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DEAD LINE~悪魔の刻限~  作者: 深井陽介
第二章 咎人のタイムリミット
26/47

その6 残された手帳

 <6>


「えーと、これから行く会社の名前は『ホーム・セミコンダクター』といって、主として家庭向けの精密機械に使用される半導体製品を製造・管理する仕事をしています」

 篠原龍一が勤めていた会社の本社ビルに向かうタクシーの中で、さそりは用意していた資料を手に懇切丁寧な説明をしていた。誰も頼んでいないけど。ただ一人助手席に座っている美衣など、聞いているかどうかさえ怪しい。

「設立は今から二十八年前……元は、財閥をルーツに持つ大企業の一部門に過ぎなかったものが、バブル崩壊と共に経営破綻したために解体され、その後、初代社長が買い取った事で独立した法人として発足したそうです。設立以来、小規模精鋭主義と実利主義を掲げていて、謹厳実直に株式上場を目指していた頃に、お父さんたちが入社したようです」

 さっきまでの親しげな口調が鳴りを潜めているのは、さそりが資料の内容をただ音読しているだけだからだ。おかげでちっとも頭に入って来ない。

「本社ビルは設立当初から門間町にあって、初期の頃に二度ほど移転したけれど、十七年前に今の場所に移ってからは内装のみの変化に留まっています。支局は札幌、金沢、大阪と福岡の四か所にあって……」

「さそり、もういい」と、わたし。

「あれ? せっかくだから予備知識も蓄えておいた方がいいと思ったんだけど……」

「お気遣いはありがたいけど、きりがないから」

 そもそも読んでいるさそり本人がちゃんと理解しているのだろうか。真ん中に座っているキキは説明について行けなかったのか、退屈のあまり舟を漕いでいた。

「そろそろ到着だぞ」

 美衣に言われてわたしは窓の外を見た。キキの頭を叩いて起こした後に。

 十七年前に移転したとはいえ、厳密には一部のフロアを占有しているのであって、いま目の前にそびえたっている高層ビルの全てが『ホーム・セミコンダクター』の所有というわけではない。それは分かっているのだけど……。

 住宅地と学校を往復するだけの毎日を送る中学生にとって、高層のオフィスビルが林立するこの界隈はまるで異世界だ。新宿のオフィス街と比べればたいした規模ではないのだろうが、それでも息が詰まりそうになる。中でもこの『大森坂ビルディング』なる建物は飛び抜けている。『ホーム・セミコンダクター』はこのビルの中にあるが、これだけで成長率の高い企業だと推測できる。さそりのお父さんもここに勤務していたのだ。

 タクシーを降りて、わたし達は敷地の中に足を踏み入れた。駐車場は地下にあり、出入り口は正門の近くにある一ヶ所のみ。出入りする車は全て、ゲートのそばにある警備員室でチェックされているようだ。徒歩で出入りする人までチェックできているかどうかは怪しいけれど……。

 ふと振り向くと、さっきまで乗っていたタクシーが消えていた。

「さっきのタクシー……ここに送り届けて終わりかよ」

「あ、言い忘れていたけど、帰りのタクシーは予約してないから」

「なんで」わたしは眉をひそめてさそりに尋ねた。

「だって、いつ調査が終わるか分からないし。この辺なら、流れているタクシーを呼び止めるのに苦労はしないと思って」

 それは、まあ……オフィス街でタクシーは重宝されるからな。

 建物の中に入ると、スーツ姿の人達がひっきりなしに行き交っていた。様々な企業の社員を抱えているから、外部の人間が見たらカオスな光景としか思えない。

「えーと……」さそりは辺りを見回した。「案内役の人は……」

「あっ」

 受付カウンターの方から女性の声が聞こえた。水色の制服の女性がこちらを見た後、カウンターを出て駆け寄ってきた。

村井(むらい)さんですか?」察したさそりが尋ねた。

「ええ。あなた達が、見学したいと言ってきた篠原さそりさんとお友達ですね?」

「そうです。今日はよろしくお願いします」

「うーん、やっぱりあの篠原さんの娘さんというだけあって、礼儀正しい子ねぇ」

 どことなく口調がギャルっぽいこの女性……何となく振る舞いに不安を感じる。些細な動きから相手の行動パターンを見抜く観察眼は、剣道で養ってきたつもりだ。

「私は『ホーム・セミコンダクター』の元社員の村井瑞希(みずき)。今はこのビルの受付係をしている、働き盛りの三十七歳です! よろしくぅ」

 そう言って彼女は右手を横倒しのチョキの形にして、閉じた片目の前に持ってきた。

 ……えーと、それはどういう意味を込めたポーズ? それと、三十七歳にしては、大学生と見紛う童顔……というのは関係なくて、その歳で職場が変わったとはどういうことだろう。転職か、あるいは解雇された所を拾われたか。

 しばらくわたし達は無言で彼女を見ていた。特に何か視線に感情をこめていたわけではないけれど、彼女は凍てつくような冷たさを感じたようだ。

 やがて村井瑞希は、その場にしゃがみ込んだ。負のオーラを放ちながら。

「ああ……やっぱ、私って駄目だ……」

「よし、帰るか」

 この場の対処を一瞬で諦めた美衣が、くるりと踵を返したが、さそりが「帰るな」と言いながら襟首を掴んだので逃げられなかった。

 さすがに不憫に感じたのか、キキが村井の背中をポンと叩いた。

「まあまあ、大丈夫ですよ。ちょっとすべっただけじゃないですか」

 フォローになってない。

「それに、さそりのお母さんから案内役を頼まれたでしょう? 落ち込む前にその仕事をちゃんとこなさないと駄目ですよ」

「そ、そうよね!」村井は突然立ち上がった。「あの篠原さんの奥さんから与えられた役目だもの、落ち込んでいる場合じゃない!」

「おー、回復が早いな」

 美衣は棒読みで言った。それにしても、落ち込んだり即座に立ち直ったり、何かと忙しい人ですな。

「『ホーム・セミコンダクター』の管理部があるのは九階よ。さあ行きましょう!」

 どん底から立ち上がった分、無意味なほどにテンションが高くなっている村井。でも神様はやっぱり彼女に冷たかったようだ。

 たまたま近くにいたどこかの社員が、書類の束を抱えて歩いていたところ、ちょっとこけて書類を一枚、床に落としたのだ。それに気づかず村井は、書類を踏んづけて前のめりに転倒してしまった。かなり派手に。

 悲劇はこれで終わらなかった。原因を作ったどこかの社員が申し訳なさそうに村井に近寄ると、抱えていた書類の束を誤って全部ぶちまけてしまったのだ。当然、書類が落ちた先には村井がいる。

「ふえ〜ん……」

 度重なる書類の洗礼を受けた村井は、そのまま泣き出した。痛すぎる……。

「やっぱり帰ろうかな……」

 美衣がそのように呟いても、止めようとする人は誰もいなかった。全員が同じ事を考えていたからだ。


 気を取り直して、わたしは村井に連れられて九階の『ホーム・セミコンダクター』管理部のフロアに到着した。元社員の村井によれば、このフロアは他に人事部が占めているそうだ。どの部屋も内装はこの十四年で変わってしまったが、建物やフロアの構造自体は一切変わっていないという。

 エレベーターを降りて少し廊下を歩いた先に、『管理部』の看板が見えた。そのそばのドアを村井が開けた。

「今は管理部の社員全員が外回りに出ているから、見るなら今のうちよ」

 先頭のさそりが中に入る。わたしはまず廊下から覗くだけに留めた。

 ドアと反対側の壁に窓があり、南向きなので今は日光が差し込まない。社員のデスクは二列に分けられていて、各列で七つ、うち六つのデスクが向かい合わせになっていて、残り一つは他の六つを見渡せる位置にあって窓に一番近い。十四あるデスク全てに書類等が置かれているから、現在管理部は十四人で構成されているのだろう。

 十四年前もこんな配置だったのだろうか。わたしはそれとなく尋ねてみた。

「人数も毎年変わっているし、その度にデスクの位置は変えられたわ。今は部長と副部長が左右それぞれの列の一番奥を使っているけど、十四年前は……確か、一列になって向かい合っていて、部長は中央から少し左にずれた所にいたと思う」

「要するに、デスクの配置に特別な意味はないのですね」と、美衣。「見た感じ、適当に並べているようにしか思えませんし」

「まあ、位が一番上の人が窓際に陣取るっていうのは、どこも一緒だけど……」

 しかし、今のデスクの配置を見ても、十四年前の事件の手掛かりが得られるとは思えないのだが。キキは何か当てがあってここに来たみたいだけど……。

「使うデスクも変わっているだろうし、どれが篠原さんの使っていたデスクか、分かりそうにないよなぁ……」

「キキ、まさか篠原さんのデスクから手掛かりを見つけようと思っていたの?」

「さすがにわたしもそこまで馬鹿じゃないよ。そんなの、警察がとっくに調べているはずだし」

 ……この発言は、自分がある程度の馬鹿だと認めたと解釈していいのかな。

「ああ、篠原さんが使っていたデスクなら、隣の部屋に保管されているわよ」

「えっ?」全員の視線が村井に向いた。

「若くして部長に抜擢(ばってき)された有望株だったこともあって、社員がみんな、篠原さんのデスクは残すべきだって言って、それが通ったのよ」

 確かに考えてみれば、篠原龍一は二十八歳の時点で部長に昇格しているのだ。サラリーマンの七割は課長にもなれないと言われる世の中で、この出世は異例中の異例と言えるだろう。誰もが彼に尊敬と信頼を寄せていたに違いない。

 あるいは例外もいるのかもしれないが……。

「お父さん、本当にすごい人だったんだね……」

 さそりは目を伏せながら呟いた。実感を抱けないのがもどかしいのだろうか。

「そうね。本当に誰からも信頼されていたわ。だから今でも信じられない……篠原さんを殺そうと考える人がいたなんて」

 この口ぶりからすると、村井も篠原氏を尊敬していた一人らしい。

 すると、美衣は無言でため息をつきながら前髪を掻き上げた。その冷ややかにも見える目は、誰に向けられてもいなかった。

「きつい物言いである事は承知しているけど、そういう、亡くなった人がいい人であるという生者の評価は、あまりわたしは好きになれない。いい人だからこそ殺される動機を持ってしまう事だってある。もちろん殺人が倫理的および社会的に許容されるわけはないけれど、殺した側を一方的に悪と決めつける要因を作るような論調は、中立性に欠けていると言わざるを得ない」

 それは腑に落ちない。わたしは美衣の言い方に反論したくなった。

「そりゃあ、殺された側が悪い事だってあるかもしれないけど、この事件はどう見ても例外でしょ? これじゃまるで、篠原さんにも何か非があったみたいじゃない」

「非がなければ、殺される原因を作ることもない」

「それはそうだけど……」

「誤解するな。わたしは、さそりのお父さんが殺害された事を必然だとは思っていない。ただ、何も詳細が分かっていない段階で、単純に被害者と加害者を、善と悪で二分するのはよくないと言っているだけだ。世の中、純粋な悪もなければ純粋な善もない。篠原氏が純然たる被害者だという論調が高まる事が、結果として加害者の動機を純粋な悪と見なす事に繋がれば、事件の本質は何も見えなくなってしまう」

「それでも、殺す事が悪いって事に変わりはないでしょ?」

「もちろん、それによって殺人が正当化される事は絶対にないよ。ただ、殺人そのものが悪事と見なされても、その動機までも悪と決めつける事はできない。見方を変えれば善だって悪になりうる。どちらかに決める事なんてできないんだ。結果に引きずられて原因を短絡的に解釈するのは、事実を追求する立場では排除するべきだよ」

 言葉が浮かばない。美衣の主張には一切の隙がなかった。美衣は決して、殺人に正当化の余地があると言っているわけじゃない。あくまで、殺された人を単純に被害者扱いすることに異議を唱えているのだ。何一つ分かっていない状況で、結論を先読みするような行動は控えるべき、それが美衣の主張だ。

 もっとも、被害者を慕っていた人間に、そんな理屈が通用するとは思えないが。

「でも、篠原さんは本当に、殺されるような人じゃ……」

「そういうのってマスコミが大好きなんですよ」

 村井の言葉を美衣は一蹴した。

「マスコミは大衆心理をよく理解しているから、こういう単純な対立構造を演出するのが大好物なんですよ。だからどのメディアでも、陰惨な事件が起きれば必ず、被害者はいい人だったっていう周囲の人間の声を取り上げるんです。加害者側に弁護の余地を与えるような声は、ほとんど取り上げない一方で、ね」

「厳しいねぇ、美衣」キキだけは平然としていた。

「まあ、マスコミは大衆に伝えることが第一義だから、事実の追及が二の次になってしまうのは致し方ないとも言えるけど」

「本当に身も蓋もない言い方。それより、篠原さんの机があるなら見せてくれますか」

 キキが村井に言うと、村井は我に返った様子で答えた。

「え、ええ……こっちよ」

 問題の隣室は、現在使われていない部屋だという。昔作成して、もう確認することもない古い資料や、コピー用紙に蛍光灯などの備品を置いているため、どちらかといえば倉庫として使っているわけだが、このビルに移転した当初は仕事場として使っていたらしい。村井が入社した時からすでに倉庫になっていたので、どんな仕事場だったのかは村井もよく知らないという。

 篠原氏が使っていたデスクは、窓からの光が当たらない壁際に置かれていた。変色や劣化を防ぐためだろう。普段から拭き掃除をしているためか、他の棚や段ボール箱と比べて埃がほとんど溜まっていない。

「これが、お父さんの仕事机……」

 さそりはそう呟きながら、甲板(こういた)をそっと撫でた。何も表情に変化はない。

「ふうん、十四年もここに置かれているんだ……」

 そう言ってキキは椅子を引き出し、ためらいなく腰かけた。わたしは、座って考えたいのだろうと思って黙認した。実際、彼女は瞑目して腕組みをして、真剣に何かを思案しているように見える。

 邪魔はよくないと思いつつも、わたしはキキの考えを聞きたかった。

「キキ……この机に何かあるの?」

 答えなかった。よほど思考に集中しているのだろうか。

 ……いや、違った。少し距離を詰めたら気づいた。こいつは、普通には聞こえない程度に、可愛い寝息を立てていたのだ。

 もちろんわたしは、可愛いという理由で見逃す事はしない。

「ええ加減にせいっ!」

 わたしがキキの顔面に、渾身の力でパンチを食らわすと、キキは「ぐほっ」と言いながら椅子ごと後方にふっ飛んだ。ちなみに、ふっ飛ぶ時にキキの足が引っ掛かったため、弾みで引き出しも開いてしまった。

「いったいなぁ。何するんだよ、もっちゃん」

 キキは上半身だけ起こして、鼻先をさすりながら口を尖らせた。

「やかましい! 他の社員がいたら、あんた引っぱたかれるわよ?」

「その前にもっちゃんが引っぱたいてきたじゃん」

「こいつら……どこに行ってもこんな感じか」美衣は呆れた。「片や関西弁のツッコミ、片やぶん殴られても平然と起き上がる……二人で漫才師でも目指したらどうだ」

「売れなさそうだけどね」

 美衣とさそりが揃いも揃って妙な事を言っているが、聞かなかった事にしよう。

「あー、もう……机が壊れたらどうするの」

 キキはぶつぶつと文句を言いながら、倒れた椅子を起こして、引き出しも元通りに仕舞おうとした。しかし、その前に引き出しの中にあった黒革の手帳を取り出した。

「これ……篠原さんの手帳みたい」

「お父さんの?」さそりが反応した。

「引き出しの中、篠原さんの私物が結構残っているみたい……これって、家族に渡されたりしなかったのかな?」

「うちにお父さんの物なんてほとんどないよ。だからわたしも、九歳の時にお父さんの事を聞かされるまで、お父さんがいたという事すら分からなかったし」

 物心ついた時から父親がいなければ、それが普通だと刷り込まれて育っても不思議はない。それが不自然な事だと気づくまでに、長い時間が必要になるはずだ。

「篠原さんの奥さんが相当ショックを受けていて、しばらくは思い出すのが辛いから、会社にあった私物はそのままにしてほしいと申し出たそうなの」村井が言った。「結局、心の傷が癒えることはなかったみたいだけど……それも当然よね」

「それでこんな物も引き出しの中に……この西暦、十五年前だね」

 手帳の表紙に刻印されていた西暦をキキが読み取った。

「という事は、事件が起きる前の年に使っていた手帳なんだね」と、わたし。

「事件の年に使っていた手帳は、警察が押収しただろうからね……うわ」手帳をめくっていたキキは顔をしかめた。「びっしりだ。まめに記録していたんだね。そして何が書いてあるのかさっぱり分からない」

 管理部門の管理職とはいえ、この手の専門知識は豊富だったらしく、篠原氏の手帳の中身は専門用語があちこちに散見されて、とても一読して呑み込める内容ではなかった。キキにとっても同様だろうが、彼女は内容に関心を示さなかった。

 ぱらぱらとページをめくるだけ。直感に基づいて手掛かりを得ようとしているのだ。

 そして……。

「ああ、やっぱり。篠原さんは左利きだったみたいだね」

「左利き? なんで?」

「見てよ、これ。どの見開きを見ても、左側のページの文字だけが擦れているでしょ」

 キキに言われて見てみると、確かにどこも左側だけが、ボールペンの文字の一部が擦れて滲んでいる。右側のページは、辛うじて左端の文字が滲んでいるだけだ。

「どういう事?」

「もっちゃん、左手にペンを持って書く振りをしてみて」

 言われた通りにしてみるとよく分かった。左手で右のページに何かを書こうとすると、どうしても左手が左のページに触れてしまうのだ。

「だからこれは左利きの特徴。ほぼ全てのページに渡って見られるから、普段から左手で書いていた事は間違いないからね」

 その事を確かめるためだけに手帳をめくっていたのか。キキの視点はやっぱりどこか他の人と違っているな……。

「なあ」美衣が話しかけた。「さっき、“やっぱり”って言ったよな。手帳を見つける前から、篠原氏が左利きだと予想していたのか?」

「うん。昨日、友永刑事から話を聞いた時に」

 刑事という単語がキキの口から出た瞬間、村井は怪訝(けげん)そうな表情を浮かべた。

「同僚の松田さんの証言で、デスクが篠原さんの右隣にあるから、ちらっと見れば腕時計がないことに気づくってあったの」

「ああ、なるほど」美衣は得心がいった様子で頷く。「篠原氏は普段、腕時計を右手首に装着している……だから左利きだと分かったわけだな」

「そう。左利きの人が左手につける事は割とあるけど、その逆はまずないからね」

「すごいじゃない、あなた!」

 突然、村井が目を輝かせながら距離を詰めてきた。さすがのキキも、突然の大声と接近に驚いて瞠目していた。村井は興奮を隠さなかった。

「それだけの事で篠原さんが左利きだと見抜くなんて……名探偵みたい!」

「落ち着いてください」美衣が冷たく言った。「この程度の事は推理とも呼べないほど初歩的です。名探偵は明らかに過大評価です」

 キキも同調してしきりに頷いたが、村井が聞き入れる素振りはなかった。

 美衣の方は逆に過小評価のようにも思えるがそれはともかく、キキは自分の事を名探偵と呼ぶに値するとは考えていない。謙虚というわけではなく、必要以上に褒められる事が苦手なのだ。好意的に解釈すれば、自分の身の丈を弁えているという事なのだろう。だからその点でいえば、名探偵というのはキキにとっても過大評価なのだ。

 もっとも、わたしの個人的な評価では、キキは十分に名探偵と呼ばれるだけの資質があるように思えるが。

「ただ……その話はどうも気になるな」美衣は腕組みをして言った。「キキ。もしその証言が事実を指し示しているなら……」

「気になるよね」キキは意味ありげな笑みを浮かべる。「もしかしたらこの事件、見た目以上に根が深いかもしれないよ」

「とても現実的とは言えないな」美衣はかぶりを振った。

「でも、調べてみる価値はあると思うよ。村井さん、篠原さんが殺害された日の前後で、何か変わった事はありませんでしたか?」

「えっ?」突然尋ねられて村井は言葉に詰まった。「変わった事と言われても……何しろ十年以上前の話だからなぁ。そもそも、あの頃の所属は営業部だったから、仕事場は八階だったのよね。まあ、営業成績が毎期どん尻で、社員の使い走りばかりさせられていたけれどね……」

 また変なタイミングで村井は塞ぎ込み、壁に額を当てて項垂れた。この浮き沈みの激しさが、結果を残せなかった最大の要因ではないのかな。

「あ、そういえば」村井は壁に額を当てたまま言った。「その使い走りで人事部に書類を届けに行った時、清掃のおばちゃんから奇妙な話を聞いたのよ」

「奇妙な話?」わたしは訊き返した。

「なんか、床用のワックスが減っていたそうよ。未使用の容器一つ、丸ごと」

 それは確かに奇妙な現象だ。数え間違いでなければ、誰かが持ち去ったのだろうか。

「警察にその事は話したんですか?」

「おばちゃんがすでに話したと思うよ」村井はやっと壁から離れた。「でも、まともに取り合ってくれた様子はないって、ぼやいていたかな」

 まあ、一見して事件には関係なさそうだからなぁ。警察はこの事実を捜査資料にも残していないだろう。残っていれば友永刑事が話したはずだ。……いや、篠原氏が左利きだという事も話していなかったから、それは微妙なところだ。

「ねえ、美衣……」キキが言った。「床用のワックスって、完全に乾くまでにどのくらい時間がかかるの?」

「そうだな……種類にもよるけど、一番シェアが高い製品なら三十分ほどで乾くと聞いた事がある。このフロアの床はビニール製だから、大体そのくらいだと思う」

「なるほどね。村井さん」

 今度は村井に尋ねた。やけに自信が見て取れる表情で。

「その床用ワックスの容器が置かれている場所って……トイレか給湯室の近くじゃありませんか?」

 その質問が飛び出した時、美衣も何かに気づいたみたいに目を見開いた。

「ええ、男性用トイレの近くに……でもなんで分かったの?」

 戸惑う村井をよそに、キキは確信を持ったように笑ってみせた。

「キキ、これってまさか……」

「美衣も分かったよね。わたしが言った、警察が気づいていない可能性のある『分かった事』が何なのか」

「……少し方針を変えた方がいいかもしれないな。いや、キキは最初からそうしていた」

「今はまだ分からないことの方が多いけどね」

 こっちは分からない事しかありませんよ。キキと美衣の謎めいた会話とか。

 ただ一つ理解できたことがある。二人は現時点で何らかの隠された事実を掴んだのだ。それ自体は事件の核心を突くようなものではなさそうだが。

「ねえ……ちょっと訊いていいかな」

 村井が遠慮がちに尋ねてきた。二人の会話の意図を測りかねているのだろうか。

「君たち……篠原さんの勤めていた会社の見学をしに来たんじゃなかったの?」

 わたし達四人は、揃って村井をじっと見返した。すぐに答えが返ってこない事に、明らかに村井は戸惑っていた。

「……今さらですか」わたしは肩をすくめた。

「とっくに気づいていると思ってましたよ」美衣は半眼で見返した。

「あ、あれ……?」

 見学というのはあくまで、この場に潜入するための手段に過ぎない。つまり潜入に成功したらその時点で見学者の設定は無効になるのだ。実際、途中からわたし達は、事件の調査を目的に行動しているつもりになっていた。

 しかし、どうやら村井はその変化に気づかなかったらしい。鈍感な人だ。

 説明が面倒くさくなると思ってため息の一つでもつきたくなった、その時だった。隣の管理部の部屋の入り口が開かれた。

「あれ? 誰かいるの?」

 顔だけ覗かせたその女性は、村井の存在に気づいて声を上げた。

「あら、瑞希ちゃん……」

「ど、どうも。松田先輩……」

 バツが悪そうに軽く手を挙げる村井。

 この思いがけない遭遇を幸運と呼ぶべきか不運と呼ぶべきか、少しばかり判断に悩むところである。少なくとも、するべき説明はさらにややこしくなった。

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