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DEAD LINE~悪魔の刻限~  作者: 深井陽介
第二章 咎人のタイムリミット
31/47

その11 左利きの悲劇

 <11>


 しばしば大人たちのいわく、自分に出来る精一杯の事をやるべし。

 自由律の標語に掲げられそうなくらいよく耳にするが、自分の限界を見極められなければ逆に最悪の結果を招きかねない、諸刃(もろは)(つるぎ)とでも呼ぶべき行動だとわたしは思う。

 精一杯ではなく、自分のキャパシティの八分目くらいに留めるべきだろう。誰が何をするにしても次というものがあるのだから、どこかの時点で全力を尽くせば次が無くなってしまう恐れがある。プロのアスリートだって、どれほど大きな大会の舞台に立っても、そこで全ての力を出し切るなんて事はしない。あくまで、他人よりもどのくらい高い割合で自分の力を出せるのか、それを競うのがプロの世界だ。

 もっとも、わたしはまだプロじゃないので、今のうちは気楽にできるけれど。

 全力を出すのではなく、可能な限り高い割合で能力を発揮することが肝要である。その理屈を唱えているのは剣道部の風戸先輩だ。能力の限界を知ってしまえば、そこから先の成長は望み薄になってしまうが、伸び代をあえて残す事によって、体調管理と並行しながら能力を伸ばす事が可能になるのだという。

 スポーツの世界に身を置いている以上、重要なのは自分の体を大切にする事だ。記録を残す事に固執するあまり、我が身を痛めつけては本末転倒なのだ。

「というわけなので坂井さん、一回私と手合わせをお願いできるかしら」

 ここまでパイプ椅子に腰かけて持論を展開していた風戸先輩は、わたしに向かってそう言いながら立ち上がった。話の繋がりが判然としないのですが……。

 先輩はこうした理屈を支持しているため、相手の力量を見極めたうえで厳しい指導を行うのが常だ。歩行に支障が出ないくらいに疲れるのが、練習量としては適切だそうだ。先輩に目をつけられているわたしは、たまに前後不覚になるまで練習させられる事もあるのだが。

 道場に来てすぐに風戸先輩の講釈を聞かされ、その後の手合わせでは善戦したもののやはり先輩を上回れないわたし。まだまだ鍛錬が足りないと思っていると……。

「よし、坂井さん。もう帰っていいわよ」

「またですか」

 わたしは短く突っ込んだ。先週も全く同じ事をしていましたけど。

「昨日からそうだったけど、また坂井さん、様子がおかしかったから。これはまた早退の必要ありと判断したの」

「こっちが頼まないうちから早退の許可を出すって……いや、ありがたいですけど」

「それにしても」先輩は顎を撫でた。「数日休んでも全く動きが衰えないわね。やっぱり指導長の後任は坂井さんがふさわしいかもしれないわね」

「あの、わたしに後輩の指導はさすがに……」

「みんな! 次の指導長に坂井さんを推薦してもよろしい?」

 道場にいる剣道部員全員に先輩が大声で問いかけると、即座に全員の返答がきた。

「異議なし!」

「……だってさ。それだけ信頼されているのよ」

 わたしの意思は完全に無視ですか。指導長は練習メニューの作成などが割と面倒である事を誰もが知っているので、その役が自分に回って来なければ誰でもいいだけだ。先輩もかねてから指導長の後任にわたしを抜擢しようとしていたから、わたしだけはメニューの作り方をさわり程度に教わっていた。そしてその事は、多分全員が知っている。

 要するにこれは、茶番なのだ。素直に喜べない……。

 まあ、今さら断る理由もそのつもりもないので、受け入れる他はあるまい。それでも最後は本人の意思によるので、わたしはとりあえず返事を保留することにした。すなわち返事の先延ばしである。

 先輩の予想通り、わたしには現在進行形の問題があるのだ。


 四ツ橋学園中の校門の前に、キキとあさひは待っていた。キキの言動は目立つものが多いけれど、こうしてじっと(たたず)んでいれば空気に溶け込めるのだ。

 今日はこの三人でさそりの家に行き、母親の篠原星子(ほしこ)さんから話を聞く予定だ。昨日の殺人事件の行方も気になるが、わたし達に実害がない以上、現時点で深入りする理由は何もなかった。美衣は不参加と知らされた。

「そういうわけで、昨日は生徒会の仕事を速攻で終わらせてみかんのお見舞いに行ったわけだけど、もうほとんど普段と変わらないくらいに回復していてね、本当に心の底からほっとしたよ。わたしより先にあの双子ちゃんが来ていたけど、楽しそうにしていたよ。あの子たち、お見舞いに果物の蜜柑を持って来ていて、あれじゃ完全に共食いだって言ったらみんな大笑いしてね。それから……」

 昨日の出来事を楽しそうに話すあさひ。こんなに饒舌な奴だっただろうか。

「それにしても、今日は早かったね」

 キキはすでにあさひの話に興味を向けなくなっていた。

「学校の外の事情をそれとなく察した先輩が、自己判断でわたしの早退を決めたの」

「部長さんなの?」

「いや、部員の練習を指導する指導長。多分怒らせると部長より恐い」

「つまりその人に逆らえる人は剣道部にいないんだね……。でもいいな。それって先輩から信頼されているって事でしょ? 羨ましいなぁ」

 そう思うならお前も部活に入れよ、帰宅部野郎が。

 あさひの長い語りが終わったところで、わたし達は門間町にあるさそりの家に向かう。わたしやキキと同じ小学校に通えるくらいなので、位置的には星奴町との境界に近い所にある。従って、徒歩で行ってもそれほど時間はかからない。

 四時半より少し前に到着し、わたしが代表して呼び鈴を鳴らした。

「あ、みんないらっしゃい」玄関から出てきたのはさそりだ。「いまお母さんがホットケーキ焼いているから、どうぞ遠慮せず入って」

「はーい」

 キキは本当に遠慮なくずかずかと入っていく。美衣は甘味好きだが、キキは菓子と名のつくもの全般が大好きだ。水菓子、いわゆるフルーツも例外ではない。

「この家って、来るたびにホットケーキが振る舞われるよね」と、あさひ。

「星子さんが腕を披露したいだけなんじゃないの?」

 女手一つで一人娘を育ててきた母親は、ケーキ作りを趣味にしているらしい。

「それにしても、キキはあんな調子で大丈夫なのかしら」あさひは嘆息をついた。「わたしにはどうも、事件の調査の事を忘れているような気がするんだけど」

「まあ、あいつは色々肝心な事を忘れるけど、自分で決めた大事なことは忘れないから」

「それは当たり前」

 あさひはぴしゃりと言い放った。おっしゃる通りです。というか、肝心な事を忘れるのは十分に致命的だ。

「そんなキキでも、もみじや美衣は信頼しているんだな」

「幾度となく見てきたからね。キキが瞬時にトラブルを解決していく様を」

「まあ、もみじが誰を差し置いても信じる相手なら、わたしも信じるという事にして、とりあえずホットケーキを食べに行きますか」

「目的がずれてる、ずれてる」

 これではまるで、ホットケーキを食べるために来たみたいじゃないか。十四年前の事件について、星子さんから話を聞くのが主たる目的のはずなのに。

 しかし蓋を開けてみれば、星子さんは夫の事件について警察から聞いた以上の事は何も知らないらしく、詳細を聞き出す事はできなかった。考えてみれば、篠原氏が加入していた生命保険の存在さえ、星子さんは知らなかったのだ。

 いつしか話の内容はホットケーキの味の是非にすり替わっていた。この空気の流れを変えるのは面倒だと思ったので、わたしもホットケーキを味わう事にした。うん、確かに美味だ。美衣にも食べさせたいな。

「そうそう、みんながあの人の事件を調べているって聞いたから、もしかしたら役に立つかもと思って、部屋を探してみたのよ。何か手掛かりがないかと思って」

 星子さんはどうやらわたし達の調査に協力的みたいだ。彼女は食器棚に近づき、レシピ本などを置いているスペースから一冊の大判の本を手に取った。

「それで、こんな物が見つかったの」

 テーブルの上に置かれたその本に、全員が視線を集中させた。形はほぼ正方形、三センチほどの厚みがあるハードカバー冊子。表紙には『Memories』と書かれていた。

「これ……アルバムですか?」

「そう。いま唯一残る、あの人の過去の証明なのよ」

「唯一?」

「なんか、過去を思い出すようなものはほとんど自分の手で捨てたんだって」さそりが答えた。「学生時代の思い出の品は、このアルバム以外全て、大学在学中に処分したそうだよ。まあ、わたしはお母さんから聞いただけだけど」

 なるほど、それで一つ合点がいった。

 さそりは九歳になるまで父親の存在を聞かされなかったと言っていたが、よく考えてみれば、離婚したわけじゃないのだから、父親の存在を示すようなものは家の中にあってしかるべきなのだ。子供ならふとした偶然で、それを見つけてしまう事だってあるだろう。九歳になるまで一度も見つけなかったという事は、最初からそうした思い出の品が家の中になかったのだ。

 それにしても……大学在学中に思い出の品を全て捨てるとはただ事じゃない。

「一体、篠原さんの過去に何があったんですか?」

「私にも分からないわ」星子さんはかぶりを振った。「あの人、自分の子供時代は劣悪極まりないものだって言っていたのよ。そのせいで、多くを語りたがらなかったから」

「……そうかもしれませんね」

 あさひはぼそっと呟いた。何か思い当たることでもあるのだろうか。

 キキは無言でアルバムをめくっていた。虹彩の色に変化はないので、この時点で閃きは訪れていないようだが……何か決まった考えを持っているようにも見える。

 わたしもキキの横からアルバムの中身を覗いてみる。特別楽しそうな光景を撮影している写真はないが、星子さんの話に聞くような劣悪な雰囲気は見られない。辛い子供時代を想起させるものじゃないから、篠原氏もこれだけ処分しなかったのだろうか。

「……篠原さんにとって、劣悪な子供時代は過去の話に過ぎないんじゃないかな」

 キキは突然そう呟いた。

「どういう事?」わたしは尋ねた。

「ここにある写真をよく見てごらん。撮影して何十年も経っているから、全体的に変色している。だけど、縁の辺りがわずかに白くなっているでしょ」

 確かに、言われてやっと気づくくらいの程度だけど、どの写真も、縁の所がわずかに白くなっている。この部分だけ変色が遅れているようだ。

「これは多分、元の写真を白い紙の上なんかに載せて、重ね撮りした跡だよ」

「重ね撮り? 同じ写真をもう一枚作ったって事?」

「大昔に撮った写真で、フィルムが残っていなかったから、焼き増しが出来なかったんだろうね。それでこんな手段に出たわけだ……」

 もちろん手段は大きな問題ではない。いくらでも想像できる事だ。デジカメと違って、撮影した日付と時刻が記録されないのが、フィルムカメラの特徴なのだ。

 それよりも分からないのは、なぜ同じ写真をもう一枚作ろうとしたのか、だ。このアルバム自体も相当古い物だが、重ね撮りしたのはもっと後になってからだろう。少なくとも重ね撮りした時点でフィルムは紛失していた。それほど後になってどうして……。

 それに、元の写真はどうしたのだろう。そっちは処分したのだろうか。だとすればそれは、重ね撮りをした後という事になる。処分する理由はとりもなおさず、劣悪だという自分の過去を思い起こさせるからだろう。それなら、もう一枚同じ写真を作って保管しておく意味はない。どうも目的がはっきりしない行動だ。

 もっとも、この謎だらけの行動についてあれこれ考えたところで、肝心の事件の謎が解けるわけではないかもしれない。キキはこれを見て、篠原氏が劣悪な子供時代を避けないようになったと言いたいみたいだが、それが事件に繋がると考えているのだろうか。

 ところで、キキは先ほどから一枚の写真を凝視している。

 小学生くらいと思われる篠原少年が、草地に腰かけて写生している所を撮影した写真のようだ。親か、もしくは学校の同級生が撮ったのだろうか。少年の左後方からのアングルで、撮影に気づいて振り向いた瞬間だ。左手に鉛筆を握り、何もない草地に体育座りして画用紙を太腿に立てかけている。……特に変な所はなさそうだが。

 すると、キキは突然アルバムを閉じた。周りにいる全員が瞠目した。キキは真剣みを帯びた表情のまま、星子さんに向かって言った。

「あの……このアルバム、しばらく貸してもらっていいですか」


 篠原氏のアルバムを借りて、わたし達はさそりの家を出た。今度はさそりも一緒だ。外はさっきより少し肌寒さが増したようだ。

 しばらくは四人とも無言で、当てもなくぞろぞろと歩いていた。沈鬱な表情を浮かべている人は一人もいない。ホットケーキは絶品だったし、予想とは違ったが篠原氏の事について片鱗だけでも知る事ができた。収穫はゼロというわけじゃない。

 しかし、自分たちの調査が前進した感触はなかった。立ち止まっているだけだと自覚する事を恐れているのか、とりあえず歩けば気が紛れると思ったのか……。

 いや、どうせ意味はない。わたしは考えることをやめてキキに尋ねた。

「ねえ……さっきの写真で何か分かったの?」

「もっちゃん」キキは言う。「一部だけ分かっても、それは分かったうちに入らないよ」

「何一つ分からない人に対して、少しは親切にしてもいいんじゃないの?」わたしは髪を掻き乱した。「ていうかもっちゃんと呼ぶな」

「どんな状況でもそのツッコミは外さないんだな……」

 あさひが何やら呆れたような口調で呟いたが、気に留めなかった。

「分かった事はあるよ」キキは表情を変えない。「少し前から予想はしていたけど、これでさらに確信が強まった。事件の構造は大体見えたと思う」

「マジか……あの写真がどういうヒントになるっていうの」

「じっくりと観察すれば分かるよ」

 一目見ただけで手掛かりを得たキキが言っても、今ひとつ説得力に欠ける。

「でも、まだ不完全な気がしてならないな……わたしにはどうしても、この事件がどうして起きたのか理解できないんだ」

「理解できないって事は、予想はついているって事?」

 さそりもなかなか鋭い指摘をする奴だ。キキは振り向いて微笑んだ。

「まあね。根拠も何もないけど」

「キキの場合は確たる根拠がなくても的を射た仮説が立てられるでしょう」

「そうかな」

 あさひも確かにキキの閃きに信を置くようになったみたいだが、当の本人はまるで無自覚のようだ。これは今に始まった事ではないが。

 そして、キキが自らの閃きの鋭さを自覚していようといまいと、確証がない以上は決して口を開かないのだろう。これも今に始まった事じゃない。探偵役を気取っているわけじゃないが、キキにはキキの信念というものがあるのだ。

「それより、わたしはあっちゃんにどうしても聞きたい事があるんだけど」

「わたしに?」

 自分に関心が向いてくるとは予想しなかったらしい。あさひは自分を指差した。

「篠原さんの劣悪な子供時代の事、何か思い当たることがあるみたいだったよ」

「…………」あさひは反応しない。

「教えてくれないかな。あっちゃんは、何があったと考えたの?」

 キキとあさひ、二人の視線が交錯する。無邪気な好奇心から生じる真剣さと、強固な理性に裏打ちされた真剣さがぶつかって、あたかも睨み合いの様相を呈していた。もっともこの二人では、激しく火花を散らすレベルにはならないが。

 あさひは肩をすくめ、自嘲するように微笑みながらため息をついた。

「そっちが何も話さないうちに一方的な情報の要求とは、フェアじゃないね。事件に関係する可能性は低いし、あまり気持ちのいい話でもないけど」

 そりゃあ、経験者が劣悪と評価するような出来事が、いい話であるわけもなかろうし。あさひが説明を渋る理由だってその一点に尽きるのだろう。この場には、父親である篠原龍一の事をほとんど知らない、娘のさそりがいるからだ。

 とはいえ……。

「とはいえ」あさひはさそりを見て言った。「聞いても後に引かない覚悟は全員が持っているみたいだし、ここは話した方が得策かもしれないね」

 それを聞いて、さそりはにっと笑う。

 あさひは右手を掲げて、人差し指をくいっと曲げた。ついて来て、という意味だ。

「確かこの先に公園があったよね。道端で話すのもあれだし、そこに行きましょう」

 反対意見はなかった。頷くまでもなく、わたし達は自然と歩き出していた。

 公園に到着して、さそりだけがベンチに座って、全員であさひの話に耳を傾ける。

「今でもごく少数ながら存在するけれど、昔は全国の至る所に、左利きの子供を右利きに無理やり矯正しようとする教師が多くいたのよ」

「左利きを右利きに……矯正?」

 今でもたまに、左利きを右利きに直そうとする人を見かける。この言い方は当人の言葉を借りただけだが、これを“直す”と表現するのはいかがなものだろう。“矯正”も同じくらい不自然な響きを持っているように思えた。

「極端な集団主義の現れというのかな。まあ、こういうのは一言で片づけられる問題じゃないと思うけど……とにかく、左利きに対する差別的偏見が世間の常識とされていた時期があったのよ。今から四十年か五十年くらい昔の話ね」

「お父さんの子供時代と重なっている……」さそりが呟く。

「予断を差し引いて普通に考えてみても、左利きを右利きにするなんて無茶でしょう。大抵は生まれた時点でどちらが利き手になるか厳密に決まってしまう上に、利き手じゃない手で複雑な作業をこなす事は生物学的にも脳科学的にも困難である事は明白。でも、昔から古今東西問わず、左利きは異端とか変異種だと見なされ、周囲の人間が無理に右利きにしようとして本人を苦しめるなんて事例は数知れない」

「利き手になる前に手を痛めてしまうんじゃない?」と、わたし。

「そればかりか、周囲の容赦ない差別とプレッシャーのせいで、ストレスが祟って吃音(きつおん)になってしまう子供もたくさんいたのよ。そして、今度はその吃音を無理やり直そうとしてもっと症状を悪化させる……そんな負の連鎖に陥ってしまう」

 背中が粟立つ感覚を覚えた。子供のそうした苦しみに目を向けず、ただ大声で命令したり罵倒したり、そんな大人の姿を想像したら戦慄のあまり震えてしまいそうだ。

「それじゃあ、篠原さんも子供時代に、そうした差別を受けていたのかな……」

 キキも辛そうな表情で言った。

「日常的に受けていた可能性は高いわね。集団主義の弊害だと評する人もいるけど、同じ事例はどの国にもある。個人主義が根強い欧米でもね。要するに、人間は自分の常識の枠組みに当てはまらない存在に対して、意識せずとも冷酷になるって事よ。マイノリティを攻撃する事でマジョリティの中で立場を得られる、そうした単純な図式が根底にあるのでしょうね。主義主張とか関係なく、それが人間の本質なのよ。悲しい事だけどね」

 少数派を攻撃する事で多数派の仲間入りを果たした気になって、妄想に等しい常識の枠組みで立場を得て自分の身を守る……そう解釈するなら、左利きの矯正を強要するのは、利己的が過ぎる言動と言わざるを得ない。人間の本質が利己的という考え方は、あながち間違っていないのかもしれない。

 以前に風戸先輩から聞いた事があるが、剣道の世界で左利きの存在は埒外(らちがい)に置かれる事が多く、利き手を区別せず全て右利きに合わせるという。昇段審査の基準も右利きである事が前提だし、左利きのための指導者も少ない。左利きの人間が抜刀する時の事を考えると、(さや)を納めるのは自然と右側の腰になる。だが、武士が台頭していた時代では、左に構えるのは臨戦態勢で右は敵意無し、という具合に、刀を左右どちらに差すかで意思表示をするのが常識だった。その名残が現代の剣道における右利き優先の風潮だと言える。もっとも、公式ルールでは刀をどちらに持ってもいい事になっているが。

 明治に入って武士の時代が終わってからさらに過激な差別があったとはいえ、大昔から日本では左利きとは異端だったのだ。各個人に考え方の違いはあれど、伝統と集団意識を重視するのが日本文化。その中で少数の例外は常に肩身の狭い思いをしているのだ。

「……お父さんは」さそりが俯きながら言う。「そんな酷い時代に生まれて、迫害みたいなことをされていたんだね。毎日のように虐げられていた、そんな過去を思い出させるような物を、いつまでも取っておきたいなんて考えないよね、絶対……」

「思い出を捨てたって過去は消えないよ」と、キキ。「それに、時間が過去の記憶を消したとしても、心の傷はそう簡単に消えない。篠原さんは、一生消えることのない心の痛みと、一緒に生きていく事を決めたんだよ、きっと」

 その言葉を聞いて、さそりは小さく頷いた。

「そうかもね……思い出を捨てるって事は、前に進もうとしていたって事だよね」

 同じ事はさそり本人にも言えるのではないだろうか。父親の死を知った事で苦しみを追いながらも、その苦しみに真っすぐ向き合う事を選んだのだから。

 ……それにしても、平日の公園で中学生が友人を囲んで話す内容じゃない。重苦しい話になる事は覚悟していたけど、想像以上に雰囲気を暗くしてしまっている。様子を見て別の話題に変えるべきでは、そう考え始めた時だった。

 わたしの携帯に着信が入った。驚く事に、友永刑事からの電話だった。

「も、もしもし?」慌てて電話に出た。

「ああ、もみじちゃん? いま時間は大丈夫かい?」

「あ、はい、大丈夫です」

 忙しいどころか公園で暇を持て余している。隣にいたキキが携帯に耳を接近させた。いつだってこいつは肌の接触をためらわない。

「さっき、文芸明治書房に行って週刊文明の編集部で話を聞いて来たところなんだ。福沢の事は君たちから提供された情報だし、きっと気になっているだろうと思ってね」

 相変わらずお人好しな刑事だなぁ。どうも素直に喜べない。

「情報をくれるのはありがたいですけど、また紀伊刑事に睨まれますよ」

「もちろんこの事は他言無用が前提だからね」

 なんだか後から付け足したような忠告だ。

「それで、編集長に尋ねてみたけれど、福沢大は八年も前に週刊文明を退社していて、現在はフリーの記者をしているそうなんだ」

 いきなりとんでもない事実が飛び込んできたな。つまり、福沢はいま現在、週刊文明に所属する記者ではないという事か。

「えっ、でもその福沢って人、さそりに週刊文明の名刺を見せていましたよ?」

「フリーの記者がたまにやっている事だそうだ。むかし使っていた名刺を見せて身分を偽っても、金銭の授受がなければ違法とは見なされない。倫理上は確かに問題があるけど、構わずやっている人は割といるらしいよ。出版社側も、他者に情報を売らなければ黙認しているのが現状らしい」

「どいつもこいつも……」わたしは呆れるしかなかった。

「まあ、法的に問題がなければ我々警察の出番はないけど。ただ、週刊文明に在籍していた当時は、昨日殺害された朝沼数美がいた班のデスク……つまり班長だったそうだ」

「直属の上司だったって事ですか?」

「ああ。その上、つい四日前にも八年ぶりに編集部を訪ねていたそうだ。簡単な挨拶を交わして質問を一つだけして、そのまま帰ったらしいけど。木嶋さんなんかは、ますます福沢への容疑を強めているよ」

 確かに怪しいけれど、これだけで犯人と疑うのは筋が違うような……。

「相変わらず反省がないですね、木嶋さんは」

「あの人の辞書に『自省』という言葉はないんだよ。まあ、この状況を見れば、僕も福沢が事件と無関係だとは思えないけどね」

「友永刑事」キキが尋ねた。「福沢さんが編集長にした質問って何ですか?」

「ああ、それね。朝沼数美の現住所を訊いてきた人はいたか、と尋ねたらしいよ」

「ふうん……編集長さんはどう答えたんです?」

「二人いた、と答えたそうだ。どちらも電話で、名前も名乗らなかったけど」

「そうですか。ありがとうございます」

 キキはわたしの携帯から手を離した。彼女の虹彩の色が変わっている事を、わたしは見逃さなかった。どうやら何らかの閃きを得たらしい。わたしには分からないけど。

「それじゃあ、次は福沢さん本人に話を聞く流れですか」

「木嶋さんはそのつもりだったみたいだけど、編集部の人間に訊いても、福沢の連絡先は誰も知らないそうで……住所だけはなんとか分かったから行ってみたけど、留守だった。近所の人に聞いたら、ここ数日自宅に帰っていないらしい」

「木嶋刑事が性懲りもなく疑いを強める材料にしそうですね」

「まさにその通りだよ、もみじちゃん。指名手配まで視野に入れているくらいだ」

 冷静に考えれば、記者が取材のために長期間留守にする事はよくあるだろうに。そっちの可能性の方が圧倒的に高いだろう。

「僕もそろそろ会議に戻るけど、君たちも念のため気を付けてくれよ。万が一福沢が犯人だったなら、十四年前の事件にももっと深く関わっているかもしれないからね」

「はあ……」果たしてそこまで疑っていいのだろうか。

「君たちの方でも、何か分かったらこちらに連絡してくれ。じゃあ」

 そう言って友永刑事は通話を切った。全く、みかんが誘拐された事件が解決したと思ったら、今度は殺人事件の捜査に駆り出される。激務の日々を送っているなぁ。というか、捜査会議を前に何をやっているのだ、彼は。

「友永刑事から?」と、あさひ。

「うん。なんか色々怪しいから福沢氏が犯人じゃないかと木嶋刑事は決めつけているそうです。以上」

「あの雄鶏刑事……てか、わざわざ電話してきて話す事はそれだけかよ」

 あさひもずいぶん辛辣な事を言う……。でも反論の余地はないと苦笑いしていると、突然後方から話しかける声が聞こえてきた。

「君たち、ちょっと話を聞いてもらってもいいかな」

 だみ声に振り向くと、灰色の車の運転席から顔を出している男性がいた。見間違いなどではない。その人物は確かに、昨日マンションで目撃した人で、三か月前にさそりに接触してきた人で、そして警察が現状で最大の容疑者と見なしている人。

 つまり福沢大、その人であった。

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