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DEAD LINE~悪魔の刻限~  作者: 深井陽介
第二章 咎人のタイムリミット
46/47

その26 憎むべきもの

 <26>


 色々あったけれど、十四年前の篠原龍一殺害事件とそこから連なる事件の、長い調査が終幕を迎えた翌日。金曜日。ゆえに普通に学校がある。

 すでにいつものメンバーで集まる理由が無くなり、今日はめいめいが自分の目的の場所に出向く事になっていた。……とはいうものの、それが普段のことであり、別にメールなどで話し合って決めた事じゃない。

 一応調査は終わったので、わたしはいつものように部活に参加した。先日の茶番によって、わたしが次期指導長になる事が決定したような雰囲気になっていて、いつもなら敬遠される事の多いわたしを、練習相手に指名する人が割合多くなっていた。二日間欠席している間に、風戸先輩が何か吹き込んだのではあるまいな。

「ぶっきらぼうに見えて面倒見がよく、なおかつ並外れた技術がある人は、少なくともこの部ではもてるのよ」

 というのは風戸先輩の弁。なんとも複雑な心境である。

 部活を終えた後、わたしは駆け足で校門に向かった。本日の練習メニューは事前に聞いていたので、この時間に待ち合わせようと言っておいたのだ。

 校門に視線を向けると、すでにキキは到着していた。

「ごめん、待たせちゃった?」

「そんなに待ってないから大丈夫。さ、行こうか」

 そう言ってキキは右手を差し出した。何か頂戴、という意味では当然ない。

「……手、繋いで行くの? 行き先、警察署なのに」

「駄目だった?」

「いや、駄目じゃないけど……まあいいか」

 理を尽くして反論するのも億劫になり、わたしはキキの望みどおり手を取った。心底嬉しそうに微笑むキキを見たら、跳ね返す気など失せてしまう。それにしても、今日はやけにスキンシップが積極的だな……いや、これこそ普段のことだ。

 二人並んで道を歩く。同様にしている女子生徒は、周りに何人もいる。

 しかし、自分から許可しておいてあれだが、手を繋いで歩くとか、小学生じゃあるまいし。キキが距離を詰めているから、繋いでいる所が見えているとは思えないけど、あまり平常心を保てていないのもまた事実である。

 そんな状態でわたし達は星奴署に到着した。キキはまだ手を繋ぐつもりらしい。わたしと違って周囲の視線を気にしていないせいで、激しい温度差が我ながら痛い。

「あれ……?」

 キキは何かを見つけて立ち止まった。受付カウンターの前の長椅子に、里村が腰かけていたのだ。どうやら彼も事情聴取に呼ばれたらしい。

「里村さん」

 キキが呼びかけると、すぐに気づいてこちらを向いた。

「ああ、きみ、この間篠原さんの娘さんと一緒にいた……」

「キキです。で、こちらがもっちゃ」

 握ってない方の拳をキキの頬に押しつけて、黙らせた。まだ手は繋いでいる。

「もみじです。事情聴取に呼ばれたんですか」

「ああ……篠原さんの遺体を遺棄した件について、話を聞かせてほしいと言われたよ。松田さんが全て打ち明けてしまったと聞いたけれど……何かあったのか?」

「わたしがその事に気づいて、警察に話すよう説得したんです」

 キキは隠すことなく言った。相手によっては恨みを買うかもしれないというのに、本当に胆の据わった奴だ。

「君が気づいたのか……多分、詳細は公表されないだろうけど、君もずいぶんと厄介な事をしてくれたな。会社での評価が下がるかもしれないのに」

「逮捕はされないからいいじゃないですか。出世うんぬんはひとえに自分一人の問題で、どう対処するかも自分で考える事です。降格したとして、それは身から出た錆です」

「あはは……本当に、真っすぐに正論をぶつけてくるな。言い返す気力も湧かないよ」

 わたしが知る限り、キキに舌戦で勝った人は一人もいない。キキは物事の本質を的確に捉えるだけでなく、相手にとって手痛い所を突いてくる。加えて、相手を言い負かそうというつもりがないから、理論武装など一切せず、基本的に正論しか言ってこないのだ。そりゃあ勝てるわけがない。

「十四年前の事件の真相……警察から聞きましたか」

「ああ。驚いたよ……まさかあの遺体が篠原さんでない別人で、本物の篠原さんは桧山さんが殺害していたなんて……あれも、君が見抜いた事なのか?」

「まあ、一通りは……あれが本当に真実だったのかどうか、本人が自白するまでは分かりませんでしたけど。動機については、ちゃんと警察が調べてくれましたけどね。今は、横領事件についても書類作りを急いでいるらしいです」

「横領ね……桧山さんがあれほど罪を重ねていたなんて、微塵も気づかなかったよ」

 わたしも、昨日キキから詳しい話を聞いたが、想像以上に暗く深い闇が潜んでいて、聞いていてぞっとしたものだ。この一週間、わたし達はそれほど巨大な悪意を相手にしていた事になる。よく今日まで無事でいられたものだ。

「朝沼さんのことについてはどうですか」

「聞いたよ。結局、自殺だったんだな……それももちろん残念だが。自殺の理由がまだはっきりとしていないから、その事についても話を聞く事になるだろうって」

「何かご存じないのですか? 自殺の理由について……」

「いや、僕もさっぱり……」

 かぶりを振る里村に向かって、念を押すようにキキは言った。

「本当に? 何も心当たりはありませんか?」

 不自然な空気を感じ取ったらしい。里村は眉をひそめてキキを見た。

「……なぜ、僕が何か知っていると?」

「ずっと疑問に思っていたんです。里村さんは、どういう経緯で朝沼さんの住所を知ったのでしょうか。だって、朝沼さんは十四年前の事件で追及される事を恐れて、今の場所に逃げてきたんです。自発的に誰かに教えるとは思えません。職場なら致し方ないですが」

「……なら、その職場の人から聞いたのだろうな」

「正確には、あなたが自発的に尋ねて、教えてもらったはずです。朝沼さんの職場、週刊文明の編集部に、匿名で朝沼さんの住所を尋ねてきた人は二人いました。うち一人は桧山さんですが、もう一人はあなたですよね」

「だとしたら、なんだと?」

「住所を調べようとする目的は二つだけ、訪問と手紙だけです。同じマンションに住んでいると分かれば、直接その場所に出向くのが普通です。あなたは間違いなく、何らかの目的をもって朝沼さんの居場所を調べ、そして実際に訪ねたのです。匿名で聞いたという事は、その目的を誰にも悟られまいとしていた。隠したい何かがあったんです」

 里村はいつの間にか視線を外していた。十四年も昔の事件に解決を見出したキキに、下手なごまかしは通じないのではないかと思い始めている。

「……別に、隠したい事なんてないさ。君も、少しは頭が回るみたいだが、考え過ぎはよくないよ」

「里村さん」キキは動じなかった。「『和倉』というバーをご存じですか」

「和倉? いや、聞いた事もないが……どこにあるんだ?」

「門間町四丁目の、商店街の中にあります。朝沼さんがよく行っていたお店です」

「ふうん……やっぱり覚えがないけど、その店がどうかしたのか」

「二週間ほど前に、朝沼さんはその店に手帳を置いてきてしまったのです」

 キキはそう言って、懐からその手帳を取り出した。ちなみに、まだ手は繋いでいる。

「その手帳のあるページに、店の名前の『和倉』がローマ字で書かれていました。看板にも使われているので、正式な店名表記はローマ字の方かもしれません。見てください」

 キキは問題のページを片手で開いて、里村に見せた。はっきりと、『WAKURA』と書かれていた。

「この筆跡……明らかに、あなたの部屋にあった蓄音機のシールの文字と異なります。あのボールペンで書かれたイニシャル『K.A.』は、朝沼さんが書いたものじゃありません。朝沼さんから貰った後に、あなたがわざわざ書いて貼り付けたんです」

 里村は無言で目を見開いた。まさか、こんな形でばれるとは思っていなかっただろう。

 もちろん、朝沼さんの前に所有していた人がいて、その人のイニシャルが偶然同じだったからそのままにしていた、という可能性もゼロではないが……確率はかなり低いと言わざるを得ない。大体、シールはそれほど変色していなかった。そんなに以前から貼られていたとは考えにくい。

「本来、あの蓄音機に朝沼さんのサインなどなかった。それを里村さんが自分で加えたという事は、朝沼さんから貰い受けたという事実にかなりこだわっていた。それほど、朝沼さんに強い思いを抱いているのではないかと、推測したんです」

 あえてそれを恋愛感情と表現しない辺り、キキはやはり節度を弁えている。

「もちろん、その事を根拠とするには足りなすぎますが、あなたが朝沼さんの部屋を訪問した時、あなたは彼女に対し、一方的に厳しいことを言ったのでは? そして、それが原因で朝沼さんは自殺した……あなたはそう思っていませんか」

「ははは、まさか……」

 図星を突かれているのは明らかだった。間違いならば、こんな乾いた笑いを浮かべながら否定などしない。

 キキは手帳を懐にしまい、どこか憐れむような口調で告げた。

「……多分、その通りだと思いますよ。あなたは、自分が原因かもしれないと思っているだけかもしれませんが、実際、あなたの言動に原因があると思います」

「何だって……?」

「警察の方でも、まだ確定はしていませんが、朝沼さんの自殺の原因にはすでに見当をつけています。恐らく、警察はあなたよりも朝沼さんの事を多く知っていますよ」

 キキのこのセリフで、里村の心が揺らいだのは間違いなかった。

「ここから先は警察の調べた事ですが、朝沼さんは十三歳の時に、強迫性障害を発症していたんです」

「え?」

 里村は驚いてこちらを見た。わたしも聞いていない。

「極端に汚れを気にして手を洗い過ぎたり、他人が触れたものに触れられなくなったりする『清潔強迫』や、物を捨てることによる恐怖から極端に物を溜め込むようになる『保存強迫』に、ずっと悩まされていたんです」

「じゃあ」わたしはようやく口を開いた。「あの蓄音機も……」

「保存強迫は、物が無くなる事への恐怖から、自然と不要なものまで集めるようになる。朝沼さんのあれは蒐集癖というより、蒐集症とも呼ぶべき状態だった。もちろんこれは特殊な事例で、蒐集癖がみんな病気であるわけじゃないけど」

「でも、その蒐集症で集めてしまったものを手放したって事は、強迫性障害は治ったんだよね?」

「うん。高校卒業までに何とか完治したそうだよ。元々、強迫性障害はそれほど長続きしない疾患だって言われているからね。ただ、たった数年続いただけの疾患は、結果として朝沼さんに大きな心の傷を負わせた……。清潔強迫のせいで、朝沼さんは人付き合いが満足にできなかった。ずっと通信制の高校に通っていて、大学に入ってからもその過去がトラウマになっていて、友人もなかなか作れなかったらしいよ」

 なるほど……ふとしたきっかけで他人からの接触を拒絶して、その結果、友人から白い目で見られてしまう、そうした可能性を否定しきれなかったのだ。根底にあるのは、他人に見放されたくないというある種の恐怖感だろう。

「そしてつい先日、朝沼さんは、あなたから突き放すような事を言われたんです」キキは里村に向かって言った。「朝沼さんは、里村さんの事を信頼していました。だからこそ、彼女は里村さんと同じマンションに引っ越したんです。もっとも、他人からの拒絶を極端に恐れていたために、なかなか接触する勇気は出なかったようですが」

「朝沼さんが、僕を信頼していた……?」

「事件に関する追及から逃れるためとはいえ、あんな高層マンションに引っ越すには相応の理由があったはずですからね。で、朝沼さんが自分から事情を打ち明ける前に、あなたが自分で朝沼さんの居場所を調べて接触した。どういう目的かは知りませんが」

「…………」

「あなたは事情を知った時、朝沼さんに自首を勧めたはずです。事件を調べていた、篠原龍一の娘のさそりと、引き合わせようとしていたくらいですからね……。でも彼女は、世間との繋がりが絶たれる事への恐れから、それを望まなかった。あなたとしては、朝沼さんの事を思って進言しているのに、なぜ耳を貸さないのだと苛立ったことでしょう。詳しい話の内容は分かりませんが、あなたは朝沼さんを突き放した。その事に朝沼さんは絶望し、悩み苦しんだ末に、自らの命を断つことにした……」

 その場の空気が、しんと静まり返る。

 命を断つ寸前の朝沼さんの心境を、わたしは想像してみた。誰かの気まぐれなのか、十年以上前に自分が犯した罪を追及されそうになり、信頼していた人に見限られるという、自分が最も恐れていた事態に陥ってしまった。迷いはなかっただろうか。自ら死を選ぶことが贖罪になりうると、本気で思っていただろうか……。

 そんなわけがない。わたしはそう思いたかった。繋がりが絶たれる事を覚悟してでも、彼女には、死ぬ前にやるべきことがあったのではないか。具体的には何も思いつかないけれど、彼女の最後の選択が正しいとは、どうしても思いたくなかった。

「……恐らく、これが自殺の真相です。里村さん」

 キキがその名前を呼んでも、本人は顔を向けようとしない。

「今となっては、真実を隠す事には何の意味もありません。冷たい言い方ですが、死者の名誉のために生者が犠牲になるなんて、勝手が過ぎると思います。あなたは、他でもない自分のために、全てを正直に話すべきです」

 里村は何も答えようとしなかった。キキの話を聞いて何を思ったのか、いま何を考えているのか、こうして観察していても全く読み取れない。……そもそも、わたしにそんな能力が備わっているとも思えないが。

 ちなみにこの話の最中、キキはずっとわたしの手を握っている。このまま家に帰るまで繋いだままでいる……なんて事にはならないよね。

 駆けつけた警官に呼ばれて、里村はその場をゆっくりと離れた。初めて会った時にわたし達に見せていた、あの尊大とも取れる雰囲気は(しっ)していた。

「里村さん、正直に話してくれるのかな……」

「さあ。それは里村さん次第だよ」キキはもう興味がなさそうだ。「たとえ里村さんが本当のことを言わなくても、警察による裏取りが少し大変になるだけで、特に何かが劇的に変わるわけでもないしね」

「まあ、ね……こうなると、もうわたし達には関係なくなるし。それより、もうそろそろ手を離してくれないかな」

「あれっ」キキは自分の手を見た。「まだ繋いでいたっけ。ごめん、もう飽きた?」

「飽きるかどうかの問題じゃないと思うけど……」

 というか、今まで手を繋いでいた事を失念していたのか。キキならやりかねないけど、恥ずかしい思いをしていたこっちの身にもなってほしい。言われたら、いともたやすく離したけれど。

 すると、エントランスの自動ドアが開いて、一組の親子が入って来た。さそりと、母親の星子さんだ。入院先から直接ここに来たらしい。

「あら、キキちゃんにもみじちゃん」星子さんがわたし達を見て言った。「先に来ていたのね」

 今日この二人が星奴署に来たのは、土の下から発見された遺体が篠原龍一本人か、遺族に確認してもらうためだ。もっとも、さそりは父親の顔をほとんど知らないわけだが。わたし達は、勝手の分からない二人のための付き添いだ。

 キキが二人に駆け寄った。

「学校が終わってすぐに来ましたからね。もっちゃんは部活がありましたけど」

「こら」あだ名のことで、わたしはキキの頭を手刀で叩いた。

「さっちゃん、もう体調の方は大丈夫なんだね」

 キキが頭頂部をさすりながら言うと、さそりは弱々しく微笑んだ。

「うん。ずっと酸欠状態にあったから、まだ少し頭がくらくらするけど、立って歩く分には支障ないって言われたから」

「そっか……じゃあ、問題があるとすれば別の所だろうね」

 キキが(うれ)いを帯びた表情で言った、その理由はわたしにも分かる気がした。

 この後にやって来た友永刑事から説明を受けて、桧山の自白調書の裏を取るためにいくつかの確認事項を質問された。その後、本物の篠原龍一の遺体が置かれている一室に案内された。専門の鑑定人による司法解剖を受ける前の遺体は、本人確認のため一時的にそこで保管される。

 すでに死蝋化して腐敗しにくくなっているが、遺体安置室は薄暗く、肌寒さを感じる空気に満たされていた。部屋の中央、検視官が用意した台の上に、遺体はシーツをかけられて横たえられていた。

 さそりと星子さんの前で検視官は、遺体の頭部にかけられていた布をめくった。刹那、星子さんは目を見開いて口元を押さえた。

「信じられない……あの頃と、全然変わらない……」

「念のために伺いますが」友永刑事は努めて事務的に言った。「御主人に相違ありませんね?」

「はい……紛れもなく主人です。あの頃はどこか信じられなくて、目の前にあった遺体が本当に主人なのか、心のどこかで、判断を迷っていました……。でも、今ならはっきりと断言できます。こちらが、本物の主人です」

 星子さんは落涙にむせびながらも、確信を持って告げた。

 やっと本物の夫に会えた事による喜びか、それとも、十四年経って再び夫が亡くなった事の現実を突き付けられた事による悲しみか……星子さんの涙の理由は、果たしてどちらだろうか。あるいは両方だろうか。

 一方のさそりは、ほとんど表情を変えていなかった。初めて父親の顔を目の当たりにして、多少は驚いているようだが、泣き出すそぶりは見せなかった。やはり、自分と近しい存在としての実感が湧かないのだろうか。

 さそりは、ちらっと母親の方を見ると、そのままためらいなく離れた。

「さそり?」

 わたしの呼びかけにも応じない。さそりが廊下に出たので、わたしとキキも彼女を追って安置室を出た。さそりはすぐ近くに立っていた。

「……どうしたの?」

 わたしの問いかけに、さそりは数秒遅れて反応した。

「……わたし、自分が嫌になりそう」

「はい?」

「もう会えないって思ってたお父さんと、こうやって対面できて、お父さんを殺した犯人はちゃんと逮捕された。本当なら、それで十分に満足するべきなのに……」

 さそりは両の拳を強く握り締めていた。肩から先の全体が震えていた。

「犯人を、お母さんの前で土下座させられなかった。肝心な所で、罠にかかって病院に送られたせいで……わたしはそれが出来なかった。もう、お母さんがお父さんのことでどれだけ苦しんでも、それでわたしが犯人を憎んでも、怒りの矛先を向ける相手はいない。それが悔しくなるの……」

 そんな事で、などとは言えなかった。十四年という歳月の中で、彼女が犯人に対して抱いていた憎悪は大きく膨らんでいた。一度でも、長らく苦しめてきた相手である自分の母親の前で、犯人が頭を下げる姿を見なければ、とても気は済まないだろう。でも、少なくとも桧山が裁判を経て刑期を終えない限り、それは実現しそうにないし、その時点で罪を償った事になっている人に、土下座を要求する事などできないだろう。

 その原因が自分にあると、さそりは考えているようだ。でも、その事自体が、自分が嫌になる理由ではないらしい。

「でも、そんなふうに思ってしまう自分が、一番憎い。これで十分に満足するべきって、頭では分かっているはずなのに、土下座なんて、そんな小さなことで悔しいって思っている、そんな自分が……」

「さっちゃん……」

「なんで……なんでわたしは……」

 さそりは、左の拳を右手で掴んだ。まるで、利き手ではない方の手が暴走するのを、必死で抑え込むように。歯ぎしりの音が聞こえた気がした。

「なんでこうなのよ!」

 吐き出すように叫ぶと、さそりは自分の左の手首に噛みついた。怒りにまかせ、渾身の力を込めて。

 鋭い八重歯が肌の奥にまで食い込んでいる。なおも深く食い込ませようとしたが、耐え難い痛みが全身に感染したのか、やがてさそりはその場に膝をついてへたり込んだ。手首から口を離し、右手で傷口を抑えても、指の隙間から血液が溢れてくる。

「さっちゃん……!」

 キキはすぐに駆け寄り、うずくまるさそりの両肩に手を添えた。痛みからか、怒りからか、それとも悔しさからか、さそりは震えていた。無情な現実を突きつけるように、さそりの手から溢れ出した鮮血が床に滴っていた。

 わたしは初めから分かっていた。彼女が抱いている苦しみや虚しさは、魔法使いでなければ癒せないものだ。どんな形で事件を解決しても、そんな奇跡は起こせない。長い時間をかけて刻まれてしまった心の傷までも癒す奇跡さえ、期待していなかった。誰に起こせるはずもなかったのだ。

 確かに、十四年経って犯人を捕らえて、しかもさそりは父親の顔をじかに見た。これは奇跡的な解決に他ならない。でもそれは、さそりにとって何一つ救いにならなかった。

「うっ……ううっ……」

 とどまることのない嗚咽を目の当たりにして、キキも同じ事を考えただろう。結局は、さそり自身が乗り越えられなければ、何も解決できない事だったのだと。

 それから、事態に気づいた別の警察官が治療室に連れて行くまで、さそりはずっとうずくまったまま、痛みに苛まれながら泣き続けていた。そんな彼女に対して、次善の対処さえできなかったわたし自身を、わたしは憎まないように必死で(こら)えていた。

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