その4 怒り
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木嶋に見つかって怒られる前に、と言われて、わたし達は追い出されるように星奴署を後にした。つまみ出されるよりはマシだと思ったのだ。木嶋からすればわたし達は、捜査を引っ掻き回して混乱させた厄介者という扱いでしかないみたいだし。
星奴署を出て、落日で朱に染まった町の中を並んで歩く。足取りは重いという他にないだろう。友永刑事の口を滑らせて色々聞く事はできたが、決定打に欠けるという印象ばかりが強い調査となったのだ。
「やっぱり、あの雑誌に書かれていた事は全部、警察も把握していたみたいだね」
わたしは頭の後ろで手を組みながら、何の気なしに言った。
「そうなると、他から新しい手掛かりを入手するのは厳しいかもしれないね。週刊文明が必死に拾い集めた情報も、結局は警察の非公開情報っていうだけ。マスコミの握っている情報がどれほど多くても、警察の情報量には敵わない。そして警察が現段階で集めた手掛かりで、事件の真相に迫る事はできなかった……」
「まして十四年も経っているわけだからね。見つけられる可能性は限りなくゼロに近い」
キキとあさひのその言葉は、わたし達の調査が八方ふさがりである事を意味していた。駄目で元々の調査だと承知していたが、空振りに終わる可能性ばかり目の前に広がっている現実を、これほどまでに見せつけられると……無力感に押し潰されそうになる。
過去は現在の証明になるが、未来の証明にはならない。警察を出し抜いてみかんを助け出せたことは、あくまで過去の事実だ。称賛には適当であっても、実力を評価する材料としては乏しい。わたしが個人的にキキを信頼するだけなら構わないが、それがこの調査の成功を保証するわけでない事は明らかだ。
とはいえ、手を引くつもりなどなかった。どうせ駄目で元々の調査なのだから。
成功率を上げるためには、少し方針を変える必要があるだろう。我らが主力ブレインたるキキが現時点で閃きを得られないのなら、必要なのは情報だ。警察も掴めていない情報を得るには、どうすればいいだろうか?
「やっぱ、一番この事件の調査に熱心だった、福沢って記者に話を聞いてみようかな」
キキが真っ先に思いついたのは、少し確度の微妙な手段だった。
「素直に教えてくれるものなの?」
「警察と違って法的な守秘義務はないけど、下手に話せば他社に出し抜かれる恐れがあるから、基本的に情報提供には消極的だよ」と、あさひ。
「それに、あの人に会うのは、ちょっと……」
さそりは冴えない表情をしていた。初対面の印象が悪いせいか、さそりは福沢という記者に苦手意識を持っているようだ。
「うーん……さっちゃんだけ別行動をさせるというのもあれだからね。福沢さんに話を聞くという方法は保留しておこう」
場合によっては採用するかもしれないということですな。
「後は……さっちゃんのお父さんの会社に行って、当時の事を知る社員に話を聞いてみるとか?」
「それはなおさら無理がない? 最近の会社ってセキュリティも厳しいし、中学生が堂々と乗り込める所じゃないよ」
「じゃあ、予約でも入れてみる?」
「予約?」
「そう。四校合同で行う社会科見学という建前で」
「なおのこと無理があるから……それだと予約というより予告という雰囲気」
どうもキキは、まだ閃きのスイッチが入っていないらしい。こいつがどういうタイミングで閃きの天才として覚醒するのか、付き合いの長いわたしでも掴み切れない。
「いや……むしろその方法しかないかもしれない」
代わりに何か思いついたのはあさひだった。
「ねえ、さそり。さそりのお母さんなら、お父さんの会社にも顔が利くよね?」
「まあ、部門のトップの妻だから、上司の人も部下の人も知っていると思うよ。それほど影響力があるわけでもないけど……」
「知っているなら十分。娘とその友人が、亡き父親が勤めていた会社がどういう所なのか知りたがっているから、見学の案内をするように頼むのよ。さそりのお母さんが」
その手があったか。思わずわたしは拳をポンと叩いた。
「頼むなら、例の容疑者三人は避けた方がいいわね。警戒されるかもしれないし。あくまでさそりが友人数人を連れて行くということにすれば、何も怪しまれないわ。娘が父親の仕事に興味を持ってもおかしくないものね」
「なるほど……分かった。今夜お母さんに相談してみるね」
「OK。さて、見学案内を依頼するにしても、それがいつになるかは分からない。今が多忙な時期でなければいいのだけど」
それに関しては、実際に相手の都合を聞いてみなければどうにもならない。
「運がよければ明日にでも調査が始められるね」と、キキ。
「そうね。そうなったら、とりあえず翌日はあなた達に任せるから」
「え? あっちゃんは?」
「わたしは学校帰りにみかんのお見舞いに行く予定なの」
何を当然のことのように言うのか。いや、友達想いは結構ですけどね。
「あ、そうなんだ……」キキは特に言い返さない。
「たまには様子を見に行ってあげないと、寂しがるだろうからね。まあ、妹たちが来てくれるから、それほどでもないだろうけど」
「……デレツン」
「何だって?」
思わず呟いたキキを、あさひは睨みつけた。
「そういえば、みかんが誘拐されて大変な目に遭っていたなんて、警察署に行くまで全然知らなかったよ」と、さそり。「ニュースでもやっていなかったし」
「誘拐事件は犯人を必要以上に刺激しないように、警察の方で報道規制が敷かれる事が多いからね。よほどのことがない限り、マスコミが報じる事なんてないもの。いつも事実が公になるのは、事件が終息した後だから」
「でも、話を聞く限りだと、昨日の時点で事件は解決していたんだよね。でもそんなニュースも聞かなかったよ」
「ああ……今回は事情が事情だからね」
あさひは誤魔化しながら言った。まさか、被害者の父親が知らないうちに犯人たちに利用されていたなんて、関係者の名誉とかを考えたらとても公表できない。新聞でもごく小さな扱いになっているだろう。
「まあでも、無事に助け出されたからいいのよ。これもキキのお手柄」
あさひはキキの背中をポンと叩く。話の対象を逸らしたかったようだ。
「そうなの? キキって実は名探偵だったの?」
「名探偵なんかじゃないよぉ」キキは遠慮がちに否定した。「色々調べて考えた結果が、偶然に的を射ていたっていうだけだよ」
「それはそれですごい事だよ! キキ、将来名探偵になれるんじゃない?」
そんな職業は日本国内に存在しない。特別に資格がいるわけじゃないから、名乗るのは自由だけれど、名乗った時点で人からの信頼を失うことになるだろう。
「うーん、名探偵かぁ……そうやってプレッシャーかけられると困るんだよね」
「キキはどっちかというと、好き勝手に動き回っていい結果を残すタイプだからね」
「もっちゃん……その言い方だとわたしが野生児みたいじゃない」
「自由奔放というの? どっちにしても褒めてる事にはならないか。てか、あんたもその呼び方はいい加減にやめて」
キキは家庭でどのような教育を受けているのか、少なくとも、大人に対して礼節を重んじている節は微塵もない。彼女の辞書には、『年功序列』を始め、存在しない言葉が多すぎるのだ。自然に身を任せ、思うがままに行動する、それがキキだ。ゆえに、そうした行動を律するような言葉は持ち合わせていない。
野生児と見られかねない解釈も、あながち間違っていないかもしれない。何しろこいつは天然だからな。
そんな事を考えていると、さそりが急に前方に飛びだしていった。そして振り返り、キキを真っすぐに目で捉えて言い放った。
「ねえ、キキ……必ず、捕まえてくれるよね。お父さんを殺した奴を」
夕日を背に受けて逆光になっているせいで、表情がよく見えない。それでも、その小さく脆弱な肢体から放たれる気迫に、わたし達は微かに気圧された。
キキは真顔で見つめ返す。
「そのつもりでいるよ。結果は保証しないけど。でも……さっちゃんは、犯人が捕まった所で、何がしたいの?」
あえて揺さぶりをかけたのか、あるいはさそりの決意の確かさを見たいのか、キキはそんな事を尋ねた。さそりに動揺は見られなかった。
「決まってる……お母さんの前で、土下座をさせてやるの。今までずっと苦しめてきた事を、存分に謝らせてやる!」
さそりのあどけない顔立ちが、怒りで歪んでいた。見ようによっては、これは復讐感情と言えなくもない。しかし、彼女の複雑が過ぎる心情を、そんな単純な言葉で片付けられるとは思えなかった。純粋に母親のためであるなら、これほどまでにはならない。
これ以上、彼女の内心を穿鑿する気にはなれなかった。そんな事をさそりは決して望んでいない。どんな形であれ、自分の心に入り込まれる事を快く思う人などいないのだ。
気持ちを吐露した事で少し落ち着いたようで、さそりは一転して笑顔になった。
「それじゃあ、明日から早速、調査開始だね。また明日」
親しげに手を振って走っていく。その後ろ姿が見えなくなるまで、わたし達はずっとその場に立ち尽くしていた。
今までの付き合いの中で、さそりが怒りの感情を露わにすることなど滅多になかった。父親の事に関して、さそりが話題に上らせたのも一度きりだった。彼女はずっと、父親を殺害した犯人に対する憤りを、わたし達の前ではずっと隠し続けていたのだ。いや、真正面から向き合うことを避けていたのかもしれない。
今は違う。わたし達が全ての事情を知り、動き出したことで、さそりは、自らもそうした憤りと対峙する必要に迫られたのだ。人の死とそれに端を発する感情に向き合うには、十三歳はあまりに酷な年齢かもしれない。
せめて、友人であるわたし達が、彼女のもろい心を支えてやらなければなるまい。
「大丈夫なのかな、さそり……」
本人がいなくなったので、キキは本名を口にした。
「気持ちの面はともかく、犯人への対応は別の意味でフォローが必要ね」と、あさひは言う。「さそりが本気になるとかなり恐いわよ? なめてかかれば、ある意味もみじより危険だと思う」
「おい、誰が危険だって?」
友人の名前を取り上げて危険呼ばわりとは聞き捨てならないな。
「いつだったかな……わたしとみかんとさそりで出掛ける話になって、さそりが街中で待っている時に、風俗店の男二人に絡まれた事があったのよ。よほどたちの悪い店だったのね。女子小学生を勧誘しようって言うんだから」
「さそりがホイホイついて行くとは思えないけど」
「もちろん。男の一人が万札をちらつかせて誘惑していたけどね。先に来たわたしが助けてやろうかと思った矢先だったわ。さそりは、万札をちらつかせていた右手をいきなり掴んで、手首の動脈を狙って八重歯を食い込ませたのよ」
わたしはぞっとした。彼女は機嫌を損ねた時に、よく笑いながら八重歯を覗かせる。その犬歯は、マッターホルンや黒曜石を思わせる鋭さを持っている。あれが肌に食い込むと、地獄のような痛みを与えることになるのだ。ちなみにこれは、実際に被害を受けた人の体験談を又聞きしたものである。
「もう予想できたと思うけど、あわや失血死するかというくらい血が飛び出たそうよ。当然そいつらは恐れをなして一目散に逃げ出した。持っていた万札は血で汚れたとか。もっとも、最初から汚れた金だったでしょうけど」
誰が上手い事を言えと。笑うだけの精神的余裕がありません。
「すごいね、さそり……きっとその男たちは、さそりに目をつけた事を心の底から後悔しただろうね」
「多分ね。さそりを怒らせれば、鋭い八重歯と強靭な顎の洗礼を受けるのよ。その顛末はさそりの通っている学校でも一時期話題を呼んで、ムードブレイカーと共に『スコーピアス』と呼ばれるようになった所以よ」
ムードブレイカーなら今でもわたし達が使っている。その場の空気を壊す事に関しては天下一品。ゆえに、ムードメーカーならぬムードブレイカーだ。
「スコーピアスって?」キキが訊いた。
「さそり座の英語名」
ああ、なるほど。好色の英雄オリオンを殺した神の使いってわけか。なんだか色々納得しましたよ。
「まあ、そんな評判も中学校に上がった所で、綺麗に無くなったけどね」
「とりあえずさそりも、色々油断のならない子だということは分かったよ。まあ、もっちゃんの強烈な腕っ節とさそりの鋭い牙があれば、三人でも十分危険に対処できるから、わたしとしては結構心強いかな」
お前は観客席にでも落ち着くつもりか。
「あはは、物はいいようね」あさひは苦笑した。「でも三人だけというのもやっぱり不安だから、わたしの代わりにもう一人参加させようと思うんだけど」
「もう一人?」
「あまり気は進まないけどね……」
そのセリフだけで、あさひが誰を参加者として想定しているか、予想がついた。基本的に恐いもの知らずのあさひが、唯一苦手としている人物。
わたしも、心の準備をしておく必要があるだろうか……。
その日の夜、友永は刑事課の自分のデスクの前で、携帯の電話帳に登録してあった高村警部の番号に電話をかけた。すでに自分にあてがわれた仕事は済ませていた。
「友永くん、どうしたのかね」
電話の向こうで高村警部は開口一番に言った。
「高村警部。実は、ちょっとご相談がありまして……」
「篠原龍一殺害事件で、あの少女たちが動きを見せたのかな」
友永は呼吸が止まりそうになった。なんとか平静を装って尋ねた。
「あの、なぜそれを……?」
「言っただろう? そういう予感はあったと。そちらの紀伊くんから既に、被害者の忘れ形見が彼女たちの友人であるということは聞いていたよ。もしや、とは思ったが、やはり自分たちで調べようと思い立ったか」
「え、ええ……その事件について、あの子たちが情報を欲しがっていました。あの、高村警部は、あの事件の捜査を担当なされていたのですか?」
「どうしてそう思った?」
「いえ、紀伊くんが、この事件は心残りの一つだと高村警部がおっしゃっていた、ということを言っていたもので……」
無言を返される。何か、触れてはいけない事に触れてしまっただろうかと不安になる。
「……ああ、言った覚えがあるよ。だけど、私はその事件を担当していない」
「はあ、そうですか……では、紀伊くんの言っていたあの言葉は?」
「あの事件の担当は、私が若い頃に教育係を務めた二歳下の部下だよ。その時にも色々相談を受けていたのだが、あまり力になってあげられなかったものでね」
そういうことか。友永は不意に納得がいった。心残りというのは、担当していた自分の部下に適切な助言ができなかった事への悔やむ気持ちだったのだ。
「今は別の係……強盗犯捜査三係の係長だよ。あの頃とは完全に畑違いになったがね」
「強盗専門に鞍替えですか……」
「なかなか優秀らしいぞ。あの子たちが十四年前の事件の事を知りたがっているなら、私から伝えておこう。話の分かる奴だということは保証できる」
「それはよろしいのですが……」
友永刑事は口籠った。言うべきか言わざるべきか、迷っていた。
「何か不満があるかね?」
「いえ……あの子たちは確かに、警察にも引けを取らないほど俊敏ですし、今回の事件に関しても、驚愕の事実を掴んでくるかもしれませんが……仮にも警視庁の敏腕警部が、中学生を相手に事件の解決を期待するというのはいかがなものでしょう。失礼な言い方で申し訳ないですが、その、この程度だと揶揄される恐れもあるのではないかと……」
「はっはっは」高村警部は高笑いした。「私の奇矯な振る舞いなど、今に始まった事ではないぞ。これまでだって散々顰蹙を買ってきた男だ、この程度といわれても、痛くもかゆくもない」
物静かな外見に反して、かなり豪胆な事を堂々と……やはり掴み所のない男だと、友永は思った。
「なあ、友永くん。未解決事件の捜査は常に困難が付きまとうものだ。時間が経つほど物的証拠は減っていき、人の記憶も曖昧になっていく。殺人と強盗殺人は公訴時効が廃止されたが、それがイコール捜査の進展を意味するわけじゃない。多数の人員を動員しても、時間と金の浪費に終わってしまうことも少なくない」
「…………」
「しかし、あの子が関わるとなると、どうなるかは分からない。空振りに終わってしまう可能性だってゼロじゃない。しかし、どちらに転がるかは50:50だ。それだけの期待を寄せる価値があの子にはあると思うがね」
「どうしてそこまで……高村警部は、キキちゃんの何をご存じなのですか?」
「彼女自身の事は、何も……これも予感だよ」
都合の悪いことを隠す時に予感という言葉を使うのは、高村警部の常套手段なのだろうか。すでに幾度となく聞いている気がするのだ。
「ところで、彼女たちは明日どういう行動をするつもりなのか、分かるかい?」
「すみません、分かりません。僕が話を聞いた時点では、多分何も考えてないかと」
「つまりこれから考えるわけか。本当に考え方が似ている」
高村警部は笑っていた。似ている? 誰に?
「これでは先方と予定がかち合うかどうか、分からんな。まあ、抜け出せる時間を聞いておくから、その事を明日にでも彼女たちに伝えておいてくれ」
「警部から直接伝えてはどうなんです?」
「私はまだ面識がないし、彼女からの信頼も得られていないのでね。その点、気兼ねなく話が出来る君の方が適任だと思うがね」
「……分かりました」友永は渋々了承した。
「では、彼女たちの面倒をよろしく頼むよ」
そう言って高村警部は通話を切った。携帯を放り出し、友永は椅子の背もたれに寄り掛かって天井を眺める。
あの実力派警部は、キキたちの何に期待を寄せているのだろうか。かつての部下を会わせることで、何か事態が好転すると確信しているのか……どうも判然としない。
自分は予感など持っていない。それ故に、あの警部の考えに共感できない。それでも、想像もしない方向へ物事が進んでいく事だけは、心の片隅で感触を捉えていた。
じっくり見ていく必要があるのだろう。キキという少女が、何者なのかを。




