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DEAD LINE~悪魔の刻限~  作者: 深井陽介
第二章 咎人のタイムリミット
27/47

その7 時計と携帯

 <7>


「どうしたの? こんな所で……その子たちは?」

 松田美樹の視線は次にわたし達へ向いた。社内で鉢合わせする可能性を考えていなかったわけではないけれど、できるならこの状況で顔を合わせたくはなかった。

 村井が上手く説明してくれるといいのだが……さっきまでただの会社見学だと思っていたのに、今になってその事が怪しくなってきたのでは、わたし達のフォローに回らなくなるかもしれない。どうすればいいだろうか。

 ……まあ、わたしが必死に考えて状況を打破できるわけではないのだが。

「えっと……この子たちは」

「わたし、篠原さそりと言います」

 突然さそりが、村井のセリフを遮るように言った。

「え?」

「昔ここに勤めていた、篠原龍一の娘です」

「篠原さんの、娘さん……? ああ、確かによく見ると、あの人の面影があるわね」

 松田はじっとさそりの顔を見ながら言う。少し緊張した面持ちのさそり。

 やがて松田は嬉しそうに笑うと、さそりの両肩に手を添えた。

「ようこそ、『ホーム・セミコンダクター』へ。あなたのお父さんの部下だった、松田美樹です。もうずいぶん昔になるけれど、お父さんには大変お世話になりました」

「は、はあ……」

「あなたは確か、篠原さんが亡くなった後に奥さんが産んだ子供なのよね。お母さんからこの会社の事を聞いたの?」

「…………はい」

 先程まで前面に出していた勢いが弱くなっているさそり。明るくて親しげな印象を与える容姿をしているが、実際は若干人見知りの気があるのだ。

「だったら存分に見ていくといいわよ。あ、ただし、ここにあるものを勝手に持ち出したりはしないようにね」

「それはさすがに分かっていますから……」

「そういえば、友達も連れて来たの?」

 まるでいま気づいたかのように、松田はわたし達三人に目を向けた。こういう時に、状況を引っ掻き回すのは決まってキキである。

「どうも初めまして、さそりの友達のキキと言います」キキは屈託のない笑顔で言った。「こちらは、同じく友達の、もっちゃんと美衣です」

「もみじです」

 お約束の展開なので、わたしはキキの頭頂を手刀で叩きながら言った。

「美衣です。こいつらはただの漫才コンビですので、お気になさらず」

 なんだか失礼な発言も混ざった自己紹介だけど、聞こえなかった事にしよう。

「えー、突然お邪魔してすみません」キキは頭をさすりながら言った。「そして、重ねて突然に失礼ですが、その篠原さんが亡くなる前後、この会社で横領事件が起きていましたよね。その事について色々聞かせてほしいのですが」

 予想はしていたが、やっぱりキキは状況を引っ掻き回した。わたしとキキの下手なコントさえも微笑みながら見ていた松田も、この言葉で表情をさっと消した。

 ぞっとするほどの静けさが辺りを包み込む。緊張感で手汗が滲む。今の雰囲気がどの方向に変化するのか、まるで想像ができなかった。

「えっ……えっと、これ、どういう事?」

 村井は未だに状況が呑み込めないようだった。その一方で、何かを察したらしい松田はふっと息を吐き、かがめていた膝を伸ばした。

「なるほど……篠原さんの事件の事を調べたくて、ここに来たってわけね」

「すみません……」と、さそり。「こうでもしないと、会社の中に入れてもらえないと思ったので……」

「まあ、身内なら気になるのは当然だし、篠原さんの娘さんだから大目に見ましょう。まんまと利用された瑞希ちゃんの事も、勤め先には黙っておくから」

「私……利用されていたんですね。この子たちに」

 今ごろになって気づき、村井はがっくりと肩を落とした。

「あなた達が知りたいのは、横領事件の方なの? と言っても、どっちもそんなに詳しいわけじゃないけど」

「わたし達なりに色々調べてみたのですが、篠原さんがどうして殺されなければならなかったのか、その理由は警察の方も掴み切れていないみたいです。横領事件との繋がりは早々に否定されたみたいですが、それはあくまで、松田さんを含めた三人の容疑者の中に犯人がいた場合の話です。もしそれ自体が間違っているなら、篠原さんが調査に参加していたという横領事件が、何らかの繋がりを持っている可能性はあります」

「キキちゃんだっけ? なんだか頭良さそう」

 その評価には親友として異議を唱えたい。別に頭がいいわけではありませんよ? キキは単なる天然です。

「篠原さんの事件は、いい加減に昔の話にしたいと思っていたんだけど……まあ、横領事件の事を話すのは自由か」

「知っている事を教えてくれますか?」

「あれはもう警察も調べていないし、口止めされているわけでもないから、いいよ、知っている事は全部話すから」

 松田が話の分かる人でよかった……普通に考えて、子供が捜査の真似事をしていたら、突き放す大人の方が多勢である事は明らかなのだ。松田はそういう大人ではないらしい。

 少し気になる事があったので、わたしは美衣に耳打ちした。多分、的確な解答が期待できるのはこちらの方だ。

「ねえ、美衣。この横領事件の犯人が見つかったとして、その人は逮捕できるの?」

「無理だね」美衣は即答した。「業務上横領罪の公訴時効は七年。十四年前に起きて、一年も経たずに犯行が止んだのなら、七年前に時効が成立している。起訴できない案件である以上は、逮捕状を請求しても認められない可能性が高い」

「それじゃあ、もう警察は横領事件を捜査しないのかな」

「調べるのは自由だけどね。もっとも、現時点で抱えている案件を放置して、起訴できない事件を捜査すれば、色々問題視されることになるでしょうけど」

「うーん……もしこの横領事件がきっかけで篠原氏が殺されたのなら、殺人事件の解決と共に横領事件も決着できるかと思ったんだけど」

「そんな都合のいい展開を期待するくらいなら、知恵を絞って目の前の事件に解決を見出したらどうなんだ」

 おっしゃる通りです。美衣の指摘は的確すぎて、心がへし折れそうだ。

 ところで、松田による十四年前の横領事件の話はすでに核心に入っていた。

「それでね、調査メンバーの一人である篠原さんが亡くなった後も、横領事件の調査自体は続行されたのよ。横領の事実は確認されたから、当然警察にも被害届を出したわ。だけど、警察の必死の捜査も虚しく、内部チームの調査も全く進捗しなくて、そのうち犯行もぱったりと止んでしまって、一年ほどでチームは解散になったわ」

「じゃあ、それ以降は似たような事件は起きなかったのですか?」

 さそりも積極的に話に参加していた。

「そうね……ここ最近は監査でもおかしな点は指摘されなかったわ。そうそう、あの頃に株式上場の話があったけど、この事件がきっかけで予定より延期されてしまった。結局、上場が実現したのは二年も経ってからで、その時に社長を始め上層部の顔触れも変わったわ。……って、これは事件と関係なかったね」

「内部調査チームは、どんな人達がいたんですか?」と、キキ。

「うーん……色々かな。各部門の部長が何人か推薦して、さらに上層部が吟味して絞り込んだ結果だって、聞いた事がある。詳しい経緯は知らないけどね。だけど、確か篠原さんの場合は、本人の強い希望で調査チームに加わったって聞いたわ」

「お父さんが自分から、調査チームに入りたいって言ったんですか?」

「ええ。理由は誰にも話さなかったけどね。ただ、一つ気になる事があって……」

「気になる事?」

「篠原さんは、あまり社内にマスコミ関係者を入れなかったけど、ちょうど調査チームに入りたいと申し出てきた頃に、週刊誌の記者を招き入れたそうなのよ」

 桧山が警察に証言していたという、週刊文明の女性記者だ。篠原氏が調査チームに入った時期と、週刊文明を招き入れた時期が重なっている。これはどう見るべきか……。

 キキはしばらく無言で考え込んでいたが、やがてさそりに視線を向けた。

「ねえ、さっちゃん。お父さんが生命保険に加入していたこと、お母さんは知ってた?」

「ううん」さそりはかぶりを振った。「昨日訊いてみたけど、後から警察に色々話をされて初めて知ったみたいだよ。お母さんは保険の受取人になっていなかったけど、あまり気にしている様子はなかったかな……」

「それじゃあ、保険金を受け取っていたのは三人の同僚だけ?」

「……みたいだね。松田さん、お父さんの生命保険を知っていた人は何人いますか?」

「うーん……」松田は天井を見上げながら言う。「ほとんどいなかったんじゃないかな。私自身、篠原さんが保険金をかけていた事を知ったのは事件の三週間くらい前だったし」

 保険金を受け取る本人も、直前まで知らなかったという事か。篠原氏は妻にも黙って、何もかも一人で事を進めていた……その目的は?

「そもそも、どうしてお父さんは皆さんを保険金の受取人に指定したのですか?」

「ああ、それはね……あの頃、私も里村さんも桧山さんも、色々私的な事情が重なって生活が困窮していたのよ。まあ、一人で生活することさえも立ち行かなくなるほどではなかったけど、結構無理をしていたのが篠原さんにも分かったのかな、会社の業績を上げようとなおのこと必死になったのも、確かにあの頃からだったわね……」

 業績が上がれば社員の給料も増額できると思ったのだろう。大学のサークルの後輩であるとはいえ、そこまで熱心に苦境から助け出そうと奮闘するとは、なるほど確かに、篠原龍一という人は“自己犠牲の塊”なのかもしれない。

 もっとも、福沢という記者がその意図で口走ったという確証はない。

「なんだか急に話題が変わったけど、篠原さんの生命保険と、昔の横領事件が何か関係あったりするのかしら」

「いや、関係あるかどうかは正直さっぱりです」キキは肩をすくめた。「ただ、亡くなる前の篠原さんの行動には、不可解な点がいくつかあります。さっきの話に出た、横領事件の内部調査に自ら買って出たという事もそうですが、この生命保険に関しても、なぜ加入したのかという疑問があります」

「加入した理由? それはさっきも言ったように、わたし達が生活に困窮していたからであって……」

「でも生命保険は、死ななければ支払われませんよ?」

 松田はハッとした様子で目を見開いた。

 言われてみれば単純な疑問点だった。警察もわたし達も、篠原氏が生命保険に加入して間もなく亡くなった事で、保険金を受け取った人物に疑いを向けることはあっても、実際に篠原氏が現実的な手段として生命保険の加入を選ぶかどうかは考えていなかった。

 近いうちに自分が死ぬと確信していなければ、生活に困っていた部下に保険金を与えることができるとは考えないはずだ。篠原氏には、そうした死の予感があったという事になる。なぜだろう。重い病気にでもかかっていたのだろうか。

「どうです? 篠原さんに、生命保険に加入する意味はあると判断させるような、死の予感があったかどうか……覚えがありますか?」

「死の予感と言われても……篠原さんはまだ二十八歳だったし、そんな素振りがあったらすぐに気づくと思うけどなぁ。歳の近い桧山さんなら、その辺の事情ももしかしたら聞いているかもしれないけど」

「その桧山さんって人、今はどちらに?」と、さそり。

「今日は提携先の社長さんと会って話をしてくる予定だけど……」松田は腕時計を確認した。「もうそろそろ戻ってくるかな。あの人が今の管理部門部長だから、もうあちこちに出張したりしていて大変なのよ」

 桧山という人はそれなりに出世したみたいだ。松田は平社員に留まっているが、この人の物腰から見て、出世にこだわるタイプとは思えないな。

 それより、また容疑者の一人がここに来るのか……あまりに事態がこじれると、居心地が悪くなって困るのだけど。キキは気にしないだろうが。

 そのキキだが、松田の左手首を注視していた。

「……アナログだ」

「え?」

「いえ、その腕時計。デジタル表示じゃなくて、シンプルに針だけで時刻表示するだけの時計は珍しいと思って」

「わたしの腕時計もアナログ表示で時刻以外の機能はないが」

 美衣は自分の腕時計を見せた。別に珍しくはないと言いたいのだろう。

「あ、ホントだ」

「お前の時計はデジタルなのか?」

「そもそも腕時計自体を持っていません」

 キキは笑顔で言うが、そもそもこいつに時刻の概念があるかどうかも怪しい。

「これは親から就職祝いで譲り受けた物よ」と、松田。「古い時計だけど、知り合いの職人にいつも直してもらっているから、正確さは馬鹿にできないわよ」

「電波時計は構造が複雑だから、一度狂ったら本当に馬鹿になりますからね。壊れても人の手で直してもらえる時計の方がよほど経済的」

 美衣は自分の腕時計を愛おしそうに触りながら言った。多種多様な機能を詰め込めば消費者のニーズに沿うと考えている電子機器業界に、軽く喧嘩を売っていないか。

「あはは……まあ、半導体製品を売り込む会社としては、こういうのはあまりいい印象を与えてくれないけれど、それでも使い慣れた物を手放すのは気が引けるから。それに、我が部門のトップも似たような事をしているからね」

「お呼びかな?」

 噂をすれば影が差すとはよく言ったものだが、突然に声をかけられたことで松田は驚いて表情を歪めた。別に悪い話をしていたわけではないけれど、どこか体裁が悪そうに松田は、入り口近くに立っている男性に手を振った。

「ど、どうも桧山部長……」

「そんな堅苦しい敬称はいらないと言っただろう。というか、そんな所で何をしているのだ? 受付の村井くんや、どこかの子供たちまで連れて……」

「私が連れて来たわけじゃありません」

 はい、事態がややこしくなるのは決定です。この場にいるのはわたし達だけ。松田が連れて来たのでなければ、社員でもないわたし達が自発的にここへ来た事になる。その目的は怪しまれて当然だろう。

「ふうん……まあ、村井くんが出入りするのは構わないが、そこにいる子供たちはどうしたのだ?」

「ええと……」松田はさそりの背中に手を添えた。「この子、あの篠原さんの娘さんのさそりちゃんです」

「え? 篠原さんの?」桧山はさそりを見て瞠目した。

「今日は友達を連れてここの見学に来たらしくて……」

「らしい? 君は今までその事を知らなかったのかい?」

「あー、それは……」

 桧山は無言で松田をじっと見た。いたたまれない様子の松田。やがて桧山はふっと息を吐いた。

「見学というのは建前なのだな。君とも長い付き合いだからその程度の事は分かる」

「すみません……でも、たった今知ったのは事実です」

「単なる見学でないという事は、何か調べたい事があってここに来たという事かな」

「その通りです!」

 この状況で空気を読まずに明るく振る舞うのはもちろんキキだ。美衣に言わせれば、こういう空気を読まない言動もキキの強大な武器の一つらしい。

「わたし達は、十四年前のさそりのお父さんが殺された事件を調べています。事件解決の手掛かりがこの場所にあるかもしれないと思い、参上した次第であります!」

「そ、その通りであります!」

 さそり、何もキキの理解不能なテンションに合わせる必要はなかろうに。桧山はしばし呆然と二人を見ていたが、やがて声を上げて笑い出した。

「なるほど、小さな名探偵というわけか」

「名探偵と呼ばれるのは却下」キキはNOのジェスチャー。「探偵で十分」

「実際は探偵でもないけどな」美衣は言わずもがなの一言。

「そ、そうか……それで? この場所を調べた結果はどうだったのかな」

 小さな子供を諭すような口調。どうやら桧山はキキの言う事を冗談半分だと受け止めているようだ。むしろそれはごく普通の反応だけど。

 桧山のこの質問だって、まともな答えなど期待していない。単に調子を合わせようとしているだけに過ぎない。しかしキキは、さっきまでのおどけた態度を一変させ、桧山を真っすぐに見返しながら言い放った。

「ええ、事前の予想通り、確かに重要なヒントが得られましたよ」

「…………!」

 その場にいた大人たちは揃って瞠目した。驚いていないのは、キキの頭脳に信を置いているわたし達だけだ。

「とはいえ、これだけじゃまだまだ真相は見えませんが。桧山さん。さっき松田さんにも同じ事を訊きましたが、あなたは事件の前に、篠原氏が近いうちに死ぬのではないかという予感を抱えていたか、気づいていましたか?」

「近いうちに死ぬ……? いや、私は聞いた事がないが……松田くんは?」

「先程もこの子たちに答えましたが、私にも分かりません。ただ、そうでなければ生命保険を使って私たちにお金を与えることができませんから……」

「なるほど、言われてみればその通りだな。というか、君たちはそんな事まですでに調べていたのだね」

 桧山が圧倒されたように呟くと、さそりがまた強気な態度で言った。

「わたしはお父さんがどうして死んだのか、それを突き止めたいんです。そのためには手を抜きません!」

「ああ、分かった、分かった。落ち着きなさい」桧山はさそりをなだめた。

「そういえば、受け取った保険金ってどうしましたか?」

 いい加減にわたしも話に参加したいので、質問を試みた。松田と桧山の二人は、返答に迷っていたようだが、やがて諦めたような素振りで口を開いた。

「……ずいぶん前に、使ってしまったわ」

「躊躇はしたけどね」

「やっぱり、尊敬していた上司の命と引き換えに、という感じはありましたよね」

 偉そうなことを言っているのは承知の上で、二人に訊いてみた。

「……そうね」松田はため息交じりに言った。「保険金を使ったのは事件から十年くらいも経ってからだけど、それでもやっぱり迷いはあったわね……」

「迷ったのは私も同じだよ」と、桧山。「でも、そんな時に君が先に使ったから、タガが外れたみたいに私も使ってしまったよ」

「え、私のせいですか?」

「いや、結果的に君の行動が後押ししたが、逆順になる可能性だってあったよ」

 どちらが先であるにしても、迷いもある中で保険金を使ってしまった事は事実だ。二人とものっぴきならない事情というものがあったのだろう。その事について深く突っ込む気にはなれなかった。

「結局、保険金を受け取った三人の中で、一円も使わなかったのは里村だけか」

「あの人の場合は微妙ですけどね……どこかのNPOに全額寄付したと聞きましたよ」

「ほう、それは初耳だ」

 里村というのは、警察から容疑者と見なされた三人の残り一人だ。確か篠原氏を含めた四人の中で最年少だったはず。と言っても、篠原氏と三歳しか違わないが。

「里村って人は、受け取ったお金を使わずに苦境を克服したんですか?」と、キキ。

「そうよ。篠原さんが亡くなった後、我が身に鞭打つような感じで働いて、自力でここの専務にまで出世して給料を上げたのよ」

「へえ、三十代で専務ですか。大出世ですね」

「二つ年上の桧山さんは長らく部長のポストに留まっているのに?」

「美衣……」

 本人を前にして恐れを知らない奴だな。当の桧山は笑い飛ばしているが。

「私はどうも管理部門の仕事の方が性に合っているみたいでね。里村がどうなのかは知らないが、彼は人事部長を経由して専務になっているからね、私が彼に追い越されたというのは正確ではないな」

「里村って人もずいぶん努力されたんですね」と、さそり。

「まあ、彼は彼で責任を感じてもいたのだろう」

 里村という人がそれほどまでに苦しい努力をしてでも出世をした理由に、篠原氏の死が関係しているのか否か……それはもはや本人にしか分からない事だ。行動の軌跡をどれほど羅列したところで、人の本質は覗けやしない。

「それで、君たちは次にどこを調べるんだい?」

 桧山がわたし達に尋ねると、代表でキキがこう答えた。

「どこを調べたらいいと思います?」

 その場にいた大多数がずっこけた。仮にも容疑者と目されている人を相手に、そんな根本的な事を尋ねる奴があるか。……こいつなら十分やるけど。

 仕方ない、ここはしっかりサポートせねば。

「キキ、とりあえず他に話を聞ける人がいないか訊いてみたら?」

「そうだね。誰か思い当たりませんか? 十四年前の事を知っている社員で、わたし達の話を聞いてくれそうな人に」

 松田と桧山はしばらく唸りながら考えを巡らせたが……。

「……いない、かな」

「私もまったく思いつかんな」

「十四年前ならまだしも、今の社長になってから社員の入れ替わりが激しくて、当時この会社にいた人のほとんどはここの管理職か、あるいは支局や提携先の会社に異動しているから、詳しく知っている人はほとんどいないと思うわよ」

 そう話すのは村井だった。しばらく無言で様子を見ていたけれど、そろそろ自分も話に参加したいと思っていたようだ。

「十四年前から変わらずいるのは、このビルの専属の警備員くらいかな。でもあの人、ものすごく気難しい人だからなぁ……話を聞くのは厳しいかも」

「絶望的に手掛かりが拾えそうにないな」と、美衣。

「こりゃあ、里村って人に何とか接触するしか方法はなさそうね」

「松田さん、里村さんは今どちらに?」キキが訊いた。「専務の仕事部屋ですか?」

「いや……今日は専務室でも見なかったけど」

「それが、今朝から体調が悪いとかで欠勤していたよ」と、桧山。

「そうだったんですか?」

「彼も激務の連続だから、たまにこうして休みを取るのは大事じゃないかな」

「よく言いますよ。ご自分も先日しばらく欠勤していたじゃないですか」

「私だって毎日疲れるまで仕事をしているんだ。君も少し休みを取った方がいいのではないか? 私の知る限り、ここ何年かは休日でも出勤する事がほとんどだろう」

「ほっといてください。どうせ仕事女ですから」

「あのー……」

 いつの間にか松田と桧山だけの会話になっていたが、村井が遠慮がちに割って入った。

「私、そろそろ受付に戻る時間なので、子供たちの案内を誰かと交代したいのですが」

「瑞希ちゃん……私も桧山さんもこれから仕事なんだけど」

「というか、君は案内役を任されるほど手が空いていたのか?」

 その言葉で、村井はまた壁に頭をつけてがっくりと肩を落とした。キキは同じ理由で村井を励ましていたけれど……物はいいようだな。

「どうする、キキ?」と、さそり。

「仕方ないね。会社での調査はここまでにしよう。こうなったら、里村さんの自宅を直接訪ねてみるしかなさそうだし」

「そもそも入れてくれるのかな」と、わたし。「話の分かる人ならいいんだけど」

「その時はまあ、色仕掛けでも何でも使って……」

「中学生の色仕掛けなんて高が知れているでしょ」

「むぅー……」キキは可愛く口を尖らせた。

「里村に会いに行くなら、私から連絡をしておこうか?」

 そう言って桧山は携帯を取り出すが、里村が犯人である可能性がまだ否定されていない以上は、相手に警戒する余地を与えない方が得策だ。よってアポなしで訪問して、その場で話を取り付ける方が手掛かりを掴みやすい。

「お気遣いすみませんが、何もそちらの手を煩わせる事もないので……」

「アナログだ」

 わたしのセリフを遮るようにキキが呟いた。さっきも全く同じ事を言ったような気がするけど。

「え? ああ、この携帯の事かい?」

 桧山が持っている携帯電話は、今どき見かけないストレート型の端末だった。

「……PHSですか?」

「いや、普通の携帯電話だよ。通話と最低限のメール機能があるだけの」

 ガラパゴス携帯ですらないのかい。とうの昔に生産中止になったと思っていたけど。

「通話とメールだけって、何かと困りません?」

「私はこちらの方が使い慣れているのでね。容量の大きいメールや資料を送る時は、別に持っているタブレット端末を使う事にしているから。通話は未だにこっちだよ」

「バッテリーが駄目になったらどうするんです?」

「ああ、もうすぐ駄目になりそうなんだ。さすがに寿命があるからな。その時はPHSにしようかと思っている。やっぱりこの形状じゃないと落ち着かないのでね」

 ストレート型でないと落ち着かないって、ガラケーも知らない高齢者の感覚だよ。わたしはそう思うけど、美衣は同感とばかりに頷いている。彼女もPHS愛用者だ。

「それより、本当に先方に連絡しなくていいのかい?」

「はい。住所を教えてもらえれば結構です」と、キキ。

「ここよ、里村さんの住所」松田は手帳のページをちぎって渡した。「隣の星奴町のマンションだけど、バスで十分くらいだから」

「ありがとうございます。それじゃあ村井さん、そろそろ……って、どうしました?」

 キキが呼びかけた時、村井はさっきと同じ体勢のまま、壁を指でぽりぽりと引っ掻いていた。意気消沈ぶりが尋常じゃない。

「気分は転覆して沈没していく船みたいなものですか?」

 美衣が誰に対しても容赦を知らないのはいつもの事だ。

「ほっといてください……」低い声で呟きが漏れた。

「ごめんね、瑞希ちゃん、昔からあんな感じなの」

 どうやら誰もフォローする気はないみたいだ。こんな所に放置しておくわけにもいかないので、わたし達は四人がかりで彼女を引っ張り出す事になった。

 やれやれ、先の思いやられる調査になりそうだ。いい歳をした大人の背中を押して歩きながら、わたしは嘆息をつきたい気分になっていた。

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