その16 誘拐の真相PART.2
<16>
「柑二郎さん。あなたがこの計画を実行する時は、寸前までみかんには何も知らせなかったはずです。これが自作自演の誘拐である事が犯人側にばれたら、元も子もありませんからね。でも、ここに向かう車の中で、みかんに事情を話したかもしれません。あるいは、移動する前の黒いワゴン車の中で話したか……いずれにしても、みかんに必要以上の恐怖を与えないようにするなら、そうしたのではないかと思います」
キキの口調は、打って変わって沈みかけたものになった。悲痛さを漂わせるその言葉の先に、どんな真実が待っているのか、わたしはその続きに耳をそばだてた。
「もしそうだとすれば……屋敷に入るはずだった車がそのままこの屋敷を通過した時、心の底から怯えたはずです。それは、拉致された時とは比べ物にならないくらいに。あなたもきっと、途方に暮れた事でしょう。あなたはこの屋敷でずっと、大胆な移動作戦を行った二つの車の動向を、モニターで確認していたはずです。そのモニターの反応は、何の前触れもなく消えましたよね。予想もしない事態に戸惑ったのでは?」
「……ああ。訳が分からなかったよ。実を言えば今でもそうだ。何が起きたのか、今になってもさっぱり分からない」
キキは先ほど、柑二郎はあくまで三日前の拉致を主導した犯人に過ぎないと言った。それは決して、誘拐の主犯である事と同じ意味ではなかった。実際、柑二郎もこの事件の真相は何一つ分かっていない様子だ。……まあ、わたしは声で判断するしかないけど。
「教えてくれないか。君は真犯人の目的が分かっているのだろう?」
柑二郎の切実な頼みに、キキは即座には答えなかった。柑二郎の、娘の身を案じる素振りは、偽りなどではなかった。キキもそれに気づいていたから、ずっと調べていたのだ。果たして、何に気づいたのだろうか。
「確かめたわけではないので、あくまで想像に過ぎないのですが……。みかんを誘拐するための犯人の計画は、七月からすでに始まっていたのです」
「七月? そんなに以前から?」
「先ほど、あなたの検診を担当した小早川さんを色々調べたと言いましたよね。実際に接触したのはわたしの友人の一人ですが、彼女が小早川さんからどんな情報を引き出したと思います? あの人は、あなたに二つの大きな嘘をついていましたよ」
「嘘……?」
「あなたが患っている病気が相当に重く、余命も残り少ないという事。そして、問題のDNA親子鑑定の検査の結果。これら全てが小早川さんによる虚偽だと、本人からの自白を得たのです」
「何だって!」
柑二郎が椅子から立ち上がる音が聞こえた。ずっと座っていたみたいだ。
「先ほど説明した動機の問題は、この事実が判明しなければ辿り着けませんでした。この嘘を自白すると同時に、小早川さんは、借金苦に悩まされていたところに大金を掴まされて頼みを引き受けたと話しました。そう、犯人は小早川さんを大金で丸め込み、あなたに嘘を伝えて精神的に動揺させたのです」
「動揺させた?」
「小早川さんが伝えた二つの嘘は、確かめようと思えば確かめられる事ばかりでした。でも、担当医師を信頼していたあなたが、それを疑うことはなかったし、いずれも重い問題であったために、確認すること自体に躊躇していた。そして、精神的に不安定だったところに、追い打ちをかけるようにみかんの誘拐予告。必然的に、自らを犠牲にしてでもみかんを守ることを優先して考える、そのようにあなたは誘導されたのです。
そして、犯人側の息のかかった人が自作自演の誘拐計画を提案した時、あなたがすんなりと受け入れるようにした……全てはこのために置かれた布石だったのです。つまり犯人は最初から、あなたに誘拐の手助けをさせるつもりだったのですよ。この、異常とも言えるタイミングの良さは、仕組まれたものであると考える他はありません」
わたしもあさひも、全身の血液が逆流しているような感覚を味わっていた。さっきまでのキキの推理が、やけに都合のいいように組み立てられたものに見えたが、それもそのはずだった。全てが犯人側の計略だったのだ。
「ここまで来ると、みかんの父親を名乗る男も、実際にはみかんの父親ではないのでしょう。小早川氏の証言を信じるなら、ですが。恐らく誘拐犯の一味です。七月に小早川氏を金で丸め込み、柑二郎さんの疾患について嘘の報告をする。その後も、病院に一切報告することないままあなたからの相談を受け続け、信頼を得ておいた。その上で九月に、誘拐犯の仲間がみかんの父親と偽って現れ、DNA鑑定をするように言った。秘密裡に事を進めるように誘導すれば、あなたは確実に小早川さんに相談する。その時が来たら、小早川さんはあらかじめ用意しておいた偽の鑑定書をあなたに手渡す。二重に精神的揺さぶりをかけたわけです。そして最後の仕上げとして、誘拐の予告をすれば……どこかの時点であなたの会社にも誘拐犯の仲間が潜入していて、その人が持ちかけた計画にあなたが飛びついてくる。全ては計算された上で行われた、周到に仕掛けられた罠です」
「そうだ……その計画を持ち出して来た役員は、最近になって外部から出向してきた人だったし、みかんを連れてここに来る車の運転手にも自ら買って出ていた」
「もちろんその運転手は誘拐犯の仲間。連れてくる振りをして、そのままみかんを連れて遠くへ逃げたのでしょう」
「しかし、こんな手の込んだ事をしてまで、なぜ私を巻き込んだのだ?」
「これも想像に過ぎませんが、犯人の行動パターンから推測できます。犯人の行動は二つに分けられます。証拠を徹底して消すか、あえて残すかです。消された証拠は、あなたが集めた側の仲間と、そしてネコです」
「猫……そういえば警察の人から、殺された状態で見つかったと聞いたよ」
「やはり警察も辿り着けましたね。最初はただの病死だと思っていたようですが」
そうそう、その話を友永刑事から聞くのをすっかり忘れていた。結局、あのネコはどうして死んだのか。キキは、調べればいずれ分かると踏んでいたけど。
「ネコの遺体のそばに、ネコが手を付けたと思われるエサ皿がありました。あのエサの中には恐らく、カカオパウダーが混入されていたのです。見た目には分からない程度に」
「そうか。チョコレートか!」
「以前に調べた事があるのでわたしも知っていました。チョコレートの中には、苦味成分のテオブロミンという有毒アルカロイドが含まれていて、人間はそれを体内で分解してほぼ無害にできるけど、犬やネコを始めほとんどの動物はそれを分解できず、誤って食べれば痙攣などの中毒症状を引き起こすそうです」
そうなの? わたしはあさひに尋ねた。
「うん、キキの言う通りだよ。あと、玉ねぎなどのネギ類も硫黄化合物が犬やネコに溶血症状を引き起こす事があるから、絶対に食べさせてはいけないとされているよ」
「わたしも犬やネコを飼う時は気をつけるわ……」
そんな時がいつ来るか知らないけど、今はキキの話に注意を傾けよう。
「カカオパウダーはどこでも手に入りますから、たとえ気づかれても警察がそこから犯人に辿り着く事はありません。というか、犯人としては気づかれる可能性が高いと読んでいたでしょうけど」
「なんだと?」
「誘拐の下調べとしてこの家の事を調べたのなら、嘱託警察犬のクロの存在も知っていたでしょうから、警察が持っている警察犬を使わなくても、クロが見つけるかもしれないと思っていても不思議じゃありません。とにかく、犯人はこんな方法を使ってでも、ネコを殺さなければならないと考えていた。普通なら、そのまま逃がしても問題はないでしょうが、あのネコは、犯人たちにとって厄介なものをつけていましたからね」
「首輪のアクセサリに仕込んだ、GPS発信機……」
この言い方からすると、仕掛けたのは柑二郎本人みたいだ。まあ、ネコを回収してみかんにプレゼントするつもりだったなら、それも当然の流れだが。
ああ、そうか。わたしにも一つの謎が解けた。
「そうです。犯人がネコを殺害した理由は一つ、ネコからGPSを取り外すためです。付けたまま逃がす事など出来なかった。なぜなら、あなたがGPSの受信機をまだ持っている可能性が高いからです。どこに逃げても先にあなたがネコを見つけ、発信機ごとネコを自分の手元に置いておくかもしれない。そう、犯人としては、ネコと発信機は警察に渡したかったのです。これが先ほど言った、あえて残した証拠です。
実際、GPSは川に落とされたワゴン車……あれは最後にみかんを乗せていた車ですけれど、その中に置き去りにされていました。どう見ても、警察に発見させるためにわざと残したとしか思えません。GPSが入ったアクセサリを首輪から引きちぎったのも、GPSが元々首輪についていたと警察に気づかせるためです」
功輔もこの事に気づいていた。だから逆に、アクセサリが首輪から引きちぎられていたと推測したのだ。つまり功輔もここまで推理できていたという事か……。
「あえて残した証拠はもう一つあります。みかんを拉致する際に使ったワゴン車が、レンタカーであったという事です。これも、借りた人の素性から警察が辿り着けるようにしたのです。あのワゴン車を借りたのは、あなたが用意した仲間ですね?」
「あ、ああ……」
「もっとも、この事件の捜査を担当していた木嶋って刑事さんは、そのワゴン車こそ無関係だと決めつけて、突っ込んで調べようとしませんでしたけどね」
ある意味で木嶋のファインプレーだったわけだ。ここまで来れば、キキが星奴署で口にしていた、「調べないならそれでいい」というセリフも、この場で言った「証拠がない方がいい」というセリフも、その意味が見えてくる。
「もう、お分かりですね? この誘拐事件は、あなたを心理誘導して手助けをさせた上で、最後には全てがあなたの仕業であると錯覚させる、そういう計画だったのです。あなたに繋がるような証拠、ネコやGPSやレンタカーは警察に発見させ、自分たちに繋がるような証拠は徹底して潰していった。半分程度関与させて全ての罪をあなたに被せる。それが犯人たちの本当の目的です」
ハンマーで頭を殴られたかのような衝撃を覚えた。
よく推理小説では、誘拐が実は狂言とか自作自演だった、という結末がある。しかし今回は逆だった。本物の誘拐を自作自演だと思わせようとしたのだ。正確に言うなら、計画の一部に自作自演が混ざっているだけなのに、全てが柑二郎による自作自演だと錯覚させるつもりだったのだ。
これこそ、荒唐無稽な推理と言わざるを得ない。こんな犯罪計画を立てる人間が、現実に存在するなんて……。
「見た目のよく似た黒いワゴン車を二台用意したのも、警察にあなたを疑わせるための策略です。目撃されたものとは違う車を先に見せて、その車が誘拐に使われたと警察に思わせた後、やはり同じ特徴を持った車が見つかれば、警察は心理的に、誘拐事件に繋がりがあるのではないかと考える。二台の車を使ったという事が分かれば、あなたに辿り着く確率を跳ね上げることになりますからね。
実に巧妙な計画です。先にあなたに精神的揺さぶりをかけ、自発的に自作自演の誘拐をするように仕向けたために、あなたには負い目が出来てしまった。だから、いざ警察があなたへの疑いを強めても、堂々と否定できない立場に追い込まれたわけです。警察も、まさか父親が娘を誘拐するなんて誰も信じるわけがないと思うから、自作自演にしか解釈できない証拠が次々と出てくれば、逆にそれを疑わない。そんな事で警察を騙せるなんて普通の人は考えない、だからこれが偽装であるとは考えにくい、というふうに。全てが巧妙に練られた、周到な罠だったのです……」
柑二郎は何も言わなかった。今になって、自分が最初から嵌められていたことに気づいて、思考が追いついていないのかもしれない。
正直に言うとわたしも同じだった。キキの推理はあまりに現実離れしている。警察が言ったような解釈をするように、わたしもそんな事は普通ありえないと思ってしまう。キキの推理は、逆転の発想の賜としか思えなかった。
「まあ、犯人側がどんな偽の動機を用意していたかは、さすがに分かりませんけど。可能性としては、みかんと血縁関係がない事を利用するつもりだったのかも。そっちの真相がどうであろうと、わたしには関係ありません。犯人は警察の嫌疑を全てあなたに集中させて、同時に誘拐事件のメインの目的を果たそうとしたはずです」
「メインの目的?」
「あなたに個人的な恨みがある可能性もありますが、目的は間違いなくお金です」
「身代金の要求はないが……」
「ええ。でも、小早川氏を引き入れるために払ったお金もあるし、車や爆弾の入手など、多方面でお金をかけていますから、それらを補って余りある金額を手に入れる目算があったのでしょう。身代金の要求がないという事は、残された可能性は一つ。この計画自体を利用して、あなたを脅迫することです」
柑二郎は何も言い返さない。もしかして図星だろうか。美衣も同じ結論に辿り着いていたようだが。
「どうです? それらしい要求が来ていませんでしたか?」
「……ああ。昨日会社で……犯人と名乗る人物からの手紙を受け取ったよ。文体も、以前に受け取った誘拐予告の手紙と酷似していた」
「どんな内容でしたか?」
「一千万を要求されたよ。これは、娘を傷つけた事と仲間を死なせた事に対する、賠償金だと書かれていた。とてもじゃないが、跳ね返す気にはなれなかった。自分がもっと冷静になっていれば、こんな事態を招く事はなかったのだから……」
柑二郎のセリフには悔しさが滲んでいた。キキはなおも穏やかに言う。
「冷静でなくなるように犯人が仕組んでいたのです。致し方ありませんよ」
「私は……一体どうすればいい……?」
中学二年生の子供相手に、大の大人がこんな事を本気で尋ねるとは。壁越しに聞くだけにしておいてよかった。こんな光景をじかに見るのはいたたまれない。
「小早川さんは、あなたの病気は手術によって完治できると言っていました。ですからあなたにはどんな事も出来ます。みかんの無事はまだ確認されていません。これからわたし達が、必ず助け出します」
自信があるわけではないのだろう。でも、そうでも言わなければ、自分を奮い立たせることは出来なかったのだ。
「あなたは、事実の多くをあえて警察には話さず、あなたが覚えている犯人の仲間の特徴を、あくまで会社に出入りしていた怪しい人間として警察に打ち明けるのです。気休めにしかならないかもしれませんが、わたしからあなたにしてほしいのはこれが唯一です。みかんに対する償いというなら、しっかり警察の捜査に協力することですよ」
「うむ……確かに、それ以外に私に出来る事はなさそうだな。分かった。君の言った通りにしよう。……君にも何か礼をする必要があるかな」
すると、キキは「ふふっ」と笑って言った。
「わたしはみかんを助けるために動いているだけです。だから、報酬はみかんの笑顔だけで十分ですよ」
これをきっと、キキは天使とか聖母のような笑顔で言っているのだろうな。ああ、その笑顔が見たくてうずうずするのは何故だ。
「さすがはキキ、言うことが違うねぇ」
あさひは感心していた。確かに、小説や漫画の探偵だったら絶対に言わないセリフだ。
その後、キキは柑二郎と一緒に書斎を出た。先に言ったように、キキは柑二郎を告発するつもりなど微塵もない。ただ推理が事実であるか確認し、事実だと分かれば警察の捜査に協力させる、それだけだ。柑二郎が協力すると確約したのだから、これからキキがやることはただ一つ……みかんの救出だ。
そんな決意を胸に宿らせたはずのキキは、真っすぐに隣の部屋に来てドアを開けた。つまり、わたしとあさひが壁越しに聞いていた部屋に。
「あっ…………」わたしは固まった。
「やっぱりいたね。ここに」
「……いつから気づいてたの?」と、あさひ。
「最初から。気配で何となく分かったよ」
まじかい。キキが気づいている可能性は考えなかったわけじゃないが、気配でそれを知るというのは想定外だ。まだまだわたしも、キキに対する理解度が低いな。
そんな事より、今のわたしにはやるべきことがある。釈明だ。
「ご、ごめんね。キキにはああ言われたけど、やっぱりどうしても気になって……」
「うん、それに関しては何も言わない」
あ、気にしていなかったのね。わたしは気にするけど。
「ごめんを言うのはこっちだよ。二人をのけ者にしちゃったからね。書斎で言った通り、ほとんどが想像で証拠はないし、本当に正しくても、あの人に確認するまでは他の人に言うのも難しかったんだ。それに、もしかしたら犯人が盗聴器を仕掛けている可能性もあったからね」
「盗聴器があったら、どうだっていうの?」
「わたしの推理が正しいって事を柑二郎さんが認めても、わたし一人しか知らないって事にしておけば、警察にこの事が知られる可能性が低いと思ってくれると踏んでね。わたしみたいな子供が何を言っても、警察が聞き入れるとは考えにくいだろうから」
「そこまで考えていたんだ……」
「まあ、携帯での会話にノイズがなかったから、可能性は低いと思っていたけど。どっちにしても、もっちゃん達を蚊帳の外にしたのは本当に悪いと思ってるから……」
「いやいや、わたしも全然気にしてないし」
ジェスチャーも交えて否定すると、キキは意外そうな表情を見せた。
「むしろ、いつからこんな推理を組み立てていたんだって、感心しちゃったよ。これこそキキの本領発揮と言うべきか、今も心臓がすごくドキドキいってるよ。のけ者にされた事が気にならないくらい、興奮しちゃったんだから」
「もっちゃん……」笑顔を覗かせるキキ。
「その呼び名は気に食わないけどな」
額にチョップを食らったキキは「えー……」と不満そうに言った。そして、はっきりと聞こえないくらい小さな声で呟いた。
「……まあ、理由は他にもあるけど……」
「ん? なんか言った?」
「ううん。何も」キキはかぶりを振った。
「とりあえず、これで問題は一つ解決したね」と、あさひ。「後はみかんの救出だけだけど、何か当てはあるの?」
「正直言ってこれは難しい。わたしとしては、唯一犯人からの接触を受けていた柑二郎さんから、何か聞きだせたらいいと思っていたんだけど、あの様子じゃ……」
「脅迫文の中にも、みかんの居場所を匂わせる内容はなかったみたいだね」と、わたし。
「脅迫で大金を手に入れるなら、何をするにしても接触するはずだから、何か一つくらい手掛かりがあればいいと思ったんだけど……」
どうやら当ては外れたようだ。そもそもが期待値の低い賭けだけど。
今度はわたし達が途方に暮れる番だ。今日までの調査、そして推理によって、みかんの居場所を突き止めることは出来なかった。あれから三日、みかんが無事でいる可能性はかなり低くなっている。どうすればいいだろうか……。
悩んでいると、キキの携帯に着信が入った。画面を見て瞠目するキキ。
「あれ、美衣からだ」キキは電話に出た。「どうしたの?」
わたしもキキの携帯に耳を近づけた。
「キキ……今どこにいる?」
「今? みかんの家にいるけど」
「テレビはつけているか?」
「そもそもテレビが見える所にいないから……何かあったの?」
「……流成大附属病院の小早川医師が、病院の屋上から転落して亡くなった」
背中が粟立つ感覚。キキも呼吸が止まりそうなほどに驚いていた。
すぐにキキは身を翻し、駆け足で応接間に向かった。わたしとあさひもキキの後を追って駆け出した。周りの目を気にする余裕もないままに、キキは応接間のテレビの前に辿り着くと、テレビ台の上のリモコンを取って電源をつけた。その間も、キキは携帯を耳から離さなかった。
映し出されたのは民放の夕方のニュース番組で、ちょうど中継映像に切り替わったタイミングだった。テロップには『流成大学附属病院前から中継』とある。大勢の記者やカメラマンが病院の入り口の前に集まり、病院関係者から事情を聞こうと躍起になっているようだ。喧騒の中、マイクを片手にレポーターが話していた。
『今日午後二時ごろ、この病院に勤務する医師の小早川文宏氏が、この場所で倒れている所を、看護師の女性が発見しました。警察の発表によりますと、小早川氏は全身を強く打って頭部から血を流した状態で発見され、この病院の医師によってすぐさま死亡が確認されたとの事です。この病棟の屋上の出入り口が開け放たれていたことから、屋上から転落したと見られ、警察では事故と自殺の両面から捜査を進めるとの事です』
その後、スタジオに映像が切り替わると、キャスターがコメンテーターに意見を求め始めた。医師の現状について嘆かわしい部分が多いとか、そんな事を言っているが、はっきり言ってもう興味は向かなかった。
そもそもわたしには、これが本当に自殺なのかどうかさえ怪しく思える。
「美衣、これってどういう……」
「少しやり過ぎた」電話の向こうで美衣はこう言った。「わたしはキキと違って、奇策を思いつく才はない。正面突破しか方法はなかったのよ」
小早川に接触したのは美衣だが、実際にどんな方法で証言を引き出したのかまでは知らされなかった。この口ぶりから察するに、少し強引な手段を使ったようだ。美衣の事だから手加減もほとんどしなかっただろう。
「キキ、もう気は抜けないぞ」念を押すように美衣は言った。「きょう一日だけで、わたし達の予測になかった事を犯人はしでかしている。もしかしたら、予想もしない方向転換をするかもしれない」
「うん……その時が、チャンスになるかもしれないね」
「ここはキキたちに任せるよ。願わくは、あれを使う事態にならなければいいが……」
「覚悟はできてるよ。時間がないのはこっちも同じだし、こうなったらなりふり構っていられないもの」
「……一人になろうとするなよ。じゃあ」
それだけ言って、美衣は通話を切った。例によって会話の意味が全く分からない。
すると、玄関に通じる廊下から柑二郎と吉本刑事がやって来た。二人ともどこか困惑気味の表情を浮かべている。吉本刑事は封筒と便箋を持っていた。
「全く、どういうつもりなんだ……?」吉本刑事が呟く。
「どうしたんですか?」キキが尋ねた。柑二郎に。
「お前には関係な……」
「それが、今しがた犯人から手紙が届いたんだ。身代金を要求するという内容の……」
「身代金? 今ごろになって?」と、わたし。
「ああ……。気が変わった。少女の身代金として一千万円を用意し、午後七時までにSEINUタワーマンションに持って来ること。従わねば命は保証しない、とある」
何のつもりで中学生相手に捜査内容を打ち明けているのだ、と言いたげな顔で柑二郎を見る吉本刑事を、誰もが無視していた。柑二郎も身をかがめて、小声でキキに言った。
「ワープロ書きだけど、これまでに来た手紙の文体と似ている。犯人から送られてきた手紙に間違いなさそうだ」
「ちょっと、あんた……」
「ワープロ書きか……手掛かりは期待できそうにないですね」
「何なんだよ、さっきから!」耐え切れず吉本刑事は叫んだ。「事件に関することなら捜査員にちゃんと言えよ!」
誰も聞かなかった。吉本刑事は諦める素振りを見せた。犯人からの手紙を持って、他の捜査員に事情説明を始めた。どうやらすでに捜査本部への報告は済ませたらしい。
それにしても、今の今まで身代金の要求をして来なかったから、キキは犯人がお金を得る手段として脅迫をしてくると推理し、その推理が正しい事は柑二郎が認めている。なぜ今ごろになって身代金の要求に方針を転じたのだろうか。
……まさか、これが美衣の言っていた、方向転換なのか?
「ねえ、さっきのキキの推理で一つ、気になる事があるんだけど」と、あさひ。
「なに?」キキが尋ね返した。
「犯人はどうして、身代金の要求じゃなく、脅迫に頼ったの? どちらにしても、みかんのお父さんに精神的ダメージを与えているなら有効な手段よね」
「告発される危険性をなるべく減らそうとしたんじゃないかな」キキは答えた。「おおっぴらに身代金を要求すれば、どんな手段で連絡しても証拠になるでしょ。それよりは、柑二郎さんの弱みを利用して脅迫した方が安全だと踏んだんだよ。手紙で要求すれば、柑二郎さんが発覚を恐れて手紙を処分してくれるからね。実際そうだったみたいだし」
「身代金を要求すれば、確かに罪はもっと重くなるわね。犯人としては、万が一に備えて自らを滅ぼす証拠は潰しておきたいと考えたわけか」
「自分に繋がるものなら徹底的に消しているからね」
「そうすると、今のこの状況は、罪が重くなる危険を冒してでも大金を手に入れようと、手段を選ばなくなった結果とも言える……一体どうして?」
「うーん……」
キキは考え始めた。キキの推理が的を射ている事は、今さら疑うまでもない。犯人が途中で計画を変更したのだ。その要因とは果たして……。
「待てよ?」
何か思いついたらしいキキは、捜査員に説明して回っている吉本刑事に近づくと、背中に飛びついた。
「ちょっ、お前、何をしている!」
「その封筒の消印を見せてください」
「け、消印? なんだってそんな……」
「ええい、じれったいな」
キキは手を伸ばして吉本の左手を掴むと、強引に引き寄せた。その左手に封筒が握られていた。消印の表示をキキは読み取った。
「登戸郵便局……時刻は昨日の夕方。まさか……!」
キキは吉本刑事から飛び退くと、今度はわたしの元に駆け寄ってきた。
「もっちゃん!」
「なに?」顔を近づけすぎだ。それともっちゃんと呼ぶな。
「昨日、犯人が使っていたワゴン車が爆発した場所、正確には川崎市のどの辺だったか覚えてる?」
「えっと、確か……」
昨日のニュース映像を懸命に想起する。キャスターがどんな事を伝えていたか、実を言うとあまり覚えていない。しかし、表示されていた文字はしっかり見ている。映し出されていたテロップに、書かれていた地名は……。
「川崎市、多摩区だ」
わたしがそう言うと、キキは瞠目して息を吸い込んだ。しばらく無言で考え続けた後、ふいに顔を上げる。
「そうか! そういうことだったんだ!」
そう言ってキキはわたしとあさひの手を掴んで、応接間を出て駆け出した。
「一緒に来て!」
「ちょっと、どこに行くの?」
「これは方向転換だったのよ。今からなら、まだ間に合うかも!」
キキも気が急いていて、セリフに省略が多い。しかし、美衣に言っていたようなチャンスが訪れたのは確かなようだ。
玄関口でキキは手を離してくれた。さすがに靴を履く時は邪魔になるからだ。
外に出ると、小さな赤色回転灯を載せた車が一台、門の前に停まっているのが見えた。すでに一度見ているから知っている。あれは友永刑事が使っていた覆面パトカーだ。わたし達が門の近くまで辿り着くと同時に、友永刑事と紀伊刑事が車から出てきた。
「あれ? 君たち、来ていたのか……」
友永刑事は目を丸くし、紀伊刑事はあからさまな渋面を浮かべた。
「お二人はどうしてここに?」わたしが尋ねた。
「吉本から、身代金を要求する手紙が来たと連絡を受けて、確認のために行って来いと木嶋さんに言われたんだよ。必要があれば身代金の用意も主導するようにと……」
まずい。警察はまだ犯人の目的に一切気づいていない。今から一千万円を用意するとなれば、かなりの時間をロスしてしまうことは明らかだ。これが犯人側の時間稼ぎでないとどうして言えるだろう。七時までという時間制限まである以上、警察にも考える猶予を与えないつもりなのだ。
キキは必死さを帯びた表情で友永刑事に詰め寄った。
「お願いです! すぐにわたし達を乗せて、SEINUタワーマンションに急行してください!」
「ま、マンション? 一体何が……?」
「ここで説明している時間はありません!」
キキが頼み込んでいる間に、わたしとあさひはパトカーの後部座席に乗り込んだ。紀伊刑事の制止も聞かずに。キキの叫びは車中までも聞こえてきた。
「身代金を用意する手伝いは後回しにしてください。みかんの命が危ないんです!」




