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DEAD LINE~悪魔の刻限~  作者: 深井陽介
第二章 咎人のタイムリミット
47/47

その27 閃き ―完結回―

 <27>


 時を同じくして、あさひは星奴中央病院に来ていた。入院して養生を続けていたみかんが、今日ようやく退院するという事で、その付き添いに来たのだ。もっとも、妹の双子コンビや家政婦の須藤も一緒にいるが。

 先ほど行われた検査でも異常なしと診断され、めでたくみかんは帰宅が許された。妹のいちごとりんごは両手を上げて歓喜した。院内ではお静かに……。

 五人は診察室を出て、廊下を歩いている。

「んー」みかんは伸びをした。「ようやく元通りになれそうだね」

「だね、って……これは自分のことでしょうが」

「あさひとの過ごし方も元に戻るから、あさひも巻き込んだんだけど」

「あー、そうなの……」

 やたらと含みを持たせる言い方は、入院中も全く変わっていなかったが。あさひが照れている自分の顔を必死で隠そうとしている一方、妹たちは十歳上の姉に寄り添っていた。

「ねえねえ、おねえちゃん。またいっしょにあそべるよね?」

「いっしょにあそべる?」

「うん」みかんは笑顔で頷いた。「しばらく一緒じゃなかったから、今夜は三人でいっぱい遊ぼうねぇ」

「「やったー」」

 仲睦まじき姉妹の図が目の前にある……あさひは内心ほっこりしていた。

「それはそうとお嬢様」須藤が仏頂面のまま告げた。「学校のご友人が持って来てくださった宿題も、同時進行で片付けなければなりませんよ」

「須藤さん……今ここでその話をします?」

 みかんは目を細めて表情を歪ませた。意外に普通の中学生の反応もするのだな、とあさひは思った。

「お嬢様は学業成績も優秀ですし、将来的には旦那様のお仕事に多少なりとも貢献できればよろしいと、須藤は期待しているのですよ。もちろん、どのような道に進まれるかは、お嬢様のお好きなようになさって結構ですが」

「うーん……」みかんは頬をぽりぽりと掻いた。「お父さんの仕事は興味あるけど、将来までは、ちょっと……」

「無理をなさる必要はございません。色々あってお疲れでしょうし、将来設計におきましてはゆっくりとお考えくださればよろしいのです。ただし、喫緊の課題について目をそらしてはならないと、僭越(せんえつ)ながらご忠告を申し上げております」

「そ、そうね……いつも大事なことを言ってくれて、ありがとうね」

「いいえ、これが私の仕事でございますから」

 家政婦とはいうものの、家庭教師のような立場も兼ねているらしい。さすがに須藤はみかんの事をよく見ていた。

「しばしここでお待ちください。費用を精算してまいります」

 そう言って須藤はカウンターへと向かった。

 あさひは、そんなやり取りを羨望の眼差しを込めて見ていた。血の繋がりの薄い家族。でも、自分の家では決して見られない温かさがあった。

 あさひの視線に気づき、みかんは振り向いた。

「どうしたの?」

「いや、なんていうか……いいな、って思って」

「いいな?」

「きょうだいが分け隔てなく接していて、見守る大人も気配りを欠かさない。まさに家族の理想像だと思ったんだ。不思議なものだね。誰と一緒にいるかは選べるのに、家族は選べないんだもの」

 あさひの少し沈んだ表情を見て、みかんはすぐに察した。境遇の違いに思い悩み、また一人で抱え込もうとしているのだ。

「あさひ……」みかんは穏やかに微笑んだ。「家族だって、選べるよ」

「…………」

「理想の家族があるなら、自分で作ればいいんだよ。その資格は誰にでもあるよ」

 そう言ってみかんは、あさひと腕を絡めた。肌の温度が伝わってきて、あさひは、冷えきっていた心が融けていく感覚を覚えた。

「わたしは、何があってもあさひの味方でいるよ。あさひが幸せになる事を、他の誰よりも願っているつもりだからね」

 絶えず言葉をかけてくるみかんを、あさひはじっと見返した。その純粋さは時として眩し過ぎて、目をそらしてしまいたくもなる。でも今は、心から受け止めたくて仕方なかった。孤独から抜け出したいと望んでいる事を、あさひは自覚していた。

「……わたし、幸せになっていいのかな」

「今が幸せだと思えれば、大丈夫だよ」

 それなら、いつかは幸せになりたい。心からそれを願う人がいるなら、その人と幸せを分かち合いたい。だから……それが許される世界へ、自分を連れて行ってほしい。

 我がままである事は承知していた。それでも、絡みついたみかんの柔らかな腕を少しだけ引き寄せても何も言わない、彼女に対してだけは、身を任せたいと思っていた。この人のそばにいる事が幸せに感じられるのは、確かなのだから。


 わたしとキキは、星奴警察署からの帰り道を並んで歩いていた。今はまだ、それほど離れた所にいない。だが、さそりが追いかけてくる気配はなかった。

 さそりは自傷行為に及んだため、手首の傷の手当てのためにしばらく星奴署に留まる事になり、星子さんもそれに付き添った。リストカットではなく、噛みついたからリストバイトとでも言うべきだろうか。衝動的な自傷としてはかなり稀有(けう)なケースに違いない。友永刑事の助言によって精神鑑定が行われなかったのは幸いといえよう。

 結局、友人としてさそりを精神面で救う事はできなかった。わたし達がした事は、さそりが自分自身に救いを見出すための、きっかけの一つに過ぎなかったのだ。決して無意味だとは思わない。でも、これがわたし達の限界なのだと、改めて思い知らされる。

「これで、よかったのかな……」

 わたしが地面を眺めながら呟くと、キキがわたしの顔を覗き込みながら言った。

「よかったと思うしかないんじゃない? 出来る事は全てやったわけだし、あとは、さそりがちゃんと受け止められるかどうかだよ。辛いことに変わりはないけど……」

「やっぱり、殺人事件の被害者遺族っていうのは、あんなふうに、簡単には痛みを乗り越えられないのかな」

「そりゃあね。だからこそ、命は大事にするべきって、誰もが思えるんだよ」

 確かにその通りだ。大切な人の命を奪われた苦しみを、そう簡単に乗り越えられたら、命が軽視できると見なされかねない。悲しいことだけれど、命の尊さを考えれば、致し方ないことなのかもしれない。

 そんな事を考えながらしばらく歩いていると、進行方向に男性が一人、電柱に寄り掛かり空を眺めている所を見つけた。誰かと思えば福沢大だった。そばには見覚えのない車が一台、路駐されていた。

 福沢はわたし達に気づくと、軽く手を挙げた。

「よっ。遺族の顔合わせは終わったみたいだな」

「こんな所で待ち構えていたんですか」と、キキ。

「まあな」

 開き直っているようにしか見えなかった。相変わらず図太い神経の持ち主である。

「今回の一件は、君が大部分の謎を解き明かしてくれたから、扱いについては一応君にも知らせておかないと、後で色々問題にされかねないのでね」

「一応自分の記事の評判が芳しくない事は自覚されているんですね」と、わたし。

「そりゃあ、少しは読者の反応も気にするさ。下衆な野次馬根性丸出しの連中の趣味に合わせたところで、それほど部数は期待できないからな」

 この人は、自分の携わっている雑誌の売り上げに貢献している人たちに対して、ものすごく酷い事を言っているな。これを愛読者が聞いたら、般若の顔で石を投げてくるぞ。

「今回の事件を、記事にして出版社に売り込むつもりですか」と、キキ。

「無論だ。最初からそのつもりであちこち動き回っていたんだからな。記者は慈善精神じゃ食っていけないんだよ」

「当然ですけど、関係者の名誉を損ねるような記事にはしませんよね」

「努力はするが絶対の保証はできない。警察の発表はこれからだから、容疑者の名前はイニシャルだけになるし、それ以外の人の名前は“同僚”だとか“関係者”という扱いにするつもりだよ。ちなみに君のことは、『とある若き捜査協力者』と表現しようと思う」

 キキは渋面を浮かべた。表現うんぬん以前に、自分の存在が雑誌の記事で公表されてしまう事自体に、不快感を示しているのだ。

「確かに若いですし、捜査に協力した事になっていますけど……」

「マスコミは常に、権力者の暴挙に対して批判的で懐疑的でなければならない。警察が、君の提示した仮説をさも自分たちの発案であるかのように主張するなら、俺らはそれを真っ向から否定しなければならない。それに、こういう表現の方が、警察捜査に落ち度があった事と合わせて、下衆な読者の興味を引けるからな」

 そして自分には多額の謝礼が入るという寸法か。抜け目のない人だ。

「その『若き捜査協力者』っていう言葉で、キキのことだと分かる人は出ませんか?」

「新聞や雑誌の記事などで性別を明記しなければ、誰もが自然に男性だと考える。捜査協力者という硬い感じの響きが、その印象を与えるんだろうな。それに、“若い”と表現すると大抵は、二十代か三十代くらいの人だと思い込む。どちらにしても、十代半ばの少女がそれに当てはまるとは、誰も考えないさ。だから、君に対しても不利益を生じることはないだろう。無論、百パーセントの確約はできないが」

 その通り、福沢の言っている事は一般論に過ぎない。だが、ひねくれた考えでもって、くだんの若き捜査協力者が実は十代の少女だと見抜いたとして、それだけでキキに辿り着ける人は皆無だろう。警察はキキの関与についてとぼけるだろうし、関係者にも箝口(かんこう)令を敷いているはずだ。唯一、キキの事を証言しそうな人に村井瑞希がいるが、すでに『ホーム・セミコンダクター』の社員ではないし、警察の捜査に直接関わったわけでもない。彼女に目をつける人はまずいないと考えていいだろう。

 警察を相手にある程度の信頼が得られたとはいえ、キキの成果が世に広まる事はなさそうだ。それはそれで、キキの望んだ事ではあるのだけど。

「まあ、君が真相に辿り着けたのは、俺が色々セッティングをしたおかげでもあるが、本当に事件を解決できる保証はなかったから、結果的には君の手柄だな。俺一人じゃ、朝沼の事件で桧山に目をつけるくらいしか出来なかっただろうし。君が俺の期待通りの活躍をしてくれたから、これで貸し借りはチャラにするって事で、いいか?」

「別にいいですけど……」キキは首をかしげた。「わたしは最初から、貸し借りなんて抜きで話を進めていたつもりでしたけど」

 福沢は呆れたようにキキを見返すと、頭をくしゃくしゃと掻きむしった。

「……全く、あんたに敵う奴はこの地球上にいないな」

「そこまで買われても困るんですけど……それより、わたしから福沢さんに確認したい事が、いくつかあるのですが」

「確認? 事件は終わったのに今さら何を確認する?」

「終わったからこそ訊きたいんです。あなた自身の事を」

 福沢はじっとキキを見返した。よもや自分が探られる対象になるとは、思っていなかっただろうか。

「あなたが朝沼さんの現住所を知った方法は、篠原龍一氏が参加していたNPOのスタッフから聞いたからではありませんか? これは推測ですけど」

「……その推測の流れを、聞かせてもらえるか」

「まず、警察の調べで判明した事を話します。篠原氏が参加していたNPOは、様々な事情で学校に通えなくなった子供たちを支援する組織です。このNPOにはかつて、ある人物から多額の寄付がなされていました。それが、里村祥介さんです」

「えっ」わたしは驚いて声を上げた。「それじゃあ、里村さんが保険金の全額を寄付したっていうNPOって……それだったの?」

「うん。それから事件後に、朝沼さんも、NPOへの取材の過程でこの事を知った。そして朝沼さんも、このNPOに参加することにした……」

 その流れはわたしにも何となく理解できる。朝沼は強迫性障害によって、人並みの学校生活を送れなかった過去がある。左利きへの差別から不遇な少年時代を過ごした篠原氏と同様に、朝沼も他人事のように思えなかったのだろう。もしかしたら、篠原氏に対する贖罪の意味も込めていたのかもしれない。事実は色々違っていたけれども。

「この事は、朝沼さんの職場の机と自宅から、このNPOのパンフレットが見つかったために、警察も辿り着けました。朝沼さんの過去の疾患についても、NPOのスタッフから話を聞いた事で判明したのです。同じ事が、福沢さんにできないはずはないですよね」

「……その通りだ。朝沼の過去に何があったのか、同僚だった時はあえて探ろうともしなかったが、タレコミの件で朝沼が行方をくらました時、いま一度詳しく調べる必要があると思い立ったんだ。週刊文明編集部に立ち寄った際、朝沼のデスクに、俺が退社する前からあったNPOのパンフレットを見つけて、ここなら詳しい事情を聞けるかもしれないと思って接触したんだ」

「そうした経緯を隠そうとしたのは、朝沼さんの過去を知ったからですか」

「朝沼が命を落とす遠因になった可能性は否定できないからな。俺は別に死者の名誉なんて気にしちゃいないが、必要以上に他人に話すのは不憫に思えたのでね。あの日、朝沼と会って話をする時にも、その事は持ち出さないと決めていたよ。結局、話をする事さえできなかったわけだが」

 福沢はパンフレットの存在からNPOのスタッフに接触を試み、そこで朝沼の現住所を聞き出す事ができた。朝沼がスタッフに現住所を伝えていたかどうか、事前に知る事はできなかっただろうから、言ってみればこれは幸運だったのだろう。福沢が言ったように、偶然の産物だったのだ。

「でも、編集部に立ち寄ったなら、その場で聞く事もできたんじゃない?」

「わたしもそう思ったけど、実際に福沢さんが尋ねたのは、朝沼さんの住所を尋ねてきた人の有無だったからね……この質問は、篠原氏の事件に関して朝沼さんの関与を疑っている人がいると、例のタレコミから分かったから、その人物が彼女に接触しようとしている可能性を考えたためじゃない?」

「たいした直感だな」福沢は肩をすくめた。「俺は、編集部で朝沼の現住所を尋ねるつもりはなかった。三か月の間に二度も住所を変えるくらいなら、編集部にも本当の住所を明かしていない可能性があったからな。郵便局に転送届を提出しておけば、一年間は元の住所で手紙を出しても現在の住居に届けられる。住所変更を職場に知らせていなくても、少しの間だけごまかせればいい話だ」

「……そんな姑息な手段を、朝沼さんがしていたと思ったんですか」

「十年以上も週刊誌の記者をしているし、そもそもこの方法は俺が教えたから、実践していないとも限らないし」

 ええ、あなたなら十分にやりそうな手口ですよ。

「もっとも、この手段を使っていても、一見して怪しげに思える手紙を出して返送させれば、転送先の住所が書かれた状態で戻ってくるが。だから、見覚えのない手紙が届けられても返送せずにしっかり処分するのが肝要だとも教えたな」

「よくそこまで思いつけるものですね」と、キキ。

「この仕事を長くやっていれば、違法な手段というものをいくつも目にするものさ。で、確認したい事はまだあるかい」

「ええ、もう一つ」キキは人差し指を立てた。「あなたがわたし達を調査に巻き込もうとしたきっかけは、例の廃屋の前でわたし達が刑事と話している所を見たから、ですよね。もっと言うなら、その後にパトカーに乗る所を見たから」

 福沢の表情に驚愕の色が見て取れた。

「……そこまで見抜いていたのか」

「福沢さん、問題のタレコミがあってから、ずっとあの廃屋を見張っていましたね。どこから見ていたのかは知りませんが」

「いつからその事に気づいていたんだ?」

「あなたの運転する車の中で、あなたの話を聞き終えた時点で、全て。それ以前から、何となく察しはついていましたけどね」

「ほう……」

 福沢は眉根を寄せた。彼にとっては、予想外の展開に他なるまい。

「あなたと公園で会った時、わたしはあなたの車のボンネットに触れました」

 そういえばそうだった。あまりに何気ない行為だったから、うろ覚えだけど。

「その時、()()()()()()()()()()()。あの場所に停めてエンジンを切ってから、長い時間が経っていた事に気づきました」

 確かに、車のエンジンはわたし達が乗り込んでから入れられていた。

「どう考えても、車でたまたま通りがかったとは思えない。ずいぶん前からわたし達の事を見ていたのでしょう。それこそ、公園にやってくるより前……さそりの家にいる時からずっと。正確を期すなら、さそりの家を見張っていた事になりますか」

「でも、何のために?」わたしはキキに尋ねた。

「決まってる。さそりを守るためだよ。事実、その後に福沢さんは万が一のことを考え、GPS入りのお守りを渡している。さそりが狙われる可能性を、早い段階で考えていたと思うよ。そしてそのきっかけは、同日の午前中にあった」

「松田さんと桧山さんへの取材で?」

「うん。わたし達が会社見学の建前で調査に来た、その経緯を知ったから、犯人がさそりに目をつけるかもしれないと考えた。福沢さんはそう言っていたんでしょ?」

 昨夜の出来事はすでに、キキの耳にも入っている。

「まあ、その事を知る前から察しはついていましたよ。さそりがわたし達と一緒に調査に乗り出したのはその前日ですから、福沢さんがさそりの身を危ういと感じるきっかけは、その後に起きた可能性が高いですからね。ただ……そうなると一つ疑問が生じます。福沢さんが、さそりを守ろうと考えた理由が前日の調査にあるなら、あなただって、わたし達の調査の主導者がさそりだと思うはずです」

 確かにその通りだ。犯人も桧山も勘違いしていたから、その事を福沢に話せば彼だって同じ結論に辿り着く。本当のことを知っているのは母親の星子さんだけだが、その星子さんには接触していない。していたら、星子さんはその事をわたし達に言ったはずだ。

「しかし実際は、福沢さんが直後に目をつけたのはわたしでした。電話で話していた相手が警察である事は、会話の内容から察せられたでしょうが、それだけでわたしが信頼を得られているとは普通考えません。警察署から出てくる所を目撃していたとしても、同じ事です。どうしてあなたは、調査を主導し、警察から信頼を得ているのが、さそりではなくわたしだと思ったのか。調査開始より前に、わたし達が警察と話している所を見たからですよね?」

 なるほど。それを聞いてわたしも合点がいった。

 ここ最近で、わたし達が屋外で警察と話をしたのは、野次馬も集まっていたあの廃屋の前だけだ。そして、車の中での話で、福沢が例の廃屋に目をつけていた事を知って、キキは事の次第が読み取れたのだ。直後の「そういう事ですか」という発言は、福沢が自分に目をつけた理由に気づいた事によるものだ。

「はっはっは……」福沢は目元を手で覆って、高笑いした。「恐ろしいな、君は。ボンネットに触れただけでここまでの推理を組み立てるとは。しかもことごとく事実を言い当てていやがる。想像以上だよ」

「笑いながら恐ろしいと言われるのは、あまり気分のいいものじゃないですね」

 キキはむっとしながら文句を言った。いや、不快になるのも分かるけど、聞いていてわたしもキキの事を恐ろしいと感じていた。些細なことから論理と発想を繋ぎ合わせ、予想もしない結論に辿り着く。全く、天然というのは馬鹿にならないものである。

「とまあ、ここまでは自力で推論を立てられましたが、それでも分からない事が一つだけあります」

「なんだ?」福沢はまだ苦笑を抑えきれていない。

「いくらわたしを信頼していたとはいえ、お膳立てが多すぎる事には疑問が残ります。それに、あなたは篠原氏が双子である事もご存じだったのでしょう? 三か月前にさそりの前に現れた時、『篠原龍一の方』とおっしゃっていたようですし」

 そうか……その発言は、二人いるうちの一人が篠原龍一という意味になる。比較するだけの存在があり、フルネームで引き合いに出したなら、それは兄弟である可能性が最も高い。福沢は、篠原龍一氏の双子の弟の存在を知っていた。

 知っていながら、全てをキキに委ねていた。

「双子だという事が分かっても、蛭崎警部からの情報がなければ、桧山さんに辿り着く事はできなかった。だから、あなたが真相に辿り着けなかった事に違和感はありません。双子の事をわたし達に話さなかったのも、わたしが質問しなかったからです。だけどあなたは、わたしがその事に気づいているか分からないうちに、不動産屋に連れて行けば何か分かると考えていた……」

「…………」

「何があったのか、今なら話してくれますよね」

 キキは真っすぐに視線を注ぐ。福沢はなかなか口を割らなかった。話すべきか否か、頭の中でずっと逡巡(しゅんじゅん)していたらしい。

 やがてため息とともに、福沢は滔々(とうとう)と語り始めた。

「十四年前……俺は四本目の記事のネタを掴むべく奔走していた。その過程で、俺は篠原龍一の妻に会って話を聞こうとしたんだ」

 それはつまり、さそりのお母さん、星子さんに会ったという事か。そして四本目の記事といえば、理由もろくに説明せずに連載中止を宣言したものだ。

「彼女は取材に及んだ時点で、すでに妊娠していた。初期だから、一見して分かるものではなかったがね。で、俺が自宅を訪ねて取材を申し込んだ時、彼女は序盤からきっぱりと拒否してきた。苛立つ素振りも一切見せず、恐ろしいほど冷静に」

 妊娠すると疲れやすくなったりだるくなったり、あるいはイライラが増えるらしい。だが星子さんが取材を拒否したのは、そうした体調不良が原因ではないようだ。

「まあ、週刊誌の記者なんてそれだけで嫌悪を覚えるだろうし、この人もその類いかと思ったわけだが、それも違った。彼女は全てのメディアの取材を拒否していたんだ。そのくせ塞ぎ込む事もせず、妊娠が発覚してからもパートで働いていた。それでも勤め先の同僚の話では、夫の死を悲しんでいる事に違いはないという事だ」

「そりゃあ、誰だって触れられたくない事もあるんじゃありませんか?」と、キキ。

「俺だってそれは承知の上で取材を申し込んだのさ。メディアには、人々に真実を伝える義務がある。愛する夫を殺された事による怒りや悲しみを、世の中に伝えたいとは思わないかって、そう言って説得しようとしたんだ。ところが彼女はこう反論した」

 星子さんは、こう反論したそうだ。


 ―――――その必要はありません。

 ―――――え?

 ―――――私は、世間からの同情なんていりませんし、無関係な人たちに気持ちを分かってもらいたいとも思っていません。

 ―――――いや、しかし、そこまで強がることもないのでは……。

 ―――――これが強がっているように見えるなら、読み違いも甚だしいです。大体、私の心情を世間に広く知らせたところで、どれほど意味があるでしょうか。

 ―――――そりゃあ、この件に興味を持つ人が増えれば、情報提供も活発に行われますし、真実の追求に寄与する事だってありますよ。

 ―――――真実の追求は警察の仕事です。私は真実などどうでもいい。真実が明らかになったところで、夫が戻ってくるわけでもない……。それに今は、お腹の中のこの子を育てること以外、考えたくないのです。

 ―――――……お気持ちは分からなくもないですが、真実の究明は誰もが望んでいる事です。あなたの我がまま一つで、それが頓挫してもよろしいのですか。

 ―――――本当に、真実の究明を誰もが望んでいるとお思いですか?

 ―――――え?

 ―――――被害者の篠原龍一と一番近しいのは私です。その私がそれほど望んでいないのに、他の誰が本気で望むというのです。あなた方が発信する報道を見る人は、テレビや新聞や雑誌の前で、ただ可哀想と言うだけ……続報が出なければ意識にも上りません。その程度の認識しか持たない傍観者たちに、聞いてほしいとも思わない事を伝える。そんなものが義務だなんて、あまりにも馬鹿馬鹿しいことです。

 ―――――ですが……。

 ―――――そもそも、あなたはどうしてそこまで真実にこだわるのです?

 ―――――そ、それはもちろん、これが仕事だからで……。

 ―――――仕事。それ以外に理由がありますか?

 ―――――いや、それは……。

 ―――――当事者にとって意味をなさない報道を仕事というのなら、それは惰性でやっているのと変わりありません。惰性で真実にこだわる、そんなことで何がもたらされますか? ご自分のなさっている事がただの自己満足でないと、どうして言えます?

 ―――――自己満足……。

 ―――――自己満足そのものは許されていいと、私は思います。でもそれは、所詮自分の中で完結するものです。他人を巻き込むのは、明らかに間違っています。

 ―――――うっ…………。

 ―――――私は、あなた方の自己満足の真実究明に、付き合うつもりはありません。元よりその余裕がありません。もう二度と、巻き込まないで下さいね……。

 ――――――――――


「何も言えなかった。これほどガツンとやられたのは、後にも先にもこれきりだ」

 わたしもキキも、何も言えなかった。星子さんは、妊娠で体調もすぐれない中、数々の修羅場をくぐり抜けた猛者であるこの福沢を、冷静沈着に論破したのだ。

「……ショックを受けましたか」

 遠くを見る目をしている福沢に、キキは言葉をかけた。

「まあな……この仕事には、多少なりとも誇りを持っていたつもりだ。ところが、その誇りをバッサリと、正論でもって自己満足と評された。腹は立たなかったよ。むしろ、報道に携わる人間として何一つ反論できなかった、自分に腹が立った。以来、俺は真実を追求する事に何ら意味を見出せなくなり、取材を途中でやめるしかなくなった」

 それが、事件記事の連載を中止した理由だったのか。

 一昨日、福沢がキキに連載を打ち切った理由を訊かれた時、自分の調査にも限界があったという事にしてほしいと言った。あれは、自分の記者としての能力の限界を、意味していたのかもしれない。

「それでも、この仕事を続けていく中で、その意味を見つけられると思っていた。頭で考えてすぐに答えが出せない難問は、長い時間をかけて経験と論理を重ねることで解くしかないと考えたんだ。時間が解決してくれることを、信じていた」

「……それで、どうなりましたか」

「答えは出なかったよ」

 福沢の顔に初めて、疲労の色が浮かんだように見えた。

「時間制限のないシンキングで答えが出なければ、もう一生答えを出す事はできない。俺は痛感したんだ。長い時間をかけることで複雑さを増し、解きほぐせないほどに絡み合ってしまう、そんな問題だってあるって事に。俺は完全に、出口のない迷路で立ち尽くしてしまったのさ……」

 出口のない迷路。そのように形容できる問題は、この社会にいくらもあるだろう。しかし、そうした問題に正面からぶつかる事があるかは、純粋にその人次第だ。

 わたしは回想する。十四年という長い時間に苦しめられた人々、その姿を。

 時効に翻弄され、自らを追い詰めるあまり罪を重ねすぎた桧山。

 愛する夫を亡くした悲しみから立ち直れない妻と、その姿を見て心を痛め続けた娘。

 不十分な捜査を上手く軌道修正できず、後悔を引きずっていた蛭崎警部。

 恩人でもある上司の遺体を捨ててしまった罪の意識から、身を粉にして働き続けた松田と里村。

 殺人の事実が露呈することで世間との繋がりが絶たれる事を恐れ、逃げ道を探し続けていた朝沼。

 そして、被害者遺族の言葉で自らの信条に疑問を抱き、答えを見出せないまま問題を複雑にしてしまった福沢……。

 誰もが、胸に秘めた苦しみを、時間が解決してくれると信じ、時間に裏切られた。

 そう、あまりに時間が経ちすぎたのだ。今日のさそりに限った事じゃない。長い時間の中で育てられた痛みや失望を、易々と解きほぐせる保証など、万に一つもなかった。

「俺にとって、君の存在は最後の希望だったんだよ」

「……わたしが?」キキは自分を指差した。

「そう。論理でも時間でも解決できないような問題を、解決する手段が一つだけある。それは直感だ。出口のない迷路に迷い込んでも、直感なら一飛びで外に出られる。だから、閃きの鋭い君に、真実追求の全てを委ねたわけだよ」

 福沢がキキに期待していたのは、その類稀なる閃きによって真相に到達することだったのだ。同時に、自分が抱え込んでいた、真実を追い求める事の意味も、見つけてくれるのではないかと考えていた……。

 もっとも、当の本人は自覚していないようで、首をかしげるばかりだが。

「それで……答えは出たんですか」わたしは尋ねた。

「……まあな」

 ならば、キキに期待した価値は十分にあっただろう。

「公園で会った時に、君が言っていた事が、そのまま現実になった。君は誰かに頼まれて調査をしていたのではなく、単純に友人の境遇を知って放置できなくなったから調べようとしたのだと。その心意気で臨んだ結果、君は真実を手にした。誰かのために真実を追うからこそ意味がある。それが俺の出した答えだ」

「では……」と、キキ。

「ああ。俺は間違っていた。あれは、無益な自己満足に過ぎなかったんだ。真実は負のエネルギーも持っている。扱いを間違えれば命をも奪う事になる。朝沼のように、な」

 力強く言い放つ福沢の姿に、キキは神妙に頷いた。

「必要な人にとっての真実でなければ、取り返しのつかない結果をもたらす。今回の事件でそれがよく分かった。報道に携わる者として、真実の平和利用は今後の課題だな。この歳にしてそれを悟る事になるとは、思わなかったけど」

 福沢はキキに向き直った。それまで見せた事もない、晴れやかな顔で。

「大切な事を教えてくれたこと、感謝するよ」

「いえ、わたしは何も……」キキはふっと微笑み、胸に手を当てる。「たいした事はしていません。わたしは、一人じゃ何も出来ない、一本の弱い矢ですから」

「ふうん……?」

 キキの言葉の意味を、福沢は理解しかねているようだ。当然だろう。この言葉に込めたキキの想いを読み取れるのは、この地球上でわたししかいない。

「まあいい。その純粋さを、いつまでも大事にしろよ。じゃあな」

 そう言って福沢は、路駐していた車に乗り込み、そのまま遠ざかっていった。あれもレンタカーのようだ。自分の車を手に入れる時はいつ来るのだろうか……。

 二人きりになって、また一段と静かになった気がした。

「……結局、いい人なのか悪い人なのか、最後まで分からなかったね」

「いいじゃない、分からなくて。美衣も言ってたけど、世の中、純粋な悪もなければ純粋な善もない。そんな分け方に意味なんてないよ」

「そうかもね……」

 正直な事を言わせてもらうと、福沢が辿り着いたと主張する真実追求の意義は、捉え方の一つでしかない。誰のためにもならない真実を追い求めることに、何ら意味がないとは限らない。とはいえ、本人がこの解釈によって腑に落ちたのなら、それはそれで口を挟む事ではないのかもしれないが。

 ところで……福沢は何かと満足して去っていったが、わたしにはまだ、どうしても気にかかる事がある。

「ねえ、キキ……」わたしはキキに尋ねた。「これで、全部終わったと思う?」

「……終わったと思っちゃ駄目?」

 キキは多分こちらを見ている。でも見返さなかった。目を合わせてしまえば、何も言えなくなると思ったからだ。

「わたしさ……あれからずっと考えていたんだ。あの誘拐事件……半グレ連中は、誘拐のためだけに、あの廃墟のマンションを選んだんだと思う」

 そう、あの場所は元々、半グレ連中のアジトなどではなかった。電気、水道、ガスなどのライフラインが一切ない場所に、いつまでも留まり続けられるはずがない。一時的な隠れ家にするならまだしも、活動の拠点とするには環境が悪すぎるのだ。

「誘拐事件の計画を持ちかけられた時に、本拠地とする場所として新たに選んだなら、どうしてあのマンションに狙いを定めたのかな。すでに売りに出されていて、警察が容易に突入できそうな場所だよ? そりゃあ、逃走ルートは確保しておいただろうけど、自分たちが捕まる確率は少しでも下げたいと考えるものじゃないかな」

「…………」

「それに、本拠地に使用する建物としてあのマンションを見つけられたなら、ネコを誘い込んで殺害するための場所だって自分たちで見つけられたんじゃないかな。わざわざ、桧山さんに探させるというのも腑に落ちない……」

「…………」

「キキ、もしかしてこの事件、他にもまだ関わっている人がいるんじゃない? さそりが拉致された事を星子さんに電話で伝えたのも、多分桧山さんじゃないよ」

 昨日の話を聞いてから、ずっと疑問に思っていた事だ。桧山には、わたし達の調査を止めるという目的があったが、さそりが主導者だと思っていたのなら、拉致して口を封じればそれで済むと考えるはずだ。わざわざ星子さんを介して念を押しておく必要はない。むしろそのせいで、警察を早々に出動させ、さそりが無事に救出されることになった。みかんが偶然に目撃していたからうやむやになっていたが、桧山にとってあの犯行声明は、明らかに蛇足といえる行動だ。

「誰かが……桧山さんの犯行を表沙汰にしようとしていたんじゃないかな。福沢さんたちにタレコミをした人も分かってないし、福沢さんの潜伏場所を伝えて車を駄目にさせた人の事だって……」

「もっちゃん」

 顔を上げると、いつの間にかキキはわたしの前方に出ていた。

 目が合ってしまった。どこか儚げで、寂しげな微笑を浮かべて、キキは半身をこちらに向けてわたしを見ていた。呼び名のことで突っ込む隙を見せなかった。

「それは全部、警察の人たちがちゃんと解明してくれるよ。今はもう……誰も謎解きを必要としていない。だったら、もうわたし達の役目は終わったんだよ」

 そう言って、キキは背中を見せ、先に歩き出した。その姿がやけに小さく見えた。

 キキが解くべき謎はもう存在しない。助けるべき友人が助かった今、キキはもうこの事件に関わろうとしない。普通の中学生に戻ろうとしている。

 怒涛のように過ぎた一週間が、まるでまどろみの中に溶けていくような感覚。祭りの終わりの寂寥(せきりょう)感に似ている。ああ、そうか。わたし自身も、この事件はもう終わったと感じているんだ。荒波のような出来事の中心にいつもいたキキが、全てを終わらせたつもりでいるからかもしれない。

 前進を続けるキキの後を追って、わたしも歩き出す。

 すると、わたしの携帯にメールの着信が入った。あさひからの写真付きメール。でもどうやら、撮影してメールを送信したのはみかんの方らしい。

 思わず顔が(ほころ)んでしまうのを感じた。何もかもが、いつもの日常に戻ろうとしている。あるいは、いつかは戻る時が来る宿命だったのだろうか。心のどこか片隅に植え付けていた刻限の瞬間は、とうに過ぎたようだ。

「キキ」

 わたしの呼びかけに反応して振り向いたキキに、わたしは、さっきのメールの写真を見せた。

 キキはにっこり微笑んだ。いつもと同じ、天使のような笑顔で。


 ― 了 ―

試行錯誤の連続でしたが、キキシリーズ第一作『DEAD LINE~悪魔の刻限~』、これにて完結と相成りました。次回作の予定は立っていませんが、気が向いたときにもう一度お邪魔できればいいと考えております。どうもこの話、この一作だけで終わるものではなさそうなので……。

いつか、彼女たちの日常にスポットを当てた短編も、書いてみたいと思います。そんな機会がいつ来るか分かりませんが、ひとまず、この辺で一区切りです。

お読みいただき、ありがとうございます。

では。

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