その7 第一の遺体
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ゴールデン・レトリバーのクロを連れて、わたし達は最初の空き地に戻った。もうネーミングの不自然さは気にしなくなっていた。クロはわたし達と初対面のはずなのに、緊張も警戒もする気配がない。実に泰然としていた。
「警察犬としての訓練を受けているからね。まず人には吠えないし、誰が担当してもいいように人慣れさせているから。それでも怪しい奴には警戒するようにしつけられるから、番犬としてもそれなりに有能だと思うよ」
以上があさひの言い分。とりあえずわたし達は怪しい奴だと思われていないようで、なんだかほっとした。
ところで、警察が普段警察犬を使って捜査する時、具体的にどんな方法で犬を動かすのか、わたしは全く知らない。あさひもそこは詳しくなかった。ただ一つ、『犬に気を遣わせないように』とだけ言われたが、よく分からない。ここは察してもらうしかないか。
「クロ。ここ、ここだよ。におい嗅いでみて」
リードを持つわたしは、段ボール箱が置かれていた辺りを指差して、クロに言った。わたしのにおいが付いてはいけないので、少し距離を置いて指し示す。果たして、クロは人間の言葉を正確に理解してくれるだろうか。
クロはわたしが指示した辺りの地面を嗅ぎ始めた。犬の嗅覚の鋭さを考えれば『まだ一日』でも、裏を返せば『すでに一日』なのだ。ネコが箱から出てこの辺りにいた時間はごくわずかだ。クロの鼻で感知できるほどにおいが残っているか否か……。
すると、クロは突然顔を上げて、空き地から離れ始めた。時折地面に鼻を接近させ、においを嗅いでいる。そしてそのまま進んでいく。ワゴン車が逃げて行った方向とは逆に。
最初こそ慎重ににおいを確認しながら進んでいたクロだが、徐々に歩くスピードを速めていた。こうなる可能性もあったから、リードを持つ役として健脚のわたしが選ばれたのだが、スピードの変化が不規則すぎて、さすがのわたしもついて行くのが厳しい。
それにしても、クロがここまで必死に仕事をしてくれるとは思わなかった。どう見ても警察官じゃないわたし達に命令されて、なぜここまで熱心になるのだろう。
わたしがへとへとになるまで走り続け、ようやくある一ヶ所を前にしてスピードを落として来た。住宅地からは少し離れた所にある、古い二階建ての木造家屋。古いというか、至る所がボロボロになっている。人が住まなくなって長い時間が経ったみたいだ。
しばらくしてキキとあさひも追いついた。変な方向にばかり走ったせいで、二人はわたしを一時見失っていたようだ。あの白ネコ、本当にこんなルートを……?
「やっと追いついた……」あさひは息を切らしながら言った。「それにしても、本当にあのネコがここに来たのか?」
「どうだろう……あ、クロ、まだ行くの?」
警察犬として働いていれば長距離を歩くこともあるだろうし、何より犬だからこの程度ではへこたれないのだ。しかし、明らかに無人とはいえ、誰の所有なのかも分からない家屋の中にまで入るのはいかがなものか……なんて理屈が犬に分かるはずもない。
家屋の出入り口は、引き戸が一枚倒れていて開けっ放しの状態になっていた。クロはそんな玄関を躊躇なく通り抜ける。善良な人間であるわたしは当然迷ったが、リードを持つ手が引っ張られて、迷う間もなく中へと足を踏み入れてしまう。同じく善良な人間であるはずのキキは、なぜか眉一つ動かさず入ったけれど。
見られていないといいのだが。わたしはあさひに言った。
「悪いけどあさひ、このまま外を見張っててくれない?」
「なんでわたしが……って、わたししかいないか、やっぱ」あさひは肩を落とす。「これじゃあ、わたし一人がまるで不良みたいじゃないか……」
悪態をつきながら玄関前にたたずむあさひ。大丈夫、あさひのその風体で不良だと見なす人はまずいないから。そんな無意味なフォローは内心で唱えるにとどめた。
キキと一緒にクロの後を追いかける。暗い屋内、壁の隙間から微かに漏れる外光だけを頼りに、足元に細心の注意を払いながら先へと進む。
階段を上る。踏み板が外れやしないかと不安になる。お願いだから、もう少し慎重に進んでください。届くはずのない念をクロに送る。キキはわたしの肩にしがみつく。
二階に到達すると、クロの動きが止まった。まだ鼻はぴくぴくと動いている。二階に部屋はなく、広いスペースが一つある限りだ。ここからどこにも移動していなければ、ネコはこの二階のどこかにいる。暗くてほとんど何も見えないが……。
キキが携帯を取り出して、画面の光で部屋を照らした。
「ちょっと心許ないけど、ネコを探すだけならこれで十分だね。多分とっくにここを出ていると思うけど……」
「確かに、こんな所で飼われているとはちょっと思えないよね」
首輪が付いていたなら誰かの飼い猫だという可能性もあったけど、それでもこんな、廃屋とでも呼ぶべき場所で飼われているという事はなさそうだ。
しかし、クロは一向にここから離れようとしない。それどころか、すでに嗅覚を働かせる事をやめてしまっている。まるで、ネコのにおいがここで止まってしまったと、主張しているようだ。まだネコはここにいるのか?
キキは携帯で床を照らしながら、壁際を重点的に調べていた。そして、ある一点で突然止まった。そのままなかなか動かない。
「キキ……どうしたの?」
「…………いた。ネコ」
いつもより、そして大真面目に推理を披露した時より、低くぞっとする声。
わたしはクロを連れてキキに背後から近づく。携帯の光で照らされた隅に、白くふわふわした塊が落ちていた。それが探していたネコだと気付くまで数秒かかった。
「あれ……? ネコ、寝てるの?」
「ううん、違う」
ふとキキの横顔を見ると、こちらが驚くほどに険しさが滲んでいた。
「寝ているだけなら体が上下に動くはずでしょ。このネコ……全く動かない」
「!」やっと気づいた。「まさか……!」
「ほら、あれ」
キキは手に持った携帯の向きを変え、息絶えたネコの近くに置かれている、キャットフードらしきものが入ったエサ皿を照らした。四分の一ほど残っている。
「もしかしたら、あのエサに毒が入っていたのかも」
「毒……」
平穏な日常が狂い始めている、そんな雰囲気をじわりと感じた。この場所に光が射し込まないせいじゃなく、どす黒い意思にまみれた闇夜の如き世界に、思いがけず踏み込んでしまった、そんな気がした。
直感できる。わたし達は、後戻りの利かない道の中にいるのだ。毒入りの餌でネコが死んだ。追っていたはずの手掛かりが途切れたのだ。
キキはしゃがみ込み、ネコの首元に手を当てた。
「おかしい……」
「え、何が?」
「このネコ、首輪は付けられたままだけど、わたしが見た青いハート形のアクセサリが無くなってる」
「ホントに?」
わたしも反射的にしゃがんでネコの首元を見る。確かだった。首輪についているリングには、アクセサリについていたと思われるフックだけ残っていた。
「えっと……キキ、これがあのネコなのは、確かだよね?」
「うん、それは断言できる。体型も同じだし」
「…………」
「…………」
「……とりあえず、下に降りて友永刑事に連絡する?」
「そうだね。これで警察が動くかどうかは分からないけど」
異常事態に直面して、わたしはまともに頭を働かせられなくなっていた。逆にキキが冷静に受け答えしている事が、不気味にすら思えるほどだ。
外に出て、見張り役のあさひにこの事態を報告したのち、わたしは友永刑事に連絡して来てもらった。さすがに、現場から逃げたネコが遺体で見つかったというだけでは、大勢で押しかけるという事はしなかった。同行した刑事も福島という男性刑事一人だった。
赤色回転灯を載せた覆面パトカーで駆けつけたが、元々周辺に人気がほとんどないせいか、野次馬はほとんど集まらなかった。おかげで夕方なのに静かである。
「朝にもみじちゃんから電話を受けた時から、こうなるんじゃないかと予想はしていたけれど……まさかここまでとは」
「後から気づいた事があったら遠慮なく連絡してほしいと言われましたけど」
「まあ、ね……正直なところ、聞き込み捜査も行き詰まっていて、本部もピリピリした雰囲気になっていたから、抜け出す理由が出来たのは幸いだったよ。それに、今はどんな些細な情報も欲しいというのが本音だ」
この刑事の場合、建前を使いこなせていないだけでは……?
「もうあれから一日近く経っているのに、他の目撃証言も出ないのですか?」
あさひが苛立たしげに訊いた。
「実を言えば、犯人が使った車の目撃証言は、もうほとんど当てにしないという流れになっているよ。誰に訊いても、そんな車が通った所を見た気はするけど、あまり記憶に残っていないとばかり言われるから」
仕方ないかもしれない。フェラーリやロールスロイスが通れば、嫌でも見る人の記憶に残るだろうけど、普通の黒のワゴン車では……多分、目撃したタイミングさえもうろ覚えの人が大多数だろう。それが人間の心理というものだ。
かく言うわたしも、そのワゴン車の屋根にサンルーフらしきものが見えたこと以外、特に記憶に残ったものはない。ワゴン車と一口に言っても、製造元によってその外見は全て異なる。だから車種でも覚えていれば手掛かりの一つにはなっただろうが、生憎わたしは車の細かな違いなど分からないし、あの時は綿密に記憶する余裕がなかった。それに、車種を覚えていたとしても、他の目撃者が見ていなければ無意味というものだ。
「犯人からの連絡は未だにないんですか?」と、わたし。
「ああ……自宅の郵便受けにも、犯人からの物と思しき手紙類は全く来ていない。本部の人達も、これが身代金目的の誘拐ではないという疑いを持ち始めている」
「身代金じゃないとしたら……その、他には?」
答えを聞くのが恐いけど、訊いてしまった。
「言いにくいけど……人身売買とか、だろうね。そうなると組織的犯行の可能性も浮上するから、所轄の刑事課では手に負えなくなってしまう。もちろん、まだ可能性の一つに過ぎないけど」
ぞっと寒気が襲う。背中が粟立つ感覚さえ覚えた。みかんがどこの誰とも知れない連中に、物のように弄ばれる光景……想像するだけで身震いする。
「みかんは可愛いからね……狙われても不思議じゃないかも」
あさひは壁にもたれかかり、力なく呟いた。人身売買というワードの与えるショックが大きすぎて、頭が混乱しているのかもしれない。頼むから気をしっかり持ってくれ。わたしは切実に思わずにはいられない。
「友永さん、科捜研からの報告です」
部下の福島刑事が、携帯を片手に駆け寄ってきた。
「猫のそばにあったエサ皿の餌を検査しましたが、毒物は検出されなかったそうです」
「遺体に外傷は?」
「目立ったものは一つもありませんでした」
「それじゃあ、あの猫の死因は一体……?」
「詳しい検査はこれからですが、痙攣の跡があったそうなので、何か突発的な発作によるものという可能性が濃厚ですね」
どういう事だろう。あのネコは毒殺されたのではなかったのか。わたしはどうしても納得できず、福島という刑事に訴えた。
「待ってください。あのネコ、首輪のアクセサリが無くなっていたじゃないですか。犯人がネコからアクセサリを引きちぎるために、病死なんて都合のいい結果を待っていたというのはおかしくないですか?」
「落ち着きなさい、もみじちゃん」友永刑事が制止する。「首輪のアクセサリは確かに無くなっているけど、誰かが外したとは限らないだろう? もしかしたら、ここに逃げる途中で何かの拍子に外れただけかもしれない。あの猫が毒殺された根拠がない以上、故意に外されたと考えるべきではないよ」
「でも……!」
「それに、あの猫が本当に、君たちが拉致現場で見た猫かどうか分からないし……」
「あ、それは間違いありません」福島刑事が言う。「段ボール箱の底に残っていた白い毛と、あの猫の毛がぴったり一致しましたから」
「ああ、そうなの……」
急に調子をくじかれる友永刑事。追い打ちをかけるようにあさひが言う。
「それに、あのエサ皿は誰が置いたものです? あのネコは犯人がみかんをおびき出すために用意したものである可能性が高い。そのネコが無数にある逃げ場所の中で選んだここに、エサ皿が置かれていて、それを食べた跡もあって、その近くでネコは倒れていた。犯人が置いたのでなければ、ずいぶん偶然が重なり過ぎじゃありませんか?」
「いや、それでも……猫がここに逃げ込むとは限らないわけだし……」
「それに関係して一つ質問です」キキが手を挙げた。「この家の中、足跡は何人分残されていましたか?」
「足跡? どうなんですか?」
友永刑事は、近くにいた鑑識課員に尋ねた。
「この子たちより前に、何人も出入りしていたみたいですね。正確な人数も把握できないほどです。少なくとも三人は入っていますね」
「となると、何度もここでネコにエサをあげていたかもしれません。事前に様々な種類のエサをここで与えていれば、ネコも場所を覚えるはずです。だから、迷うことなくこの場所へ来たのです」
「なるほど……そう考えても不思議はないのか」
「それと、毒物が検出されない理由ですけど、多分エサの成分をくまなく調べれば、自然と明らかになると思います」
「え、それってどういう……」
「わたしが今この場で言わなくても、いずれはっきりします。まあ、それで犯人の手掛かりは出てこないと思いますけど」
そうか、キキはすでに毒殺のトリックが解けているのだな。だからこんなに余裕綽々としているのだ。この場で説明する気は微塵もなさそうだが。
ところで、話題がネコの話に逸れたおかげで調子を取り戻したあさひだが、じっとこのボロ家屋を眺めていた。そういえば、と呟いた。
「ここって確か、ずいぶん前に殺人事件が起きた場所じゃなかったかな」
「そうなの?」
「小耳に挟んだ程度だから、ちょっとうろ覚えだけど」
殺人事件の話なんてどうやって小耳に挟むのだろうか。
「そういえばそうだな……」友永刑事が言う。「十四年前にここで他殺体が発見されたんだ。そのせいで誰も好んで近寄らないから、犯人もここを選んだのかもしれない」
「十四年も前の事件なのに?」
「未だに解決していないからね。殺人事件の時効が撤廃された事を機に、警視庁内で未解決事件を専門に扱う部署がいくつも設置されて、未解決事件の再捜査の気運が高まりつつあるんだ。星奴署でも、その事件については強行犯捜査係の全員が把握しているよ」
「時効って、何年か経ったら捜査ができなくなるというやつですか?」
「正確には、検察による起訴ができなくなるということ。公訴時効と呼ばれるもので、犯罪が発生したとされる時点から特定の年数が経過すると、裁判に持ち込むことができなくなるんだ。2010年までは殺人などの『人を死亡させ、かつ死刑に相当する罪』に二十五年の時効があったけれど、今はそれだけが廃止されて、何年経っても起訴できるようになったんだ」
「ふうん……なんで時効の制度なんて作ったんだろ」
「そんなの、時間と共に十分な証拠を集められなくなるからに決まってるでしょ」
あさひが言った事に、友永刑事は苦笑した。
「まあ、そういう考え方もあるね……他にも根拠はあるけど。でも殺人事件の場合はその重大性も含め、捜査を継続させるべきという考えが広がったからね」
「それにしても、そこまで未解決事件の捜査に熱心だったとは思いませんでしたよ」
「昨年ごろに警察庁から発破をかけられたんだ。まあ、実際に本格的な捜査をするかどうかは、本庁の動き次第だけど……」
いずれにしろ、この事件に何か関わりがあるとは思えなかった。こうしている間にもみかんの身に危険が迫っている、そう思ったら昔の事件に関心が向かなくなった。
友永刑事の携帯に着信が入った。
「紀伊くん、どうした? ……え、本当に?」
瞠目する友永刑事。これはただ事ではなさそうだ。
「どうしたんですか?」
「ああ、それが……犯行に使用されたと思われる黒のワゴン車が発見されたそうだ」
「えっ、あの車が?」
「ああ……土波川に浮いていたそうだ。被害者の自宅の辺りから、少し上流の所で」
何だって? わたしは自分の耳を疑いそうになった。
あのワゴン車は、確かに土波川に架かっている橋を二つ通過したけれど、その方向は大雑把に言っても川の流れに沿っていた。つまり下流に向かっていた。とっくに通過したはずの土波川で、しかも実際に向かえばかなりの回り道になる上流で見つかるなんて、考えられないはずだ。わたしがこの目で確かに見たのだから……。
「それ、本当に事件で使われた車なんですか?」
あさひも信じがたいと言わんばかりの表情で訊いた。
「それはこれから確かめないと……ああ、分かった。すぐに行く」
友永刑事の後半のセリフは電話の相手に向けられたものだ。そして通話を切るより早くわたし達に向かって言った。
「とにかく、僕はこれからその現場に行くから、君たちも確認のために来てくれ」
「あ、はい!」わたしは慌てて答えた。
「それと福島くんは、犬を被害者の家へ返しに行ってくれないか」
「僕が?」福島刑事は眉をひそめて自分を指差す。「まあいいですけど……しかし、あの家に嘱託犬がいるなんて聞いてませんでしたよ。知っていたらこの機会に使っていたかもしれないのに」
それはどうだろう……わたしは福島刑事の不平に賛同できなかった。ネコの一件をまともに取り合ってくれそうなのは、友永刑事くらいだったと思うが。警察犬を使うという決定自体、下りなかった可能性が高い。
とりあえず新たな事件の現場へ急ごう。拾える手掛かりは残らず集めなければ、先に進むことは出来ないのだから。
「……またあの子たちが来るの? ホント、邪魔だけはしないでほしいわ」
電話越しに聞こえたセリフの切れ端が、紀伊刑事を辟易させたことなど、当然わたしは知る由もない。