その13 発明同好会
<13>
門間町の外れにある、この町唯一の大学、門間工業大学。中学生であるわたしが、大学のキャンパスを訪問することになるとは思わなかった。
工業大学を名乗っているだけあって、工学系の大規模な施設が至る所にある。他にも、基礎教育棟やマルチメディア棟、各研究科の研究棟が、一面の広いキャンパスの中に設置されている。もちろん学生食堂も購買もある。時間があれば寄ってみようかな。
まあ、寄り道をする時間はそれほど残されていないかもしれないが。
裏手の駐車場に車を停めて、裏門をくぐってキャンパス内に入る。道すがら、福沢が説明をしてくれた。端から見るとかなり異様な組み合わせじゃないか、わたし達って。
「篠原龍一は、幼少時代の差別的偏見によって、まともに学校生活を送れなかった。どういう事情があったのかは、君たちも知っているんじゃないか?」
「福沢さんが現れるまで、その話をしていました」と、キキ。「左利きを右利きに矯正することが教育的な指導だという錯覚が、全国的に蔓延していた時代ですね」
「篠原龍一の場合は、親に良識があったんだろうな。左利きである事を理由に、学校側から理不尽な扱いを受けることを恐れ、早い段階で学校通いをやめさせた。転校させようにも、その時代はどこに行っても似たような風潮が散見されたからな」
「どの段階でやめたんですか?」
「中学校に上がって、半年も経たないうちに。小学校の時は、左利きの生徒もまだ一定の割合で存在していたから、教師からの不当な扱いを避けられたら十分だった。だが、中学校ではそうもいかない。多くの左利きの生徒が、小学校卒業前にリタイアを余儀なくされていたから、普通に通えば左利きは相当に目立っていた。加えて、教師による『左利きは矯正すべき』という洗脳が効いているために、生徒たちも何の疑いもなくいじめや暴行に走っていた。学校が、殴られるためだけの場所に変貌していたんだ」
「四十年前の日本の学校は、そんなに酷い所だったんだ……」
心苦しそうに眉根を寄せるさそり。いじめは未だ至る所で報告されている。現役の中学生としては、他人事で済ませられない話なのだ。
「まあ、全部が全部、そんなふうに酷い所だったわけじゃない。ただ、1970年代後半といえば、校内暴力が日本各地で常態化していた時代だ。左利きに対する差別というのは、際限のない暴力の標的の一つに過ぎないのかもしれん」
「やっている人間からすれば、理由にならない理由さえも、暴行を正当化するための立派な動機に思えてならないのでしょうね」と、キキ。「実際は、ただ殴りたいから殴っている、でもそれだとカッコ悪いから何かと理由を付ける。暴力の本質なんてそんなもの」
「加害者にそんな冷静な分析はできないよ。挙句は開き直るのがオチさ」
キキと福沢の言っている事は概ね正しいのだろう。ただ殴りたいから殴る。最初のうちはそれに理由を付ける。その不合理性を指摘されたら開き直って、ただムシャクシャしていたからだと言う。たいした理由もなく他人を傷つける人間なんて、その程度の頭しかないという事なのだろう。残念ながら、今でもそういう人間は五万といる。
しかし、そんな人間の暴力を受けた被害者を、単純に不運だったと評する事には抵抗がある。避けることができた悪い事態に見舞われる事を、不運とは言わないはずだ。篠原氏の場合は、もとい左利きへの差別を端緒とするこの事態は、どこかの時点でやめることができたのではないか。事実、篠原氏の親は、この風潮が誤りだと気づいていた。そういう人が他にもいたなら、流れを変えることはできなかったのだろうか。
……いずれにしても、過ぎてしまった事を悔やんでも遅いのだが。
「それで、だ」福沢は話を戻した。「中学校を中退したために、篠原龍一は普通には高校も大学も入れなかったんだ」
「あれ、でも篠原さんはこの大学にいたんですよね」と、わたし。
「ちょっと調べれば分かる事だ。篠原龍一は大検を使って入学資格を得たんだ」
「大検……?」
聞き慣れない言葉に目が点になっているわたし達に、あさひが説明してくれた。
「大学入学資格検定のこと。2005年からはほぼ同じ内容の、高等学校卒業程度認定試験に変わったから、今はもうないけど。この検定に合格すると、高校を卒業した人と同じくらいの学力を有していると公的に認められて、実際に高校を卒業していなくても、大学に入れるのよ。もっとも、大学入試を突破しないと入学はできないけど」
「それって、中学校を卒業していなくても受けられるの?」と、さそり。
「最初の頃はできなかったけどね。1953年からは、中学校を卒業していなくても、受検時に満16歳以上であれば受けられるようになったのよ。今の高卒認定試験でも、この年齢制限は残っているけれど、大検でのそれ以外の制限は全て無くなっている」
「学校を中退しても大学に入れるんだ……」
「とはいえ、相当に厳しくて困難な試験だからね、中学校中退者はおろか、高校中退者でも簡単には受からない。篠原氏もかなりの努力を重ねて合格したのでしょうね」
「うーん……」さそりは両手を上げた。「それを聞いたら自信なくなるよ。わたしはやっぱり普通に中学も高校も卒業したいな」
「それが健全なのよ。これは、行き場を無くした人を救済するための試験だから」
なるほど、今のところわたしには、絶望的に苦手な教科もないし、今後も学校をやめるつもりは全くないから、縁遠い話で済ませられそうだ。
「そして、苦労して入った大学で、篠原龍一はあるサークルに入った。それがここだ」
福沢はプレハブの建物の前で立ち止まった。周りを樹木に囲まれているせいか、文字通り日の当たらない場所にある。他のサークルの建物とは切り離されていた。
掲げられた看板に刻まれた名前は、『発明同好会』。
「苦労して入った割には、若干胡散臭いサークルですね」
思わずわたしは言ってしまった。幸い、誰も否定してこなかった。
「胡散臭いサークルなんて、どの大学にも必ず二、三個はあるものさ」
福沢などはもっと無礼な事を言っている。もし大学に入ったら、所属するサークルはしっかり選んだ方がよさそうだ。
福沢がドアをノックすると、ごそごそという音の後に一人の学生が現れた。ラフなTシャツ姿で頭髪も乱れている。さっきまで何をしていたのだろう。
「えっと、どちらさんです?」
男子学生は腹部をポリポリと掻きながら尋ねた。これが客人を出迎える態度かよ。
「訪問のアポは取ってあったでしょう。週刊文明の福沢ですよ」
そう言って福沢は名刺を取り出して見せた。友永刑事の言っていた通り、物事を円滑に進めるために昔の名刺を使う記者はいたみたいだ。
「ああ、そういえばそんな話も……でも、僕がうろ覚えだったのかな。来るのは記者さん一人という話だと思ったのですが」
どうやらこの学生は、わたし達四人の中学生の存在が気になるらしい。福沢は、まあ無難な所で社会科見学の子供たちとでも説明するのだろう。と、思っていたら。
「ああ、この子たちは俺の助手です」
「は?」
学生は目を丸くした。わたし達だって「は?」と言いたいくらいだ。
「どう見てもまだ中学生くらいですが……」
「中学生を助手に据えても問題はないでしょう。話はちゃんと聞いてくれますよ」
「……聞いていないのですが」
「何せ、今日思いついたものですから。では、失礼しても構わないかな」
図々しいにも程があるだろう。目的を達成できさえすれば、自分が怪しまれても一向に構わないと思っているのか。大胆なのか無謀なのか……予測不能な奇矯な言動を平然とやらかす辺り、キキと相通ずるものがあるのかもしれない。
それにしても、女子中学生を記者の助手と言い張るなど、無茶が過ぎる設定だ。福沢がそう言ってしまったからには、こっちはそれに合わせるしかないのだけど。
プレハブの建物の中に、部屋と呼べるスペースは二つだけ。出入り口で靴を脱ぐためだけの玄関スペース、そして活動の全てを行うメインの部屋。そのメインの部屋は雑多なものでほぼ完全に占領されていて、動き回るのが億劫になりそうだ。
「いやあ……」福沢は部屋を見渡して呟いた。「話には聞いていたけれど、本当にゴミ屋敷みたいな部屋だな」
「ゴミの中に大金が埋まっている事だってありますよ」
学生がムキになって言い返したが、反論になっていない気がする。
「このサークルって、今は何人いるんですか?」キキが尋ねた。
「今は十人いるよ。設立当初からそれほど人数に変化はないんじゃないかな」
「十人ですか。よくその人数を収容できますね。窮屈そう」
そのうち言うと思っていたけど、やはりキキは痛い所を平然と突いてきたな。
「どうせ激しく動き回るサークルじゃないんでね」別の会員が言った。「基本、ここでやっているのは机の上の作業だから」
「ここって、どういう活動をしているんですか」わたしが尋ねてみた。
「発明」また別の会員が言った。
「それは分かります。それ以外に」
「……他に何かありましたっけ」
あんたが所属している同好会でしょうが。数秒使って考えて言う事かよ。
「いや、本当にこの場所でやっているのは、ひっくるめて『発明』なんだよ。設計図を書いたり、基盤を作ったり、あらゆる準備段階をここで済ませるんだ。その上で、小さなものならこの場で完成まで持ち込むし、大きなものなら別の施設で仕上げる。でもまあ、発明同好会の粋がここに結集しているから、ここが本部というのは間違いじゃないよ」
こんなプレハブでも同好会の本部として通用するのが、大学という場所なのだな。わたしの経験値が一つ上がりましたよ。
「発明って、皆さんが作りたいものを作るんですか?」と、さそり。
「それだと下手なおもちゃしか作られないよ。ここは、近所の家々を回ってニーズをリサーチしてから物を作るんだ。つまり地域密着型のサークルなんだよ」
「へえ、すごいですね! 暇人の集まりじゃないかと思ってすみません」
「あはは、後半のセリフが明らかに余計だけどどうもありがとう」
多少引っ掛かる事はあっても、可愛い女の子に褒められて悪い気はしないのだろう。さそりはさそりで、もうちょっとオブラートに包んでほしいものだが。
「ここって、昔からあるんですか?」またわたしが尋ねた。
「昔も昔、三十年前に大学が設立された当初からあるよ」
「大学の歴史と同じだけの年数を重ねているんですね。その当時から、近所の人達のニーズに応える方針なのですか?」
「そう。初代会長の決めた方針を、今でも伝統として守っているんだ」
決して小さな数字ではないけれど、三十年の歴史を伝統と呼んでいいものかどうか。身も蓋もないけれど、伝統というのは、伝統だからという他に守る理由がないという側面を持っている。実際はどこで禁を破っても構わない存在なのだ。その意味では、脆弱な存続理由で成立しているこの方針も、ある意味で伝統なのかもしれない。
「それって、無償で発明品を近所の人に配っているんですか?」
あさひは泥臭い話を持ち出してくる。
「基本は無償配布だけど、ここで作った比較的小さなものが対象だね。他の施設を借りて作ったものだと、使用料を取られるから販売という形になる」
「大学側も抜け目がないですね」
「そりゃあ、基本は学生の自由意思に任されていても、ある程度の制約はあるものさ。実際に売るにしても、サークルの活動として適切な価格かどうかを大学が審査して、その上で許可を貰わないと販売はできないんだ」
「バイト感覚で売り上げを自分の懐に収めることはできないわけですね」
「あのぉ、福沢さん」学生が泣きそうな顔で言った。「この子たち、何でもずばずばと言ってきて恐いんですけど」
「すまんね、まだ中学生だから建前の使い方を知らないものでして」
あんたがそれを言うかよ。
「そんなことより、事前に伝えた通り、ここの名簿を見せてもらえませんか」
「ああ、そうでしたね。ちょっとお待ちください」
最初に出てきた学生が窓際の棚に近づいて行った。事情を知らないわたし達に、福沢が説明してくれた。
「ここには、過去にこの同好会に所属していた人間が、ある事件の証人になっているので実家の住所を知りたいと言ってアポを取っておいたんだ。で、そのついでに同好会の内部も簡単に取材させてほしいと」
「上手く言いくるめたものですね」と、薄笑いを浮かべるキキ。
「こうでもしないと中に入れてくれない所だからな。口八丁は得意技だ」
あまり自慢になる特技ではないような気もするが。言っている事が全て嘘というわけでもないから、いやに現実感がある。嘘のつき方までキキと共通していた。
「どうぞ、これです」学生が一冊のファイルを手渡した。「三十年分の会員名簿をバインダーに入れていますので」
「では拝見します」
福沢はファイルを受け取った。先ほどから気になっていたのだが、福沢は学生たちに対しては少し慇懃な口調で話している。わたし達には終始砕けた口調だったのに。取材対象という設定だからだろうか。……それでも所々に地の口調が出ているけれど。
福沢はしばらく、バインダーで綴じた書類をパラパラとめくって見ていたが、あるページに差し掛かったところで眉根を寄せた。
「これ、どう思う」
そう言って福沢はそのページをわたし達に見せた。ちょうど二十年前、つまり篠原氏が四年生の時の名簿だ。篠原氏は会長というポストにあった。
「へえ、ここでも篠原さんはリーダーだったんだ」と、わたし。
「三年生に桧山努、二年生に松田美樹、一年生に里村祥介の名前もある」と、キキ。「警察の話にあった通りだね。……あれ?」
「どうしたの?」
「これ……一年生の所に、朝沼数美の名前もあるよ」
なんだって? 言われてわたしも確かめてみると、本当だった。では、里村と朝沼は単なる同級生というだけでなく、同じサークルの仲間だったことになる。
「どういうこと……? 里村さんは、同じサークルだなんて言ってなかったよね」
「…………」キキは少し考えて言った。「やっぱりこの事件、見た目以上に根が深いみたい。篠原氏、松田さん、桧山氏、里村氏、そして朝沼さん……この五人には大きな繋がりがあった事になる。でも、警察はその繋がりに気づけなかった」
わたしはハッとした。「そうだよね。気づいていたら、朝沼さんも容疑者に含めているはずだし。朝沼さんの行動についてももっと深く調べていたはず……」
「こんな目立つ所に手掛かりがあったにもかかわらず、警察は朝沼さんと四人の繋がりに辿り着けなかった。よほど捜査が甘かったのか、もしくは、誰かの手によって警察が辿り着けないように仕組まれたか……」
捜査妨害でもあったのだろうか。それらしい話は友永刑事も言わなかったが。
「朝沼さんの所属は……経済学部?」キキは目を丸くした。
「工業大学なのに経済学部があるんですか?」
「こと日本じゃ、企業の重役に理工系学部出身の人は少ないからね。企業経営と技術の両面に強い人材を育てるという目的で、設立当初からあるんだよ。日本の工業系大学では唯一、経済学部が存在する大学なのさ」
やたらと胸を張って解説してくれた学生に、わたしは素朴な疑問を投げかけた。
「ちなみにあなたの学部は?」
「理学部宇宙物理学科」
発明同好会のポリシーとはかすりもしない所だった。
「朝沼は一年生の時から、マスコミへの就職を希望していたそうだ」福沢は遠くを見るような目で言う。「地に足のついた付き合い方を知るのに、この発明同好会というのは好都合なサークルだったんだろう」
それで経済学部なのに、工業色の強いこの同好会に入ったのか。近隣のニーズを聞いて回る作業は、取材の姿勢に繋がるものがあるのかもしれない。
「それに、ここは結構、新入生に人気のサークルなんだ」別の学生が言った。「工学に興味のある学生が多いから、その知識を生かせそうな雰囲気のある同好会は、新入生にとって魅力的な存在なんだよ」
「そうなんですか。でも秋には十人くらいまで減るんですね」
キキがまた痛い所を突く発言を平然とやらかして、この場がしんと静まり返る。
「いや、その、なんていうか……」学生は答えにくそうだ。「活動内容があれなんで、工学部との結び付きがひときわ強いんだ。その実情を知った会員がやめてしまう事が、今までもしばしばあったようで……」
「やめてしまうほどの実情があるんですか?」
「キキ、もうそのくらいにしておきなさいよ」
さすがにこれ以上突っ込めば、学生たちの傷口に塩を塗る事になりかねない。そう思って止めたけれど、どうやら手遅れだったみたいだ。ため息交じりの説明が始まった。
「工業大学を名乗っているくらいだから、どれだけ学部が豊富にあっても、やっぱり学内では工学部の権威が強いんだ。ここって、たまに画期的な発明品が誕生する事があって、そのアイデアを工学研究院も手放すまいと、商品化や頒布の前段階で、工学研究院の名前でうちの大学の学生の発案である事の証明を残そうとするんだよ」
「それに、うちの発明は工学部の施設を借りて作っているものも多いから、その過程で教授陣のアイデアを採用することもままあるんだ。その場合、下手に販売や配布をすれば、技術の流出に繋がりかねない。政府が工学系の研究や開発に大金をつぎ込んでいる現状もあって、どの大学も新技術の開発に必死になっている昨今、技術の流出は工業系大学にとって死活問題になりうるんだよ」
「販売のための審査は大学でやるという名目になっているけれど、実際は工学部や工学研究院の判断がそのまま公表許可に影響すると言っても過言じゃない。流出の問題もあるから審査も当然厳しくなる。自由にサークル活動をしているようで、実際はなかなか自由が利かない所なんだ」
想像以上に泥臭くて重い話だった……。その話が本当なら、発明同好会での活動は大学が、もとい工学研究院が厳正に監視していると考えられる。そりゃあ、そんな窮屈な雰囲気の同好会に、いつまでもいたくないと考える学生がいてもおかしくない。この部屋は物理的にも窮屈だからなおさらだ。
胡散臭いだけの同好会だと思っていたけど、大学が技術の流出を恐れるくらいに、その存在価値を認めている団体だったようだ。その割には施設の扱いが悪いけど。
「まあ、そういう事情もあって、昔からこの部屋のセキュリティは厳しいんだ。見た目以上にね」
「ここに発明同好会の粋が集められているという話でしたからね」と、あさひ。「でも、どの辺が厳しいセキュリティなのか、今ひとつ分からないのですが」
「例えば出入り口だけど、あのドアは、大学で管理している鍵を使ってテンキーの蓋を開錠して、会員しか知らない暗証番号を三十秒以内に打ち込まないと開けられない仕組みなんだ。見た目にはテンキーの存在が分からないから、気づかずに開けようともがいているうちに三十秒経って警報が鳴るという事もある」
えげつない防犯システムだな。
「そして、玄関からこの部屋に入るドアの所には、人の出入りをカウントする装置があって、これで部屋の中に何人いるか記録している。無人の時に唯一の窓から侵入しようとすれば、人感センサーが働いて同様に警報が鳴る仕組みだ」
「ここの警報はすごいぞ。百メートル離れても耳に響くくらいの周波数だ」
さっきまで同好会の悲しい現実をため息交じりに説明していた学生たちが、打って変わって明るい口調でセキュリティの解説をしている。……もう、この建物自体が発明品と言ってもいいだろう。セコムにでも就職したらどうだ。
「そうまでしてでも流出を防ぎたい重要なものが、この部屋にあるんですか」
「ああ。工学研究院の教授も、重要な設計図や論文を管理する時に、この部屋に持ち込んでくる事がたまにあるから」
うわあ、とんでもない所に来てしまったな、わたし達。
「それにここってプレハブだから、一見して貴重なものがあるように見えないんだよ。実際、この部屋に泥棒が入った事例は一つもないって話だ」
「すごい、この部屋自体が一つの金庫になっているんですね!」
純粋なさそりは素直に褒めちぎっている。でもこの話……見ようによっては、大学の教授たちが機密情報を隠匿するために、発明同好会の看板を隠れ蓑にしているようにも取れるのだが。これはこれで深読みのしすぎかもしれないが。
すると、また別の学生が入って来た。すでに中に人がいるから、テンキーを打ち込む必要はないらしい。
「ちはぁ、遅れました……わっ」学生はわたし達を見て驚きのけ反った。「あ、あれ、お客さん来てたんですか」
「今日取材に来るっていう週刊文明の記者さんだよ」
「ああ、そんな話もあったような……」
会員の間で情報共有がなされていないようだ。
「そうそう、中学生くらいの女の子も連れて来るって……そんな話はないですよね」
「あまり深く突っ込むな」すでに追及を諦めていた。「それより、ずいぶん遅かったな」
「昨日、俺が住んでいるマンションで窃盗事件が起きたんすよ。俺の所は幸い無事だったんですけど」
「確か星奴町だったな、お前の住んでいる所って」
「そうそう、しかもその窃盗事件っていうのが同じマンション内で何件も発生していたんですよ。それで、今日の昼過ぎまで事情聴取を受けていて……」
「大変だったな。犯人は捕まったのか?」
「ああ、なんとか。しばらく平穏に過ごせそうにないけど」
どこもかしこも事件ばかりだ。それにしても、同じマンション内で複数の窃盗事件が発生したとは、ただ事で済ませられる話ではない。もっともすでに解決済みなので、キキなどは特に興味が湧かないみたいだが。今も髪をいじっている。
「それで、この人達は何の取材で? 俺達、今年に入って目覚ましいものはまだ作っていませんけど」
「何でも、この人達が追っている事件の関係者に、うちのOBあるいはOGがいるらしくて、その人の実家を知りたいんだと」
「ああ、それならここで聞いた方が絶対に早いもんな。大学の事務室が見せてくれるとも思えないし」
なるほど、こうやって納得すると予想して、この設定を思いついたわけか。
「ここは同窓会なんて滅多にやらないし、OBとの交流も少ないからなぁ……なんか、朝沼って人の事を気にしていますけど、その人が事件の関係者ですか?」
「ええ。ちょっと連絡がつかないものでして」
そりゃそうだ。昨日亡くなってしまったのだから。
「朝沼……? その人って、ショートカットで三十代半ばくらいの女性ですか?」
遅れてやって来た学生が尋ねた。
「そうだけど、知っているんですか?」福沢は訊き返した。
「知っているって程でもないですけど、夏休み中にここを訪ねてきた女の人が、朝沼って名乗っていたもので」
「ここに来ていたんですか?」わたしはこの話に飛びついた。「朝沼さんが?」
「ああ、八月の中頃だったかな……日付までは覚えてないけど」
「どんな用で来たのか、言っていませんでしたか?」と、福沢。
「言っていたような気もしますけど、ちょっとうろ覚えですね。でも、あのカラーボックスの裏を覗いていたのは覚えていますよ」
学生が指差した先に、三段造りのカラーボックスがあった。これまた雑多なものが全ての段に詰め込まれている。
「後で自分も覗いてみたんですが、特に何もなくて……あの女の人も、覗いただけで他に何かしている様子はありませんでしたし」
「手を入れたりもしていない?」
「ええ。外部の人を入れた時には、一瞬も目を離さないように言われているので」
大学側も神経質だな。流出の責任は全部学生が負う事になってしまうじゃないか。
キキは、問題のカラーボックスの裏側を覗くと、何かに気づいたように表情を変えた。
「すみません、一度中身出します」
そう言ってキキは、学生たちの返事も聞かないうちに、カラーボックスの中身を一つ一つ丁寧に出し始めた。
「あ、ちょっと、何をして……」
学生の制止する声も聞かず、キキは中身を全て床に置き、カラーボックスを手前にゆっくりと倒した。奥板の裏側が露わになった……と思ったら。
「見て、一番下の段の奥板が、他の二枚よりわずかに浮き上がっているよ」
「本当だ……」あさひがキキの後ろから覗き込む。「これ、二重になっていない?」
その通り、最下段の奥板の裏にもう一枚、同じ素材の薄い板がはめ込まれている。二枚の板の隙間は、厚さにして一センチほどあった。
「この空間なら、ノート二冊くらい隠せそうだね」
「一番下なら、上から覗き込んでも角度や暗さの関係で分かりづらいし、箱の中を一杯にしておけば動かされる恐れもない。盲点になりやすい所を選んだわね」
キキとあさひは至って冷静だが、学生たちは一切気づいていなかったようだ。口をポカンと開けてその様子を見ていた。
「こんな仕掛けがあったのか……」
「なあ、その蓋は外せないのか?」福沢が尋ねた。
「外せないみたいですね」と、キキ。「内側に蝶番を付けて固定しています」
「蓋が外せるかどうかが問題なんですか?」わたしは尋ねた。
「その空間に何かを隠していたとしたら、中身を抜いた時に後からばれないようにしたいと思うだろ。簡単に外せる物なら、その時に持ち去っているはずだ」
「あれに何かを隠していたっていうんですか……?」
「それ以外に、あんな仕掛けを作る理由なんてないからな」
まあ、伊達や酔狂で作るものじゃないからな。他人に見つからない場所に作っている以上、隠し場所として機能させていた事は確実だろう。
何か都合の悪いものが、あの空間に存在していたのだろうか……。この部屋自体が、強力なセキュリティシステムによって一つの金庫となっているなら、たとえここに隠されていると判明しても、誰かが持ち出す事はまず不可能だろう。ここのシステムに穴がなければ、の話だが。
「この建物の暗証番号って、ここの会員しか知らないんですよね」と、キキ。
「ああ。卒業生も知らないと思うよ。毎年変更されていて、その度に新しく入った会員に伝えるのが慣例だから。まあ、途中で退会した人がいた場合も変更されるけど」
「それじゃあ、会員以外の人が入るためには……」
「現会員の付き添い無しで入るのは無理だよ。そもそも鍵を借りるときだって、写真付きの学生証を見せて、ここの会員である事を確認させないと貰えないから」
徹底しているなぁ……この状況では、外部の人間がこの部屋に入るとすれば、現会員の誰かを丸め込むしかないけれど、それはよほどの事態じゃなければやらない事だ。
「そうなると、隠していた中身を回収できるのは、退会あるいは卒業より前。いずれにしても、会員として籍を置いていた時点でなければ、中身を持ち出すのは不可能だ」
福沢の考えにキキも同調して頷く。
「そうですね。そして同じ理由で、ここに隠せるのも会員しかいない。でも、こんな所に隠せるものなんて、高が知れていると思うけど……何を隠していたんだろう」
「ビニ本でもあったんじゃない?」
さそりは笑顔で破廉恥な事を平然と言った。もちろんこれは冗談だけど、誰も笑ってはくれなかった。中には、冗談で済ませられないと思った人も、いるかもしれない。




