その17 誘拐の真相PART.3
<17>
日没の時刻を過ぎて、徐々に町も暗くなっていく。道行く人の数も少なくなって、薄暗い町の中を車が猛スピードで走行していても、気に留める人はほとんどいない。
目的地へと進み続ける覆面パトカーの後部座席で、あさひは携帯を操作していた。これから向かう場所の事をネット検索にかけているようだ。
「SEINUタワーマンション……昭和三十年代に建てられ、一時期は二百以上ある全ての部屋が埋まる事もあったが、三十年ほど前から住人が減り続け、数年前にオーナーが手放して売りに出された。しかしなかなか買い手がつかず、そのまま放置されて廃墟寸前にまでなったため、先日、行政による取り壊しが検討され始めたって」
「そんな所には、誰も近づきたがらないよね。犯罪者にとっては絶好のチョイスかも」
「あのさ……」
運転中の友永刑事は、前方に視線を固定しながら尋ねた。助手席には紀伊刑事、後部座席ではキキが真ん中に座っている。
「今ひとつ事情がよく呑み込めないのだけど……そのSEINUタワーマンションって、犯人が身代金の受け渡し場所に指定した所だろう? どうしてそんな所に、先んじて行こうと思ったんだ? まさか、犯人や誘拐された少女がいるとでも?」
「そのまさかです」キキが答えた。「少なくともわたしはそう見ています」
「何か根拠があるの?」紀伊刑事がふて腐れたように言った。「そもそも、金の受け渡し場所がそのまま犯人の本拠地だなんて、聞いた事もないけど」
確かに……受け渡し場所を指定すれば、警察がその場所に張り込む事は予想できる。そんな所に本拠地を置いたら、逃げ出す事が難しくなるはずだ。
……って、わたしもだんだん、この手の犯罪心理が分かるようになってきたなぁ。
「友永刑事。それに紀伊刑事も……」キキは唱えるように言った。「今からわたしが話す事は、誰にも言わずに心の中に留めておいてほしいんです。たとえ警察の同僚相手でも、絶対に明かさないと約束してくれますか?」
キキのこの言葉で、車中はしんと静まり返った。タイヤの擦れる音が響くのみだ。
「あのね……」紀伊刑事が苦言を呈した。「捜査に関する重要なことなら、調書にもしっかり記録する必要が」
「分かった。誰にも言わない」
「友永さんっ!」紀伊刑事は友永刑事に食いかかった。
「ここは大人しく聞いてあげよう。彼女がここまで言うからには、よほどの事情があると考えるべきだ。木嶋さんには僕から上手く話してみるから」
友永刑事が説得するのか。悪いが、ちょっと頼りがいが薄い……。
「……子供の言いなりですか」
紀伊刑事が不満を言いたくなるのも分かるけどね。偉そうに警察に物申せる立場じゃない事は、わたしも自覚しているから。
「まず、大事なことを話しておきます」キキは話し始めた。「この事件の犯人は犯行の際に、みかんのお父さん、柑二郎さんを巧妙に唆して、誘拐の手助けをさせました」
「「ええっ?」」二人の刑事は同時に声を上げた。
「もちろん、本人にその自覚はありませんでした。騙されていたんです。でも犯人は、その柑二郎さんに全ての罪を被せ、主犯に仕立て上げるつもりだったんです。その上で、柑二郎さんの罪悪感につけ込んで、脅迫という形で大金をせしめる計画でした」
「そんな事を考えていたのか」
「なんて極悪な……」紀伊刑事は爪を噛んだ。
「ところが、犯人たちにとって想定外の事が起きたんです。犯人が大金を渡し、犯行の重要な局面で加担させた小早川医師を、わたし達の友達の美衣が激しく追及したのです」
「小早川? まさか、今日の昼過ぎに病院の屋上から転落死したっていう……」
友永刑事たちも、あのニュースは見ていたようだ。
「そうです。そして追及の結果、小早川医師は計画の核心に近づく証言をしてしまったのです。これによって、計画が警察に知られる恐れが出てきた……」
「何よ、その計画の核心に近づく証言って……」と、紀伊刑事。
「詳しくは話せませんが、簡単に言うと、医師の立場を利用して柑二郎さんに色々な嘘を教え、精神的に動揺させたことです。それを、誰かから依頼されたとも」
「なるほど、誰かが被害者の父親を利用していると分かれば、君が言ったような計画に辿り着かれる可能性は格段に跳ね上がるな」
かなり不十分な説明だけど、友永刑事は納得してくれたみたいだ。
「手遅れになってしまう前に、犯人は方針を変えたのです。彼らの目的はあくまで、警察に自分たちの行動を悟られることなく大金を手にする事です。その目的は変えずに、手段を変えることにしたんです。事実、柑二郎さんへの脅迫で要求した金額と、先ほどの身代金の要求額は、どちらも一千万円でした」
「つまり、我々警察に計画を見抜かれる恐れが出てきたから、柑二郎氏への脅迫が難しいと踏んで、身代金の要求に切り替えたのね?」
「そういう事です」キキは頷いた。「身代金を要求する手紙が投函されたのは、昨日の夕方より前、場所は川崎市多摩区の登戸郵便局が回収する範囲のどこか。タイミングも場所も、例のワゴン車の爆破が行われた時と一致しています」
「待てよ……?」友永刑事は前方を見ながら考えた。「その時点で犯人は、金を得る手段を身代金の要求に切り替えたわけだろう? そのタイミングで爆破が行われたのなら、あれも予定外の行動だった可能性が高いよね?」
「まさにその通りです。手紙はワープロで即興で書いたもので、それを封筒に入れて投函すると同時に、犯行に使用したあのワゴン車を爆破した……」
「どうしてそんな事が言えるの?」と、紀伊刑事。
「爆発した車から見つかった二人の遺体は、どちらも後部座席にありましたよね? という事は、運転手は外に出ていた可能性が高い。その人物が、手紙を投函するために車外に出ていたとすれば、他の二人は車の中で待っているしかない。確実に証言者を抹殺し、そして早いうちに手紙を届ける。この二つを手早く実行するには、絶好の機会だったはずです」
「た、確かに筋は通っているわね……」
「そうして二人の人間は爆死した……」友永刑事が呟く。「その運転手は、仲間を殺害して生き残ろうとしたのか」
「厳密に言えば、殺されたのは柑二郎さんが集めた方の仲間です。計画に気づかれたら何をされるか分からないので、いずれは殺される宿命だったのでしょう」
「残酷極まりない連中だな……」
友永刑事は舌打ちを交えながら言った。本当に、この事件の犯人には、もはや怒りしか感じない。人間のする事とは到底思えない。
あさひは手早く携帯を操作していた。指を止めたところで口を開いた。
「キキ。どうやらその推測は正しいみたいよ。見て」
そう言ってあさひが見せたのは、動画サイトに投稿されたニュースの映像だった。路肩に置かれた、原形を留めないほどに破壊された一台の車。その目と鼻の先に、ポストが設置されていた。運転手が、ポストに手紙を投函すると言って車を停めたとすれば、絶好の位置取りといえるだろう。
キキが満足そうに頷いたのを見て、あさひは携帯を引っ込めた。
「本当なら、あの車にはみかんが乗っていた痕跡が残っているから、そのままレンタカー業者に返して、その二人は後で口封じする計画だったと思います。元々柑二郎さんに罪を被せるつもりだったから、柑二郎さんが直接関わった証拠は残す予定だったはずです。ところがこの方向転換によって、今度は逆に車の存在が邪魔になった。手紙がみかんの家に届く前に警察が柑二郎さんを捕まえれば、安全圏に置かれた柑二郎さんが都合の悪いことを話してしまうだろうから、まさに一巻の終わりです」
「そっか」わたしは思わず言った。「だから車を燃やして、柑二郎さんに繋がる証拠を一度消したのね。そして、恐れをなして警察に逃げ込む可能性のあった二人を、この機会に殺害した……」
「そういうこと」キキはにっと笑った。笑うところじゃないけど。
「つまり木嶋さんの見解はまるっきり逆だったわけね。証拠を消そうとしたのなら、シートの隙間に少女の毛髪が挟まって残ったのは不幸な偶然。犯人が意図的に残したものではなかったということね。あの車も事件にちゃんと関わっていた……」
木嶋はこれで、すっかり部下からの信頼を失った事になる。いや、元からそれほど信頼されていないように見えたが。
「多分、爆弾は遠隔操作できるものを車に積んでいたんじゃないでしょうか」
「ああ。鑑識からの報告でも、発見された爆弾はアンテナのようなものがあって、電気信号を受信して爆発する仕掛けだろうと目されていたよ」
「それで? それが少女の居場所を特定する鍵になるの?」
「考えてみてください。どうして身代金を要求する手紙を、犯人は昨日出したのか。美衣が小早川医師から情報を引き出してから、川崎市で車を爆破するまで、恐らく一時間程度しか経っていないはずです」
「手紙を出したのも恐らくその辺り……確かに急ぎ過ぎている感じはするわね。もっと余裕をもって計画を練り直す事も出来たはずなのに……」
「逆に言えばこれは、犯人側にもその余裕がなかったということです。なぜなら……」
その先を言おうとして、キキは口をつぐんだ。
「キキ……?」
「……なぜなら、犯人は最初から……今日あたりに、みかんを死なせるつもりでいたからです」
その場にいた全員が、息をのんだ。再び車内が静まり返る。
……みかんの命が危ない。キキは車に乗る前にそう言った。あれは、みかんが犯人の手によって殺される可能性を示唆していたのか。
「この三日間、ろくに食べ物も水も与えていなければ、餓死する寸前にまで追い込まれている可能性があります。恐らく今日あたりに、みかんの命が尽きるであろうと予測していた。その上で、死ぬタイミングは警察が助け出した後になる、そう計算されていた」
「僕たちが助け出した後で……?」
「みかんは犯人たちの行動を最も間近で見ていた人です。柑二郎さんが集めた仲間さえ残らず抹殺したほどです。ここまで来たらみかんも消さなければならない。でも実際に手をかければ殺人というさらに重い罪になる。この方法なら、警察の失態ということで始末が付けられ、これ以上の追及をかわせると踏んだのです」
「まさか。だってこれまでも証人となる人達を殺したのに、今さら……」
「土波川に浮かんでいたワゴン車の遺体は、落下時の衝撃で亡くなった事故と見ることができますし、爆弾についても、今朝言ったように別の目的で用意したものが誤って爆発したと説明しても、それを否定する証拠は何もありません」
「あと一歩で殺人を証明できないように仕組んでいたわけか……」
「でも、確かに故意に死なせたことが認められなければ殺人罪にはならないけど、飢餓状態を放置して結果死なせたのなら、傷害致死罪が適用されて、場合によっては殺人罪と同程度の量刑となる可能性もあるのよ?」
「だとすれば、犯人たちも法律に関しては素人みたいですね。わざと死なせたのでなければ罪は軽くなる、その印象だけで立てた計画かもしれません。いずれにしても、これは時間との戦いです。みかんがこと切れる寸前に警察が来るように、手紙の届くタイミングを計る必要がある。理想として今日の夕方より前に届くように、昨日出したのです」
違いない、と思った。そう考えれば、たった一時間の軌道修正でも実行に移せた理由も分かる。柑二郎を脅迫するにしても、飢え死にする寸前の状態で解放すれば同じ結果になったはずだ。助け出された後にみかんが力尽きる、そのアウトラインさえ崩さなければ、どんな手段でも大金を手にすることはできたのだ。
ふつふつと怒りが込み上げる。奴らはみかんの命を、大金を手にするための手駒の一つとしか見ていないのだ。許す事などできない。絶対に。
「……量刑の問題はともかく、我々警察にとっても厄介であるのは確かだな」友永刑事が忌々しそうにこぼす。「殺人と傷害致死では、捜査の重要度にも落差がある。大金を持たせた犯人を自由の身にしてしまう恐れは十分にある」
「急がなければ手遅れになりますね……」と、紀伊刑事。
「その計画通りなら、身代金を受け取ってすぐにみかんを見つけさせたいはずです。さっきも言ったように、これは時間との勝負ですからね」
「だから、受け渡し場所の近くにみかんがいると考えたのね?」と、あさひ。
「うん……だけどこれは賭け。もし根本的にこの推理が間違っていれば、今度こそ打つ手は無くなってしまう」
些細な疑問点から導き出した大胆な推測。的から大きく外れている可能性だって無きにしも非ず。だけど、たった一つの可能性しか見えないなら、賭けてみるしかない。時間がないのはこちらも同じなのだ。
SEINUタワーマンションまではあと少しだ。間に合うといいのだが……。
「……ねえ」あさひが口を開いた。「もし犯人が方向転換をしなかったら?」
「その時は完全にお手上げ。みかんの居場所の見当もつけられなかった。犯人が方向転換をして、自分たちの本拠地を教えてくれたから、こうやって辿り着けた」
「つまり、美衣の強引な調査が犯人たちの思惑を掻き乱した結果ってわけね」
「ある意味でファインプレーだったんだね。美衣に任せて正解だったかも」
もちろん、今だから言える事だけど。
二十分ほどかけてマンションの前に到着した。すでに辺りは暗い。窓越しにその建物を見ると、無残なほどに荒廃しており、いかにも悪しき者の巣窟という雰囲気だ。
到着してすぐに、紀伊刑事は携帯で本部に出動要請を行うが、こんな前例のない事態ですぐに対応はできないみたいで、必死の説明も空回り気味だ。
「やはり難しいか……身代金を用意して向かわなければそれこそ危険だっていう論調の方が、本部では優勢みたいだな。今日は日曜だし、開いている窓口があったとしても営業終了まで時間がない。誰もが慌てふためいているんだ」
これでは埒が明かない。警察の応援の到着なんて待っていられない。わたし達三人は互いに目配せをすると、一斉に車の外に出た。
「ちょ、ちょっと君たち?」
「先に行って様子を見てきます」わたしはドアを閉める寸前に言った。「お二人は他の捜査員への説明を続けてください」
「無茶よ! 相手が複数犯なのは明らかだし、武器を持っている可能性もあるのよ? 私たちだって、状況確認のために聞き込みから戻って来たばかりで、拳銃も持ってないし」
「あれ? 刑事っていつも拳銃持っているのでは?」
「それは緊急事態の話で、平時は上司の許可なしに拳銃は持ち出せないのよ」
「……紀伊刑事。友永刑事といとこ同士だったらよかったですね」
「は?」
眉をひそめる紀伊刑事。ごめんなさい、ちょっとからかいました。
「いつまでカモの話をしているのよ。行くよ」
あさひに手を引かれて、わたしは車から離れた。代わりにキキが言う。
「本当に様子を見るだけですから。では行ってきます」
「行ってらっしゃいなんて言わないから。待ちなさいよ、ねえ!」
待っている暇なんて残されていない。今は、大切な友達の命がかかっているのだ。最初から決めていた事だ。指をくわえて見ているだけなど耐えられない。
わたし達は、闇に包まれた巣窟への道を駆け抜けて行った。