その25 時の悪魔
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取調室の空気が変わったという実感はあった。狭く反響しやすい室内で、電話の向こうの声は他の二人にも聞こえただろう。いや、記録係を含めれば三人だ。名前も知らなければ声も知らないが。
篠原龍一の遺体が発見された。その知らせを予見していたのは恐らく自分だけだろう、とキキは思った。当事者の桧山は無論のこと、警察も、大規模な捜索をかけない限りは発見できないと考えていただろうから。しかも発見したところで、それが篠原龍一本人の遺体であるかどうかを確認するにも、多大な時間を要すると思っていたはずだ。
……それに関しては、キキも同様だったが。
「よく即座に分かったね。見つかったのが篠原さんの遺体だって。運転免許証もないはずなのに」
免許証は弟の遺体にあって、警察の手元に渡っている。
「それが、確認するまでもなく、見ればはっきりと分かるのよ。当時の新聞に載っていた篠原龍一氏の顔と、全く瓜二つだし」
「えっ、どういう事?」
「だから、骨になるどころか、姿かたちがほとんど変わらずに残っていたのよ」
こればかりはキキも予想外だった。発見できたところで証拠を掴めるかどうかは確定できない、警察も恐らく同じだろうがキキの見解はそうなっていた。
「十四年も前の遺体なのに……?」
「……あ、君か。福沢だが」
福沢が電話に出た。
「あ、どうも」キキは思わず頭を下げた。相手は目の前にいないけど。
「篠原龍一の遺体は、身ぐるみを剥ぎ取られた状態でブルーシートに包まれ、問題の廃屋の床下の、土の中に埋められていた。そのせいで微生物などがほとんど繁殖せず、湿度の維持された環境に置かれていたために、遺体は死蝋化していたんだ」
「しろうか?」
「死体が蝋燭みたいになるから死蝋だ。土の中に含まれるミネラルが、遺体に含まれる脂肪が分解されて生じる脂肪酸と結びついて、蝋状、まれに石鹸みたいになる現象の事を言うんだ。その結果、遺体の形状をほぼ維持した状態で、長期間にわたり変質せずに残る」
「ああ、聞いた事がある」あさひの声も聞こえてきた。「確か、福沢諭吉の遺体も墓の下で死蝋化していたそうよ」
「同じ福沢だから他人事に思えないな」
キキには訳の分からないことばかりだ。福沢諭吉……万札の肖像と『学問のすゝめ』と慶應義塾大学以外に、キキの知っている事はない。
「遺体の下には、ボロボロになった衣服がある。恐らく、篠原龍一に化けていた奴が元々着ていた衣服だろう」
「え、化けていたってどういう……」
もみじの疑問を福沢は無視した。「死因は恐らく扼殺だろう。手を使って首を絞めて殺害する事だ。相当激しく争っただろうが、衣服が剥ぎ取られた以上は、その痕跡を探すのは難しいかもしれんな……」
福沢の声の後ろで、がさがさという音がした。ブルーシートがめくられたようだ。
「そうでもなさそうですよ」と、もみじの声。
「ん?」
「遺体の爪の間に、黒っぽい汚れがあります。これ、血じゃありませんか?」
「んー? ああ、そうだな。確度は低いが少しはDNAが抽出できる。よく見ると、両手の、親指と小指を除く全ての指の爪に付着している。首を絞められた時、犯人の手を外そうと爪を立てた時についたものと見るべきだ」
「では、爪の間に付着しているのは、犯人の血液と見て間違いありませんね?」
キキは桧山の様子を見ながら訊いた。桧山は過呼吸に陥っていた。
「その辺は、現代の警察の科学捜査に、ある程度期待する事にしよう。君から警察の出動を依頼するといい」
「よほど警察と関わり合いになりたくないんですね……分かりました。また何か判明しましたら、駆けつけた警察の人に説明してください。では」
もう十分に証拠が集まったので、満足してキキは通話を切った。この場でキキがやる事は、桧山をどうやって追い詰めるか考える事だ。具体的な裏取りや証拠集めは警察の仕事である。
「はい、お望みどおり、証拠は手に入りましたよ」キキは桧山に向かって言った。「それにしても、向こうの人たちのフットワークの軽さは想像以上ですね。まあ、十四年前のあなたが、割と素直に行動してくれたおかげでもありますけど」
桧山はどのくらい汗を流しただろう。水分補給をしないとまずいのではないか。
「あなたがあの廃屋をずっと所有していたのは、横領などの証拠が見つからないようにするためだけじゃない。本物の篠原龍一氏の遺体も隠していたからですね。すでに遺体を隠している場所に、また別の遺体を置き去りにする人はいない……その心理を逆手に取ったわけですね。結果的にそれが、自分の首を絞める羽目になりましたけど」
もはや逆転は不可能だった。篠原龍一の遺体が見つかった以上、これまで判然としなかった篠原龍一の事件当日の行動が、双子の弟が成りすましていたという前提で再び調べられる。兄の龍一の方に、死の直前に誰が接触していたのか、その特定を抜きにした捜査などありえなかった。
桧山はがっくりと肩を落とした。自分に捜査の手が及ぶのは不可避、それが理解できたとき、反駁のために使っていた力が全て抜けてしまった。
「扼殺か……」友永刑事は腕組みして呟いた。「朝沼が弟を殺害した時は鉛筆で首を切っていたから、犯人側に傷がつく事はない。篠原龍一を殺害した時に傷を負ったとしても、警察はそれを事件と結び付けない。だが、今となっては……」
篠原龍一の死因が判明したために、事件当時に両手に怪我をしていた人が誰なのかを聞き込みで調べれば、それだけで警察の捜査は大きく躍進する。ここまで来ればキキの推論は、決して机上の空論ではなく、事実に限りなく近い解釈と捉えられる。
しかし……キキ自身も、この推論が不完全である事は否めないと思っていた。
「ただ、わたしにはどうしても分からない事があります」
「え?」友永刑事はキキを見た。
「今日さそりを誘拐して口を封じようとした事件……拉致して土に埋めて、携帯まで奪ったのなら、その携帯は破壊すればよかったはずです。警察を見誤らせるために、手に持って鹿児島まで持って行く必要はどこにもない。その場で壊すだけで、警察はさそりの居場所を特定できなくなりますから」
「ああ、言われてみれば……」
今になって、東京空港署の大垣刑事の見解に穴があったと気づかされる。
「これは想像ですが、恐らく二つの違う目的があったのだろうと思います。桧山さんは、わたし達の調査をさそりが主導していると思っていました。ならば、あの日会社に来ていたわたし達以外に、誰が調査に参加しているか調べるでしょう。元々、その調査を止めるためにさそりを拉致したわけですから、自分の知らない人が参加していれば、調査をしていても気づけない可能性がありますし」
「なるほど、携帯のメールボックスやSNSの履歴を調べれば、誰が調査に参加しているか分かると考えたのか」
「まあ、今どきの携帯は暗証番号でキーロックがかかるのが基本ですから、調べるのはかなり大変ですけどね。メールの履歴は内部データを抜き取れば見られるけど、SNSは直接アカウントを調べないと見られないから、どうしても携帯の電源はオンにする必要がありました。さそりはSNSをやっていませんから、無駄な事ですけど」
「今どきの中学生がSNSをやらないのは珍しいね……」
キキを含めた友人たちの中で、SNSをやっているのはキキともみじだけだ。その二人も、普段から携帯でやり取りをするのにSNSは使っていない。
「電源を入れたさそりの携帯を持ったままでは、万が一警察に目をつけられた時に疑いをもたれるので、赤の他人の指紋をつけておいたんです」
「それが、あの放浪ホームレスの指紋だな」
「そこは実際に調べないと何とも言えませんが。ただ、そこまですれば携帯を遠方に持ち出す必要はありません。自宅でじっくり調べればいいだけの事です。だから、桧山さんが鹿児島に行くのは、携帯を持ち出す事とは別の目的があった事になります」
「別の目的……?」
「わたしが疑問に思っているのはそこです。桧山さんは今日より以前から、鹿児島に行くことを決めていたようです。でも、自分から言い出した出張とはいえ、その前に拉致事件を起こせば、発覚を恐れて逃亡したと見なされます。携帯の事を見ても、桧山さんは相当に慎重な性格です。その危険を顧みずに鹿児島行きを強行したのは、一体どうしてなんでしょうか。しかも、新幹線ではなく飛行機を使って、この時間に……」
キキと友永刑事の視線が桧山に向く。桧山は俯いていて表情を見せない。
「今日、鹿児島にどうしても行かなければならない事情でもあったのでしょうか。……疑問はもう一つあります。福沢さんや朝沼さんが、例の廃屋を調べ始めたのは、意図不明の謎のタレコミがきっかけです。これについてはこんがらがるので考えないようにしますけど、そもそも、三か月前にあの廃屋を手放さなければ、誰も調べることはできなかったはずです。福沢さんがどんなに手を回したところで、個人の所有物なら、勝手に調べることはできませんからね」
福沢ならそんな事も構わずに乗り込みそうだけど……と、友永刑事は思ったが、ろくに知らない人の事を邪推するのはよくないと思い直して、言わなかった。
「もちろん、高い確率で篠原氏の遺体は腐敗して、身元の判別も不可能なくらいになっていたでしょうから、実のところは手放しても問題はなかったわけですけど。横領などの証拠にしたって、桧山さんが徹底的に探して見つからないなら、後で誰が探しても同じ事だと思ったはずです。さすがに、取り壊さなければ見つからない場所に隠している、なんて可能性はないでしょうし。でも、だからと言って、どうしても手放さなければならない理由はないはずです」
「…………」桧山は何も言わない。
「なぜ今になって手放したのですか? それに、そこまでしておいて廃屋の調査を恐れた理由とは何なのですか?」
キキが桧山を陥落させるべく考えを巡らせていた、その目的はここにあった。どれほど推論を重ねても解明できなかった二つの疑問。その答えを直接本人の口から聞きたかったのだ。答え次第では推論が覆される恐れもあったから、確かめずにはいられなかった。
桧山は答えようとしない。探られたくない何かがあるのだろうと思われるが、やはりこの場で明らかにすることはできないのだろうか……。
ここまでも粘り強く反論を仕掛けようとしてきた桧山の事だ、ここで黙るようなら今後も答えることはないだろう。無駄骨だっただろうか、とキキが半ば諦めかけた時、取調室のドアが開けられると同時に、初老の男性の声が響いた。
「その答えは……時効だろう?」
全員の目がその男性に注がれ、そして友永刑事は思わず声を上げた。
「た、高村警部!」
「やあ、お疲れさんだったね」
高村警部は軽く手を挙げて友永刑事に言った。隙のない身のこなしと、少し白髪の混じる豊富な髪は、初老の紳士といった雰囲気を漂わせているが、どこか人を食ったような笑みをたたえている所は、ただ者でない事を匂わせていた。
「で、君とは初めましてだね。私が、本庁の高村警部です」
「あ、どうも、キキと言います」キキは慌てて立ち上がった。「なんか、わたしのために色々と便宜を図って下さって恐縮と言いますか……」
「挨拶は後でもいいよ。それに、君をここに据え置いたのは、私が色々調べるのに時間がかかりそうだから、その間、君に桧山を自白させようと思っただけだからね」
「それって、要はただのつなぎ役ってことなんじゃ……」
「さて、君の出番はここまでだ。少し私に話をさせてくれるかな」
「あ、どうぞ」
キキが脇に引き下がって、椅子をすすめた。元々ここに座るのは警察官だ。本庁の警部がここに座る事はあまりないのだが……。
「あの、高村警部……」友永刑事が遠慮がちに言う。
「ん?」
「先ほどの、答えが時効であるとは、どういう意味なのでしょうか……」
「言葉通りの意味だよ」高村警部は椅子に腰かけた。「桧山は公訴時効が成立する瞬間を気にしていた。それがあらゆる疑問への答えなのさ」
「しかし、殺人以外の時効はとうに成立していますし、殺人に時効はありませんよ?」
「いや……」
高村警部が鋭い視線を向けると、桧山はびくっと肩を震わせた。叩き上げで昇進した警部というだけあって、その眼力は強烈である。
「たった一つだけ、現在において時効成立を目前に控えた罪状がある」高村警部は強く言い放った。「横領だよ」
「横領? 横領の時効は七年ですから、とっくに成立しているのでは?」
「それが違うんだ。先ほど『ホーム・セミコンダクター』に問い合わせて、桧山がこれまで幾度となく海外出張をしていた事実が判明した。合計して七年にも及ぶ」
キキは後から知ったことだが、この事実は『ホタル電機』の木場からもみじも聞いていた。無関係と思ってキキには報告しなかったのだが……。
「そ、そうか……!」友永刑事は叫んだ。「国外にいる間は、その理由に関わらず時効のカウントが延長される。桧山の場合、海外に出ていた計七年が追加され、十四年、つまり今年が横領事件の時効が成立する年というわけか!」
「そうだ。詳しく出張の期間を調べてもらって計算したところ、実際に時効が成立するのは明日だと分かった」
「明日……」キキは呟いた。
「桧山が遠方に逃げようとした理由は単純明快。時効成立前に、警察に拘束されたくなかったからさ」
確かに、聞けばあまりに単純な真相だった。時効成立を前にして、警察に捕まりたくないと遠くへ逃げる、そんな事例は数知れない。複雑な事情など何もない。ただ捕まりたくないから逃げた、それだけの事だった。
「今の警察の捜査状況を知れば、とても明日まで待つことなどできなかっただろう。朝沼数美や篠原さそりの事で警察が動き出せば、呑気に家に閉じこもって時効成立を待つ方が危険になる。だから、あの女の子の口封じをしてすぐに、遠方へ逃げるしかなかった」
「しかし、どうしてそこまで、時効成立を気にしていたのですか? 横領罪の量刑なんてたいして重くないでしょうに……」
「桧山も横領罪で捕まる事を重く見ているつもりはないだろうよ。本質的にアウトローな人間でない限り、どんな小さな犯罪でも警察に逮捕されるのは嫌がるものさ。しかも今回の事件の場合、横領に限っては証拠がまだ残っている可能性があったからな」
「確かに、どんな形で証拠を隠されたのか、桧山さんは知る事ができなかったはずです」
キキは頷きながら言った。
「でも、そこまで気にしていたのに、どうして廃屋を手放したのです?」
「言っただろう。その答えもまた時効にあるのさ」
そう言って、高村警部は再び桧山に視線を向けた。
「篠原龍一を殺害したのは、この横領の一件を気づかれたからだ。元々別の弱みを握られた事で始めた横領だったが、その弱みを握っていた篠原氏の弟に殺害の現場も見られたために、弟の口も封じようとした……これが、君の考えた十四年前の事件の流れだね?」
「あ、はい……」
高村警部はキキを見ていなかったが、キキは緊張しながら答えた。
「その推理は当たっていたんだよ。事件後、警察の捜査はやがて暗礁に乗り上げ、横領の調査も事実上打ち止めとなってしまった。桧山としては、そのまま七年待てばいいと思っていた。ところが、事件の二年後から海外出張が重なったことで、待っていた日がどんどん遠ざかっていく。そうこうしているうちに十四年が過ぎた。そして三か月前、桧山にとって非常に不運な事態が起きたんだ」
「不運な事態?」
「もしその時点で時効が成立していれば、それはかわせる事だった。時効を迎えていなかった事が、結果的に桧山から退路を失わせしめたんだ。実は、この十四年前の事件の真相を、より厳密には横領事件の真相を知っている人は、他にもいたのだよ。その連中が桧山を脅しにかかったのさ」
桧山は十四年経って再び脅迫されていた。それが横領事件に関することなら、確かに時効が成立していれば回避できる。警察に逃げ込むなどして真相を語り、自分を脅してきた連中を捕まえさせる。そして殺人事件との関連は否定する。十四年も経ち、遺体も見つかっていない状況ならば、その証言を覆す証拠は手に入らない。
逆に、時効が成立していなければ、そうした方法は使えない。警察に助けを求めることなどできないからだ。
「誰なんですか? その、横領事件の真相に気づいて桧山を脅迫したのは」
「おっと、気づいたわけではない。最初から知っていたんだ。それに、その連中の正体なら君たちもよく知っているよ」
「えっ……?」友永刑事は混乱していた。「おっしゃっている事の意味が分かりかねますが」
「そうかな? 少なくとも、この子は何か感づいたみたいだよ」
高村警部の指摘通り、キキは瞠目し、思いつめた表情をしていた。ずっと頭に引っ掛かっていた事が、今この瞬間に全て繋がったのだ。
「まさか、その連中って……」
「そうだ。君とその友人たちが、星奴署の刑事たちと一緒に捕まえた、あの九人の半グレ集団だよ。そして、連中の言っていた残る一人の仲間、すなわち一週間前の誘拐事件の主犯は、他ならぬ桧山自身だったのだよ」
張りつめていた空気が一気に緊張のピークに達した。キキも、友永刑事も、無言で取り調べの流れを記録していた人も、一斉に桧山を見た。その桧山は、歯を食いしばりながらこの空気に耐えていた。
星奴町内で立て続けに起きた二つの事件……みかんが誘拐された事件と、十四年前の事件に端を発する朝沼とさそりの事件。この二つは、例の廃屋の存在でわずかに繋がっているだけかと思われていた。だが実際は違った。みかんの事件もまた、十四年前の事件をきっかけに起きていたのだ。二つの事件は大きな繋がりを持っていた。
「何となく……その感触はありました」キキは絞り出すように言った。「桧山さんが廃屋を手放した三か月前は、みかんの誘拐事件の計画が始まった頃でした。単なる偶然かもしれないと思っていましたけど……」
「その誘拐事件で、ネコを誘い込んで殺害するのに適当な場所を探していた。可能な限り誰の邪魔も入らないような所でないと、毒を入れたエサ皿を持ち出されかねないからな。しかし桧山には、あの廃屋以外に思いつく場所が見つけられなかった。エサによる誘導をしていたとはいえ、確実に誘い込むには拉致現場から比較的近い場所でないといけない。該当するのはあの廃屋しかなかった」
「じゃあ、廃屋を手放した理由は……」
「後で警察が廃屋の所有者を調べた時の事を考えたのさ。誰の持ち物でもなければ、単純に死体遺棄事件が起きた不吉な場所だから選んだと、我々は考えるだろう。それでやむなく手放したのさ。桧山は不本意だっただろうが……」
そういう事だったのか。キキが抱いていた二つの疑問は、確かに高村警部の言う通り、時効という一つのキーワードで答えを出す事ができる。同時に、予想していなかった驚愕の事実を白日の下に曝したが。
「しかし、なぜあの半グレ連中は、桧山に誘拐事件を強要したのですか」
「おいおい友永くん、君は勘違いしている。誘拐事件を提案したのは、あくまで桧山の方だ。半グレ共は普通に金を要求しただけだよ」
「そうですね。でないと、桧山さんが主犯である事になりませんから」と、キキ。
「えっ、でも……なんで桧山が自分から誘拐事件の提案を?」
「誘拐事件でなければならなかった理由は、これから取り調べではっきりさせる事だ。おおよその見当はつくがね。半グレ共から大金を要求された時、今度は横領によって手にしようとは考えたくなかったし、どんな違法な手段でもっても、篠原氏の弟と同様に、その違法な手段の事でまた脅迫してくる可能性もある。そこで、半グレ共も巻き込む形で大金を手に入れる方法を考えて伝授した……というところじゃないか。場合によっては、半グレ共だけを警察に捕まえさせられる事が、できるかもしれないからな」
確かに、実際にそうなっていた。キキたちみたいな子供が関わってくる事を、桧山が予測していたとは思えないけれど。
「なるほど……ところで、どうして半グレ連中は、桧山の横領の事を知っていたのでしょうか」
「うむ。その大元の原因は、彼の大学時代にまで遡るのだよ」
「大学時代……そこまで?」
「ああ。当時桧山は、同好会で発明した製品を、大学側の許可を得ることなく販売し、その売り上げを自分の懐に入れていたんだ。同好会の規定に明らかに違反していた」
そうだ。キキは思い出していた。篠原たちが所属していた発明同好会では、諸事情から発明品の頒布や販売は大学側の、もとい工学研究院の許可なしにはできないのだ。罰則などは聞かされていないが、恐らく同好会を除名されるのだろう。
「ところがその最中に、桧山は訪問先で篠原氏と出くわしたんだ」
「えっ? 篠原さんは知ってたんですか?」と、キキ。
「同じ篠原でも弟の方だよ。双子ゆえに気づけなかったようだがね」
「あ、そういう事か……」
キキは不意に納得した。これが十四年前の事件に繋がる事に気づいたのだ。
「結局、無断販売が明るみに出ることへの恐怖から、すぐにやめてしまい、その販売記録を書いていたノートも回収した」
「そっか、あの同好会の部室にあったカラーボックスの仕掛けは、そのノートを隠すための物だったんだ。確かにあそこなら、誰に見られる心配もないし」
何の話だろう……事情を知らない友永刑事は、ついて行けなかった。
「それから五年ほど経って、篠原氏の弟がその無断販売の事で脅しをかけ、金を要求したんだ。桧山としては逆らえなかっただろう。桧山は篠原龍一の厚意で『ホーム・セミコンダクター』に就職できたから、これが明るみになれば、篠原氏の職場で立場を失ってしまうからな。最初の一回くらいはまだ余裕があっただろうが、それ以降はもう無理だった。それが分かった時に篠原氏の弟は……」
「会社の金をかすめ取るようにけしかけた、って事ですね」と、キキ。
「そうだ」高村警部は頷いた。「そしてその横領さえも恐喝の道具にしていた。ここで、桧山による横領がなぜ警察に突き止められなかったのか、その理由が分かる」
「そういう事か……」キキは腑に落ちた。「横領して得たお金は、そのまま篠原氏の弟さんに渡っていた。つまり桧山さんの手元にそのお金はない。警察がいくら調べても桧山さんを疑うことはない、という事ですね」
「なるほど、実際に横領した人物と、金を手中に収めた人物が別だったわけか。そりゃあ辿り着けるわけがないな」
友永刑事はやりきれないと言わんばかりにかぶりを振った。
「だけど篠原龍一氏は桧山さんの犯行に気づき、その結果として事件は起きた……」
「ああ。一方、篠原氏の弟にも、たびたび脅迫をかけるだけの理由があった。例の半グレ集団が経営する闇金と関わって莫大な額の借金を作っていたんだ」
「そう繋がるわけか……つまり、桧山さんから受け取った金は、全部その借金の返済に使っていたんですね」
「何度も脅しをかけるという事は、億単位にまで膨らんだんだろうな」友永刑事は呆れながら言った。「闇金の利息は、計画的なご利用でも破綻するレベルだからな」
「もっとも、それだけではなさそうだがね……」と、高村警部。「篠原氏の弟に返済を迫っていたのは半グレ連中の中の一人に過ぎない。そいつが、別の事業での損失の穴埋めのために、返済と称して金をむしり取っていたそうなんだ」
「つまり弟さんもまた、半グレに脅されていたって事ですか」と、キキ。
「気が遠くなりそうだな。脅迫されて渡す金を、別の人を恐喝する事で調達する。まさに恐喝の連鎖ってわけか……虫唾が走るな」
友永刑事が苛立ちを隠さない一方で、キキは背筋が凍りつきそうになっていた。恐喝の連鎖。普通に中学生として生活していれば、決して触れることのない人間の闇に、こんな形で触れる事になろうとは……。
「そんな事情があったから、事件当日に朝沼数美と鉢合わせた時、横領事件の追及はやめるように言うしかなかったんだ。自分のしている事は到底同情の余地などないし、警察に捕らわれている間に借金の額は指数関数的に増えていくからな」
「それが事件の発端だった……」
「ああ。結果的に朝沼と口論になり、弟は殺害されてしまった。実際にその場でどんなやり取りがあったのか、今となってはもう分からないが……。弟が姿を消した後、いや実際には遺体となって公然と姿を現していたが、十四年経ってようやく半グレ連中は、弟が恐喝して金を調達していた相手である桧山に目をつけたんだ。彼らもまた、十四年前に廃屋で見つかった遺体が、兄の篠原龍一だと本気で思っていたのだろう。事の真相に気づくまでに十年以上を費やしてしまった」
「そして、今度は桧山から金をむしり取ろうと思ったわけですか」
「ああ……弟はまだ借金を完済していない、正確には、弟への脅迫で補填しきれなかった損失の分を、弟が返すべき金として奪おうとしたのさ」
「そんなふざけた考えで、金を搾り取ろうとしていたんですか?」
「ありえなくはないですね」友永刑事と対照にキキは冷静だった。「半グレの人たちからすれば、二段階に連鎖していた脅迫が一段階に減った、それだけの認識だったのですよ。ただ殴りたいから振るう暴力に、色々理由をつけたがる事と同じです。大金を掴むという至上の目的のためには、どんな強引な理屈も辞さない。利己的が過ぎる人間の考えは、得てしてそんなものかもしれません」
誰ひとりとして、キキの考えに反論しなかった。反論の余地が、なかった。
「……そして」高村警部は肩をすくめて言った。「桧山は大金を得るための方策として、この誘拐事件を提案し、彼らがそれを実行した。半グレ連中としては、大金が手に入れば桧山の事はどうなってもいいと思っていただろう。あからさまな犯罪でも、損失や出費を補って余りある大金が手に入るなら、実行に迷いなどなかったはずだからな」
「何という事だ……想像以上に根の深い事件だったんですね」
「わたしも、ここまで複雑な裏事情があったなんて、考えもしませんでしたよ」
「そうだな。私もついぞ経験した事がない」
本庁の叩き上げの警部でさえ、この事件の根の深さには驚嘆していた。並みの中学生が興味本位で関われる話では、断じてなかったようだ。
「もっとも、これはほとんど、逮捕されて留置場にいる半グレ共から聞き出した事で、信憑性はまだ低いと言わざるを得ないがね。だが、先ほど遺体が見つかったようだから、その遺体を詳しく調べれば桧山の犯行は立証可能だし、半グレ共の家やネット環境を徹底的に調べれば証言の裏も取れる。横領事件についても、明日までに送致用の書類をまとめられそうだな」
考えてみれば、高村警部はこのわずかな時間で、『ホーム・セミコンダクター』から桧山の出張の記録を聞き出し、半グレたちからこれほど複雑な話を自供させたことになる。驚異的な捜査テクと言えるだろう。具体的にどんな方法で自白を引き出したのかは、恐らく今後も明らかになる事はないだろうが……。
「だが、その前にお前から言いたい事は、何かあるかな?」
高村警部は桧山に向き直った。キキたちも視線を向けて、桧山の発言を待つ。
桧山は、いつの間にか震えが止まっていた。俯いたままで、顔は天井灯の陰になって表情が見えない。触れられたくないと思っていた事まで残らず暴き立てられ、反論を考える気力さえ残っていないのだろうか。
「…………私は」桧山は重い口を開いた。「時効というものに、踊らされていた。十四年もの間、ずっと翻弄され続けていた」
「翻弄、ねぇ……」
高村警部は、真正面から受け止めようとしなかった。
「罪を犯して、それが明るみにならなければ、気にするのは時効だけだ。それなのに、しばらく経って殺人の時効は、十年延長を経て廃止されて、他の罪は早くに時効を迎えたのに、大元と言える横領の時効は、海外出張の度に遠ざかっていく」
「ふむ……」
「その日が来ることを、その刻限が早く訪れることを望まなかった日は、一度もない。平静を装い、いつ捕まるか分からない恐怖に耐えながら……だが、時間という悪魔はあまりに残酷すぎる。どれほど私を苦しめれば気が済むのだ。そして、その境遇を変えようともしない自分に、今でも憤りが治まらない」
同情を誘うための演技とは思えなかった。桧山は本当にこの十四年間、ずっと苦しめられてきたのだ。時効は、犯罪者にとって、まさに悪魔のような存在なのだろう。
「そういう話は、私もよく耳にしますよ」と、高村警部。「待つことの苦しみから逃れようと、自らを律しきれずに再び罪を犯す……。あんたは、何も特別苦しい経験をして来たわけじゃない。罪を犯した者に対する罰は、何も法律だけが与えるわけじゃない。人間が終生持ちうるあらゆる感情が、すでにあんたに罰を与えていたのだよ。他の憐れな犯罪者と同様に、な……」
桧山は何も言い返さなかった。自分のこれまでの過ちと苦しみを回顧できてこそ、憐れと評される事に何一つ違和感を覚えなかったのだ。
ふう、と息を吐きながら、高村警部は背もたれに寄り掛かった。キキに顔を向け、「お疲れさま」と告げた。
「君もこれで、桧山に確認してもらう事はもう無くなっただろう」
「え、ええ……」
「ならば、君がここに残る理由はもうない。誰かの手が空くまで、しばらく廊下で待っていてくれないか」
「あ、はい。分かりました……」
そう言ってキキは、会釈をしながらその場を離れようとした。
「それと、ここで見て聞いた事は、警察の発表があるまで他言無用だよ」
「分かっていますよ」
「あ、キキちゃん」友永刑事も呼び止めた。「僕からも、後で君に伝えておこうと思っていた事があるんだ。朝沼数美の事で、気になる事があって……」
「朝沼さんの事で?」
「ああ。もしかしたら、自殺の真相に繋がるかもしれない」
キキは微かに目を見開いた。それでも、なおも冷静に言葉を返した。
「……分かりました。美衣と一緒に廊下にいますので」
友永刑事が了解して頷いたのを見て取ると、キキはそのまま取調室を出て行った。
キキの背中を見届けて、高村警部は、何かを懐かしむようにぼそりと呟いた。
「あれがキキちゃん……あの歳で、ずいぶんな別嬪さんになったものだ」
「え?」友永刑事には聞き取れなかった。「警部、何かおっしゃいましたか」
「いや、別に……。あ、悪いが友永くん。君も一度退室してくれないかな。少し、彼と話したい事があるんだ。そこの君も、一度出てくれないかな」
彼というのはもちろん桧山の事だ。友永刑事が退室するのはともかく、記録係まで退室させるとなると、その意図を質さずにはいられない。
「あの、それはどういう……」
「少し個人的に気になる事があるんだ。なに、この事件に影響を及ぼすものではないから安心しなさい。それと、退室しても扉の近くか隣の部屋にいてくれないか」
「当然です。記録係なしでの取り調べなんて、後で問題視されますからね。何が起きてもいいように見張っていますから」
「うむ」高村警部は満足そうに頷いた。「それでこそ警察官だ」
仲間や上司にも疑いの目を向けるのが警察官らしいというのは、どこか頂けない話ではあるのだが……。
マジックミラーの向こうの部屋は、ドラマと違って、取調室の会話がはっきりと聞こえるように出来ていない事が多い。文字通り、見張る事しか出来ない。ドア越しに聞こうとしてもそれは同じ事だ。つまり、これから高村警部と桧山がどんな話をするのか、それは誰にも分からないという事になるのだ。
誰も知らないその後のやり取りは、やがて巨大な闇へと繋がり、キキたちをも巻き込んでいくのだが……それはまだ先の話である。




