戻ってきた母さんと夕食を囲む時間、僕はふと聞いてみたくなった。

「母さん、仕事大変そうだね」

「全然」

 気丈に振る舞う母さんは本当に平気そうに断言する。

「仕事、大変じゃないの?」

「大変じゃない仕事なんて無いわ。自由に話す程大変じゃないって事」

「……そっか」

 やっぱり、まだ……母さんとの距離は離れていた。


    …


 仕事を初めて一週間が経ったとあるお昼時。

 店内に一人の女性が来店した。

 真新しいリクルートスーツをパリッと着こなした女性は、机席に着くと疲れた溜め息を一つ吐いた。

「いらっしゃいませ。ご注文は如何なさいますか?」

「そうね……このカフェモカで」

「かしこまりました。少々お待ちください」

 キッチンに戻ると用意を始めた。

 この一週間で、僕は簡単なメニューであれば作っていいと許可されていた。

 エスプレッソコーヒーとチョコシロップ、スキムミルクを用意して組み合わせれば完成。

 この店はチェーン店ではないにしろ設備が充実しており、僕はそれに大いに助けられている形だ。

 用意が終わり、席に向かう。

 すると女性は一枚の書類に向かって作業を始めていた。

 あ、これは長く居座るな。そう思いつつ「お待たせしました。カフェモカです」と机に置いた。

 女性は目線をグラスに向けるとすぐに作業を再開する。

 その無言の迫力に気圧されて、「ごゆっくり……」と、ついつい声が小さくなった。


 カウンターに戻るなり、僕は物思いに耽る。

 あの女性は、どんな事をしていてあんなに気を張り詰めているのだろう、と。

 仮に仕事として、彼女の仕事は一枚の仕事を仕上げる事に全力を尽くさないといけないのだろうか?

 あの紙は契約書などの重要な書類なのだろうか?

 パソコンやスマホで用意できる今時、直筆で書面を? そんな大切な物をこんな喫茶店で?

 そこから導き出された予想。

 あれは仕事じゃない。あの紙は履歴書で、きっと就活をしているんだ。

 そうでなければあんなに焦り混じりの強張った表情の理由がつかない。

 母さん達一般的な社会人とはどこか違う新品のスーツと、それにも関わらずインクで黒く薄汚れたシャツの袖口も要因の一つだ。

 あくまで予想。想像。

 けれど確信めいた推理。

 ずっと母さんの顔色様子を伺っている内に身についてしまった推察力を今は感謝した。

「ねえ、マスター」

「どうしました、自由くん?」

「ちょっと僕、あのお客さんの事で相談があるんだけれど……」



 マスターに相談した後、僕は女性に歩み寄った。

「失礼します、お客様」

「ん……何?」

「コーヒーのお替りは如何ですか?」

「え? ここってそんなサービスしてるの?」

「ううん、これは頑張ってるお姉さんへの僕からのエールですよ」

「っ……!?」

 目を白黒させて驚く女性。

 完全に不意を突かれた様子だった。

「あ、突然ごめんなさい。履歴書書いてるからそうなのかなって。何か力になれたらって思ったんです」

「そ、そう。じゃあ……頂こうかな」

 女性にとってこんな親切は馴染み無いらしい。

 だからこそ険しい表情が解けて照れくさそうに頬を赤く染めているが僕は嬉しくて「はいっ!」と声が上ずった。

 持ってきたガラス容器から置かれているカップへ注いでいく。

「出来は良さそうですか?」

「そうね……あんまり、かな」

「どこで悩んでるんですか?」

「志望動機もそうだし、アピールポイントも、かな」

「志望動機で悩むものなんですか? 動機があるから会社に応募する物だと思ってたんですけど」

「私はやりたい事があって就職するワケじゃないから、動機と目標の優先順位が逆転してるんだよ」

「やりたい事が無いって、なりたかった夢とかは?」

「そういうの、今は全く無いよ」

「全く、ですか?」

「もしかしたら昔はあったのかもしれないけれど、社会をほんの少し見ただけで心が折れちゃって。夢とか希望とか馬鹿らしくて頭から消えちゃった。それでも働いてお金を稼がなきゃ生きていけない。だから妥協点を探してるって所かな」

 僕には女性の言っている事が納得できなかった。

 夢も希望も見えなくて、それでも生活する事にしがみつく為に、見失った夢と希望の面影を辿りながら妥協する。

 そんな生き方、虚しいなと思った。

 けれどそれが僕には見えない社会の実態なんだろうか?

 これも社会人の一般的な側面なんだろうか?

 そしてそれらは、嫌でも飲み込んで納得するしか無いんだろうか?

 僕の目の前には壁を前に立ち竦む未来の自分が居て、僕には壁すらも蜃気楼の様にぼやけて見え辛い。

 いつかは僕もその壁に立つ事になる。

 何だか怖くなった。

 見れば、やけっぱちになった彼女の唇も小さく震えている。

 恐怖が伝染してくる。


 ふと、さっきの会話が頭をよぎり、マスターの言葉が強く心に響いた。

「就活で苦しんでるかもしれないあの人に、せめてコーヒーのお替りでもご馳走してあげたいんですけど……」

「もちろんいいですよ。ただし、自由くんはあの方の困難を正しく理解してあげられていますか?」

「それは……まだ分からないよ」

「応援する気持ちは尊い物ですが、相手の状況と心を正しく把握していなければ、応援は逆効果になりえます」

「じゃあどうすればいいのかな」

「応援したい君の心は確かなんです。ならば彼女と話してみてごらんなさい。そして今の君の立場で出来る精一杯の事を考えて、彼女の背中を押してみなさい」

 背中を押す。

 きっとマスターの言葉の真意は、この事だったんだ。

 僕にすら伝わる恐怖は、当人である彼女からすれば並大抵の事じゃない筈だ。

 だからこそ、彼女の後ろに立つ僕までも折れる事は無い。

 道の後ろから、そっと支えてあげる。

 僕に出来るのは、きっとそれだけだ。

 それだけでも良いと信じるしかない。


「大丈夫ですよ。きっと良い会社が見つかります」

「そうかな? こんな宙ぶらりんの人間、採用してくれる所なんて無いよ」

「宙ぶらりんでいいじゃないですか。人生行き当たりばったりだったとしても、進み続けている人の方が僕は好きです」

「す、好きって……!?」

 女性は顔を赤らめたけれど、咳を一つ吐いて、表情は最初よりもずっと穏やかになった。

「うん、頑張ってみるよ。ありがとね、小さな店員さん」


 それから一時間ほど経って、女性は喫茶店を後にした。

 入店した時とは打って変わって、何だかやる気に満ちた良い表情に見えた。

「マスター、僕のした事、あれで正しかったのかな? 結局履歴書を書く良い答にはならなかったし」

「いいんですよ。答は彼女自身で見つけて書き起こさなければ意味が無いんですから。自由くんなりに彼女へ寄り添ったお陰で、一歩前に進む事ができた。たかだか気まぐれに立ち寄った店の店員が与えられる物としては、十分すぎるくらいだと私は思いますよ」

「そうかな。そうだといいな……」

「ええ。そうですよ」


 仕事は、多少なりとも自分の理想が込められて就く物だと思っていた。

 けれど夢も希望も無く、ただ作業的に、ただ流れて身を浸すだけの人もいる。

 そんな人も実在するという事を知った僕は、なら母さんは? と疑問に思った。

 弁護士という仕事は、母さんにとって理想を持つ事が出来ているんだろうか?

 それとも家や僕を守るために就いているだけなんだろうか?

 もし後者だとしたら、僕という存在はお荷物にもなりえている、それが怖くて堪らなくなった。

 生まれてから十四年。女手一つで家と会社の両方を支えて取り纏めている母さんの事が、心配になった。


 夜、またしてもソファに体を預ける母さんに聞いてみる事にした。

「仕事、やっぱり大変だよね?」

「全然」

 やはり変わらず毅然とした態度。

 僕の理想を象徴する理知的な女性。

「僕、今日就活してる人に会ったんだ。夢とか希望は無くても仕事に就こうと悩んでる様子だったよ」

「そう」

 小さく呟いたきり、後に続く言葉は無い。

 やっぱり、今日もあまり話せないのかな……そう思った矢先の事だった。

「私の会社にもそういう人はよく来るわ」

 予想外の言葉に、僕は嬉しくなってすぐ言葉を返す。

「そうなんだ。そういう人たちって、母さん……採用する側からはどういう風に見えてるの?」

「どう、とは何かしら?」

「面接とかそれ以外でも、そういう人たちをどういう基準で見て、採用を決めてるのか知りたい」

 今日の僕は深く踏み込む。

 そんな僕が珍しいのか、母さんの僕を見る目が揺れて定まらない。きっと言うべき事を考えているらしい。

 そうして出てきた言葉は、結局味気ない物なのは変わらない。

「何てこと無いわ。その人の人格、道徳観、判断力を見て、自分や会社に入って問題無さそうなら雇うまでよ」

「仕事に夢も希望も無いのに面接に来た人たちはどうしてるの?」

「それでも頑張って表現できなければ、頭の回転が鈍い人という事よ。必要な場で自分の評価を高める言葉を言えないのでは、物事はスムーズには進まないもの」

「それって、嘘をついてでも体裁を保たないといけないって事なの?」

「そうよ」

 声色が強くなったのは、僕にハッキリと伝えなければならないと考えたからだろう。

 世の中は綺麗事だけでは回らない。けれど綺麗事を言う舌の回りだって必要。

 母さんには母さんの考えがあって、それは母さんの中で『清濁併せ呑む』というのが揺るがない考え方なのだろう。

「……嘘が一概に悪いとは僕も思わないよ。けれど僕は例え自分を良く評価される為であっても、簡単には言えないよ。相手の期待に応えられなかった時の不安を考えると、後ろめたさは有るから」

 みんなは僕の仕事ぶりを評価してくれているけれど、僕はちゃんと応えられていたとは思っていない。

 今日だって、やっぱりあの女性客の気持ちに対して最良には応えられなくて、言った言葉はその場で考えて綴った答えにもならない浮ついた物しか出なくて、今でもずっとそれを引きづっている。

 僕は周りが思う以上に、メンタルが弱いんだ。

 この失敗が与えた期待を裏切る不安は、今後しばらく……もしくはずっと残り続ける。

「……彼の所で働かせるのを許可したのは、失敗だったかしら」

 母さんは淡々と言った。

「そんな事無いよ」

 と言ったのは、とっさについた僕の嘘。

 本当は、成功か失敗なのかもまだ分からない。

 母さんの主張は聞く事が出来ても、僕は未だに分からない事ばかり。

 母さんは未だに僕の理想であり続けている。

 だからこそ言うとおり、失敗である事を考えずにはいられなかった。


    …


 仕事を初めてからほぼ一か月が経った。

 八月の後半。残暑の暑さが店の外に広がる中、彼女達は逃げ込む様にして来店した。

「あうー、暑かったぁ。自由くん、いる?」

「アリサ、それに二人も。すごい汗だね」

「ああ。アリサのバカが早くここに来たいからと走り始めてな。全く、後を着いていく私たちの身にもなってほしいものだ」

「あらあら、桜子の顔、汗でびっしょりね。拭いてあげるからジッとしてて」

「こ、子供扱いするな! ぐにゅぐにゅ……」

「桜子ったら照れちゃって。本当に可愛いんだからぁ」

 ハンカチで顔を拭かれている間は黙る辺り、江田さんもまんざらじゃないらしい。

「ともかく三人とも座って。すぐ冷たい水を持ってくるね」

「ありがとー自由くん」

「うん。ごゆっくり」

「……?」

 アリサの顔が一瞬、不安そうな表情を浮かべた。

 僕の顔に何か付いていたのだろうか?

 僕は頭の片隅に追いやりつつ、みんなをボックス席に案内した。


 アリサと和泉さんはアイスコーヒー、そして江田さんはオレンジジュース。

 三人とも、以前と変わらない物を頼んでくる。

 彼女達はこの一か月、どんな風に変わったのだろうか?

 バイトの時間以外ではいつも一緒だけれど、よくよく見ると三人とも所々変わった気がする。

 江田さんは、何だか吹っ切れた様に清々しく、真っすぐ堂々と物事に向き合う様になった。子供扱いされて怒るのは相変わらずだけど。

 和泉さんは……何だかもっと色っぽくなったと思う。いや、以前より子供っぽく笑う様になった気もする。

 そしてアリサは……夏休みの始めにあった出来事から、何だか少し大人になった気がする。

 けれど……僕は?

 僕はこの一か月で、どれだけ変われたのだろう?

 僕は未だに母さんの事も仕事の辛さも理解できてなくて、同じ所で足踏みしている。

 それが悔しくて、情けなくて、彼女達を直視できなくなっていた。


 そんな僕を、アリサはカウンター越しに話しかけてくれた。

「自由くん、何か悩んでる?」

 僕の目を直視してくる彼女に驚き、すぐに目線をそらしてしまう。

「……急にどうしたの? 悩んでる様に見えた?」

「うん」

「ははは……」

 笑って誤魔化すしか無かった。

「気にしないで。ほら、二人の話に入らなくていいの?」

「それよりも自由くんの方が気になるよ。仕事、辛いの?」

「そ、そんな事無いよ。……本当だよ?」

 心配そうな表情が崩れないので、繰り返し念を押す。

 アリサには笑っていてほしい。その為に余計な心配なんてかけたくないし、考えさせたくも無かった。

 けれど彼女は心配を崩さず聞き返してくる。

「アタシは自由くんみたいに働いてないから、仕事の辛さとか分からないよ。けれど相談にはのれるからね?」

 何だかこの状況、似ている。

 母さんと僕の関係に。

 今のアリサは、母さんの仕事を知ろうとしてやっきになる僕と同じなんだ。

 そこで僕はようやく気が付く事が出来た。


 ああ、母さんは僕に余計な心配をかけさせたくなかったんだ。

 だからあんなにそっけない態度で、仕事の事を言おうともせず気丈に振る舞っていたんだ。

 それが母さんの嘘。

 体裁を保つ事で、僕が余計な心配を考えずに済む様にずっと壁を張り続けていた。

 僕には苦しさや辛さなんていう黒々とした泥を見せたくないという親心。

 一人で子供を育てなければならなかった母さんが貫こうとしている一つの答。


「……そうだね、ちょっと悩んでるかも」

「ど、どんな事!? 何でも聞くよ!」

「僕、母さんの仕事の辛さを知らないんだ。一緒に住んでて一度も母さんから仕事の愚痴とか聞いた事無いんだ」

「あー、自由くんのママ、すごいクールだもんね」

「もしかしたら母さん、ずっと愚痴をため込んでるんじゃないかなって思うんだ。自分にも他人にも厳しい人だから」

「うーん、そうだなぁ……」

 アリサは顎に手を添えて考え込む。

 この一か月、ずっと悩み続けて模索し続けていた事だから、簡単には答が出るとは思っていない。何か糸口が見えればそれでいいと思った。

 するとアリサは何か疑問が浮かんだらしく、口を開く。

「えっと、自由くんのママって弁護士だよね?」

「うん。事務所を経営してる弁護士だよ」

「自由くんの今やってるバイトとは全然違うワケだよね」

「そりゃあね」

 何を言っているのやら。弁護士の仕事と喫茶店のアルバイトなんて天と地の差ほどもあるのは分かり切っているというのに。

「じゃあさ、その差って何なのかな?」

「差?」

「うん。仕事をしてる以上、そこにはやるべき事があって、お金をもらって仕事をこなしてるんでしょ。じゃあ自由くんとママの仕事を分ける要因が分かれば、きっと答が見えるんじゃないかなって思ったんだ」

「そんなの、仕事の難しさとか全体を纏める立場とか……」

 まてよ。そういうのって、もっと簡略化すると共通する部分があるんじゃないか?

 でもその共通する部分とは何だろう?

 上手く言葉にできなくて歯がゆい。

「憶えてるかな。一か月前にアタシ、和泉ちゃんの家での手伝いと自由くんの仕事が何か違うって言ったの」

「そういえば、この仕事始めた頃に……もう一か月前の事だね」

「和泉ちゃんの家で手伝いをしていた時、アタシは失敗した時の事を考えてなかった。だって小さい頃からやってるし、大変な仕事は全部和泉ちゃんか和泉ちゃんのママがやってくれてたもん、失敗するイメージなんて沸かなかった。

 でも自由くんの仕事は違う。アタシだったらきっと沢山失敗して、怒られてたと思う。お客さんに出す飲み物とかを注文通り作ったり、落としたら割れちゃうグラスとか注意するの、きっと大雑把なアタシには向いてない。

 だからアタシ思うんだ。和泉ちゃん家の手伝いと自由くんの仕事の違いは、きっと自分の失敗をどれだけ意識しちゃうか、なんだ。

 うーん、もっと上手い言い方無いかな……責任、とか?」

「責任……か」

 きっと責任で間違い無い、と思う。

 まだ責任という言葉を意識した事が無いからよく分からないけれど、僕の仕事と母さんの仕事の差も責任という言葉で言い表せば腑に落ちる。

「あ……もちろん和泉ちゃん家の手伝いに責任を感じてないとかそういうんじゃないよ! 本当だよ! ……たぶん」

「大丈夫だよ、アリサの言いたい事は僕にちゃんと伝わってるから」

「うぅ……本当に?」

「うん。……ありがとう、アリサ」

 アリサは安心した様に口元を緩め、二人の輪に入っていった。

 三人はそれから三十分ほどして帰っていったが、僕はその後もずっと考えを巡らせ続けていた。


 その日の夜、母さんはいつもより遅くに帰ってきた。

「お帰り。最近遅いね」

「ええ。仕事だもの」

 そう言うなりジャケットを脱いで、いつもの様にソファに身を埋める。

「お疲れ様、今日もありがとね」

 母さんはキョトンとして僕を見つめる。

「急にどうしたの? 私何かお礼を言われる様な事したかしら?」

「何ていうかさ、僕も仕事してたら……仕事の大変さが僕なりに分かってきてさ。つい言いたくなっちゃったんだ」

「そう……驚いたわ」

 本当に驚いた顔をしている。僕も滅多に見たこと無いくらい。

「や、やっぱり変かなぁ?」

「いや、いいんじゃない。言われて悪い気はしないから」

 あ、ほんの少しだけだけど、母さん笑った。

 まだちょっとだけど、距離が近くなった気がする。

「ねえ、母さん?」

「なに?」

「僕、やっぱり母さんの仕事の話を聞きたい」

「それは何度も言ったでしょ? 自由には話す程じゃないって」

「けれど母さんの経験している事や思った事は、聞いたらすごく勉強になると思う。それだけじゃない。毎日帰ってすぐソファに倒れ込む程大変で、でも家で話す人がいないのって、辛い事じゃないかって思うんだ。僕が少しでも辛さとかを和らげてあげられたらって――」

「ストップ」

 急に止められて、僕は息を飲み込んだ。

「考えすぎよ。少し頭を整理して」

「う、うん……」

「自由なりに考えての事なのかもしれないけれど、私のしてる事は難しくて、まだ自由にはついていけない事ばかりよ。愚痴も同じ。相談するなら話の分かる人にするわ」

「確かに和らげられたらってのは過ぎた事だったのかもしれない。けれどついていけないかは、聞かない理由にはならない。仕事の大変さは僕もこれから経験していく事になるんだ。ちゃんと知っていきたい」

「あなたにとってはまだまだ先の経験よ。あなたは身の周りの事に目を向けなさい」

「でも……僕は母さんと話をしたいんだ」

 母さんの目を真っ直ぐ見つめると、ふっと笑った母さんは僕の頭を優しく撫でた。

「そういう事を考えられる程成長したって事かしら。嬉しいわ。あなたは賢い子、私よりもずっと立派に成長できるわ。私の事は気にせず、あの3人と一緒の時間を大切になさい」

「……うん」

 僕には母さんとの時間も大切だったけれど、堅い意志の前に野暮な事はできない。

 でも、これだけはちゃんと言いたい。

「でもね、母さんの事を考えるのだって“僕の身の周りの事”なんだよ。頼ってよ。


 僕は子供だけど、子供じゃいられないから」


「……そうね」

 母さんは遠い目をして、そう言った。


 これが僕の導き出した答。

 いつか直視しなきゃいけない現実。

 そして、殻を破って一歩前に踏み出していく覚悟。


 僕の夏休みの課題は、終わった。


     *


 喫茶アドリアの夜11時は、ピアノとクラシックギターの音色が奏でるバーに姿を変えていた。

 その店のカウンターに、自由の母――町田美波とアリサの母――クリスティン・ナイトレイ・鷺沼(さぎぬま)が座っていた。

「それじゃあこれからは、自由くんに美波の愚痴を話すの?」

「ううん、どうしようか迷ってる」

「そっか。でも“子供じゃいられない”かぁ。親にとっては冷水かけられる気持ちね。アリサも、梅子のビデオの事があってから、何だか大人びてきちゃうし。何だか置いてけぼりな気分」

「子供じゃいられない……」

 美波はここに来てから、その言葉をずっと繰り返している。

 彼女にとって、自由の見方を一変させる一言。今までの接し方を変えなければならなくなる時の変動。

 痛いほど自覚させられたからこそ、大きな変化を前に立ちすくんでしまう自分がいる。

 それじゃいけないとは分かっていても、大人でさえも戸惑うのである。

 それが子供相手であっても。子供相手だからこそ。


「美波さん、落ち着いたかな?」

「あ、京四郎くん……じゃなかった、アリサ達からマスターって呼ばれてるんだっけ」

「いやいや、高校の馴染みじゃないか。京四郎のままで」

 クリスや美波たち母親四人組とマスターと呼ばれる男――田端京四郎たばたきょうしろうは高校以来の馴染みである。

 同じ町に今も住んでいるからこそ、こうして頻繁に会って愚痴を言ったり日頃の変化を話し合っている。

「自由の事、ありがとうね。京四郎」

「ううん、こちらこそだよ、美波さん。自由くんのお陰でこの一ヶ月本当に助かったよ。自由くん目当てのお客さんもできて、売上も前年比を上回ってて嬉しい限りさ」

「うっわ、京四郎くんゲスいね。友達の“娘”をダシにお金の話ばっかり」

「いやいや、冗談だよ。でも、本当に成長したよ。近くで見守ってた身としては、彼女が精一杯考えて、答を導き出していく様子は大人の僕にとっても良いエネルギーを貰った気がする」

「そう……自由に良い影響を与えられたなら、京四郎に任せて正解だったわ」

「子供の成長って不思議ね。手元から離れていっちゃう寂しさがあるのに、大きく成長していく姿って何だか背中を押して貰える気がする」

「そうね……ちっちゃい頃はいつも私の後ろを着いてきて、そんなあの子に恥ずかしくない母親になろうとしてたのに……ぐすっ」

「「……マズい」」

 京四郎はカウンターの影に、クリスはメニューボードを持って頭を隠す。

 二人が身を守った直後、店内に子供の様な泣き声が響き渡った。

「わあああああああああああん、みゆうぅ……お母さん、さみしいよぉおお!」

 自由に見せる冷徹な女性像はどこへやら。

 今は弱々しく、子供の様に泣きじゃくる大の大人がここにいる。

「ハァ……また始まった。美波のこんな姿、子供たちには見せられないね」

「でも僕達の前だけでも美波さんが気兼ねなくありのままを出せるんだから、大切な事だよ。ただでさえ責任の重い立場なんだから、ここで発散できなきゃ気弱な彼女はきっと潰れちゃう」

「大丈夫、私も分かってるから。よしよし、クリスお姉さんがドンと胸を貸してあげるから、おいで」

「うう……クリスぅ」

 まるで母親に抱かれる子供の様に、美波はクリスの胸の内に抱かれた。

 クリスも高校の頃から変わらない、彼女の拠り所としてのあり方を、今日も発揮する。


 落ち着いてきた頃に、クリスは美波にささやく様に問う。

「何か、辛い事でもあったの?」

「……ううん、ちょっと悩んでた事があったの。会社内の空気がギスギスしているって話を聞いてて、実際伝達ミスでクライアント先に迷惑をかけたりしてるの。でも原因が分からなくて対策がどうしても立てられなくて……。

 でも自由に私と話したいって言われて気がついたの。私、周りと全然コミュニケーションとれてないって。私がそんなんだから、社内の空気が悪くなってたんだって。部下の失敗は部下だけの物じゃなくって、私にも原因があったって自覚してショックだったの」

「そう……でもこれ以上間違いが起きる前に気がついたんだから、良かったじゃない」

「でも、あの子のお陰で気がつけた事に少しだけ大人としてのプライドが邪魔するの」

「あー、それ分かる。私もついつい、私の考えの方が正しい、子供よりも物事を正確に見てるって意固地になったりするのよね。後でそうでもなかったなーって気がついて頭を抱えたり」

「子供のお陰でそうやって悩んだり解決したりするのは素敵な事だね。僕には子供がいないから、少しだけ羨ましいかな」

「京四郎くんだけ高みの見物? 私知ってるんだからね、この前営業中に素敵な女性三人に言い寄られてたの。早く結婚してこっちこいやー!」

「クリスさん酔ってないか!?」

 言い合う二人の横で、美波が小さく自問の様に呟く。

「親って子供に気づかせる立場なのに、子供に気づかせられる事の方が多いのね」

「別にそんな立場とか気にする事無いんじゃない? ……とは思ったけど、美波には美波なりの母親像があるわけだ。なら、それを貫き通せばいいよ。何か違うなって思ったらその都度修正すればいいし」

「そうだね。この先育て方にしろ自分にしろ不安があったとしても、自由くんが美波さんを尊敬している……それだけあればキミにとって自信に繋がると僕は思うよ」

「二人とも……ありがと」

「それじゃあ改めて、乾杯でもしようか」

「さんせーい! 私ハイボール」

「あ、じゃあ私は梅酒ロックで」

「かしこまりました。仕事中だけど……僕も参加しちゃおうかな。ビール持ってこよ」

「おうおう、今日は美波の成長祝いじゃあ! じゃんじゃん飲もう!」

 大人たちの夜は()けていく。

 まるで子供の様に笑う様は、大人の殻を被った子供の様。

 けれどこんな事に大人も子供も関係ない。

 相手を想い合う事は、何時の世も、何歳でも、変わらない。


 夜は更けていく。

 先の見えない夜は、まだ始まったばかり。

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