その16 三つの場所PART.1
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いつ終わるとも知れない戦いの渦中にわたしはいる。
しかし、いつまでも続けるわけにもいかない事情というものが現実にはある。携帯のメールで、本日も部活を欠席いたしますという旨を風戸先輩に知らせて、改めてその事を思い知らされるのである。何かと目をかけてくれる先輩の恩情によって、数日であれば部活を休んでもいい事にはなっているけれど、それにも限度があるという事だ。
少し申し訳ない気持ちを抱きながら、わたしは校門前で待っていたあさひと合流し、バスで門間町へと向かった。その間、キキからメールで指示された、絶対に調べてほしいことのリストをあさひに伝えた。
「事件の日の八時以降に、ビルを出た人が誰か……?」
あさひはおうむ返しに言った。
「そう。怪しい人かどうかはおいといて、とりあえず全て調べてほしいと」
「ああ、なるほどね。キキはどうやら、殺害現場があの本社ビルの中だと推測しているみたいね」
「えっ、そうなの?」
そんな話は誰からも聞いていない気がするのだが。
「一昨日、わたしがみかんのお見舞いに行った日の調査内容を、美衣から毒舌込みで聞かされてね……」あさひはげんなりとした表情を浮かべる。「恐らく本当の殺害現場は本社ビルの内部なのだろうと、わたしも考えたわけよ。多分キキも同じね」
「どういうこと?」
「思い出すだけで気分が害されるから、悪いけどその辺は自分で考えて。ヒントはワックスと、篠原氏の遺体から消えていたネクタイ」
そういえばそんな話もあったような……うん、キキと美衣がずいぶん気にしていたな。それにネクタイか……。
あれ、なんかうっすらと情景が見えた気がする。これが答えなのか?
今のあさひに訊いて確かめてもらうことはできそうにないので、黙っていた。二十分ほどで門間町のオフィス街に入り、一番近いバス停で降りて、そこからは徒歩で五分ほどかけて『大森坂ビルディング』にやって来た。
エントランスをくぐると、受付カウンターで大仰に手を振ってわたし達を呼んでいる女性が見えた。村井瑞希。色々滑りがちな三十七歳。
「もみじちゃん、待っていたわよぉ」
はち切れんばかりの笑顔で駆けつけ、目線の高さを合わせるためにしゃがみ込んだ村井の額に、わたしは渾身の力を込めてチョップを食らわせた。
村井は額を両手で押さえ込み、必死で痛みに耐えているのか震えていた。
「もみじちゃん、今のはかなり痛かったっていうか……なんで?」
「あなたは少し自分の行動を省みるという事を知るべきです」
いい大人が中学生を相手に、オフィスビルの中で、大声で手を振りながら駆け寄る。これを軽率と言わずして何と言えばいいのか。
「あれ、そういえば一昨日来ていた他のメンバーは?」
「他は別の用事です。調査をやめたわけじゃありません。その代わり、一昨日に用事で来られなかったもう一人の友人が一緒です」
「どうも、あさひです」あさひは軽妙な挨拶。「あなたの事は美衣から聞いていますよ。動かし方さえ分かれば割と役に立ってくれるお方だと」
「それって、体のいい使い走りがお似合いって事なんじゃ……」
一応自覚はあるようで、あさひが遠回しに言いたかった事を村井は正確に理解し、またその顔に陰が差した。相変わらず浮き沈みの激しい人である。
「本当にこの人、使えるの?」
あさひは村井を指差してわたしに訊いた。
「とりあえずその『使える』っていう評価基準は脇に置いておこうか」
こんな人だけど一応年上だし、道具のような扱いはあまりに不憫だし、何よりこの人を必要以上に落胆させては調査に差し障る。
「あの、さそりのお母さんから話は聞いていると思いますけど、今日は、一昨日言っていた警備員の人に話を聞きたくて……」
「あ、ああ、そうだったわね」村井は調子を取り戻した。「阿久津さんなら、この時間は多分休憩室で待機しているんじゃないかな。でもいいの? 十四年前の事件の事を調べているなら、篠原さんと仲のよかったあの三人にも……」
「まあ、いるならぜひ話を聞きたいですけど」
もっとも、会った所で今日は質問したい事が全くない。
「生憎だけど、今日は三人とも来ていないのよ。と言っても、松田先輩と桧山部長が欠席で、里村専務は一日出張だけど」
今度は里村以外の二人が欠席か。大丈夫なのか、この会社。
「とりあえず、その阿久津さんって人に会わせていただけませんか」と、あさひ。「美衣から話は聞いています。十四年前の事件の時も警備員をしていた、現状唯一の事件証言者なんですよね」
「まあ、そうなんだけど……話を聞いていたなら知っていると思うけど、ものすごく気難しい人だし、それに色々と複雑な事情があって……」
一介の受付嬢でも知っている、とある警備員の事情とは何なのか。
中学生のわたしでも、天下りという言葉は聞いた事がある。省庁の役人や官僚が、退職後に省庁と繋がりの深い下部組織の役員に再就職する事だ。官憲との癒着、人材斡旋における省庁の恣行、そして莫大な退職金の複数回にわたる支払いなど、社会的に問題のある行動であるとして、各方面から批判を受けているが、現代ではいくつもの手段で当たり前のように行われているのが実態だ。
そんなものは雲の上の世界の話だと思っていたが、その天下りの問題が、まさに目の前に横たわっていたのだ。まあ、どちらにしても無関係な話だけど。
「子供が警察の真似事をして事件の調査だと。ずいぶん偉ぶっていやがるな」
休憩室でドーナツを食べていた、阿久津という中年の警備員は、村井に連れられてやって来たわたし達に開口一番でそう言い放った。うん、その反応は予想していたよ。
「偉ぶっているつもりはありませんが……」と、あさひ。「これは被害者の娘さんのためなんです。協力してくれませんか」
「……ちっ、そうやって被害者意識を持ち出してくるとは、小癪な連中だな。大体、俺は警察が嫌いなんだ。警察の真似事というだけで虫唾が走る」
本当に非協力的な態度だ……。
「警察が嫌いなのは、何か理由があっての事ですか」と、わたし。
「……上場を実現して、多くの警備員を雇えるようになるまで、このビルの管理会社は警備を民間の会社に委託していて、俺もこのビルの担当だったんだよ」
「という事は、十四年前はまだここの専属ではなかったんですね」
「ああ。あの会社は警察とのパイプを作って警備要請をより多く得るために、警察上層部OBの天下り先となって大量に受け入れていたのさ。当然、会社の方針はほとんど警察出身の役員が決めていて、警察特有の支配欲の強さが目に見えて現れていた」
「天下り……」
「警備会社に恩を売っているのをいい事に、連中は好き勝手ばかりするからな。警察出身などと言っておいて、中身は純然たる官僚体質さ。そんな奴らのやり方に、いい加減に腹が据えかねていた所で、『ホーム・セミコンダクター』がいち早く上場を決めた。委託が終了して警備員を募集し始めた所を見計らって、俺は転職してここの専属になった。民間企業だけあって話の分かる奴らが多くてほっとしたよ。そういうわけで、俺は警察が嫌いなんだ。嫌いになっても仕方のない環境にいたんだ」
中学生には遠い世界の話に聞こえるけど、要は天下りしてきた人達の専横的な行動に嫌気が差して、お世話になっていたこの会社の警備員に職を変えたわけね。なんだか色々腑に落ちた気がしたよ。
とはいえ、わたし達だって引き下がるわけにはいかない。ここは、以前にキキから教わった、非協力的な相手を丸め込む話術の使いどころだ。
まずは、相手が自分に抱いている印象を真っ向から否定する。
「事情はよく分かりましたけど、一つだけ言わせてください。わたし達の調査は警察のそれとは何の関係もありません。警察のやり方を模倣してもいません」
「ん……?」
そうして相手の興味を引いたら、相手にとっておいしい話を持ち出す。
「ちなみに、わたし達の調査内容はほとんど警察に知らせていません。もしあなたが協力した結果として真相を突き止められたら、あなたの嫌いな警察を出し抜けますよ」
「ほう……なかなか上手い誘い文句だな」
「子供と、警察嫌いの警備員が手を組んで、警察よりも先に犯人を見つけ出す。結構おいしい話だと思いますけど? あなたが警察に話していない事もあるんでしょう?」
「うぅむ……」
おお、見事に心が揺れている。キキ直伝の話術、効果てき面だ。
「こっそり教えてくれませんか。こっちには警察なんかより頼りになる頭脳の持ち主が控えているので」
嫌いなものを貶すような言い方で決定打を与える。どう転ぶかな……。
「……いいだろう。ただし、こっちにだって守秘義務がある。教えちゃならない事は答えないからな」
「大丈夫ですよ」
キキなら少ない情報から人よりもたくさんの手掛かりを得られるからな。とりあえず、気難しい警備員の籠絡は成功したようだ。
「さっそく質問です」あさひが前に出た。「十四年前の事件の日の、午後八時以降に、このビルを出た人が誰なのか分かりますか。可能な限り教えてください」
「本当に警察とは方針が違うな。当時の警察はそんなこと訊いてこなかったよ」
多分警察は、篠原氏がいつ会社を出たのかだけを重視していたのだ。このビルが殺害現場である可能性を吟味しなかったから……。
「事件の日というと、十月二十八日だな。まだ警備会社に委託していた時の事だし、記録なんて残っていたかな……ちょっと待っててくれ」
阿久津は途端に協力的な素振りを見せた。休憩室の二つ隣の部屋に、警備の記録が保管してあるというので、阿久津は一度その部屋へと向かった。
しばらく休憩室に取り残されるので、わたしは村井に尋ねてみた。
「あの……警察は篠原さんが、いつ頃会社を出たと見ているんですか?」
「確か、同僚の話だと定時の五時に管理部のオフィスを出たそうよ。でも、その時間帯に受付の人は、篠原さんの姿を見ていないのよ」
「だから警察は篠原さんの足取りが掴めないでいたのですね」と、あさひ。
「うん、多分……」
あさひはわたしにだけ聞こえる声で言った。
「やっぱり、このビルの中で何かあったと考えるべきかな」
「でも篠原さんが殺されたのは午後八時以降でしょ? それまで篠原さんはどこで何をしていたっていうの」
「さあ。そこまでは分からないよ。殺された本人しか知らない事よ」あさひは再び村井に向き直った。「それじゃあ、篠原さんはどこからビルを出たと、警察は見ているんでしょうか?」
「うーん……多分、裏口から出たと考えたんじゃないかな」
「裏口?」
「そう。普段は外注の業者とか郵便配達員を入れる所なんだけど、正面出入り口と比べればセキュリティは緩くて、監視カメラもついていないから。今はあるけど……」
「警備員さんはいないんですか」
「一応いるわよ。でも他の社員の話を聞いた限りだと、警察は、その警備員が居眠りでもして見逃してしまったと考えているみたい」
「都合のいい物語を組み立ててそれに囚われるのは、今も昔も変わらないのね」
あさひも容赦なく言ってくるなぁ。にべもしゃしゃりもない。警察は犯罪者を捕らえるという義務感に突き動かされて、周りが見えなくなっているだけだろう。
阿久津が分厚いファイルを手に戻って来た。
「あったぞ。十四年前の、十月の警備記録だ」
「おお、ありましたか」残っている可能性は五分だと思っていたけど。
「それで、十月二十八日の午後八時以降にビルを出たのは?」と、あさひ。
「ええと……」
ファイルをテーブルに置き、せわしくめくる阿久津。あるページで止まる。
「あった。しっかり記録されているな。えっと、八時以降は……十一時台の所だけ確認されているな。十一時十分頃に一階エントランスから一人、十一時三十分頃に地下駐車場から車一台が出ている。これだけだな。そもそもこのビルに来ている社員は、どんなに遅くても八時より前には帰っているから、これだけ遅ければ警備の人の記憶にも残る」
「裏口の方はどうですか?」と、あさひ。「そこにも警備員がいますよね」
「いるけど、裏口の警備は八時に終わるんだ。そんな時間に外注の業者や郵便配達が来ることなんてまずないからな」
「じゃあ、裏口からなら自由に出て行けますね」
「それはない」阿久津は次のページをめくった。「翌日の朝の記録で、裏口の施錠は確認されている。あそこのドアは内側につまみがあるだけで、外からは施錠も開錠もできないからな、裏口から外に出たという事はまずないだろう」
「それじゃあ、八時以降にこのビルを出たのはその二組だけか……誰か分かります?」
「車の方は分からないが、一階エントランスから出たのは、当時の『ホーム・セミコンダクター』の下請け業者の木場って人だ。外部の人だから入場パスが必要で、その時に勤め先と名前を聞いているみたいだ」
十一時過ぎまで本社ビルにいた下請け業者……どこかで聞いたような。
「それって、事件当日に桧山部長が商談をしていた相手ですよ」村井が言う。「確か今は社名を変更して『ホタル電機』になっていて、そこの役員だとか」
「村井さんも知ってたんですか?」と、わたし。
「一応、元社員だからね……昔はここの要請を受けて細かな製品を造るだけだったけど、今は自分たちでも製品を販売していて、ここの社員も何人か派遣されたって聞いたわよ。販売実績のある社員を選り抜いて、独立の手伝いをしたとか……」
だから過去形だったのか。今は下請けから外れているのだろう。むしろ対等な付き合いになっているのではないだろうか。
「その『ホタル電機』の木場って人、会って話を聞いてみたいな」
「賛成」わたしは拳を握りしめた。「その人ならもっと詳しい事を知っているかも」
「桧山さんのアリバイ確認のために警察も接触しているだろうけど、警察が聞いたのは多分それだけ。こっちはもっと懐深く探ってみましょう」
よし、これで次の方針は決まった。思い立ったら行動あるのみ。
「村井さん、まだ時間ありますか?」
「えーと……基本的にたっぷりとれる状況です」
あまり仕事が宛がわれていないという事か。わたし達にはむしろ都合がいい。
「『ホタル電機』の所在地は分かります?」
「ええ、一応……」
「では案内してください。阿久津さん、色々ありがとうございます。ではこれで」
あさひも気が急いているのか、挨拶もそこそこに休憩室を出て行く。戸惑う村井の手を引きながら。
「おい、散々協力させておいて酷い扱いだな」
「調査の進捗状況が気になりましたら、村井さんを通じていつでも連絡をどうぞ。そちらは警備の仕事に精を出してください。それではわたしも失礼します」
そしてわたしも廊下へ駆けだしていく。阿久津の悲痛な叫びが聞こえた。
「ああっ、お前ら俺を嵌めやがったな! 調子に乗せやがって!」
どうせ調査が終われば、もう二度とここには来ないだろうし、ここで敵を作っても支障はあるまい。もっとも、いつ調査が終わるのか分からないけど。
時を同じくして、キキは『ニューセンチュリー・ヒルズ』に来ていた。
十四年前の篠原氏殺害事件と、一昨日ここで起きたばかりの朝沼数美殺害事件。この二つにどれほどの繋がりがあるのか、それは大体予想がついていた。その確信を強めるために、まずは現在に起きた事件を解明しよう。
キキは一階エントランスの自動ドアの前に立つ。人の存在を感知するセンサーは内側にしかない。外から入るには、住人なら部屋番号をテンキーで打ち込んだ後、カードキーを挿し込んでスキャンする事でドアが開き、住人でない人は部屋番号を打ち込んで、住人がいた場合に許可が出ればドアを開けてもらえる。つまり、ただガラス扉の前に立ってもドアは開かない。
中に入るつもりなどなかった。ガラス扉越しにロビーの中を見渡す。高層マンションというだけあって、郵便受けも膨大な個数が設置されている。全ての郵便受けには、入居者の苗字が書かれたプレートがはめ込まれている。
一階は電気室や管理人室などがあるため、他のフロアと比べて部屋は少ない。その少ない部屋の中から、入居者のいない未契約の部屋を探す。キキの推測が正しければ、一つは必ずあるはずだ。
予想通り、一つだけネームプレートの入っていない郵便受けがあった。0103号室。
部屋番号を記憶すると、キキはエントランスを離れて建物の脇に入る。全ての部屋のテラスには壁があって、ただ外を歩いているだけでは部屋の中まで見えない。
郵便受けを見る限り、一階にある部屋は十室だけだ。そして部屋番号というのは、廊下の端にフロアの入り口がある場合、そこから順番に付けられていることが多い。だから、明らかに入居者用の部屋ではない窓を無視して、順番に数えていくだけで、見取り図がなくても目的の部屋を見つけられる。
恐らくここだろうという部屋に当たりをつけ、キキはその部屋のテラスの壁に飛びかかった。よじ登って上半身を壁の上まで出して、その部屋の窓を見た。
予想通り、この部屋の窓ガラスは、クレセント錠の近くに半円形の切断の痕があった。
「なるほど……犯人はここから侵入したわけか」
キキが思わず呟くと、呼応するように誰かの声が聞こえてきた。
「お前が侵入しようとしているように見えるぞ」
「えっ」
キキが声のした方を振り向くと、すぐ近くで美衣が仏頂面で立っていた。
「美衣……来てたんだ」
「この時間ならまだマンションを調べているだろうと思ってね」
「それでわざわざ、いつもなら勉強に使う時間を費やして会いに来たの?」
「ああ」美衣はあっさりと言った。「お前を一人にしたら何をしでかすか分からないからな。わたしではもみじの代わりは務まらないだろうが、とりあえずキキが何かやらかしたら泣かせる覚悟で制裁を加える」
「それはやめて。美衣が言うと冗談で済みそうにないから」
もみじほどに腕っ節が強いわけじゃないが、美衣はその奸智と暴言で寸鉄の如く人を殺す事ができる人だ。さすがに友人が相手なら多少手加減はするだろうが……。
「そうそう、お前から頼まれた事だが、やはり多大な時間を消費して調べ尽くした結果、一つも見つからなかったよ」
「そう一言も二言も多いと、ひどく申し訳なくなってくるんだけど」
「お前はそのくらいでいい。まあネットの世界だから、完全とは言い切れないが」
「ううん、手が届く範囲だけで十分だよ」
これで朝沼数美殺害事件の真相にかなり近づけた。証拠はまだあの人が持っているし、犯人を観念させるには十分な材料が揃っていると言えよう。
そんな事をキキが一人で考えていると、案の定、美衣が不満を唱えた。
「おい、説明くらいはしてくれるんだろうな」
「説明?」
キキがそう言うと、美衣は眉根を寄せてキキに顔を接近させた。
「こっちの時間を使わせておいて、「何も知らないよ」で済ませられると思うな」
明らかに美衣は機嫌が悪いが、キキは意に介さず、一枚の写真を美衣の目の前に。
「……なんだ、これは」
「篠原さんの少年時代の写真。唯一残っていた過去の品であるアルバムから拝借」
「ほう……」
美衣は受け取った写真をしばらく凝視していたが、数秒で顔を上げた。
「なるほど、これはおかしい。そしてキキの推理にも上手く繋がる」
「さすがは美衣。ちょっと見ただけで矛盾に気がついたね」
「ほんの些細な事だし、矛盾というよりは自然じゃないといった方かな。だが、そう考えた方が他の推理とも上手く整合する。……同時に、大きな問題も生じたけど」
「そうなんだよね……」キキは腕を組んで空を仰ぐ。「もっちゃん達も含めて、今後の調査の行方に期待するしかないけど」
「今までだってダメ元でやって来たんだ、何を今さら」
「まあね」キキは頭をポリポリと掻いた。
「それに、お前の事だから、予想くらいはできているんだろう?」
するとキキは表情を暗くした。
「あまり当たっていてほしくないけどね……」
「それは……願うにはあまりに遅すぎる事だな。現実はいつだって容赦ない」
美衣の言い草も容赦ありませんよ、とは言わないキキ。
「ふむ……しかし、この写真の存在と、ここで起きた事件やわたしのネット調査が繋がるとは思えないが」
「いや、それがそうでもないんだよね。実は昨日分かった事なんだけど……」
キキが昨日の調査で判明した事実を時系列順に話すと、美衣の表情がみるみる変わっていった。それは普段あまり見せることのない、驚嘆の表情であった。
「そういう事か……だとすれば、遺体が発見された問題の廃屋には、まだわたし達の見つけていない秘密があるかもしれないな」
「具体的にどんな秘密が隠されているかは、犯人に訊かないと分からないけどね」
「さっきの話の通りなら、ここで起きた事件の犯人はあの人で、十四年前の事件の犯人と同一である可能性が極めて高いな」
「わずかだけど、十四年前の犯行が廃屋の秘密と無関係の可能性もあるよ。といっても、かなり低い確率だけどね」
「確認手段は二つある」美衣は二本の指を立てる。「一つは廃屋を徹底的に捜索してその秘密を探り、それが殺人の動機に繋がる事を証明する方法。でもこれはかなり確度の低い方法だ。後回しにした方がいいだろう。で、もう一つは……」
「廃屋の秘密に頼らず、直接十四年前の事件の犯人を特定すること、だね」
二人は確信に満ちた笑みを浮かべた。両者の方針が一致して、お互いに自信が湧いていたのだ。
キキは携帯の画面の時刻表示を見た。四時半を少し回っていた。
「蛭崎警部と会うのは五時半の約束だから、まだちょっと時間があるな……美衣、これから福沢さんの頼みで『和倉』っていうバーに行くんだけど、一緒に来る?」
「言われるまでもない。元々お前を一人にしないために来たからな。しかし、中学生がバーなどに行ったら、周りから不審な目で見られるぞ」
「わたしもそう思ったんだけどね……」キキは肩をすくめた。「でも、周りの目を気にしていたら手に入るはずのものも手に入らないと、自分に言い聞かせて納得させた」
「そっちの方向に納得させるのかよ。まあ、虎穴に入らずんば虎児を得ず、とはよく言ったものだからな。わたしも覚悟を決めて行ってみようじゃないか」
そう言って美衣は踵を返し、呆然とするキキを置いて歩き出した。キキは一応携帯で調べて場所を確認済みだが、美衣も同じ方法を使って行くつもりだろうか。
「わたしは虎に睨まれる覚悟までは持っていないけど……」
キキは苦笑しながら美衣の後を追った。あれこれ言っても、美衣は一度スイッチが入れば行動的になる。さっきまで先頭を走っていたキキが、置き去りにされるほどに。
さらに同じ頃、場所は門間第一中学校。
外山功輔はサッカー部の交流試合のために、隣町のこの学校に来ていた。交流試合などとは名ばかり。実態はそんな生ぬるいものではなく、因縁に端を発する睨み合いである。その事を功輔はよく理解していた。年に二回ほど行われていて、すでに功輔は三回試合を経験している。
上級生はやたらと火花を散らしているが、ただ純粋に正々堂々とプレーをしたい功輔は敵対意識をそれほど持っていない。実際にこの学校のサッカー部にも、気軽に話せる友人の数人はいる。そうでないとアウェーはあまりに居心地が悪い。
試合前から敵チームに睨まれるようでは、ストレッチ後に筋肉を落ち着かせるための休憩をする場所さえ確保できない。一応それらしい場所は用意されているが、かなり狭く、部員全員が落ち着けるスペースはない。功輔の場合はピッチから少し離れた所を探し、部活の声があまり届かない所で筋肉と精神を落ち着ける。
金網のフェンスに背をあずけ、試合開始までにコンディションを整える。あまりに熱くなりすぎて冷静な判断ができなくなるのは、本番ではなんとしても避けたい。
「…………ん?」
ふと金網の向こうに視線を向けると、校門にほど近い場所に路駐している白い外装の車に気づいた。運転席には男性がいて、校門から出てくる生徒たちをじっと見ている。
……なんか変だ。功輔は瞬時にそう感じた。わざわざこんな所に停めなくても、校舎の裏手にある駐車場には十分な余裕があったのだから、そちらに車を置けばいいのに。功輔たち四ツ橋学園中のサッカー部員を乗せてきたマイクロバスはそちらにあった。だから駐車場に空きがある事は功輔も知っていた。
部活の最中というだけあって、校門を出て行く生徒は数えるほどだ。その中で、路駐車の運転手が明らかに反応みせた相手は、黒髪ツインテールの女子生徒だった。少女は慌てた様子で校門を出たが、問題の路駐車には目もくれず、反対方向へ駆けていく。
路駐車の運転手がエンジンをかけた。あの少女を追うつもりだろうか。
直感的にこの事の証明を残すべきと察した功輔は、金網の隙間から携帯をフェンスの外に出し、その路駐車を連写で撮影した。最初の一枚に、ぎりぎり少女の姿も写っているだろう。これで、路駐車が少女を追っている事は明々白々となる。
とはいえ……撮影したところでどうする事も出来そうにない。怪しいというだけでは警察も動いてくれない。しかしそれでも、せっかく撮った写真を消してしまうのは、どこか惜しい気がするのだ。とりあえず、何でもないと分かった時に消去することにしよう。
少女はバスに乗ったようだ。そして路駐車はそのバスを追っていく。
「……何なのかね、あれは」
「おぉい、功輔」チームメイトが駆け寄ってきた「そろそろ始まるぞ」
「おう、いま行く」
功輔は身を翻し、チームメイトと一緒にその場を離れた。とにかく今は試合に集中だ。因縁の対決、負けるわけにはいかない。




