その10 家族
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もみじ達が自宅に送り届けられている頃、あさひは星奴町で二番目に大きな総合病院、星奴中央病院にいた。みかんが入院している病室がここにあるのだ。
みかんは順調に回復傾向にあり、恐らく三日後には退院できるという話だ。まだ体力が十分に回復しているとは言いがたく、しばしの経過観察が必要になるのだ。とはいえ、あさひの話に笑いながら受け答えをしているから、元気と言えば元気なのだろう。さそりの事件は気になるが、あさひにとっては心底嬉しい知らせに違いない。
時間も遅くなってきたので、そろそろ引き時だとあさひは考えた。
「それじゃあ、わたしはそろそろ帰るね」
「えー、もうかえっちゃうのー?」
「かえっちゃうのー?」
すべて平仮名で書いているからお分かりだろう。これはみかんの妹の双子コンビのセリフである。二人は事件の詳細を知らされておらず、学校での用事の最中に怪我をしたとだけ伝えられていた。昨日も保育園からの帰りに立ち寄っていたらしい。
「まだしばらくいてもいいのに」みかんはベッドで上半身だけ起こしていた。「家政婦の須藤さんに送ってもらってもいいんだよ?」
「いやいや、どちらにしてももう遅いし。続きはまたの機会にしよう」
「うーん……あさひがそこまで言うなら、仕方ないか」
そう言いながらもみかんは名残惜しそうである。やはり見立て通り、いちごとりんごのそれぞれの性格が混ざっているようだ。しっかりしているようで甘えたがる。
あさひは軽く手を振りながら、病室の出入り口に向かった。
ところが取っ手に手をかける寸前に、扉がすっと横にスライドした。目の前に、仏頂面でやや肥満気味の中年女性が現れた。
「あ、須藤さん」
みかんがその女性に呼びかけた。この人が家政婦の須藤という人か。須藤はあさひに軽く一礼しながら脇を通り、みかんの元へ歩み寄った。
「お嬢様、ご気分はどうですか」
低めの声で慇懃な言葉を発する須藤。
「今のところ異常なし。あさひや妹たちがいてくれるおかげで、寂しくなかったから」
「それはようございました。この二人の事は、不肖須藤がしっかりと面倒を見ますので」
「お願いね。お父さんもしばらくは家に戻らないし……」
当然だが、家政婦の須藤も事件の概要は聞いている。そしてみかん自身も、搬送されて手当てを受けた後に父親の柑二郎から事情を聞いている。多分、意図的にいくつかの事実を伏せただろうが……。
須藤は双子コンビに向き直った。
「さあ、二人とも。そろそろおうちに帰りますよ」
「「えー」」
「いつまでもここにいては、ご飯が食べられませんよ。今日はロールキャベツです」
「「食べる!」」
五歳児の双子はあっさりと釣られた。扱いをよく弁えているようで……。そして須藤は双子を引き連れて病室を出た。双子は笑顔で手を振っていたので、あさひも反射的に手を振った。先に自分が病室を出るはずだったのに、どうしてこうなった。
結果として病室で二人きりになったあさひとみかん。さっきまでの賑わいが嘘みたいに、水を打ったように静まり返る。先に口を開いたのはあさひだった。
「ねえ……どうして話してくれなかったの? 連れ子だってこと」
「…………」
あさひはみかんに背を向けていた。でも、みかんが穏やかな表情を浮かべていることは容易に想像できた。彼女はいつだってそうだった。
「別に責めているわけじゃないし、何でも話すのが普通だなんて言わないよ。でも、せめてわたしには打ち明けてほしかった。他の人よりは秘密を共有しあえる、そんな関係であればいいと思っていたのよ。キキともみじの二人みたいに……」
「ラブラブになりたいの?」
「そこまでじゃないから。ていうかみかんから見てあの二人はそうなの?」
「うーん……わたしにとって、お母さんが再婚したことは、そんなに取り立てて大きな変化じゃなかったんだよ。それに、あさひと出会って友達になったのは再婚の後だから、その時はもう自分の中で心の整理がついていたんだよ。新しくできた妹は可愛いし、家政婦の須藤さんも、あんなふうに仏頂面だけどよく気が利いて優しいし、あの家にいて辛いと思ったことは一度もなかったから」
母親が再婚してからも、みかんはいい人たちに囲まれて暮らしていた。名家の中には殺伐とした雰囲気が漂うところもあるが、彼女はそうした世界とは無縁に生きている。おっとりとしているのは生まれつきだろうけど、その純粋さが維持できているのは、彼女を取り巻く世界に大きな変化が起こらなかった事が、要因として大きい。
しかし……それでもあさひには解せないことがあった。
「でもさ、お母さんの事は? あれもわたしと出会う前の事だろうけど、それくらいは話してもよかったんじゃないの?」
意識しないうちに、あさひは責めるような口調になっていた。だが、みかんは気にするそぶりを見せなかった。
「お母さんの事は……うーん、ちょっと説明が難しいかな」
「みかん……」
「何となく話しづらかったんだろうなぁ。特にあさひには」
どういう事だろう。あさひはみかんの言葉に耳を傾けた。
「……あさひはさ、良くも悪くも、自分の事を後回しにしがちじゃない。だから、お母さんのことを話したら、変に気を遣い過ぎてよそよそしくなりそうな気がしたんだよ」
「…………」
「実際、今ものすごくわたしの事を気遣おうとしているでしょ? あさひの場合、それが度を越し過ぎて、接し方が分からなくなって迷走しちゃうから……」
あさひは何も言えなかった。みかんの指摘は正しかった。というより、あさひ自身よりあさひの事を理解しているように思えた。確かに自分は、他人の事情ばかりを優先して、自分の事を疎かにしているのかもしれない。あさひも少しは自覚していた。
けれど、同じ事はみかんにも言えるのではないだろうか。今だって、あさひに余計な心配をかけまいとして……いや、本当にそれだけだろうか。
「それって、わたしと離れたくないがためなんじゃ……」
「そうだよ?」みかんはあっさりと答えた。「さすがにあの二人みたいにべったりくっついてほしいわけじゃないけど、わたしだってあさひとずっと一緒にいたいからさ。妹たちもあさひの事は気に入っているみたいだし」
返答に詰まる。あさひは自分が照れて赤くなっている事を自覚していた。もうちょっと遠回しの言い方をしてほしいものだ。
「それにしても、いちごとりんごがあんなに懐いていたなんて……」
「みかんが拉致されている時に、一度、流れであの二人と麻雀をやる機会があってね」
「あー、あの二人は麻雀好きだからね。できると分かれば気に入るだろうね。わたしは未だにやり方がよく分からないけど……」
みかんは頬をポリポリと掻きながら言った。意外にももみじと同類だったか。
あさひは窓に寄り掛かり、ぼうっと天井を眺めた。
「いいな……わたしも、あんな妹が欲しいな」
「お母さんに頼んでみたら?」
みかんの冗談交じりの一言に、あさひは笑った。……口元だけで。
「それができたら、いいんだけどね……」
その様子に、冗談ではどうにもならない事をみかんは悟った。あさひのそばにずっといたから、あさひの事は誰よりも理解している、その自負が彼女にはあった。
養生のためにベッドを離れられない状態でなければ、あさひを抱き締めたいとさえ考えていた。でもそれができないと分かっていたみかんは、言葉をかけるだけに留めた。
「……あさひ、お兄さんの事を、今はどう思っているの?」
「兄? さあね……忘れた頃によく顔を見せに来るけど、ここ二年くらいは全く会えてないからね。連絡も全くよこさないし……」
「心配じゃないの?」
「深刻に構えるほど心配してはいないわよ。兄だってわたしの事なんか……」
「でも、ただ一人の味方、なんでしょ?」
あさひは答えなかった。知ったような口を、という言葉は呑み込んだ。知ったような、ではなく、みかんはちゃんと知っているのだ。罵ることなどできない。
「……もう、味方は唯一じゃなくなったから。みかんだって、わたしの味方でしょ?」
「そりゃもちろん。わたしはあさひの事、家族みたいに接しているつもりだよ」
「家族、ね……」
あさひは控えめに笑った。みかんはそれを見て、うふふ、と言った。
「本当にあさひが、わたしの家族になれたらいいのにね」
「何それ、告白?」あさひは笑い飛ばした。
「そんな大袈裟なものじゃないよぉ。物の例えみたいな感じだって」
ぼかし過ぎだろう。みかんの真意を今ひとつ測りかねているあさひであった。
その後、予定よりもかなり遅いタイミングで病室を出て、あさひは、人通りの少なくなった廊下を、重い足取りで歩いていた。さっきまでのやり取りは楽しかったのに、終わってみれば気分は沈んでいた。
理由は大体分かっていた。どんなに楽しくても、本来の自分との差異を自覚すれば、瞬く間に疎外感に苛まれることになるのだ。
みかんは言った。あさひと家族になれたらいい、と。本人は冗談半分のつもりだろうけど、あさひも本当は、そうなれば嬉しいとさえ思っていた。
だが……。
「だけど、駄目なんだよ……」
あさひは俯きながら呟いた。意図せず涙が溢れてくる。
「わたしは、幸せになっちゃいけない……そうなれない宿命なんだから……」
誰もが、ない物ねだりに走ってしまう。自分もそれと変わらないとあさひは思った。他人を羨む事はすなわち、自分を卑下することに他ならない。他人から羨まれる存在でも、それは同じだった。
願わくば、この手を取って自分も連れて行ってほしい。幸溢れん世界へと……。




