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DEAD LINE~悪魔の刻限~  作者: 深井陽介
第二章 咎人のタイムリミット
28/47

その8 ニューセンチュリー・ヒルズ2815×2107

 <8>


 村井瑞希をなんとか受付に帰した後、わたし達はバスで、里村が住むマンションへと向かった。タクシーで門間町に来て、今度は星奴町へとんぼ返りである。忙しいというか、何をやっているのだろうという気分になる。

 バスの最後尾に並んで座る。キキは携帯でマップ検索をしていた。

「名前は『ニューセンチュリー・ヒルズ』……一番近いバス停は町民会館前だね。そこから、歩いて大体五分くらいかな」

「町民会館前なら、この路線で大丈夫だけど……行動が無計画過ぎないか。バスに乗る時も、ちょうど到着したバスにそのまま乗り込んでいたし」

 美衣が不満を抱くのも分かる。キキのやつ、行き先もろくに調べずに、目についたバスにさっさと乗ってしまうから、わたしも確認する余裕がなかったのだ。これは頼りがいのある直感ではない。ただの当てずっぽうだ。

 十分ほど経って目的のバス停に到着し、わたし達はバスを降りた。携帯で地図を確認しているのはキキだが、彼女は果たして地図を正確に読めるのだろうか……。

 五分後、わたし達は迷うことなく『ニューセンチュリー・ヒルズ』に到着した。天然のキキも、さすがに地図が読めないわけじゃないと分かって、少し安心した。

 このマンションは三十階建てで、里村の住んでいる部屋は2815号室だという。つまり三十階建ての建物の二十八階に住んでいるのだ。高層階住まい。上場企業の専務というのはそんなに高給なのだろうか。

「おー、高いなぁ」体をのけ反って上を見るキキ。「最上階が小さく見えるよ」

 キキは明らかに足元への注意を怠っていた。徐々に後ろへ下がっている。

「おい、キキ、危ないから……」

「わっ」

 忠告も虚しく、キキは足を絡ませてバランスを崩し、背後にいたわたしに向かって倒れ込んできた。結果、一緒に後ろ向きに倒れてしまう事に。

「大丈夫?」

 さそりは特に心配する様子もなく淡々と尋ねた。

「いってぇ〜……だから言わんこっちゃない」

「あはは、もっちゃんがクッションになってくれて助かった」

「なんでわたしがあんたの緩衝材になるのよ」そしてなぜ笑う。

「おい、コントに興じている場合じゃないだろ」

 美衣は冷たく言い放った。やりたくてコントをやっているわけじゃないと言いたい。というか誰も心配してくれないとは酷い話だ。

 こんな不毛なやり取りの後、わたし達はマンション内に足を踏み入れた。ちなみにここはエントランスで部屋番号を打ち込んで、その部屋の住人に了承を取らないと、自動ドアが開かない仕組みになっている。ただし、内側からは普通に接近するだけで開くので、たまたま外出しようとしていた人がいた所を狙って、自動ドアをくぐった。

 これも、突然に訪問して、警戒心から普段の状態を変えさせないようにするためだ。行き当たりばったりである事に変わりはないけど……。

 エレベーターで二十八階に到着する。十五番目の部屋だから、もう少し廊下を奥へ進んだ所だ。

 2815号室に近づくと、その部屋のドアの前に一人の男性が立っていた。エレベーターから降りた時にも、彼はその位置にいた。客人だろうか。

 男性がこちらを向いた。睨みつけるような表情で。それを見て、なぜかさそりが真っ先にわたしの背中に隠れた。いつもなら怒鳴られても気丈に振る舞えるさそりが、無言で睨まれているだけで怯えている。

「……どうしたの?」わたしは小声でさそりに尋ねた。

「あの人だよ、この間わたしに話しかけてきた、福沢って記者の人」

 瞬時に警戒心が生じる。わたしはこの男性に真っすぐ視線を向けた。

 しかし男性はわたし達の存在に興味を示さず、そのままわたし達の横を通り抜けて、エレベーターホールへと向かって行った。

 姿が見えなくなったところで、わたしは口を開いた。

「何よ、あれ。子供に向かってガンを付けてくるなんて」

「色々な人がいるから、気にしたら負けだよ」

 確かに、キキは露ほども気にしていない。さっさと2815号室の呼び鈴を鳴らした。ドアの向こうから近づいてくる足音、そして「ん?」という声が微かに聞こえた。ドアスコープからわたし達の姿を見て、何事かと思ったみたいだ。

 ドアが開けられて、ワイシャツ姿の男性が顔を見せた。

「えっと、君たちは……?」

「里村祥介さん、ですね。初めまして、わたしはキキと言います。こちらは」キキはさそりを手で示した。「篠原龍一氏の娘の篠原さそりです」

「しのはら……篠原?」里村は両目を見開いた。「きみ、あの篠原さんの娘なのか?」

「はい」

 さそりは真っすぐに里村を見て言い放った。本当に胆の据わっている子だ。

「そうなのか……君のお父さんには、生前とてもお世話になったよ。あ、立ち話もあれだし、部屋の中で話をしようか。君たちも入るといい」

 あらまあ。予想外にすんなりと部屋の中に入れてもらえる事になった。まだ話の分かる人と決まったわけじゃないが、とりあえずここまでは順調みたいだ。

「色仕掛けの必要性が皆無だったな」

「むぅー……」

 美衣の一言に、また口を尖らせるキキ。

 後から知った事だが、このマンションの二十七階から最上階までは、それより下の階の部屋と比べて二倍近く広く、家賃は五倍あるという話だ。その通り、里村が住んでいるこの部屋も、1LDKでありながら一つ一つのスペースがやたらと広く、一人で暮らすには無駄な空間があり過ぎるくらいだ。

 わたし達はリビングに通され、ソファーに座って話をする事になった。初対面の人の住居、しかも壁や天井との距離が長すぎる空間にあって、わたしはなんだか落ち着かない。別の意味で落ちついていない奴もいるが。

「わあ、本当に広いお部屋ですね。これ一人で占領するのはもったいなさ過ぎですよ」

「あはは、確かにそうかもしれないね。専務としての仕事が落ち着いたら、所帯を持つことも考えた方がいいだろうな。ま、しばらくその縁はなさそうだけど」

 迂遠(うえん)な物言いをしているが、仕事が忙しい事と伴侶を選べない事は別次元だと思う。本人がどんな言い訳を使おうが勝手だけれど。

「あなたの個人的な事情に興味はありません。こちらの話を始めてもよろしいですか」

 一人だけ短いソファーに腰かけている美衣が冷たく言った。彼女の場合、並んで座るのが嫌なわけじゃなく、他人の肌に触れるのに慣れていないだけである。

「あ、ああ、分かった……それで、篠原さんの事だったね」

 その後、里村の口から篠原氏の人柄が語られ、その次にわたし達が十四年前の事件の事を調べていると話した。最大のブレインたるキキが一番気になっていた、事件当時の篠原氏の行動について、里村も奇妙に思っていた事があるという。

「生命保険をかけた理由か……僕も、篠原さんが死を予感していたようには見えなかったな。ただ、事件が起きたその日に様子がおかしかったのは確かだよ。前日までは、そんな素振りはなかったけど」

「前日に買ってきてほしいと言われたはずの、紅茶の存在を忘れていた」と、キキ。

「なんだ、そこまで知っていたのか。でもそれだけじゃなくて……喫煙スペースの前だったかな、篠原さんが携帯電話に向かって怒号を飛ばしていたんだ。僕は、篠原さんとそれほど付き合いが長いわけじゃないけど、あんな篠原さんはついぞ見た事がなかったね」

 この瞬間、キキの目の色が変わったように見えた。スイッチが入ったか。

「あの、その時に篠原さんが使っていた携帯って、普段使っていたものでしたか?」

「うーん、どうだったかな……何しろ遠目に見ただけだし。パッと見た感じでは、いつもの携帯だったと思うけど」

「そうですか。はい、大丈夫です」

 こんな不明瞭な回答でも問題ないというのか。キキの考えがやっぱり分からない。

「あの」さそりが口を開いた。「お父さんの保険金は、全額NPOに寄付したと、さっき会社の方で松田さんと桧山さんから聞きましたけど……」

「会社の方から来たのかい? よく動けるなぁ……ああ、それは事実だよ」

「どんなNPO団体ですか?」

 その問いかけにはなぜか口をつぐんだ。ここまで澱みなく答えていた里村が返答を渋ったという事は、何かつつかれたくない事があるのだ。

「……その質問は、僕のプライベートに触れる事だよ。いくら相手が篠原さんの娘さんでも、そこまで答える権利はないな。そこの細目の子みたいに、僕の個人的な事情にまで興味関心を向けるのは慎んでいただきたい」

 細目の子というのは美衣の事だ。目を細めているというより、常に冷めた目つきをしていると言うべきか。言われた本人が眉根を寄せて機嫌悪そうにしているので、細目という単語はあまり気に入らないみたいだ。

「でも里村さん」キキが言う。「あなたは松田さんや桧山さんと違い、自分の事にはそのお金を使いませんでした」

「…………」

「篠原さんが我が身を引き替えにしてでもあなた方に保険金を授けたのは、困窮していた三人の生活に救いの手を差し伸べるためであったはずです。篠原さんは、あなた方に自分の生活のために保険金を使ってもらいたいと思っていた……あなたのやり方は、そんな篠原さんの望みに適うものだと思いますか?」

 真顔でゆっくりと、言い聞かせるようにキキは問いかけ、里村は無言でキキを見返していた。キキは決して、里村の行動を否定しているわけじゃない。純粋に里村の意図を知りたがっているだけなのだ。その事が相手に通じるかどうかは分からないが……。

 里村は、それまでの穏やかな態度を希薄にして、少し見下すような口調になった。

「君たちは少し思い違いをしているみたいだが……確かに僕は篠原さんにはとても世話になっている。今の会社に就職したのも篠原さんが融通を利かせてくれたからだ。入社してからも幾度となく僕に指導を施してくれた。だから、全く恩義を持っていないと言えば嘘になる。しかし……全面的なものじゃない」

「…………」わたし達は沈黙を返した。

「篠原さんが亡くなった時、僕は入社してまだ三年目だった。その後の事は、ほとんど僕自身が多くの人間の処世術を盗む形で積み上げた結果だ。篠原さんは僕に道を見せてくれただけだ。その事自体は確かに大きいし不可欠だったが、大部分を占めているわけじゃない。あの人に恩義を感じていたとしても、それは50%ほどに過ぎない」

「……だから、篠原さんの望みの全てに従う義理はないと?」

「平たく言えばそういう事だ。正直、生命保険金なんて使う気になれなかったよ。いま僕がここで生活できているのは僕自身の力によるものだ。保険金でのし上がったと思われる事だけは、断じて避けたいと思っていたからね」

「…………」

「なんて言っても、僕の力は言ってみれば、人ごみをすり抜けるのが上手いという程度のものだ。そういう力の方が社会で生きていく上での最強の武器になると、僕は自分の経験で実感したわけだよ。君たちもいずれ知ることになるさ」

「里村さん」

 キキはやけに低い声で言った。聞いているこちらがびくっとするほどに。

「あなたの言う『人ごみを上手くすり抜ける法』が、社会における正論だとしても、人には人の生き方があると思いませんか?」

 里村は表情を固めてキキを見返した。キキもまたぶれない信念の持ち主だ。

 やがて里村は反駁の余地がないと思ったのか、ふっと息を吐いて答えた。

「……確かに。僕の意見は考え方の一つに過ぎないな。それが全てではないという事を、締めくくりとして言っておこう」

「こういう人って嫌いだ……」

 美衣は下を向きながら呟いた。里村にも多分聞こえているだろう。

「Envy、Covetousness、Sloth、Lust、Gluttony、Anger……」

「最後はPrideかい? 以後気を付けるよ」

「美衣、それってもしかして……」

 英語は苦手なわたしだけど、美衣の言いたい事は何となく分かった気がした。わざわざ英語で遠回しに非難するとは、ずいぶんと面倒くさいことをする……。

「まあ、どれも人間の本質みたいなものだし、誰もが罪深いって事でしょ。わたしは神様の啓示なんて初めから当てにならないと思っているけど」

「知ってるよ」それは前にも聞いたからな。

「それより里村さん、わたしはさっきからあれが気になっています」

 話について行けないキキは強引に話題を変えようとした。キキが指差した先には、この部屋の内装として馴染むほどに瀟洒なカップボードがあった。恐らくキキが気になると言っているのは、その上に置かれている蓄音機の事だ。

「アナログですね」と、キキ。

「二度あった事が三度もあったか……」美衣はぼそっと呟いた。

「ああ、あの蓄音機かい? あれは貰い物だよ。最近は滅多に使わない、飾りとして置いているだけの安物さ」

「傷のない蓄音機はどんなに安くても二十万円はするはずだけど……」

 多分この時点で、美衣は里村の事を嫌いな人物に確定させたことだろう。わたしも、こういう人間は苦手かもしれない……。

「触ってみていいですか?」

「軽く触るだけならいいよ。傷をつけないようにね」

「はぁい」

 キキは楽しそうに駆けだしていく。こいつが言いつけを忠実に守る保証がないので、万が一を考えてわたしも同行する。もしキキが何かやらかしたら、迷うことなくツッコミ、もとい警告を発しなければ。

 間近で見てみると、飾りという表現はあながち間違っていないと思えてくる。細部まで丁寧に手入れされているみたいで、ホーンも本体も艶が出ていた。意外と物に対しては細やかな性格みたいだ。

「おや、これは何かな……?」

 またキキは目ざとく何かを見つけたらしい。蓄音機本体の側面に、『K.A.』とボールペンで書かれたシールが貼られていた。

「これ、誰かのイニシャルですか?」キキは里村に尋ねた。

「ああ、それは蓄音機をくれた人の名前だね。大学の同級生の朝沼(あさぬま)数美(かずみ)って人が、昔の蒐集癖(しゅうしゅうへき)で集めていた物なんだけど、ずいぶん前に処分するって事で貰っていたんだ」

「数美って……どう考えても女性ですよね」

「彼女さんとかですか?」無邪気にさそりは尋ねた。

「いや、彼女とは別にそういう関係じゃないけど……というか、僕以外にも彼女の私物を貰い受けた人は何人もいるよ」

「でも、こんな立派な蓄音機を貰うくらいですから、親しかったんですよね」

 言外に、立派過ぎて使い道がなさそうだという皮肉を込めてみた。分かりづらいか。

「まあそうだね。たくさんいる友人の一人というところかな。もっとも、最近はメールすら交わしていないほど疎遠になったけどね。卒業後にどこかの出版社に就職したという事以外、知っている事は何もない」

 出版社……ああ、そうだ。あの事をまだ訊いていなかった。

「そういえば、さっき部屋の前で妙な男の人を見かけましたけど、あの人って里村さんの知り合いですか?」

「おお、それ、すっかり忘れてた」キキはポンと拳を叩いた。

「部屋の前にいた男って……ああ、週刊文明の福沢って記者だ。君たちと同様、十四年前の事件の事を調べているみたいだったよ」

「みたいって……里村さんは、福沢って人に会った事がないんですか?」と、さそり。

「ああ、会ったのは今日が初めてだよ。そのくせ僕自身の事や会社の事情まで、妙に色々知っていて気味が悪かったよ」

 何という事だ。福沢は里村を始めとする容疑者たちに接触することなく、彼らの素性を調べ上げたというのか。恐ろしいほどの調査能力の持ち主だ。こうなると、さそりの素性も余すことなく知り尽くしている可能性もある。

「それで、その記者さんには何を話しましたか?」

「たいした事は話せなかったよ。警察にも話した事をそのまま伝えただけだ。ただ……そう、その蓄音機を気にしていたよ。何度もちらちらと見ていたし」

 単に物珍しいと思っただけじゃないのかな……冷静に周囲を見てみれば、蓄音機にセットして聞くためのレコードの類いが一つもない。ただの飾りであれば不自然ではないが、それを知らなければ奇妙な光景に見えなくもない。カップボードと蓄音機の組み合わせは明らかにミスマッチだ。

 もっとも、里村というこのプライドの権化みたいな人に、その手のセンスがないだけかもしれないが。

「うーん……」キキは顎に手を当てて唸る。「もしかしたら、福沢さんと朝沼さんには、何か繋がりがあるのかもしれないね。同じ出版社の人間だし……」

「その程度の繋がりがある人間なんて、東京に限定しても十万といるよ」

「でも確かめてみる必要はあると思わない? もっちゃん」

「だからわたしをもっちゃんと呼ぶな」

 わたしはキキの額にチョップを食らわせた。幸い、誰も聞いていなかった。

「なんなら、これから直接会って話を聞いてみようか?」と、里村。「君たちも興味があるんだろ? こんなレトロな趣味を持っている人に」

「レトロというかアナログですね」

「それはもういいから。というか蓄音機ならレトロの方が正しい」

 他人の趣味についてとやかく言う気はないが、それ以上に引っ掛かる事が。

「直接会うって、その朝沼って人、近所に住んでいるんですか?」

「ああ。僕もつい最近に知ったんだけど、彼女、先日このマンションの2107号室に引っ越してきたらしいんだ」

「知ってるじゃないですか! 朝沼って人の近況を」

「すまん。たった今思い出した」

 そう言って里村は頭を掻いた。本当は知っていて黙っていたのではないのか……? この男も十分に食えない人だ。


 2107号室という事は二十一階、つまり里村の部屋の七階下だ。階段を降りて向かうには少しばかりきつい数である。ここの住人も滅多に階段は使わないという話だ。

 今ちょうどエレベーターは下層階にあって、二十八階に到達するまでまだしばらくかかりそうだ。階段を使うのは億劫だと全員が考えたようで、誰もエレベーターホールの前を離れようとしなかった。時間的に見ても待つ方が早そうなのだ。

 到着を待つ最中に、美衣が小声でキキに話しかけた。

「なあ……この状況をどう思う?」

「どうって?」キキも小声で返した。

「朝沼という人の住居を訪ねることで、新たな手掛かりが得られると思うか?」

 キキは少し考えてから言った。

「……得られた時に何か怪しむべきじゃないかな」

「同感だな」美衣は小さく頷いた。「都合よく手掛かりがポンポン現れる、そんな展開は願い下げだからな。もしそうなったら注意が必要になるだろう」

 他人の作為に踊らされることは、美衣の性格からして恐らく心底嫌うのだろう。とはいうものの、キキの神懸かり的な直感と閃きが、そうした結果をもたらす可能性は十分にあるだろう。少なくともわたしはそれを否定できそうにない。

「それ、現状でもそれほど気に入っていないって感じの物言いだね」

「気に入っていないといえば、さっきのお前の質問も……篠原氏が怒鳴っていた時の携帯が普段使いのものか否か、それがどんなふうに事件に関係すると?」

「わたしがその関係を疑っているとは限らないでしょ」

「いやいや」わたしは軽く手を振った。「他人から見たらどうでもいいと思えることから関連を見出すのはキキの常套手段でしょ。何度もやって来た事だし」

「そうなのかな」キキは自覚していなかった。「まあいいけど。携帯の事を尋ねたのは、警察が篠原さんの携帯の履歴を調べなかった事が気になったからだよ」

「確かに、さっきの話を里村が警察に話していたのなら、警察は間違いなく、その時の電話の相手を調べただろう。言い争いの内容が殺害の動機になる可能性はあるし」

「でも昨日の友永刑事の話では、携帯の履歴を調べたなんて話はなかった……」

 些細なことかもしれない。でもこの矛盾は、見逃してはいけない気がする。

「可能性は二つ考えられるよ」キキは指を二本立てた。「一つ、里村さんが意図的にさっきの話を警察に伝えなかった」

「その場合は新たに二つの謎が生じる」と、美衣。「どうして十四年前の時点で話さなかったのか。そしてなぜ今になってわたし達に打ち明けたのか。まあこれは本人に訊かない限り、確かな事は分からないけどね」

「二つ目は……警察が履歴を調べても見つけられなかった場合」

 そちらはもっと意味が分からない。確かに何も見つからなかったのなら、友永刑事が説明の際に省略した可能性はあるけれど……。

「なんで見つからないの? 里村さんのさっきの話が嘘だとか?」

「あれが嘘だとして何か劇的に変わるとは思えないけど……」と、美衣。

「里村さんの話は多分本当だと思うよ」と、キキ。「でも、その時の履歴は確かに、篠原さんが持っていた携帯電話には残されていなかったんだよ」

「ふむ……」

 美衣は何かを考え始めたが、ちょうどここでエレベーターが到着した。さっきからひそひそと会話しているわたし達を気にする素振りもなく、里村は先にエレベーターの中へ入った。わたし達も後に続く。

 エレベーターで移動する間に、美衣は再び口を開いた。

「キキ……まさか、まだあの荒唐無稽な仮説を引きずっているのか?」

 荒唐無稽な仮説とは、さっき『ホーム・セミコンダクター』での調査の時に、美衣が現実的でないと言っていた考えの事だろうか。キキは真顔で美衣を見返していたが、やがて妖しく微笑んだ。

「わたしは慎重に可能性を淘汰(とうた)しているだけだよ」

 エレベーターの到着音が鳴り響いた。開かれたドアから廊下に出て、目的の部屋までそれほど遠くない距離をぞろぞろと歩く。

「まあ、わたしはあの蓄音機も気になるんだけどね」

「これから蓄音機をプレゼントした本人に会うんだから、その時に訊けるね」

「素直に話を聞いてくれる人だといいけど……」

 それは関係者の誰に会う時にも、目の前に転がっている問題だ。わたし達みたいな子供が警察の真似事をする時の、定番みたいな障壁と言ってもいい。でもそれを、やる前からいちいち気にしていてはキリがないというものだ。

 2107号室の前に来て、里村が呼び鈴を鳴らした。しかし、ドアの向こうからそれらしい反応は聞こえなかった。再び呼び鈴を鳴らしても結果は同じだった。

「留守みたいだね……」

 里村は淡々と言った。やはりそう易々と手掛かりを掴めるわけがない、そう思いながらふと、向かい側にある部屋のドアに目をやった。

 おや、と思った。何か違和感があるような気がするのだが……。

 2107号室のドアと見比べて、その違和感の正体に見当がついた。多分、こんな違いに気づけるのはわたしくらいのものだろう。

「これ、鍵開いてない?」

「え?」

 わたしが2107号室のドアノブを握ってひねると、案の定ノブは簡単に回り、ドアもちゃんと開いた。

「施錠されていないのか……」と、美衣。「よく分かったな」

「向かいの部屋のドアと見比べたら、鍵穴の凹凸の向きが左右逆になっていたから。同じ建物内だと、鍵のギザギザの形は違っても、中央の溝がある面は全部同じである事が多いから、もしかしたらと思って」

「それって、剣道で鍛えられた観察眼なの?」と、キキ。

「それはどうなのかな……」

 みかん救出の際に同じ事を言ったら、あさひに即刻否定されたからな。

「どうでもいいじゃないか。もみじにしてはなかなか筋の通った推論だと思うし」

 あはは……乾いた笑いしか出ない。もみじにしては、の部分はあえて突っ込まないよ。自覚はあるから。

 里村が、開かれたドアの隙間から朝沼の名前を呼ぶが、それでも一向に部屋の中から反応はない。しかも玄関にはまだヒールがあって、外出中とも思えなかった。何より、微かだが異臭が漂っているようだ。

 まさか……嫌な予感がして、わたしは衝動的に部屋の中へ入った。

「もっちゃん?」

 キキがまた性懲りもなくそのあだ名で呼んできたけど、突っ込む余裕がない。わたしはわずかに開いていた廊下の奥の扉を押し開け、リビングに踏み込んだ。

 刹那、わたしは立ち止まらざるを得なかった。

 悪い予感は当たっていた。リビングのど真ん中、天井灯の傘の付け根に結わえ付けられたロープの先に、その女性は吊るされていた。虚ろな眼窩(がんか)(まぶた)はわずかに開かれ、虹彩から生気は完全に失われていた。両腕と両脚は力なく下がり、指先は薄く鬱血していた。

 死んでいる、そう判断するのに迷いはなかった。悲鳴の一つでも上げるのが普通の反応なのかもしれない。しかし、いざ目の前にすると思考回路が混乱し、声を上げることさえもままならない状態になっていた。

 冷静な分析もできないうちに、他の四人がぞろぞろと中に入って来た。

「ねえ、何があったの……あっ」

 最初に入って来たキキが、瞠目して表情を歪めた。キキも悲鳴を上げなかった。

「どうしたの? 何か……」

「さっちゃんは来ちゃ駄目!」

 キキは叫びながらさそりを後ろに押しのけた。さそりに人の死を見せるのが一番よくない、とっさにそう判断したようだ。

 次に里村も入ってきて、同じように女性の首吊り死体を見て目を見開いた。

「あ、朝沼さん!」

 駆け寄ろうとした里村を、寸前で美衣が手を掴んで引きとめた。どうやらこの場で、冷静な対処ができているのは美衣だけらしい。

「それ以上は近づいちゃいけません。あなたはまず救急と警察に通報を」

「あ、ああ……」

 沈着に指示を出す美衣に、大人でも逆らえる道理はなかった。

 里村が電話をかけるために部屋を出ると、美衣は、ひとり廊下で待機しているさそりの耳元に何か囁いた。さそりは頷きを返すと、部屋の外に飛び出した。

「美衣、今のは……」

「通報にかこつけて逃走を図らないように、見張らせておいた」

「逃走って、なんで里村さんが逃げるの」

「万が一のことを考えたまでだよ。これが殺人事件なら必要な措置だ」

 何だって? 耳に慣れないワードが飛び出し、わたしは動揺を隠せない。

「殺人って……これ、自殺じゃないの?」

「自殺じゃないかもしれないね」

 いつの間にか、キキは遺体のすぐそばまで来ていた。現場に無闇に入るべきでないから美衣は里村を止めたのに、これではまるで意味がないじゃないか……。

「見てよ、この椅子」キキは気にする様子もなく、近くの椅子を指差す。「これを踏み台にして首を吊ったのだとしても、離れすぎていると思わない?」

 キキの言う通り、椅子は遺体の後方一メートル弱離れた所に、依然しっかりと立っている。踏み台に使ったのなら、もう少し近くにあるはずだ。だが……。

「分かんないよ。踏み切った時に弾みで離れたのかもしれないし」

「ううん、この人の足を見て。床からの高さは椅子の座高とほぼ同じでしょ?」

 言われて比較してみると、確かに高さはほぼ一致していた。

「つまり、踏み切るまでもなく、少しだけ離れた位置に椅子を置いてそこから飛び降りるだけで、首を吊るのは可能なんだよ。それにしたって、数十センチも離せば十分だし、一メートルも離したらロープに首をかけるだけでも大変になるよ」

「こればかりは、『自殺者の心理なんて分からない』で済ませられないな。自殺しにくくなる方法をわざわざ選ぶ理由が、自殺者にあるわけもなかろうし」

 なるほど……また一方で、飛び降りる時の反動で椅子が動いたのなら、後方へほぼ水平に押されるのだから、むしろ椅子は倒れるはずだ。この椅子にキャスターはついていないし、普通の家具がそんなに滑りやすく設計されているわけもない。

 どう見ても、これは単純な自殺ではない事になる。となると……。

「他殺の可能性が極めて高い、という事だ」

 美衣が言った。無駄な事を嫌う美衣が狼狽えないのは分かる。けれど、キキはそうでもないと思っていたのだが、震えもせず遺体をじっと観察していた。身体能力以外は普通人と変わらないわたしにとって、その言動はホームズ並みに狂気じみて見えた。純粋に真理を追究する姿勢は、度が過ぎると狂気と区別がつかなくなる。

 それにしても……人の死に遭遇したのは恐らく、小さい時に父方の祖母が亡くなった時以来だろう。それでも、その亡骸(なきがら)を直接目にしたわけじゃない。こうして、本物の遺体を目の当たりにするのは初めての事だ。

 ……初めて、のはずだ。多分。

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