その3 容疑者
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「……いや、予感はしていたよ、正直。昨日から十四年前の事件にも興味を抱いている節があったし、誘拐事件に決着がついたら今度はそっちに集中するかもしれないとは思っていた。だけど、まさか警察署に直接乗り込んでくるとは……」
わたし達四人を小会議室に連れ込んだ後、友永刑事は腕を組みながら言った。疲労困憊が顔に滲み出ていた。さすがに不憫に思えてくる。
「すみません、見るからにお疲れのところをお邪魔して……」
「ひとこと多いよ、もみじちゃん。まあ、連日寝ずに聞き込みを続けて、しかも犯人検挙した後は寝る間もなく取り調べに追われる始末だ。少しばかり休憩するタイミングが得られてむしろよかったよ」
寝ないでいるからまともに思考も働いていないのだろうか。わたし達に付き合うことが休息になるはずがないと、昨日までの四日間で十分に分かるだろうに。つまるところ、激務から解放されたくてたまらないと感じていただけだろう。これ幸いとばかりに、わたしからの連絡に見境なく飛びつくほどに。
「そんなコンディションに追い打ちをかけるようで気が引けますが」キキははち切れんばかりの笑顔で言った。邪悪だ。「昨日の誘拐事件の事後処理はどうなりました?」
「まだ犯人全員の弁解録取が済んでいるわけじゃないんだよ。何しろ、九人全員を取り調べて、事実関係をしっかり掴んだうえで調書を作らないといけないからね。おまけに、九人全員が、まだ残っているもう一人の仲間が逃げている最中だって言うんだ」
「十人目がいたんですか?」と、わたし。
「君たちが犯人グループの拠点に向かう前に、すでにあそこを抜け出していたらしい」
「あ、そういえば……」
不意に思い出し、わたしはキキと目を合わせた。
「ロビーにいたあの男、確か電話で……」
「うん、言ってた。あれでわたし、犯人たちの素性に気づいたから……」
「え、どういうこと?」友永刑事が尋ねてくる。
「わたし達がマンションの前まで来た時、ロビーにいた犯人の仲間が電話の相手に言ってたんです。お前は一人、遠くで高みの見物か、自分たちとしては返すべき金が返ってくれば文句はない、って……」
それを聞いて、友永刑事は瞠目した。
「そんな事を……。いや、確かにここまでの取り調べでも、残る一人がどこかの空港で先に待っていたという証言がある。場所は後から伝えるつもりだったらしく、誰も知らないって言っていたけど……しかし、返すべき金というのは?」
「あいつらが半グレ集団だって事、まだ白状させてないんですか?」と、キキ。
「半グレだって?」
「その会話の中で、警察の事をサツと呼んでいましたし、暴力団なら偽の小指をつけていたり金ピカの腕時計をしていたりしますが、それもありませんでした。でも誘拐で大金を稼ごうとしている非合法集団……半グレしか思いつきませんよね」
「……あのさ、暴力団の特徴なんてどこで覚えたの?」
「ネットで」
キキはさらっと答えた。友永刑事はため息をつきながら俯く。
「なるほど、半グレか……暴対法の締め付けを逃れているために、警察でも全容が把握できていないとされている。無秩序な組織でありながら司令塔ばかりがしっかりしているせいで、下々の連中がどれほど暴れて捕まっても壊滅が難しい、極めて厄介な集団だ。この事件も恐らく、一部の手下が大金に目がくらんで起こしたものだろう。白状しなくて当然だ。奴らは多分、警察にマークされている、いわゆる準暴力団に繋がりを持つ半グレの一員なんだ。下手にその事を言えば、裁判にかけられた時に不利になる可能性が高くなるからな」
「半グレの取り締まりも、暴力団と同じく組織犯罪対策部の仕事ですよね」と、あさひ。
「君はそういうことにも詳しそうだから突っ込まないけど……そうだね。実態が明らかになれば、本庁の組織犯罪対策部に預けることになるかもしれない。とても一所轄署が手に負えるような規模じゃなくなる。何しろ、特定の活動地域を持たないのが、半グレという組織だからな」
「半グレだったら、証人を消すために爆弾を使うことも、拳銃やライフルを乱射することも、平気でやりかねませんからね。六本木のクラブの事件みたいに……」
「そんな奴らを相手によく戦えたね、君たちは……」
「この二人が異常なほどに恐ろしいんですよ」
あさひはわたしとキキを指差して言った。半グレによる暴力よりも、キキの頭脳やわたしの身体能力の恐ろしいというのか。否定はしないけど、そのせいで恐怖の対象とされるのは、全くもって気分のいいものじゃない。
「まあ、一つ手掛かりが得られたみたいじゃないですか」キキはあまり気にしていなかった。「奴らは、昨日までの誘拐で手に入れられる大金の事を、“返すべき金”と表現していました。恐らく、借金か何かでその半グレ集団から恐喝を受けていた誰かが、大金を渡す手段として提案した計画が、あの誘拐事件だったんです」
「君たちの話を聞く限りでは、どうもそういうことらしい。そしてその“誰か”が、残る一人の仲間だと考えられる」
「そうですね。半グレの考え方でいえば、計画を提案した張本人を巻き込むことを当然だと捉えても不思議じゃありません」
「そしてその人物は、計画失敗に気づき、連中との連絡の一切を絶った。そうなると、もう国外に逃げている可能性もあるな……」
「まあ、その辺は頑張って警察で追ってください」キキは多少投げやりに言った。「元から終わった事件に興味はありませんから。もうわたし達の出る幕じゃないです」
「ああ、そうだったね。君たちは十四年前の事件を調べに来たんだよね」
友永刑事は苛立たしげに言った。前から思っていたけど、いい大人が中学生の言動に振り回されるのはどうなのだろう。
「だけどね、まずは君たちが知っている事をこっちに話しなさい。一方的な情報提供ではこちらも得心がいかないんだよ」
「そう来るだろうと思っていました。まず、あっちゃんが拾ってきたものですが……」
キキは何のためらいもなく、現時点でわたし達が掴んでいる事件の情報を、詳らかに説明し始めた。もっとも、今はキキも分かった事があるわけではなく、未調理のデータが頭の中に入っているだけだから、隠す理由がそもそも無い。
それにしても……みかんの父親の前で自らの推理を話す時もそうだったが、キキはどんなに長い内容でも理路整然と説明できる。わたしは、記憶力は人並みにいい方だと自負しているが、説明力となれば未知数だと言わざるを得ない。頭の良さは説明にも表れると言われるが、そういう意味では、キキはなるほど賢い子なのだろう。
まあ、それと同時に、大賢は大愚に似るなんて言葉もあるのだが。つまり見た目にはなかなかその賢さが現れないということで……。
なんて思っているうちにキキの説明は終了した。唸る友永刑事。
「福沢大か……」
「ご存じなんですか?」わたしは尋ねた。
「先輩刑事から名前は聞いた事がある。十四年前に、しつこく警察関係者に色々訊いて回っていた、週刊文明の記者だ。当時の評判しか知らないが……裏取りはしているものの、若干配慮に欠けた内容や言い回しが多く、しかし曖昧な文体によって訴えを巧みに避けている、とにかく同業者以外からはすこぶる嫌われている、油断のならない男だそうだ」
散々な言われようだなぁ、福沢って人は。かく言うわたしも、名前しか知らないこの人物には、週刊誌記者というだけで嫌悪感を覚えたけれど。
「それでも、三か月ほどで姿を見せなくなったらしいけど……正直僕も、その手の雑誌記者とは顔を合わせたくないんだよなぁ」
「友永刑事の場合、言葉巧みに騙されて重要な情報を漏らしてしまいそうですしね」
「きみ、やっぱり純然たるサディストだろ、絶対」
笑顔で傷口に塩を塗るキキに、友永刑事は反論する意思すら湧かないようだ。わたしから見れば、キキは結果としてサディストになっているだけで、本質はただの天然だ。まったく天然というのは恐ろしいものである。
「とはいえ、その記事に書かれている内容は、警察の見解とほぼ一致している。容疑者は三人まで絞り込んでいるが、その人達はいずれも被害者と同じ部署の人間で、大学で同じサークルに所属していて、なおかつ被害者の生命保険の受取人になっている。もっとも、殺人の動機とするにはいささか無理があるけれど……」
「さそりのお父さんが、その会社の横領疑惑を調べていたというのは?」
キキは友永刑事に尋ねているため、ニックネームを使っていない。
「それも事実だよ。だけど、その記事によると、被害者が横領事件を調べていたことが、殺人の動機となっている可能性が指摘されているみたいだが、横領の容疑者としてあの三人がマークされていたわけではないんだ」
「そうなんですか?」と、わたし。
「だったら、殺人の動機になった可能性は低いですよね」
「うーん……この横領事件は本庁の捜査二課も調べていたけど、結局うやむやのまま打ち切られてしまったからなぁ。金のルートを調べてみると、あらゆる名義で架空口座を開設しておいて、その口座に流してから少しずつ引き出していたんだよ。オンラインを通さずに金を調達していたのなら、その筋を辿るのは極めて困難なんだ」
「古典的ゆえに足がつきにくいのですね」髪をいじりながら言うあさひ。
「でも、容疑者三人に関しては、確かに一時的に生活費が不足していたけど、全員一人暮らしで、横領で何百万もかすめ取ろうとするほど困窮してはいなかったんだ。だから、早々に横領の容疑者からは外されたよ」
ということは、その三人の容疑者には、篠原龍一が横領の調査に関わっていたことで殺害するという動機が存在しない事になる。だったら、警察がその三人に容疑を絞った理由とは何なのだろう。わたしはその事を尋ねてみた。
「実をいえば、篠原龍一について周囲の話をどれほど聞いてみても、殺害される理由が見当たらなかったそうなんだ。そもそも、被害者は横領の内部調査チームに所属していたけど、調査を主導する立場にあったわけではないんだ。だから、仮に横領をしている人物がいたとしても、その人物が篠原龍一を殺害する必然性がないんだよ。つまるところ、どういう理由で殺人に至ったのか、それさえもはっきりしていないんだ。ただ、容疑者三人に関しては、篠原氏と親密な付き合いがあっただけでなく、事件当時のアリバイもあやふやなものばかりだから、最も怪しむべき存在と見なされていた、それだけの話だ」
警察としては必死に調べて考えた結果なのだろうが、無理やりこじつけている感じは否めない。一人に絞り込めるだけの十分な証拠が、見つけられなかったようだ。
「どんなアリバイなんですか?」キキが訊いた。
「えっと……」友永刑事は手帳をめくった。「一人目は松田美樹、当時二十六歳。死亡推定時刻の八時から十時の間は、取引先から直帰している最中だったそうだ。健康のために歩いて帰っていたそうで、その間の裏は取れていない。途中で一度、取引の報告のために篠原氏へ電話をかけたが、本人は出ず、多忙みたいだから報告は明日にしようと考えてそのまま帰宅したそうだ。自宅に到着したのが十時十分前ほど」
「現場の廃屋に立ち寄って、その時刻に帰れますか?」
「車を飛ばせばできない事はない。でも、松田は免許を持っているが車は持っていない」
「では結局無理じゃないですか」
「誰かの車を借りた可能性も捨てきれないからね……現状としては、比較的シロに近いグレーと言ったところだ」
キキは呆れたように目を細めた。「……二人目は?」
「里村祥介、当時二十五歳。関係者の中で最年少だね。問題の時間帯は、提携先の工場で担当者と協議中だったそうだ。内容は企業秘密ということで明かされなかったけど。工場の出入り口付近には監視カメラがあって、七時半に工場に入ってから、十時半に出るまでの間、里村が工場を抜け出した様子はなかった」
「これも完璧に見えますけど」
「しかし、工場の担当者は事業発注の継続を切望していたから、何かと丸め込んでアリバイ作りに協力させた可能性も捨てきれないし、調べてみたら、この監視カメラにも死角が存在していた。だからこれも完璧なアリバイとは言い切れない」
「むぅ……」キキは気に入らないらしい。「三人目は?」
「桧山努、当時二十七歳。問題の時間帯は本社ビルの一階ロビーで、下請けの業者と商談をしていたそうだ。時折、電話で相手の上司と連絡を取り合っていたらしい。商談自体は十一時過ぎまでかかって、桧山はそのまま帰宅したと言っている。もっとも、この帰宅の時刻は証明されていないけど」
「それも完璧じゃないんですか?」
「商談中の電話で主に会話していたのは相手の方だ。桧山も時折、電話からの質問に答えていたそうだが、テープレコーダーで適当に受け答えすることも不可能じゃない。当時ロビーに人はほとんどいなかったし、二人が一緒にいた事を証言できる人はゼロだ」
キキはここでもむっとしていた。何か不満があるらしいが、キキはその事を言おうとしない。容疑者のアリバイが中途半端である事が、そんなに気に入らないのか。
「亡くなる直前まで、篠原龍一の足取りもなぜか一向に掴めないらしい。これといった決め手もないまま現在に至る……とまあ、こんな感じだ」
そう言って友永刑事は手帳を閉じた。
メディアに頼るだけでは得られなかった情報はいくつも手に入った。しかし、キキは思案する姿勢を崩さない。どうやらまだ、推理するには不足があるらしい。
「友永刑事……他に何か証言は出てこなかったのですか? 事件に関係あるかないかは置いといて、全部」
「えっと、ちょっと待ってね……」
友永刑事はまた手帳をめくり始めた。本人は気づいていないが、いつの間にかキキの言う事を無条件で聞いてしまっている。指摘したら情報提供が打ち止めになりそうだから、言わないけど。
「ああ、そうだ。容疑者三人が、それぞれ被害者についてこんな証言をしているよ。松田は、篠原氏が腕時計をつけていなかった事を、里村は、前日に買うよう言われた紅茶がある事を忘れて別のお茶を入れていた事を、桧山は、普段歓迎しないマスコミを招き入れていた事を、指摘していたそうだ」
腕時計と、紅茶と、マスコミ……確かに事件とは関係あるように見えない。
「それと、別の社員の証言で、いつも持参しているハンカチを持っていなかったという事も判明している。まあいずれも、単なる気まぐれだと判断されたけど……」
「でも一応、記録としては残してあるんですね」と、わたし。
「残っているのは一部の証言だけだよ。それを聞いた捜査員の判断で、資料として残すかどうかが決められているようなものだし。当日に限っての出来事も、事件に関係ないと捜査員が判断すれば報告書に記載される事はないからね」
それは何となく想像できる。現実の聞き込み捜査は、ドラマで描写される以上にハードで、根気と体力と長い時間が要求されるはずだ。なるべく事件解決に必要な情報を集めることに、必死になった結果なのだろう。
さて、捜査に参加している警察官からも不足している可能性を仄めかされているこれらの情報から、キキは何か閃きを得られただろうか……。キキの目の輝き具合で、わたしは的確に見抜けた。全体には及ばずとも、わずかに思いついた事があるようだ。
「……あの、遺体の状況は? あっ」
ほぼ反射的に訊こうとして、キキは言葉を詰まらせた。
さっきから全く話に参加していなかったが、最初に言ったように、この場には友永刑事によって連れてこられた、四人の中学生がいる。そう、被害者の忘れ形見がいる。
「さそり、大丈夫か……?」
隣に座るあさひが気遣うように話しかける。さそりは小さく頷いた。
「大丈夫……なんかちょっと、現実感が湧かなくて変な感じ」
会ったことのない父親の話を延々と聞かされて、さそりは、自分に関係する事だという意識が持てずにいるのだろう。それがどのくらい苦しい事なのか、同様の経験などないわたしには露ほども分からない。
「わたしの事は気にしなくていいよ、キキ」
「そう……?」
それでもキキは不安を隠せなかったが、やがて吹っ切れたように、もう一度友永刑事を見て質問を口にした。
「すみません。それで、遺体の状況は?」
「ああ……死因については君たちも知っている通り、頸動脈切断による失血死だけど、監察医の報告によると、その傷口には水に濡れた痕があって、首を一周するようにわずかながら圧迫痕があったそうだ。絞め殺すには不十分すぎるほど、弱い圧迫だったみたいだけど……。あと、これは発見時から奇妙に思われていた事なんだが、被害者は背広だったのにネクタイを装着していなかったそうなんだ」
「ネクタイが……うん」キキは頷いた。
「それと、さっきの証言の一つと明らかに矛盾することもあって……」
「何ですか?」
「松田が証言していた腕時計だけど、捜査資料では、被害者が身に付けていた遺留品の中にちゃんと、腕時計が存在しているんだよ」
確かに矛盾している。あるはずの腕時計をないと証言していた……。
「その松田って人の証言は嘘という事ですか?」と、わたし。
「嘘をつく理由が見当たらないからなぁ……もしかしたら、腕時計に何か秘密があるのかもしれないと考えて鑑識が調べたけど、ごく普通のダイバーズウォッチだったよ」
「……さそりのお父さんに、ダイビングの趣味が?」
「いや。被害者の奥さんに訊いてみたら、適当に選んだだけだったそうだ」
さようですかい。
だとしたら、なぜそんな矛盾が生じたのだろう。キキは……おっと、どうやら閃きに手が届きそうな感じだ。
「二つ、質問してもいいですか?」
「いいよ」友永刑事は完全に乗り気だ。
「まず、その腕時計についてですが、松田って人は腕時計がなかった事をどのようにして確かめたのでしょうか。腕時計をつけているかどうかなんて、普通に生活していて気づくものじゃないと思いますよ。何かきっかけがあったはずです」
「さすがに鋭いな……本人いわく、会社のデスクが被害者の右隣にあるから、ちらっと見れば分かるそうだ」
「そうですか」キキは満足そうに微笑んだ。「もう一つ。桧山って人が言っていた、篠原さんが招き入れたというマスコミは……週刊文明ですか」
友永刑事は鼻で息を吐くと、神妙な顔つきで頷いた。
「その通り。だけど、実際に会社を訪れたのは福沢じゃない。受付の人の話では、訪ねてきたのは女性との事だ」
「女性……」
「もちろんその女性記者にも捜査員は接触したが、事件当日は被害者に会っていなかったから、詳しい事は何も分からないそうだ。目下の容疑者三人も、事件当日には会ってなかったと証言している」
「そうですか……それじゃあ、福沢って人が篠原さんの会社に来たとすれば、事件の後ということになるでしょうか」
「そうだね。福沢が追っていたのはあくまで殺人事件の方だし、何より、篠原氏とは一度も面識がないと言っていたそうだから」
そこまで聞いて、キキはじっくりと考え始めた。どうにも、錯綜している印象が強い情報収集だが、それらを整理した後にどんな結論が浮かび上がるのか……キキにすべて任せるのもいかがなものかと思い、わたしも考えてみた。
……ああ、駄目だ。頭は平凡なわたしがどんなに考えても所詮この程度だ。
「うーん……どうも全体像がはっきりしないなぁ。色んな人の思惑が複雑に絡んでいるような気がして、もう少し時間をかけて考えないと駄目かもしれない」
「考えるのは結構だけどね」友永刑事が言う。「前回みたいに、我々警察を置き去りにして独断専行に走るのはやめてほしいな。そりゃあ、条件付きで現行犯なら一般人でも逮捕はできるけど、その後に警察に引き渡さなければ逮捕監禁罪になるからね、警察の存在を無視しての犯罪調査なんてありえないんだよ」
「だったら、犯人を逮捕する段階までなら、警察の存在を無視しても構わないんですね」
「それは詭弁で屁理屈だから。民間人が興味本位で調査に首を突っ込んで、結果として警察の捜査を妨害することになったら、それこそ公務執行妨害だよ」
「あー、そっか。特に木嶋って人はそれを持ち出して来そうですよね」
キキは天井を仰ぎ見ながら、関心なさそうに言った。木嶋だけでなく警察の誰が持ち出したとしても、こいつは聞く耳など持たないだろう。
「分かりました。妨害にならないように気をつけて調査します」
「僕が何をやめてほしいのか分かってる……?」
「分かってますよ。そもそも事件に首を突っ込んで捜査の真似事に興じるのをやめてほしいのですよね。でも、やめるつもりなんてありませんから」
キキは終始笑顔を崩さずに言った。こいつのマイペースぶりは今に始まった事じゃないし、わたしはキキがやりたい事なら基本的に何でも手助けするつもりでいる。だから友永刑事のフォローに回ろうとは思わない。
手に負えない。そう感じて友永刑事が嘆息をつくと、直後に小会議室のドアがノックされた。入室してきたのは紀伊刑事だった。
「あ、友永さん、こんな所に……げっ、なぜいる」
セリフの後半はわたし達に向けて発せられたものだ。辟易とするのも分かるけど、人の顔を見て「げっ」はないのでは。
友永刑事はとうに諦めたような素振りで言った。
「現状僕たちが抱えている事件の関係者を連れて、首を突っ込んできたんだよ」
「篠原龍一の事件ですか。また……」紀伊刑事は顔をしかめた。「って、事件の関係者というのは?」
「こちらにいる、被害者の娘の篠原さそりちゃんだよ。一歳下だけど、彼女たちの友人の一人らしい」
友永刑事に紹介されて、さそりは紀伊刑事に向かって控えめに頭を下げた。
「被害者の家族まで連れてここに来るなんて……正気の沙汰じゃない」
渋面を手で覆って呟く紀伊刑事に、さそりは力強く言った。
「わたしだって真実が知りたいんです。みんなはわたしのために調べてくれるから、わたしも全力で協力したい、それだけの事です」
「それだけだからむしろ厄介なのよ……」
まあ確かに、この場合、動機が単純であればあるほど、何かと理由をつけて関わりを遠ざけるのが難しくなるからな。本人の意志がそれだけ頑なだということだ。
「友永さんもしかして、この子たちの口車に乗せられて事件の情報の大多数を漏らしていないでしょうね」
紀伊刑事が尋ねると同時に、友永刑事はさっと目を逸らした。紀伊刑事は般若の如き怒り顔で友永刑事に詰め寄った。
「公務員の守秘義務違反に相当しますよ?」
友永刑事は目を合わせない。「ゆめゆめ口外すべからずと釘を刺しておくから……」
「当然です」
わたしはとりあえず、この場は傍観者に徹しようと思った。紀伊刑事の怒りがこちらまで飛び火するのは何としても避けたい。とはいえ、わたし達も原因の一つなのだから、どのみち逃れようがないけど。
そして予想通り、紀伊刑事は怒りも治まらないうちにこちらへ顔を向けた。
「いい? ここで聞いた事は絶対誰にも言っちゃだめだからね?」
「……肝に銘じておきます」と、目を合わせないあさひ。
「右に同じ」と、真顔を装うわたし。
「右に同じー」と、笑顔のキキ。
「あなたは全く本心を隠す気がないのね」
紀伊刑事が拳を鳴らすと、キキは「いやーん」と言って身をよじった。それでも笑顔を崩さないということは、反省の意思はないとみていいだろう。紀伊刑事、止めはしないのでどうぞ思う存分制裁を加えてください。
「あなたもね」紀伊刑事はさそりに向かって言う。「よほどの事情がない限り、家族が相手でも簡単には事件の情報を話さないこと。いいわね?」
わたし達より年下で、被害者の身内だから加減しているのか、諭すような口調だ。
「言わないでと言われたら言いませんけど……でも、警察の捜査をどこまで信用していいのか、わたしにはちょっと分かりません」
さそりの発言に、紀伊刑事はバツの悪そうな表情を浮かべた。
「そりゃあ、十四年も捜査が進展していなければ、警察への信頼が無くなるのは仕方ないけど……捜査の権限は私たちにあるのであって、あなた達じゃない。どれだけ信頼できなかったとしても、任せるしかないのよ。分かる?」
「…………」
さそりは下を向いて黙り込んだ。彼女からすれば、信頼の弱い相手に任せる以外に方法がないと言われるのは、理不尽以上の何物でもないだろう。さそりが本気で信頼し、本気で任せたいと思える相手は、少なくとも警察じゃない。
わたしの隣で虚空を見つめながら考えている、我が親友だ。
「……当時、捜査を担当していた人なら、もっと情報を持っているかも」
キキが呟いたその考えは、あるいは光明ではないだろうか。
「うーん……そうかもしれないけど、話を聞くのは難しいよ。全員は知らないけど、僕が認知している限りでは、担当の警察官はほとんどが本庁や他の所轄に転属していて、すぐには連絡のつかない状態なんだ。第一、君たちが話を聞きたいと言って、それに応じてくれる人がいるとは、やっぱり思えないよ」
「そうですね。友永刑事みたいにお人好しで乗せられやすい警察官なんて、そうそうお目にかかれるものじゃありませんからね」
悟ったような口調で言うが、キキよ、もう少しオブラートに包んで物申したらどうだ。手段ばかりじゃなく言葉も選ばないのか。
「いや、あの人だったらもしかしたら……」
ぐったりと項垂れる友永刑事には目もくれず、紀伊刑事は思いついたように言った。
「どうしたの?」
「いえ……高村警部なら、何かご存じかもしれないと思って」
高村警部というと、みかんの事件で本庁から派遣されたという、捜査一課の敏腕警部の名前だ。昨日の話だと、何やらキキの事を知っているそうだが……。
「なんで高村警部が?」
「昨日、誘拐事件の被疑者を引き渡した後に、私が、この事件についてもキキちゃん達が興味を抱き始めていると言ったら……」
『それは面白い。あの事件は、私にとっても心残りの一つだからね』
「……と、おっしゃっていたので。それ以上は何も言いませんでしたが」
心残り。その単語から察するに、高村警部も篠原龍一の事件に関わりを持っているらしい。キキが事件に興味を抱く事を面白いと言うなら、高村警部は評判にたがわず変わり者のようだ。案外気が合うかもしれない。
「ねえキキ」わたしはキキに耳打ちした。「その高村って人がキキに興味あるなら、説得次第では何かいい情報をくれるかもしれないよ」
「わたしもそう思ってた。友永刑事」キキは少し声量を上げた。「その高村って警部さんと、今から会えますか?」
「ああ、無理だよ」
友永刑事に即答され、キキは固まった。キキが目を丸くして表情を消した所は、久しぶりに見たかもしれない。
「高村警部は昼前に本庁へ戻られたよ。供述調書をまとめて送検書類を作成する必要があるからね。取り調べに本庁の係長が参加する義務はないからね」
「はあ……では、連絡先だけでも」
「君もしぶといね。連絡はできるけど、まだ篠原龍一の事件の捜査が本格化していない現段階で呼び出しても、身動きが取れないと思うよ。警察の仕事は、犯人を捕まえた後が一番大変なんだから」
するとキキは、テーブルに顔から突っ伏した。
「あー……せっかくいけると思ったのに」
「一応僕から連絡はしてみるよ。あの態度なら、すげなく断ることはないだろう。とはいえ、それと情報提供が叶うかどうかは別問題だ。キキちゃんが昨日の事件でどれほどの鋭さを見せたのか、それは君からの頼みがあって本当に誰も知らないんだから」
「ですよね……こればかりはしょうがないか」
キキは自分の推理の過程を、この二人の刑事にだけ打ち明けて、他の警察官には一切話さないという約束を取り付けていた。だからキキが推理で事件の真相を見破った事を、他の刑事は全く知らないのだ。これはみかんのため、キキが望んでやった事だ。
わたしは悄然とするキキの肩をポンと叩く。
「まあまあ。ゆっくり情報を集めていこうよ。どうせ、時効が撤廃されたおかげで、時間がいくらかかっても大丈夫になったんだからさ」
「本当にね」と、紀伊刑事。「でも時間をかける分、証拠はどんどん消えていくのよね」
「まして十四年も前の事件だ。解決できる保証は全くない。高村警部がどうしてあれほど達観していられるのか、僕にはさっぱり分からないよ」
それはもしかしたら、キキに対する揺るがない信頼によるものなのかもしれない。会った事も評判を聞いた事もない中学生に対して、なぜそこまで強い信頼を向けているのか、わたしにはそれこそ分からない。
わたしはキキの姿に目を向ける。長く整った黒髪をいじっている。
キキはわたしの知らないうちに、警視庁の実力派警部からの信頼を勝ち取っていたらしい。別にその事に気づかなかったとしても、悔しいとは思っていない。キキへの信頼を独り占めする気など、わたしには毛頭ないからだ。
ただ……キキがこうした“力”を見せつける度に、わたしは妙に孤立感を覚えるのだ。キキに置き去りにされる事が、わたしの心を苛めることもある。
その理由を、自分自身がまだはっきりと理解していない事もまた、焦燥感を駆り立てるのかもしれない。いつまでもこんな感じだ。わたしが何を真剣に考えたとしても、所詮この程度なのだから。




