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DEAD LINE~悪魔の刻限~  作者: 深井陽介
第二章 咎人のタイムリミット
39/47

その19 動き出す

 <19>


「ほ、本当に分かったのか? 犯人が誰なのか……」

 蛭崎警部は驚きが大きすぎて、動揺を隠せないようだった。その一方で、キキの余裕の表情は、一切崩れる気配を見せない。

「誰だ? 誰が犯人なんだ?」

 すでに畑違いの部署にいるとはいえ、一番の心残りだという事件に解決の可能性が見えた以上、蛭崎警部は放置しておけないのだろう。店の中にいるという事を忘れ、衆目を集めることも厭わずに声を上げていた。

「その前に、一つだけ確認させてください」すぐには答えないキキ。「篠原氏の遺体が発見された廃屋を、警察はどの程度調べましたか?」

「あの廃屋を……? そうだな、建物自体についてというなら、足跡と指紋を検出して、毛髪を拾って調べようとしたよ。でも、犯行後に入念に消されたおかげで、ほとんど何も残っていなかったよ」

「そうですか……では、もう一度徹底的に調べることをお勧めします」

「もう一度?」蛭崎警部は眉をひそめた。「だが、十四年も経った今、指紋や毛髪が残っているとは思えんが……それに、あの廃屋は先日の誘拐事件の犯人が使っていたから、殺人事件の犯人の痕跡と区別するのは難しいぞ」

「いいえ」キキはかぶりを振った。「調べるのは表面上の痕跡じゃありません。もっと奥の方まで……それこそ、床板を剥がすくらい徹底して調べてください」

 美衣は、ぴう、と小さな口笛を吹いた。警察官を相手にこれまたずいぶん胆の据わった提言をする奴だ、と思ったようだ。

「床板って……そこまでしないと見つけられないものがあると?」

「ええ、多分。どうせ最終的に行政の判断で取り壊される運命ですから、多少粗雑にやっても大丈夫だと思いますよ。あと、屋根裏も忘れずに」

「ええと、そういう問題ではないような気も……」

 ここに来て二人の会話が噛み合わなくなってきた。むしろ、キキを相手に今までまともな会話が成立していること自体が、ある種の奇跡といっても過言じゃない。もっとも、歯車の狂った会話に聞く価値があるかどうか……そう思いながら美衣は視線を外した。

 その時、美衣はキキの衣服のポケットに入っていた携帯の、着信を知らせるランプが点滅している事に気づいた。

「キキ、メール来ているぞ」

「え、本当?」キキは携帯を手に取った。「うわ、ホントだ。ずっとマナーモードにしていたから気づかなかったよ」

「ちょっとの振動でも気づかないくらい鈍臭いのか、お前は」

「純粋な女の子に向かってその言い方はないと思うよ……」

 それを聞いて美衣は、口元を押さえて失笑した。多分、純粋という単語が不自然すぎると感じたのだろう。キキはむっとしながらメールを開いた。

 メールはみかんからだった。そこには、予想外のことが書かれていた。

「大変だ……」

 キキは思いつめた表情で呟いた。美衣が横から携帯の画面を覗くと、両目を見開いて、そして眉根を寄せて頬筋を歪ませた。

 さそりが、誘拐されたのだ。

「どうしたのかね?」

 蛭崎の問いかけに答える間もなく、今度は電話がかかって来た。登録していない番号。

「もしもし?」キキは電話に出た。

「キキちゃん? 私、さそりの母だけど……」

「さそりのお母さん? どうなさったんですか?」

 訊き返したものの、何が起きたのか、大体の予想はできていた。

「それが、さっきうちに電話がかかってきて、さそりを……さそりを誘拐したって……」

 星子の声は震えていて、所々に涙声が混じっていた。聞いている側も胸が締めつけられる感覚を抱いていたが、キキはどうにか気を落ち着けた。

「さっき、友達のみかんからもメールで、同様の連絡を受けました。あの、落ち着いて質問に答えてください。その電話をかけてきた人は、他に何か言っていませんでしたか」

「他に……そう、さそりの友人に、これ以上の調査はさせないようにしろ、って言われたわ。明日までに、調査の中止が確認できたら、さそりがどこにいるか教えるって……」

 キキは瞬時に察した。さそりを誘拐した犯人は、キキたちが事件の核心に近づいていることに気づき、その動きを止めようとしているのだ。十四年前の事件の犯人は分かっていた。その人物が、調査の先導を担っている人をさそりだと勘違いした可能性は、十分に考えられた。

 犯人がどのようにして調査の中止を確認するのかは知らないが、明日までに確認できれば居場所を教えるという事は、さそりの無事を保証するタイムリミットは明日という事になる。明後日以降ではどうしても居場所を教えられない理由があるとすれば、それは教えても意味がなくなるからだろう。いずれにしろ、今日中に何とかした方が最悪の結果を招かずに済むのは確かだ。

「警察には連絡しましたか?」

 キキがそう言った時、蛭崎の顔つきが変わった。異常事態を察したらしい。

「警察にも連絡してはならないって言われて……でも、キキちゃんなら何とかできるかもしれないって思ったの。さそりが、名探偵張りの活躍をしていたって言っていたし……」

 (わら)にもすがる思いで中学生に助けを求めたわけだ。普段なら名探偵と呼ばれてあまりいい気はしないキキだが、この状況で跳ね返す事はできそうにない。

「分かりました。こちらに任せてください。警察の出動要請はこちらで上手くやりますので、さそりのお母さんから通報は絶対にしないで下さい。どこで犯人が見張っているか分かりませんから」

「わ、分かったわ……お願い、絶対に助けてね……」

 切実な響きを帯びる言葉が、胸にのしかかる。覚悟を決めるつもりで、キキは「はい」と答えた。重苦しい気分で通話を切る。

 こんな事ばかりだ。誰かに頼られることによって、引くに引けない状況に追い込まれても、こうして自分から重責を負ってしまう。毎回のように、事態を収拾できる保証など全くないうちに……。

「何かよくない事でも起きたのか?」と、蛭崎警部。

「篠原龍一の娘のさそりが誘拐されました。恐らく、十四年前の事件の犯人の仕業です」

「なんだと?」

「それで、どうするつもりだ?」美衣が真剣な面持ちで尋ねた。「目の前に警察官がいるが、どういう行動を起こすのが最善だと思う?」

「ちょっと待って」

 キキは携帯をじっと見つめたまま言った。考えている様子ではない。

「今日中にさそりを救い出す方法がある。上手くいくかどうかは分からないけど」

「どうやって?」

「さっきのメールは、多分事情を知っている全員に送られていると思う。みかんのお見舞いに行ったさそりの誘拐現場を、みかんが目撃して知らせたのなら、警察への通報と同時にそれくらいやるはずだから」

「つまり、もみじの所にもメールが来ていると?」

 キキは頷いた。「もっちゃんはこういう切迫した事態だと頭が働くから、このメールの内容から察して、さそりの通っている学校に向かうはず。だとすれば、そろそろこっちに連絡が来るかも……」

 言うが早いか、キキの予想通り、もみじの携帯から着信が入った。ワンコールでキキは電話に出た。

「もしもし? もっちゃん今どこ?」

「門間第一中学校。さそりの通っている所だよ」さすがにこの状況で呼び名を突っ込む事はしなかった。「みかんからのメールはもう読んだよね。恐らく犯人はここからさそりの後をつけて、病院の前で待ち伏せして拉致した……」

「追跡には車を使っただろうから、学校近くで怪しい車が停まっていなかったか聞き込みをすれば、犯人の尻尾を掴めるかもしれない、だよね」

「さすがキキ。これくらいはすぐに分かったね。あともっちゃんと呼ぶな」

 そのタイミングで来るか。生来のツッコミ体質だな、と美衣は思った。

「それで、現時点で分かったのは?」

「聞き込みの結果は芳しくないね……今、あさひが続行しているけど、怪しい車の目撃証言は確かにあったのよ。でも、白い車体という以外の特徴は曖昧なのよね」

「目立たない車を偶然に持っていたとは思えないし、多分レンタカーだね。そうだ、近くに福沢さんが来てない?」

「フリーライターの福沢さん? ホテルに籠るとか言ってなかったっけ……あっ」

 突然もみじの声が途切れた。どこかに身を隠したのか、ごそごそという音だけが聞こえてくる。どうやら予想通りのようだ、とキキは考えた。

「いたよ、福沢さん。さっき近くの店から出てきた」

「おい、何がどうなっている……」あさひの不満そうな声が聞こえた。

「ねえ、どうするの?」

 福沢がそこにいるのなら、もみじ達がやるべきことは一つだ。キキは告げた。

「とりあえず後を追って。その後はもっちゃん達に任せるよ。じゃあ」

「えっ、ちょっ」

 もみじの反応も聞くことなく、キキは通話を切った。

「おい、一体何が起きている? 福沢っていえば、確か……」

「事は一刻を争います」キキは蛭崎警部のセリフを遮った。「犯人がここまでの暴挙に出たという事は、警察の手を逃れて遠出する可能性もあります。犯人を足留めし、そして確実に逃がさないようにするには、わたし達も今から動かないといけません」

「高飛びされる前に捕まえる必要があるわけか……だが、君が睨んでいる人物が犯人である事は間違いないのだろう?」

「状況を考えればそうですが、まだ分からない事も多いんです。こればかりは、なんとかして犯人から直接聞き出すしかありません。そのためにも、逃げられる前に警察の方で捕まえなければならないんです。協力してくれますか」

 蛭崎警部はしっかりと頷いた。

「もちろんだ。ここまで来たら、手を貸さないわけにはいかないだろう。それで、どうすればいい?」

「まず、わたし達をある場所に連れて行ってほしいんです。そこにまだ、目的の人がいるといいのですけど……」

 事態は急激に動き出そうとしていた。今こそ、思い切り知恵を絞って、犯人よりも優位に立たなければならない。一点の曇りもない解決に近づけるために……キキは決意と覚悟を固めていた。


 同じ頃、わたしとあさひは、福沢が運転して来ていた車の中にいた。ただし、シートに腰かけているわけではない。トランクの中に隠れているのだ。想像以上に狭くて、中学生の体でも二人入るだけでかなり窮屈だ。

 先ほどまで福沢は運転席に納まって、地図と思しき一枚の紙を広げて眺めていた。ここからどこに行くか決めようとしていたようだ。そして、再び車から離れた隙を見計らってトランクに忍び込んだのだ。キキの指令通りに福沢を尾行しようと思ったら、こうするしかなかったのだ。あさひは当然の如く気が進まなかったようだが……。

「忍び込むにしても、もうちょっと別の方法はなかったのか」あさひは小声で苦言を呈した。「ここ学校の前だぞ。絶対誰かに見られているって」

「まあ、その時はその時で、という事にしようじゃないの。誰かが見ていたとしても、福沢さんに告げ口する人が出てくるとは思えないし」

「そりゃあ、学校の前に長時間路駐している人に気安く話しかける人もそうそういないだろうけど……」

 あさひが心配する理由も分かる。わたし達はすでに、この周辺で怪しい車が来ていなかったか尋ね回っていたから、その人達には顔も姿も知られている。その上でわたし達がトランクに入る所を目撃したらどうだ。見ようによっては、わたし達の方が何かよからぬ事を考えているようにも取れる。制服を着た中学生なら、さすがに通報はしないだろうが、変な噂が立つ可能性は考えた方がいいだろう。

 もっとも、あさひは他人の目を気にする性格ではない。どんな性格かと問われればわたしも答えに困るのだけど。あさひとしては、むしろ自分と付き合いのある人に迷惑がかかる事を危惧しているのかもしれない。

 そうこうしていると、福沢が車に戻ってきてエンジンをかけた。もう会話は控えた方がいいだろう。トランクスルーではないけれど、あまり声を出し過ぎると運転席にまで届く可能性はある。エンジン音や走行時の騒音があるから、ごく小さな声なら大丈夫かもしれないが。

「はあ……」あさひはため息をつく。「こうなったら最後まで付き合うか」

「そうそう、乗りかかった船というやつですよ」

「船ね……板子(いたご)一枚下は地獄だよ。危ない橋も渡るものだ。それより、キキはどういうつもりでこんな指示を出したんだと思う?」

 もうこの状況に適応したらしい。これもあさひの特徴だ。

「福沢さんの後をつければ、さそりの居場所が分かるとでも思ったのかな」

「その考え自体がすでに意味深でしょ。トランクに入る前に、わたし、ちらっと後部座席を見たんだけどね……大型のスコップがあった」

 スコップだって? ここに来て予想だにしないワードが出てきたな。他の何をスコップと見紛うわけもなく、間違いなくそれはスコップなのだろう。

「キキには何か予感があったのかもしれない。福沢さんが、さそりの拉致誘拐に関わっているという予感が……」

 おいおい。わたしは冷や汗が滴るのを感じていた。その通りだとすると、わたし達はいま非常に危険な状況下にあるのではないか? ナンバーを見てみたらこの車はレンタカーのようだし、変な所に連れて行かれないといいのだが……。

 二十分ほども走っただろうか。車は減速しながらアスファルトの道路を外れた。砂利道ではない。振動も、ガリガリと砂利の擦れる音もしない。多分、土壌が剥き出しになっている土地だろう。

 やがて車は完全に止まり、エンジンも切られた。

 ドアの開閉音。これは福沢が運転席から降りる音だ。

 より近い所で再びドアの開閉音。後部座席のスコップが取り出されたようだ。

 そして足音は遠ざかっていく。わたし達の存在には気づいていないらしい。足音が聞こえなくなったところでわたし達はトランクから出た。ロックをされなかったのは幸いだ。

「福沢さん、車のロックをかけなかったね……」

「キーさえ持っていれば盗まれる心配もないし、レンタカーだからそこまで慎重にならなかったのかも。わたし達にはラッキーだったね」

「それより、ここってどこだろう」

 すでに辺りは暗くなっていて、近くに森と田んぼが見えるだけで、民家は一件も見当たらない。二十分ほどしか経っていないから、それほど遠くではないだろうけど。

「ちょっと待って」あさひは携帯を取り出した。「地図アプリで現在地を調べる」

「本当に今の携帯端末って万能ツールに変貌したよね……」

「美衣は完全に無縁だけどね。……出た。星奴町だよ。どうやら、土波川流域に程近い所みたいね。歩いても普通に家に帰れる場所だわ」

 意外にも近場だったか……来たことのない場所だけど。

「さて、どうする?」

 言わずもがな、というかあさひだってわたしがどう答えるか分かっているだろうに。

「もちろん福沢さんの後を追うよ。この辺って土が湿っているし、足跡はしっかり残っている。今からなら追いつけるよ」

「そうね。んじゃ、携帯のライトで……」

 あさひが地面を照らすと、奇妙な光景が目に飛び込んできた。

「これ……二人分の足跡があるよ」

「本当だ。福沢さんの他に誰かが乗っていた様子はなかったし、先に誰かここに来ていたのかな」

 福沢はこの足跡を辿っているのだろうか。一体この先に何があるのか、わたし達も同様に辿って確かめることにした。

 森の中に入ると、もう足跡は分からなくなった。ここから先は道なき道を歩いていくことになるだろう。せめて福沢が今どこにいるか確かめたい。

「あさひ、ちょっと携帯のライトを切って」

「え? ああ……」

 あさひは言われた通りに携帯の明かりを消した。宵闇が包み込む。

 わたしは、うっそうと茂る森の中でじっと目を凝らした。福沢もここに入るなら、懐中電灯やそれに類する物は持って来ているはずだ。その光が見つかれば……。

「あった、向こうよ」

 わたしは微かに見えた光を指差して、先に進む。

「カミオカンデにも匹敵する感度だな、もみじの目は」

 よく分からない事を呟きながら、あさひもわたしの後についてくる。

 なるべく草に触れないように、慎重に福沢に接近していく。徐々にその姿がはっきりと見えてきた。福沢はスコップを手に持ったまま、ほぼ迷いなく歩いている。どこに向かおうとしているのか……。

 突然福沢は立ち止まった。辺りをきょろきょろと見回した後、ある場所で一度しゃがみ込んで再度立ち上がり、持って来ていたスコップを地面に突き刺した。もっとも、スコップはかなり水平に近い角度で構えていて、それほど深く刺さってはいない。

 その後も福沢は慎重に地面の土を掘り返した。当てがある、わたしはそう察した。この土の下にあるものの見当がついているから、福沢は慎重に掘っているのだ。樹木の陰に隠れながら、わたしはその様子を注視していた。

 やがて福沢はスコップを地面に置き、今度は手で土を取り払い始めた。目的のものが現れたようだ。わたしはあさひとアイコンタクトを交わすと、土の下から出たものが見える位置へ慎重に移動した。

 福沢が地面に置いた懐中電灯の光に照らされて、それはわたし達の目に映った。

「「あっ……!」」

 思わず声を上げた。福沢はたったいま気づいたようで、驚いた様子で振り向く。

「君たち……!」

 福沢には見つかってしまったけれど、彼への対処を考える余裕はなかった。土の下から出た“それ”の存在に、しばらく驚愕を抑えられそうにない。

 ただ一つだけ確かめられた事がある。キキの予感は当たっていたのだ。


 一方、キキと美衣は蛭崎警部の車で、ある場所に送ってもらっていた。

 その場所に到着した時、すでに時刻は六時を回っていたが、蛭崎警部は何一つ咎めようとしなかった。はっきりとした目的があってのことだと理解しているようだ。

「それじゃあ蛭崎警部。頼んでおいたこと、お願いしますね」

「分かった。君たちも十分に気をつけなさい」

 そんな会話を交わし、キキと美衣を降ろして、蛭崎警部は車を発進させ、そのまま遠ざかっていった。急にしんと静まり返る。

 二人は、玄関灯以外に明かりの見えない民家を前に、気持ちの整理をつけていた。

「……行くのか」

「ここまで来たら、引き返す手はないよ。行こう」

 キキが先に敷地内へ足を踏み入れ、その後に美衣が続く。キキが呼び鈴を鳴らすと、一分という長い時間をかけて家主が玄関に現れた。

「あれ、なんでここに……」

「夜分に失礼します」キキは軽く頭を下げた。「実は、どうしてもあなたにお話しないといけない事があります。十四年前の事件のことで」

 相手の、息をのむ声が聞こえた気がした。

「断られても構いませんが、できるなら、座って話をしたいのですけど」

 物腰は柔らかいが、キキの言い方には遠慮がないばかりか、よほどの事がないと断れない雰囲気を纏っていた。相手は明らかに躊躇していたが……。

「……どうぞ」

 警戒心を見せつつも家主は迎え入れてくれた。キキはにっこりと微笑み、「お邪魔します」と言いながら玄関ドアをくぐった。美衣は軽く頭を下げながら、無言で家の中に入っていく。まるで、ただの付き添いという立場を保っているようだ。

 廊下の真ん中に来たところで、キキは鼻をひくひくと動かす。

「なんかいい匂い……エスニックな感じ」

「サフランだろう? 魚介の匂いもするし、パエリアじゃないか」

「パエリアって、スペインの炊き込みご飯だよね。そろそろ夕飯どきだし、お腹もちょうどいい具合に減ってきたなぁ。パエリア頂いてもいいですか?」

 キキが家主に尋ねると、かなり遠慮がちに頷いた。事件の事で話があると言ってやって来たのに、夕飯をねだってくるとは思わなかったのだろう。いつだってキキの言動は予測不能である。

 わーい、と言いながら台所へと駆けていくキキ。その後ろ姿を、美衣は冷めた気分で見ていた。意地汚すぎるだろ、と呟いた。

 テーブルの中央に置かれた鍋から、キキはパエリアを皿に移し、スプーンですくって口に運んだ。途端、頬を紅潮させて手で押さえた。

「うーん、美味」満足そうに言った。「やっぱり他人の家で食べるご飯はおいしい」

「他意はないんだろうけど……」呆れる美衣。「赤の他人が聞いたら含みを持たせているようにしか聞こえないから」

「いやあ、初めて食べたけどわたしの舌に十分合いますね」

 美衣の耳に痛い忠言は無視するキキ。

「普段からこういう料理も作るんですか?」

「それほど作るわけでもないけど……」家主はキキの真向かいに座って答えた。

「ふうん……今日に限って作ったのは、単なる気まぐれじゃないですよね」

 キキはパエリアを口に放り込みながら言った。家主はじっとキキを見つめる。

「終わらせようとしているんじゃありませんか? 平穏に過ごせる最後の日だと思って、特別な何かを作ろうとしている、そんな感じ」

「何を言って……」

「わたしは」キキは相手のセリフを遮った。「自分の考えを確かめるためにここへ来たんです。何もかも終わらせるつもりなんてありませんよ。友達のために……わたしは、必要な事実を全て明らかにします」

「…………」

「あなたもまた、真実のひと欠片なんですから……多分、わたしの話を聞かなければ、一生分の後悔を背負う事になりますよ。……松田さん」

 松田美樹の自宅、その台所。キキは話し始めた。

 それは、全ての終焉へと確実に近づいた、その証でもあった。

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