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DEAD LINE~悪魔の刻限~  作者: 深井陽介
第二章 咎人のタイムリミット
38/47

その18 到達

 <18>


 警備員の阿久津と、当時の下請け業者の木場から聞いた話を、わたしなりにまとめてキキにメールで知らせた後、わたしとあさひはタクシーで『ホーム・セミコンダクター』に戻る事にした。村井は受付を担当する時刻が迫っているのだ。

 キキからの返信はまだない。後部座席で、わたしは携帯の画面を睨み続けている。

「もみじ、睨みつければ返信が来るわけでもないだろう」隣のあさひが言う。

「分かってるよ」

 気が立っている最中に、言われるまでもない事を指摘しないでくれないかな。

「どうせ、新しい情報が得られた事に満足して、考えに夢中になっているだけよ。そのくらいはもみじだって分かるでしょ?」

「まあね……」

「むしろ、どうでもいい情報なら何か無難な返事をしてくるはずだから、これは調査が無駄にならなかったと考えるべきじゃない? 逆にいい兆候だと思うよ」

 うぅむ……便りがないのがいい便り、とは違うけれど、それでも何一つコメントを返さないのはどうも気に入らない。とはいえ、今日キキが調査に赴くのは、朝沼のマンションとバー『和倉』、そして蛭崎警部との待ち合わせ場所……移動だけでも相当な時間を費やしているだろう。忙しくて返事をする余裕がないのは理解できる。

 でもなあ。多少のわがままが頭に浮かぶくらい、わたしはキキに置いていかれるのが嫌なのだろう。情けない話ではあるけれど。

「ねえ……」助手席の村井がこっちを向いた。「キキちゃんって何者なの? まだ中学生なのに、あんなにすごい推理ができるなんて……」

「ただの天然です」わたしは即答した。

「おいおい、一番の親友が言ってくれるねぇ」

 これは純然たる事実だ。それ以上でもそれ以下でもない。村井は納得しないだろうが。

「えー? 確かに天然っぽい言動がないわけじゃないけど、ほら、あの子、何でもお見通しですよ、って感じの目をしているじゃない?」

 そう思うなら、村井よ、あなたの目は間違いなく節穴だ。

「あれは、何でも見通しているという目ではなく、わたしの前では下手に誤魔化さずに素直に話してください、という目ですよ。それが、後ろ暗い事がある人から見れば、腹の底を見透かされているように思えるだけで」

 実際、キキは純粋に本当の事を知りたいだけで他意はないから、千の言葉で言いくるめようとしても空振りに終わることが多いのだ。おかげで誰もが、正直に話した方が厄介なことにならずに済むと考え、最終的に折れてしまう。もっとも、キキがそんな手を使ってくるのは、自分が相手を言いくるめられないと判断した時だけだが。

 これを聞くだけだと戦術家のように錯覚しがちだが、実のところ、彼女は自然体で交友範囲を広げるのが日常なので、普段から当たり前に使っている向きが強い。友人を増やす事にも同じく他意はなく、仲良くなりたいから仲良くする、それだけの事だ。

 そう、キキは何をするにしても純粋で単純な理由しか持たない。それゆえ、普通の人はキキの事を気に入って信頼し、後ろ暗い事がある人はキキを油断ならない存在と見なす。結果として並外れた知能を持っているように見えるだけで、中身はそれほど深い考えを持っていない、悪く言えばただの天然なのだ。

 まあ、たとえそれに起因するとしても、あの天性の閃きと時折見せる度胸は、わたしから見ても飛び抜けているとしか思えないが。深い考えは持たないが、この閃きによって瞬時に物事の深層に到達するのである。まさに大賢は大愚に似たり、である。

「キキちゃんって、学校の成績はいい方なの?」

 村井はまだキキの事を、ただの中学生だと思っていないようだ。

「同じ事をこれまでに何度も聞かれた気がしますけど……キキの場合、普通です。ずば抜けて得意な教科もありません。体育は壊滅的に駄目ですが」

「あ、そうなの……」

 友人の成績を壊滅的と評した事には、さすがの村井も苦笑するしかないようだ。

「さっきからキキちゃんの事を悪く言ってるように聞こえるけど、キキちゃんの事を信頼しているからこそ、調べた事を知らせているんじゃないの?」

「そうですよ」

「お友達の事をそこまで信頼しているなら、少しは褒めるくらいの事を……」

「甘やかすと調子に乗って“もっちゃん”を連呼するので」

 村井は口元を結んで黙り込んだ。半ば呆れているのは確実だろう。

 わたしもキキの事は一番の親友だと思っているし、キキが一緒にいたいと願うなら何を差し置いてもその通りにする。だけど、わたしがキキに何を望むかといえば、不即不離の関係を保つこと、これ以外にない。地理的にも精神的にも離れるのは嫌だが、だからといって必要以上に距離を縮めたくもない。それゆえ、必要以上に褒めない。

 ある意味では薄情と捉えられても致し方あるまい。どういう根拠でそんな事を考えるようになったのか、実をいうとわたし自身もよく分かっていなかった。きっと単純な理由なのだろうけど。

 このままの関係でいたい。このままの関係で過ごす時間が愛おしい。現状維持にこだわる理由はそれ以外にないのだろう。……恐らくは。

 そんな事を考えていると、手元の携帯にメールの着信が入った。やれやれ、やっとキキからの返信が来たのか、と思いきや、送信元はみかんの携帯だった。

 入院中のみかんが何の用だろう。届いたメールを開こうとしたら、あさひも自分の携帯にみかんからメールが来たと言ってきた。

「何だろうな、続けざまにみかんからメールとは」

 もしかしたらキキの元にも来ているのだろうか。そんな事を考えながらメールを開いてみたら、とんでもないことが綴られていた。

『緊急事態! 大変です。わたしの元にお見舞いに来ていたさそりちゃんが、病院を出ようとした所で、何者かに拉致されたのです。

 家政婦さんが警察に連絡していますが、念のためにみんなにも知らせておきます。

 病院の表門の所に、白いワンボックスカーが突然現れて、運転席にいた人がさそりちゃんを気絶させて、車に乗せて逃げたのです。顔は分かりません。

 お願いです。さそりちゃんを助けてください』

「なんて事だ……さそりまでさらわれたっていうのか」

 この様子からすると、あさひの元に届いたメールも同じ文面だったようだ。

「でも、どうしてさそりが……」

「もしかしたら、犯人がわたし達の動きを封じるために、さそりを人質に取ろうとしたのかもしれない。考えてみれば、一昨日の調査ではさそりが会社見学の名目で潜入した事になっているから、先導しているのがさそりだと犯人が考えても不思議じゃない」

「そんな……」

 犯人がここまでするということは、予想以上にわたし達が真相に接近していて、子供相手でも油断できないと考えたのだろうか。では、もしわたし達がこの事態を知ってもなお調査をやめなければ……さそりはどうなる?

 背筋に悪寒を覚える。みかんに続いてさそりまでもが、得体のしれない魔の手に捕らわれようとしている。断じて無視できるものではない。

 わたしはメールの内容をもう一度じっと読んだ。そして、さそりを助け出すために現時点で思いつける最短ルートを導いた。

「くそっ、とりあえず星奴中央病院に行って状況を……」

「すみません!」あさひより先に、わたしは運転手に大声で告げた。「行き先を門間第一中学校に変更してください!」

「はっ?」あさひは瞠目して言った。

「どうしたの? 私、受付に戻らないといけないんだけど……」

 村井はこの状況をまるで理解できていないようだ。説明している余裕はない。この辺りで進路を変えなければ時間をロスしてしまう。

「お願いします! 急ぎ進路を変更してください!」

「あ、はい……」

 運転手も状況をよく分かっていないようだが、それでも頼みを聞いてくれた。

「もみじ、どうして学校に? 拉致された場所は病院だぞ?」

 あさひは普段恐ろしいほど冷静なのに、切迫した状況に陥ると思考が鈍るようだ。わたしはシートに深く腰掛けて、あさひに顔を向けた。

「メールの内容を信じるなら、犯人はさそりが病院を出るタイミングを見計らって、表門の前に出てきた事になる。でも、さそりがみかんのお見舞いに行くとあらかじめ知っていたのはわたし達だけ。他の人は事前に知る事ができない。だとすれば、さそりが学校を出た辺りから、ずっとさそりの後をつけていたと考えるのが自然でしょ?」

「そうだけど……それで学校に行っても、もう犯人はいないわけだし……」

 予想外の出来事に、あさひも思考が追いつかないらしい。

「距離を考えても、さそりは移動にバスを使うはず。でも犯人はそれを予測できない。それにもかかわらずちゃんと病院で待ち伏せできたのなら、バスの追跡も上手くできていたということになる。追跡手段は車かバイクと考えられる。門間第一中学校の駐車場は裏門の方にあるし、中学校にバイクで通っている人はいない。つまり、さそりが学校を出る所をどこかでずっと見張っていたのなら、近くにいる人達の記憶に残っているかもしれないでしょ?」

「ああ、なるほど……犯人の手掛かりが掴めれば、さそりの居場所にも見当が付けられるということか」

 そういうことだ。全く、肝心な時にあさひが鈍くなるものだから、わたしが代わりに考える羽目になったじゃないか。そのあさひはわたしをじっと見て言った。

「もみじって、頭に血が昇ると信じられないくらい頭の回転が速くなるな」

「……闘争本能に起因しているのかもしれないね」

 病院周辺の聞き込みは警察がやってくれる。ならばわたし達は先回りして、犯人に繋がる手掛かりを探そう。見つかるかどうかは分からないけれど……さそりの救出のため、じっとしているわけにはいかない。


 同じ頃、キキと美衣は連れ立って、とあるレストランへ来ていた。カフェのような瀟洒(しょうしゃ)な雰囲気の店だが、食事をメインとしているため分類上はレストランとなる。

 ドアベルを鳴らしながら店内に入ると、キキはきょろきょろと辺りを見回した。ここを待ち合わせ場所に指定した蛭崎警部を探しているが、そもそも一度も会った事がなく名前しか知らない人を、目だけで見つけられるものか、と美衣は思っていた。すでに面倒事の連続で疲れていたため、言わなかったが。

 店員が近づいて人数を確認してきたが、キキは人と待ち合わせていると答えた。その声が合図になったかのように、窓際の席の一つを陣取っていたスーツ姿の中年男性が、手を挙げながら声をかけてきた。

「キキちゃんかい? こっちだよ」

 それを聞いてキキは満足そうに微笑み、駆け足でテーブルに近づいていく。一方で美衣は、処置なしと言わんばかりに無表情のまま、歩いてキキの後を追った。

「蛭崎警部ですね?」

「ああ。高村先輩から話は聞いていたが、本当にこうして見ると普通の可愛らしい女の子にしか見えないな」

「わたしも自分の事は普通の可愛らしい女の子だと思っていますけど……高村警部という人はわたしをどんなふうに見ているんですか」

 若干不満そうにキキは言うが、美衣からも物申したい事はあった。

「普通というのはともかく、自分で自分の事を可愛らしいとか言うのか」

「こちらの子は?」蛭崎警部は美衣に手を差し向けた。

「美衣って言って、調査に付き合ってもらっているわたしの友達です」

 その美衣は半眼でじっと蛭崎警部を見ていた。

「失礼ですが、警察手帳の提示を要求します」

「美衣……」キキは呆れたように言った。

「いや、構わんよ。そちらのお嬢さんの考えている事は分かっている。偽者が警察に成りすまして情報を盗もうとしている可能性は、今のご時世、常に気にかけた方がいい」

 蛭崎警部は警察手帳を胸ポケットから取り出し、縦に開いて顔写真と氏名と階級がある部分を見せて告げた。

「警視庁刑事部捜査第一課、第六強行犯捜査、強盗犯捜査三係の蛭崎兼彦(かねひこ)警部です。以後お見知りおきを」

「どうやら本物の警察官のようですね。安心しました」

 美衣は嘲笑にも似た笑みを浮かべながら、蛭崎警部の向かいの席に座った。

 後でキキも美衣から聞いた事だが、警察手帳の更新は昇級以外の場面ではほとんど行われないため、記載されている階級になった時の写真をずっと使っているらしい。そのため同じ階級に長く留まっていると、警察手帳の写真は一見して分かるほど色褪せるという。この手帳の写真も同様であり、ノンキャリアで警部となった高村警部の年齢と二歳しか違わない蛭崎が警部なら、同じくノンキャリアなので警部としての期間は長いと思われ、写真が褪せている事はおかしくない。革の色も現実の警察手帳と同じく濃い茶色なので、美衣は本物と判断したという。

「なんかすみません……」キキは恐縮しながら美衣の隣に座った。

「構わないさ。むしろ、この歳でしっかりしていると感心したくらいだよ」

「お言葉ですが」なおも美衣は反駁の手を休めない。「わたしは日常生活で到底役に立たない雑学でもって、無駄なくらい慎重に事を運ぼうとしたまでです。本質的に堅実な性格だとは思っていませんし、感心される謂れなどありません」

「すみません、面倒くさい性格で」

 キキもフォローに回るつもりはなさそうだった。大人びているというより、ひねくれていると言った方がふさわしい。扱いをよく心得ている友人でなければ、全くもって勝手の分からない存在である。

「はあ……」蛭崎も返答に窮していたが、すぐに気を取り直した。「しかし、まさか中学生が事件捜査に関わる事になろうとは……まあ、かく言う私も、刑事になる事を志したのは中学生の時だったから、驚きはしても、それほど不思議には思わなかったね」

「そんなに早く刑事になりたいと思われたなら、警察にかなり長くいたのでは?」

「そうだねぇ……かれこれ二十年以上やっているかな。おかげで、警察という組織の光と闇を、よく理解できるようになったよ。なんて、あまり自慢にならないがね」

「いわゆるノンキャリアと呼ばれる警察官の中で」美衣は呟くように言う。「警部にまで昇進できる人は一握りだと言われています。キャリア警察官が警部補から始まり、自動的に警部、警視と昇進をする一方で、ノンキャリアが受ける昇進試験は相当に難関だと聞いた事があります。少なくとも警察官としては、非常に優秀なのだと評価できます」

「きみ、詳しいね……」

「今どきはドラマでもしっかり再現されている事実ですよ」

「そんな優秀な警部さんにとっても、十四年前の篠原さんの事件は心残りですか」

 キキがそう問うた時、蛭崎警部は微かに見せていた笑みを消した。

「……そうだな。一番の心残りだ」

「長く警察官を務めているあなたからすれば、わたし達はあまりに心許ないかもしれません。でも、真実を突き止めたい気持ちは、わたし達も同じくらいあると思っています。だから、教えてください」

 真っすぐに曇りのない目で見つめてくるキキを、蛭崎はじっと見返した。やがてふっと息を吐き、蛭崎は腹をくくろうと判断した。

「信じないわけにはいかないな……。まず、君たちは何を知りたい? 君たちもそれなりに色々調べたとは思うが……」

「当時の捜査担当者からこそ知る、調書や報告書に書かなかった事実です」

「なるほどね。君たちから見て、警察の報告書には不足というか欠陥があったわけか」

「わたし達は直に捜査資料を見たわけじゃありません。大体は、星奴署の刑事さんから伝え聞いただけです。要するに結果だけで、捜査の過程は何一つ聞いていないのです」

「ふむ……では、君たちの知りたい捜査の過程とは?」

「いくつかありますので、順番に」

 キキは人差し指を立てた。

「まずは一つ目。警察は朝沼数美さんの事をどう考えていたのか、です」

「朝沼……というと、事件の前に被害者の篠原龍一が呼び寄せていた、週刊文明の女性記者だな」

 心残りと言っていただけあって、蛭崎ははっきりと覚えていた。

「そうだな……それ以上の認識はなかったな。もちろん身元も調べて、話も聞いてはみたけれど、被害者の足取りや周辺の様子を知るためという以上の目的はなかったよ」

「容疑者の一人には数えなかったのですか?」

「そういう捜査員もいなかったわけじゃないが……私も、聞き込みに行った捜査員から、動揺するなどのおかしな素振りを見せていたと報告を受けていたから、何かありそうだとは思っていたよ。しかし、彼女と被害者の間に確執のようなものがあったという証言はどこからも出なかったし、そもそも事件当日に接触した痕跡が見当たらなかったから、怪しむ余地はないという判断が捜査本部で下ったんだ」

「その、篠原氏と接触した痕跡がなかったというのは確かなんですか?」

「何とも言えないね。事件の前日は泊りがけで別の仕事をしていたそうだけど、あの会社への取材と同様、編集部に具体的な取材内容は告げていなかったそうだし……。受付や裏口を通ったという証言はどこからも出なかったし、社員の誰も、朝沼の姿は社内で目撃していないと言っていたのは確かだが……」

「接触した痕跡はないけれど、来ていなかったと断定するにも疑問の余地が残る、といったところですか」

「まさにその通り。どれほど調べても決定打は出なかった。けれど今考えれば、彼女を容疑者から外したまま捜査を続けたのは失敗だったよ。その後に、これほど見事に捜査が停滞してしまうと分かっていれば、なおさらね」

 それは心残りになるだろう、とキキも美衣も考えていた。何か一つの失敗でその後の動きが滞ってしまったと思えば、その失敗に全ての原因を集約したくもなる。そうして行き場のない後悔が生じて、何年も苦しめることになる。

「では、二つ目です」キキは中指も立てた。「篠原氏の、携帯の履歴は調べましたか」

 それは一昨日に、里村から話を聞いた時から気になっていた事だ。里村の証言では、篠原氏は事件の日、携帯に向かって怒号を散らしていたという。警察がその携帯の履歴を調べていれば、その時の電話の相手に疑いをかけるのが自然だろうが……。

「ああ、もちろん調べたよ。だけど、事件当日の履歴は全て不在着信だったよ。携帯をどこかに忘れていたという話は聞かなかったし、これだけでも、当時の被害者に何か異常があったと察せられるよ。まあ、デスクの電話には普通に出ていたみたいだが」

「全て不在着信……」キキは顎に手を当てて考える。「篠原氏からの発信履歴は?」

「事件当日に限れば一本もなかったよ」

「携帯の履歴って、表面上は消去できてもデータは残っているんですよね」

「もちろん、警察が履歴を調べる時は、非通知着信などもあるから、電話会社に直接頼んで全てのデータを入手するんだ。でも、消去された履歴は一つもなかったよ」

「となると……」

 キキは美衣に視線を向ける。美衣も目を合わせて頷いた。

 里村が目撃した時、篠原氏が使っていた携帯は、発見された遺体から見つかった携帯とは別物の可能性が高い。そして、遺体から見つかった携帯に使用された痕跡がなかったという事は、その携帯を遺体発見時まで持っていなかったと考えられる。

 これが何を意味するのか……二人とも予想はついていた。でもここは話を進めるのが先決だと判断した。

「では次に……」キキはもう指で順番を示さなかった。「同時に起きていた横領事件の捜査はどうなっていましたか」

「ああ、あれか……早い段階で捜査二課に任せていたから、詳しい事は分からんな」

「ですよね……殺人事件には関係なさそうだって判断されていたそうですし」

「最初は関わっているかもしれないと考えていたよ。有力な容疑者が浮上した段階で、横領事件との関連性は低いと判断されたわけだが……これも今思えば、早々に関連を否定したのは間違いだったな」

 当時の捜査担当者までもが、横領事件との関係を否定しきれなかったというのか。キキにとっても気になる話であった。

「どういう事ですか?」

「被害者の篠原龍一は、自分で調査して得た情報をチームに知らせていなかったんだ」

「えっ……」

 それは初耳だった。思わずキキと美衣は互いを見た。

「加えて被害者は、自分から志願して内部調査チームに入ったという。二課も結論が出せていない状況で私が言うのはどうかと思うが、恐らく被害者は、身内に横領犯がいると睨んでいたのだろう。だから自分の手で横領の事実を突き止め、自供、あるいは着服金の返還を勧めようとしたのかもしれない」

「だとすると、殺人事件の容疑者である三人にも横領の疑いがあり、かつそれが殺人の動機になった可能性も捨てきれない、という事ですか……」

「話が早くて助かるよ。もっとも、今となっては立証も難しいがね……」

 立証どころか、逮捕する事さえ不可能だろう。横領事件についてはすでに時効が成立してしまっている。

「ふうん……篠原氏についても謎めいた行動が多いですが、篠原氏自身の事についてはどこまで判明しましたか? 家族や同僚でも知らないような事でも……」

「なるほど、君たちは被害者の家族や同僚にもアプローチを試みていたわけか」

 キキは少し表情を歪めた。先ほどから、言葉尻を捉えられているように思えるのだ。

「まあ、家族や同僚でも知らない所に事件の鍵がある、という可能性もあるからな、それなりに調べてはみたよ。結局、有力な手掛かりは出てこなかったけど」

「事件に関係あるかないかは、とりあえず横に置いておくとして……」

「そうか。とはいえ、直接関係していなければ記憶にも残らないものだが……そうだ、被害者の少年時代の事は聞いているかい?」

「ええ」キキは肯定した。「左利きである事を理由に差別を受け続け、中学生の時に学校をやめてしまい、その後は大検を使って大学に入ったそうで」

「そのくらいの事は、被害者の履歴書を調べれば警察も分かりますよね」と、美衣。

「まあね」蛭崎は腕組みをして椅子に寄り掛かる。「私は、そうした事情を知っても不思議には思わなかったよ。私も学生時代に、同様の光景を見た事があるからな。そして篠原氏はその経験から、事件の半年前からあるNPOに参加していたんだ」

「NPO……?」キキは真顔で尋ねた。

「Non-Profit Organization、政府とかが対処できない社会的問題を、営利目的抜きにして取り扱っている民間の団体のことよ」美衣が面倒くさそうに言う。「今どき小学校の教科書にも載っている」

「あ、補足説明どうもありがとう」

「というか、二日前に聞いたばかりのワードだろうが」

「もしかして、どういう内容のNPOか尋ねたんじゃなく、そもそもNPOがどういうものなのか尋ねたかったのかい……?」

 蛭崎警部は高村警部から何を聞いていたのか、少なくともキキはNPOくらい知っていると思っていたらしい。若干戸惑っているようだったが、瞬時に察した美衣が解説をしてくれたおかげで、その後の話で苦労する事はなくなったと見て、蛭崎は咳払いの後に説明を続行した。

「えっと……そのNPOは、様々な事情で学校に通えなくなった子供たちを、資金面や学業の面で支援する組織なんだ。被害者の篠原龍一自身も、差別的な偏見によって学校生活のリタイアを余儀なくされた過去を持つから、他人事のように思えなかったのだろう」

「それは何となく、分かる気がします……」

「一般市民による支援活動が一定の効果をもたらすと分かったのは、1995年の阪神・淡路大震災がきっかけといわれているから、それ以前は、憲法によって結社の自由が保障されているとはいえ、政府を差し置いて社会問題に対処する非営利の組織を作るなんて、誰も積極的にはやりたがらない。篠原龍一は、そうした団体の必要性を身に染みて理解できていたはずだ。……とはいえ、どこまでの覚悟でもって臨んでいたかは分からないが」

「NPOに参加するとなれば、当然ですがポケットマネーから資金を出す事もしていたはずでしょう」と、美衣。「それなりの覚悟はあったのでは?」

「資金を出してたのは確かだ。だがそれは、被害者の口座を確認するまで我々も知ることはできなかった。……誰からも、篠原氏がそんな団体の活動に参加していたとは聞いていなかったからな」

 そういえば、とキキは考えた。蛭崎警部は、家族も同僚も知らない篠原龍一に関する事として、この話を取り上げたはずだ。

「自宅の机の中に、そのNPOのパンフレットが入っていたから、積極的に活動に参加していた事は間違いない。だがこの事は、同僚はおろか奥さんも知らなかった。私がそのパンフレットを見つけるまでは……」

「じゃあ、詳しい事情は星子さんも知らなかったんだ」

「星子さんというのは、被害者の奥さんの名前だね。まあ、篠原氏の少年時代の事を知っている人は、あの事件が発生した時点でも誰ひとりいなかったし、奥さんも、篠原氏が学校での教育が重要になるという考えを幾度となく聞いていたらしいが、その意味するところについては深入りをしなかったそうだからね」

 確かに、星子は夫である龍一の過去については、よほど探られたくない辛い事情があるのだと考えたために、必要以上の詮索を避けていたようだ。キキたちが質問した時も、アルバムを見せるだけでそれ以外の事は何もしなかった。

 だがそれは、本当にただ知らなかっただけなのだろうか。NPOの事だって、キキたちの調査に協力するつもりなら話しておくのが自然ではないだろうか。忘れていたのか、それとも意図して話さなかったのか……。やはり、まだ分からない事は多い。

「では、これが最後になると思いますが、容疑者である三人について、捜査資料に残さなかった気になる点などはありますか?」

「ようやく容疑者に関する質問が出てきたか。そうだねぇ……桧山努と松田美樹に関しては、報告書に記したこと以上の発見はなかったけど、里村祥介に関して、一つだけ気になる事があったんだ」

「何ですか?」キキは身を乗り出して尋ねた。

「星奴署の職員からあらましを聞いているなら知っていると思うが、里村は事件当日、提携先の工場の担当者と協議をしていて、その内容が企業秘密として警察に打ち明けていなかった。後になって分かったんだが、工場側が言わなかったのには理由があったんだ」

「理由……」

 そこまで大袈裟な表現をする必要がある理由なのか。

「当時里村はまだ入社三年目の新人だった。若い里村を丸め込んで自分たちの要求を呑ませるために、工場側が酒を出して接待していたんだよ」

「姑息ですね」キキは短くまとめて言った。

「工場側も必死だったという事だよ。どうも、里村本人が渋々ながらも接待に付き合ってくれたらしく、それで調子に乗ったらしい。やり方が過ぎれば裁判沙汰になったかもしれんが、事件のせいで有耶無耶になっていてね……それでも、本社から睨まれるのが恐くてずっと黙っていたそうだ。しかし、これが事件に関係あるとはとても……」

「そうでしょうか」

 キキの声からは、明らかに自信めいたものが感じられた。蛭崎警部はハッとして、そして美衣は皮肉るような笑みを浮かべて、キキを見た。

「やっぱり蛭崎警部から話を聞いて正解でした。おかげではっきりしましたよ。篠原龍一氏に手をかけた犯人の正体が……」

 そう言ってキキは、満足そうに口元を緩めたのであった。

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