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DEAD LINE~悪魔の刻限~  作者: 深井陽介
第二章 咎人のタイムリミット
40/47

その20 真相PART.1

 <20>


 松田美樹は呆れたように嘆息をついた。

「参ったわね……瑞希ちゃんからあなたの事は聞いていたけど、まさかここまで辿り着くとは予想していなかったわ」

 村井瑞希から自分の事を聞いたと言われて、キキは眉根が寄るのを自覚した。

「なんて言ってましたか、わたしの事」

「名探偵みたいだって」

「あの人の前ではたいした推理をしていないのに……」

 元より、キキは過大評価を嫌う節があった。推理とか閃きに多少の自信はあるが、それを取り上げて名探偵と呼ばれるのは、どうにも気に入らない。もみじから言われるのは例外的に許しているが。

「こいつに必要以上の賛辞はしても無意味なので、こちらの話を始めてもいいですか」

 美衣はフォローに回ったつもりだが、キキはあまりほっとしていない。

「ええ、そうね。そのために来たんだもの」

 松田はそう言うが、果たして覚悟を持ったうえで言っているのか、美衣は怪しく思っていた。キキの頭脳は、見た目に反して侮りがたい。生半可な態度で聞けば、自分の精神を追い詰めてしまう可能性もあるのだが……。

「では、わたしの考えを話します」

 キキは咳払いをして、滔々と話し始めた。

「まず、十四年前の事件を読み解く際に一番重要となるのは、篠原氏がどこで殺害されたのかという事です。遺体が発見されたあの廃屋で殺されたという可能性は、多分警察も考慮していないでしょう」

「遺体に動かされた形跡があるかどうかくらい、調べれば簡単に分かるからな」

「そうでなくても、篠原氏の遺体にははっきりと、別の場所で殺害されて運ばれてきた事を示唆する痕跡が残っていたけどね」

「痕跡……?」と、松田。

「まあ、それはもう少し後にするとして、篠原氏が一体どこで殺害されたのか……あくまで推測で証拠はありませんが、恐らくあなた方の会社の本社ビルの九階、もっと言えば男性用トイレに程近い廊下のどこかです」

 松田の双眸が大きく見開かれた。肩が震えだしている。

 どうやら図星のようだが、キキは気にせず続ける。

「事件当日の前後で、床用ワックスが容器一つ分丸ごと無くなっているという証言がありました。床用ワックスの使い道なんて、床に塗るという以外には考えられません。容器一つ分丸ごと使って、髪型を整えるわけでもあるまいし」

「原料は同じだが、本来床に塗って艶出しに使うものを頭に塗る馬鹿がいるか」

「わたしに向かって馬鹿といわないでよ……やらないのに。では、なんで容器一つ分丸ごと、ワックスを床に塗る必要があったのか。それは、殺害現場があのフロアのどこかだと考えれば、容易に説明がつきます」

「殺害時に、床に飛び散った血痕を隠すため、だな」

「そう」キキは美衣を指差した。「もちろん血痕は入念に拭き取っただろうけど、肉眼ではほとんど判別できない痕跡が必ず残ってしまう。ミステリーでよく聞く、ルミノール液というもので見つかってしまうんですよね」

「厳密には、ルミノールを塩基性溶媒に過酸化水素と共に溶かしたもので、血液に含まれるヘモグロビンなどが触媒となって過酸化水素と反応して青白く発光する。古い血液ほど鋭敏に反応すると言われているね」

「はい、聞いてもよく分からない説明をどうもありがとう」

 キキの笑顔は固まっていた。

「肉眼で見えなければ問題ないと思いますけど、犯人の心理としては、いつどんなきっかけで見つかるか分からない。だから駄目押しの意味でワックスで膜を張り、血液反応が出ないようにしたんです。もっとも、一部だけ塗ったらさすがに目立つと考えて、フロア全体にまんべんなく塗ったせいで、容器一つ分が無くなってしまい、かえって大きな痕跡を残す事になったから、駄目押しというより蛇足でしたけどね」

「その蛇足の結果として残った痕跡を無視した警察は、間抜けという他ないな」

「美衣も手厳しい事を言うね……まあわたしも同感だけど」

 笑顔でさらっと警察を非難するキキは、美衣以上に容赦ないと松田は思った。

「でもそれだけじゃ、九階のどこが殺害現場なのかは分からないんじゃ……」

「いいえ」キキは顔をやや前方につき出す。「ワックスはトイレの近くに置かれていました。普通に考えて、血痕を拭き取って安心できなくても、ワックスで隠そうなどとは思いつきません。すぐ目の前にワックスの容器があったからこそ、考えつくものです」

 松田は、開いた口が塞がらなかった。人間の心理を勘案し、巧みに想像力を働かせていくつもの手掛かりを拾い集める。キキの思考回路はまさに、小説に登場するような名探偵そのものと言えた。本人はそれでも謙遜するのだろうが……。

「松田さん」美衣が口を開く。「説明として理解しやすい順序で話していますけど、キキはワックスがどこにあるかなんて聞いていませんでしたよ」

「え?」

「村井さんにワックスがある場所を確認する前から、キキは予測できていました。その時点から既に、キキは遺体が別の場所から運ばれていると考えていたのです。そのうえで、ワックスの容器が無くなっている事を知って、推理が繋がった……」

「そうそう、その説明をしていませんでしたね」

 自分で後回しにすると言いながら、美衣がきっかけを作るまで忘れていたようだ。

「遺体が移動されたことに気づいた根拠は、傷口にあった圧迫痕と、なぜか紛失していたネクタイです。……恐らくネクタイで傷口を押さえて、出血を防いでいたのでしょう。そんな事をするのは、どこか別の場所から遺体を運んでくる時だけです」

「…………」松田の表情が強張り始めた。

「自分のハンカチを使うのは気が引けるでしょうし、その日は篠原氏もハンカチを持っていませんでした。ネクタイなら生地も堅いし、そう簡単に血がにじむ事もないから、出血を押さえ留めるには最適だと判断したのでしょう」

「…………」

「そして、傷口には水で濡れた跡がありました。それは恐らく、傷口に付着していた何らかの都合の悪い汚れを、洗い落とした跡でしょう。ワックスと同じく、すぐ目の前に水の出る所があるからこそ、汚れを洗い落とせると思った……だから、殺害現場はトイレか給湯室の近くで、同じ要領でワックスもその近くにあると考えたわけです」

「もういい……」

「では、その汚れとはいったい何でしょうか。恐らく……黒鉛です」

「もうやめて!」

 松田は吐き出すように叫んだ。大声に遮られたために途絶えたが、キキは容赦なく説明を続けた。もちろん、考えがあっての事だ。

「色々調べてみた結果、最も可能性の高い仮説が浮かびました。発見されていないという凶器の正体は、2Hの鉛筆です。筆記用の鉛筆と比べて硬いので、人間の肌に食い込ませるには十分でしょう。刃渡り二センチという警察の見解とも一致します。そして犯人は、事件をきっかけに鉛筆の使用を忌避した人物……朝沼さん、ですね?」

 ガタッ、という音を立てて、突然松田は椅子から立ち上がった。表情を見せず、小刻みに震えている。

「……えっと」松田は思いついたように顔を上げた。「飲み物、ジュースでいいかしら」

「あ、そうですね。お願いします」

 警戒心を微塵も見せることなく、キキは朗らかに笑って言った。

「美衣もどう?」

「わたしはいい。どうせパエリアも食べてないし」

「お腹減っているんじゃないの?」

 何気ない会話を展開する二人を横目に、松田は冷蔵庫からオレンジジュースのパックを取りだし、コップに注いだ。……見られないようにこっそり、謎の粉末を混ぜて。

「さて……」ジュースがまだ来ないうちに、キキは説明を再開した。「朝沼さんが犯人だと仮定すると、事件後の彼女の謎めいた振る舞いの全てに説明がつきます。あなた達の会社への取材を班長の福沢さんに委託したのは、単純に殺害現場である会社に近づきたくなかったから。関わりを断ちたかったというのもあるでしょう。鉛筆を使わなくなった事と同じ理由ですね。それに、その福沢さんから事件の再調査に協力してほしいと言われた時も、突然引っ越して音信不通になったそうですから」

「どうぞ」松田はキキの前にコップを置いた。

「ありがとうございます」キキはぺこりと頭を下げる。「ただ、松田さんは篠原氏を殺害した後、そのまま何もせずに逃げ出しています。遺体を例の廃屋に運んだのは別の人物です。だからこそ、朝沼さんは遺体発見のニュースを見た時、混乱していたのです。本社ビルで殺害したはずの篠原氏が、自分の全く知らない場所で見つかった……朝沼さんにとっては予想しえなかった出来事だったはずです」

「当然だが、篠原氏の遺体を移動させた人物は、朝沼さんの仕業だという事に気づいていただろうね」と、美衣。

「うん。だからこそ警察が来た時、朝沼さんは本社ビルに来ていないと証言した。とりもなおさず、朝沼さんをかばうためだね。で、それをやったのはあなた達……松田さん、里村さん、桧山さんの三人ですね」

 椅子に座った松田は、俯いて沈黙を貫いていた。すでに、反論やごまかしは無駄だと観念しているのだろうか。

「あなた方は朝沼さんと同じサークルにいた知り合いにもかかわらず、他人の振りを続けていましたし、警察にも朝沼さんの存在を話さなかった。アリバイがあやふやなままになっているのも、自分たちに疑いの目を集中させて、朝沼さんに疑いがかからないようにするため……ですよね」

「…………」

 松田が一向にそれらしい反応をしないため、キキは少し残念そうにため息をつく。

「桧山さんと商談をしていた人が、十一時半ごろにビルから出てきた車には、少なくとも三人が乗っていたと証言しています。それって、松田さんたち三人の事ですね? 顔までは見えなかったそうですから、確かな事は言えませんが」

「まあ、状況から考えればそれが妥当じゃないのかな」

「うん……朝沼さんは篠原氏を殺害した後、出入り口付近にいる警備員に見つかる事を恐れて、すでに警備の終わっていた裏口から出ました。八時のチェック時には施錠されていましたが、その時に朝沼さんが開錠したのです。もちろん、外から閉めることはできませんからそのままです」

「なるほど、その後に松田さんと里村さんが、鍵の開いている裏口から入ったから、警備記録には残らなかったわけだ」

「そう。松田さんは家に戻ってから、携帯に出なかった篠原氏の事を不審に思ったはずです。受付では篠原氏が帰ったという話を聞いていないので、もしかしたら会社でまだ何かしているのかもしれないと思った事でしょう。夜も遅かったし、篠原氏の自宅に電話して確かめるのも憚られたあなたは、その足で会社に戻った。多分その時、逃走している途中の朝沼さんとすれ違ったのですね。そして、なぜか開いていた裏口から入って、篠原氏の遺体を見つけた……なんて、ちょっと想像が過ぎますかね」

「そう考えれば上手く説明がつけられるというだけのレベルだな」

「本当に辛辣なことを言うね……。で、連絡を受けた里村さんや、最初からビルの中にいた桧山さんも合流した。まあ、実際に誰が先に発見したのかは知りませんけど。そして、朝沼さんをかばうために遺体を運び出す前に、裏口の鍵を内側から閉めた……そうして事件時の状況は作られたわけです。いかがですか?」

 キキは少し気取って言った。何かしらの反応を期待したのだが、松田はやはり俯いたまま、口を開こうとしなかった。

「あの……ウンとかスンとか言ってくれませんか。調子が狂います」

「スンと言っても調子は狂うだろうがな」

「今の話……」

 美衣のツッコミに答える前に、松田が俯きながらぼそぼそと言った。

「もう、警察には話したの?」

「いいえ、まだです」と、キキ。「さっきも言ったように、これはあくまでわたし自身の考えです。これが事実と合っているかどうか、事情を知っている本人に聞いてもらい、確認したかっただけですから」

「ふうん……それなら、あなたたち二人がいなくなれば、その話が明るみになる事はないという事ね」

 低く暗い声。松田のこの様子を見れば、震えるのが普通の反応かもしれない。しかしキキたちはじっと、松田の次の出方を窺っていた。

「ねえ……ジュース、飲まないの」

「あ、そうですね。いただきます」

 震えているのは、そして極度の緊張に襲われているのは、むしろ松田の方だった。

 キキはコップを両手に取り、おもむろに口元へ近づけていく。コップを傾け、オレンジ色の液体を引き寄せていく。

 なぜだろう、と松田は思っていた。キキのその行動に、警戒心や猜疑心(さいぎしん)は微塵も見られない。よもや、このジュースの中に異物などが混入されている可能性を、全く考えていないなんて事があるのだろうか。名探偵級の推理を展開していた、この少女が……。

 やがて、ジュースはキキの唇に接した。そのまま、()()()異物の混入された液体を、キキは口の中へと流し込んで……。


 ……とはならなかった。

「ちょっと待て」

 ジュースを口の中に入れる寸前で、美衣がストップをかけた。

「キキ、まさか考えなしにそれを飲もうなどとは考えていないよな」

「なんの話?」

「それに毒物が入っている可能性を、少しは考えた方がいいと言っているんだ」

 キキはキョトンとした顔で美衣を見返した。

「……それは考えなくていいんじゃないかな」

「なんだと?」

 松田は、普段通りに見えなくもない二人のやり取りさえ、見るだけで心拍数が急増しそうになっていた。

「松田さんは、人を傷つけたり、ましてや殺したりなんて出来ない人だよ。そう思ったからこそ、話を聞いてもらう相手に松田さんを選んだんだよ」

「そんな不確実な観測で? 本気?」

 美衣は眉をひそめているが、キキはなおも平然としていた。

「だから、飲んでも全然大丈夫だって」

「あっ……」

 美衣の制止も聞かず、キキはコップのジュースを一気に仰いだ。

 直後、キキは口元を押さえてうずくまった。

「どうした?」美衣は驚いて立ち上がった。

「……なにこれ、苦い……」

「ストリキニーネって、知ってる?」

 松田が顔をしかめながら告げた。ハッとして美衣は松田を見た。

「まさか……それを、入れたのか?」

「ものすごく苦くて、ものすごく強力な毒物よ。痙攣(けいれん)を起こし、最後は呼吸不全で死に至るの」

 唱えるように話す松田。その一方、キキは喉元を押さえながら、苦しそうにテーブルの端にしがみついていた。呼吸も荒れていた。その様子を見て、松田は興奮する自分に酔っているかのように饒舌に語った。

「信じられなかった? 生憎だけど、私だって追い詰められればこのくらいやるわよ」

 即座に自分のPHSを取り出した美衣に、松田は、隠し持っていたカッターナイフの刃を向けて立ち上がった。

「動かないで」

「くっ……」美衣は表情を歪めて睨みつけた。

「あなたの方はどうしようかと思ったけど、とりあえず私の指示通りにしなさい。しばらくあなたの事は拘束するから」

「……キキは、どうするつもりだ」

「あなたが大人しくすれば、救急車を呼んであげるわよ」

 松田はそう言いながら、じりじりと美衣との距離を詰めていく。美衣は後ずさる。

「逃げたらお友達の命はないわよ。今だってすでにこと切れそうだもの……あなただって喉元を切りつけられて終わりよ。だから、逃げない方が」

 がしっ。

 刹那、松田のカッターを持つ手が掴まれた。

「……逃げようとしているのはあなたの方ですよ。松田さん」

 松田の手首を掴んだのはキキだった。いつの間にか彼女の震えは止まっていた。むしろ先ほどよりも冷静さが増していて、未だ曇りのない瞳が真っすぐに向けられ、松田はたじろぐしかなかった。

「わたし、初めに言いましたよね。わたしの話を聞かなければ、一生分の後悔を背負う事になるって……今がまさに、その時ですよ」

「な、なんで……」松田は上ずった声で言った。

「あなたの行動は最初からお見通しでした。あなたはわたし達を傷つけることなく拘束しようとするはず。ジュースを出された時、毒物と錯覚させるような異物を入れて、わたしに毒を飲んだと思わせるつもりだとすぐに気づきました。多分、風邪薬か何かですね」

 本当に何もかもお見通しだったというのか。だとしたら、なんて勘の鋭い人だ。松田はひたすら圧倒されていた。

「次の出方を探るために、少しだけ苦しむ演技をしてみましたが、てき面でしたね。あえてジュースを飲まず、何か混入されているという疑いを最後まで持っていた美衣を、カッターナイフで脅しつけて拘束する。この状況で美衣が抵抗するとは思えないし、落ち着いた後はわたしも同様にして拘束する計画だった……あなたは見事に、手の内を明かしてくれましたよ」

「じゃあ、あなたも……」松田は美衣をみて言う。

「こんな三文芝居であなたが折れるかどうか、甚だ怪しかったのですが……まさか、ここまでキキの想定通りに動いてくれるとは、思いませんでしたよ」

 ピエロに成り下がった気分だった。上手く彼女たちを操って拘束するつもりが、実際は自分がまんまと騙されていた。最後の抵抗さえ無意味に終わったのだ。

「最初から分かっていましたよ」キキは言い聞かせるように告げた。「あなたにわたし達を殺す事はできない。殺せるなら、こんな面倒な事はしませんから」

 キキの包み込むような言葉が、松田にとってはまるで刃物のように鋭く突き刺さったかに思えた。何一つ否定できない。彼女たちの前では、こんな芝居は無駄な抵抗に他ならなかった。殺せないからこんな方法を使った、それは紛れもない事実だった。

 観念するしかない。そう感じた時、松田はカッターを手から離した。金属音を立てて床に落ちたカッターを、美衣がすかさず拾った。

 全身の力が抜かれたように、松田は床にへたり込んだ。その松田の前にキキはしゃがみ込んで、気遣うようにゆっくりと言った。

「ずっと休まず働いていたのは、篠原さんへの贖罪(しょくざい)のためですね? 実際に殺害したわけじゃないけれど、遺体を見つけておきながら通報もせず、遠くに運んで放置するという事してしまった……言い方はアレですが、恩を(あだ)で返してしまったと思われたのでは?」

「言い方も何も、実際そう思ったわよ……」松田は俯きながら呟いた。「就職難の時代にあって、私は篠原さんのおかげで居場所を貰えた……なのに、私はその恩に報いないばかりか、こんな仕打ちを……どうしてあんな事をしてしまったのか、あの時の私は、何も考えられなかったから……」

 ゆらゆらとかぶりを振りながら、涙声で松田は訴えた。その様子を、キキと美衣は心苦しそうに見ていた。

「死体遺棄の時効は三年……とうに成立しています」と、美衣。「今さら、あなたを責める資格など誰も持ってはいません。社会があなたに裁きを与える力を失ったのなら、それができるのは自分だけです。警察に全てを打ち明けて、肩の荷を下ろすべきかと」

「ずっと休まず仕事に尽くしてきたのですから、会社が見放す事もないと思いますよ」

「そうね……」

 松田自身も、もはやそれ以外に選択肢はないと感じていた。同時に、気がかりなこともあった。

「だけど、数美ちゃんの事は……あの子がもし出頭すれば、私たちの罪も明らかになるから、それを理由にあの子を殺したと考えられてもおかしくないわね」

「ん?」

「でも私はやってないわよ? 信じられないかもしれないけど……」

「いや、信じるも何も、朝沼さんは自殺ですから」

「へっ?」

 松田は頓狂な声を上げる。キキたちが冗談を言っているようには見えない。

「でも、新聞には……」

「殺人と見て警察が捜査を進めていると書いてあったんですよね。でもあれは、自殺後に部屋に侵入した人物が、恐らく偶然に踏み台の椅子を動かしてしまったせいで、殺人だと思われてしまっただけです。だから、朝沼さんの死に関しては、松田さんの関与は一切疑っていません。少なくともわたし達はね」

「うそ……」松田は瞠目した。「でも、なんで数美ちゃんが自殺を?」

「さあ、そこまでは……。でも、部屋に来て踏み台を動かした人物なら分かっています。実は今、その人物の身柄を警察が確保しようとしています」

 キキが松田の家に来る前に蛭崎警部に頼んだのは、この事だったのだ。

「自宅にいるなら、そろそろ連絡が来ると思うんですけど……」

 すると、キキの携帯に着信が入った。噂をすれば、と思ったら違っていた。電話の相手はもみじだった。

「もしもし。どうしたの、もっちゃん?」

「もっちゃんと言うな」定番のツッコミの後にもみじは続けた。「キキに言われた通り、福沢さんの後をつけて行ったら、とんでもないものに行きついたよ」

 ああ、その話もあったな。言われるまで忘れていたキキである。

「さそりが見つかった?」

「正解。それも、山の中で生き埋めにされていたのよ」

「生き埋め?」キキは驚いて大声を出した。「そ、それはさすがに酷い……」

「福沢さんが探り当てなかったら、どうなっていたか分からなかったよ。なんとか土から出したけど、意識ははっきりしているよ」

「よかった……」キキは胸をなで下ろした。

「まあ、念のために病院で見てもらった方がいいだろうから、救急車も呼んでおいた」

「うん、その方がいいね。でもよかった、さそりが無事で……」

「そうだね」もみじの口調からも、ほっとしている事が窺い知れた。

「それじゃあ、さそりが病院に運ばれた事を確認してから、福沢さんと一緒に星奴署に来て、わたし達と合流しよう」

「え、わたし達って、あんた一人じゃなかったの……」

「じゃあ警察署で会おうね」

「ちょっ」

 もみじの返事も聞くことなく、キキは通話を切った。さそりの無事が確認できれば満足だったのだ。美衣がキキに歩み寄る。

「さそりは無事だったか。とりあえず最悪の事態は免れたな」

「そうだね。あとは、犯人が捕まればいいんだけど……」

 すると、またキキの携帯の着メロが鳴り響いた。

「うわっ、びっくりした……あ、今度こそ蛭崎警部だ。もしもし?」キキは電話に出た。

「朗報だよ。つい今しがた、犯人を確保したそうだ」

「おぉー……どこにいましたか?」

「羽田空港だよ」

 それを聞いた瞬間、キキの表情がわずかに憂いを帯びた。

「大変だったそうだよ。自宅に行ったらもぬけの殻で、近所の人に訊いて羽田に向かった事を聞きつけて、すぐに管轄の警察署に連絡して、搭乗手続きが始まる寸前でようやく捕まえたそうだからね」

「そう、ですか……あの、犯人は羽田からどこへ行こうと?」

「鹿児島空港だったそうだよ」

「ふうん……ありがとうございます。犯人は今どちらに?」

「一度、東京空港署に連行した後、星奴署に移送する手筈になっている」

「わたしもすぐ星奴署に向かいます」

「おお、そうしてくれ」

「それと、先ほどさそりが助け出されたそうです。その事を、蛭崎警部から直接母親に伝えてくれませんか」

「ああ、分かった。そうか、無事だったか……では、失礼するよ」

 蛭崎警部の方から通話を切った。向こうも忙しい中、わざわざ知らせてきたのだろう。お世話になりっぱなしだとキキは感じた。

 こっちもじっとしてはいられない。全ての準備は整ったのだから。

「さあ、わたし達も星奴署に急ごう。松田さんも証言者として来てください」

「それはいいけど……一体何が起きているの?」

 松田は頭がついて行けていないようだ。何も知らない人からすれば、事態が急転しているようにしか思えないだろう。キキは違った。

「分かりませんか。犯人の企みが、全て潰えたという事ですよ」

 現状に満足していると言わんばかりに、キキは唇の端を上げて笑った。

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