その12 高村警部
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警視庁星奴署刑事課強行犯捜査係に所属する友永巡査部長は、紛糾する会議の渦中にいた。
星奴署管内で発生した中学生誘拐事件。刑法に厳密に従えば、強制的に拉致することは誘拐ではなく略取と呼ぶべきだが、世間一般では拉致イコール誘拐であると認識されているようだ。ここ十年くらいは同署管内で、こうした重大事件が全く発生していないせいか、星奴署の捜査員の動きは迅速であっても空回りが目立つ印象であった。
各所に散らせた捜査員による報告は、同一文面のコピペに等しかった。土波川で発見された黒のワゴン車は、社内で発見されたブロンドの毛髪から、犯行に使用されたものに相違ないと結論付けられた。しかし、その車がどのようなルートを通ったのか、その解析は未だ成し遂げられていない。
「おい、これはどういう事態だ!」
今回の事件で星奴署の捜査指揮を担当する、係長の木嶋警部補は怒号を散らしていた。
「黒のワゴン車の目撃証言が錯綜しているのは、まだ理解できる。しかしNシステムや街中の監視カメラ映像にもヒットしないとはどういうことだ!」
通過した自動車のナンバーを自動で記録するNシステムは、都内の主要国道や県境、市境の至る所に設置されている。もしそれに引っかからなかったとしても、巧みに避けるルートは大幅に限定されるため、ナンバーが判明していればおおよそのルートは絞り込めるはずなのだ。しかし、考えられるあらゆるルートで目撃証言や監視カメラを調べた結果、全て空振りに終わってしまった。
「木嶋さん……本当にあのワゴン車は、犯行に使用されたものなのでしょうか」
「今さら疑いの余地などあるか」福島の発言に木嶋は唾を飛ばした。「車中から見つかった毛髪も、被害者のものだと確定している。目撃者の証言にある車とも酷似している。同じ車が二台あっても意味はないだろう」
福島は反論せずに口をつぐんだ。木嶋はこれを、自分の論理的な説明に穴がないと認めたと解釈するだろう。しかし友永からすれば、そればかりではないと思えたのだ。
木嶋はキャリアでありながら、未だに所轄署の係長という低めの役職に甘んじている。それでもキャリアとしての自尊心だけは随分と大きく、他人からの反駁や命令に従うことをためらう態度を、極端に拒絶するきらいがある。つまり木嶋に反論すること自体が、いい結果を生まないと分かっているから、誰も進んで「腑に落ちない」とは口にできないのだ。こういう人間が上司にいると、一種の独裁状態になって雰囲気も悪くなるものだ。
もっとも、職場の空気の良し悪しなど関係なく、警察官としての評価は事件を解決できるかどうかにある。友永としては、積極的に情報共有を求めてくるあの少女たちが、解決に必要な手掛かりを提供してくれることを、密かに期待しているのだ。無論、その事は木嶋には言わないが。彼は自分の手柄のみにこだわる体質だ。
ところで、本庁から派遣された、高村警部を係長に持つ捜査一課の第四強行犯捜査四係の面々も、星奴署の捜査員の成果をまとめる仕事に追われているが、係長の高村警部は、会議室に設けられた専用のデスクで、集められた報告書を無言で読んでいた。ここでの騒ぎに関心はないと言わんばかりに。
大多数がキャリアである警部という階級で、高村は数少ない現場出身のノンキャリアである。その実力は本庁でも折り紙付きで、他の捜査係の係長や部下にも信頼されているという、言ってみれば木嶋とは正反対の人物である。友永の印象では、考えが顔や態度に一切出ず、叩き上げのわりに状況を達観して飄然としている、頼りになるように見えない人物だ。
本当にこの初老の男性が、本庁ナンバーワンの実力派なのか……?
「とにかく、何としても早急に犯人の移動ルートを割り出し、少女の居場所の特定を急げ。ぐずぐずしているうちに遠方へ連れ出されるなんて事態は、何としても避けるんだ!」
苛立ちを隠さない木嶋。この男の下について約三年、友永も彼の言動の意図が読めるようになってきた。彼が早期解決を熱望する動機は、単純に自分への評価が下がるのを恐れての事だ。
友永は三十分ほど前に木嶋への報告を済ませ、今は、被害者宅に陣取っている吉本からの定時報告を文書に起こす作業、つまりはデスクワークを任されていた。その間も携帯の画面を幾度となく眺め、あの好奇心旺盛な少女たちからの連絡を待っていたが、まだしばらくその気配はない。
「友永くん、ちょっといいかな」
声のした方に顔を向けると、報告書に目を通しながら手招きする高村警部が見えた。なんだろう。自分の書いた報告書に記述ミスでもあったのかと、友永は内心びくびくしながら席を立った。
友永が高村の前に立つと、視線一つ向けずに高村は言った。
「これ、昨日土波川の河川敷で車が引き揚げられた時の、一部始終の報告内容だよね」
「そうですが……」上ずった声で答えた。「何か、誤字脱字がありましたでしょうか」
「いやあ、誤字脱字は全くないよ。むしろ、この多忙な最中で一切の記述ミスもしないほど慎重なのは、普段多くのミスをやらかす人間だと相場が決まっているから、むしろ褒めたいくらいだ」
貶しているようにしか聞こえない……高村警部は実力派であると同時に、変人でも有名だ。
「私が言いたいのはこの記述だよ。車中より青いハート形のアクセサリを発見、現場に犯人が用意した猫につけられていたものと推定される。そのアクセサリを破壊された結果、中からGPS発信機が取り出された……これ、破壊されたと書かれているね」
「ええ……事実です」
「これはつまり、警察官の目の前で証拠品を破壊した人物がいるということだね? そんな酔狂な事をするのは、一体どこの誰なのだろうと思った次第だよ」
友永は自分の見たままを素直に書いたので、報告書を見れば誰かが気づくだろうと想定していたが、それがよもや高村警部とは……。そしてここでも、友永は素直に答えた。
「それでしたら、現場の河川敷に同行させた目撃者の一人です」
「ああ、被害者の友人だという中学生だろう? 名前は分かるかね?」
「確か、キキという名前でしたよ。名字を言ってくれないので、報告書にも書けなくて……」
すると、高村は瞠目して表情を固めた。初めて表情の変化を見たような気がした。
「あの、高村警部……?」
「ひょっとして、そのキキという女の子、燦環中学校の制服を着ていなかったか?」
やっと高村は友永に顔を向けてくれた……。
「僕に制服の事は分かりませんが、でも、持っていたカバンは燦環中学校指定のものでしたね。校章が入っていたのでそれは分かりました」
「そうか……では、別の報告書に書かれていた、犯人が被害者の猫好きを利用して誘い込んだという可能性について、指摘したのも彼女ではないか?」
「え? ええ、そうですが……でもどうして?」
友永の問いかけには答えず、高村は顎を押さえて考え込んだ。確認の意図が見えない。そもそも猫の件に関しては、関係者からの指摘を受けたとは書いたけれども、それが目撃者からであるとは書いていないのだ。なぜ高村は、キキが指摘したと考えたのだろうか。
「友永くん、キキという少女は今どこにいる?」
「さあ……彼女の友人が昼前に電話をかけてきましたが、居場所までは……」
「そうか」
「あの、なぜにそれを僕に……?」
「君が一番、警察官のプライドを度外視しても正直に答えてくれそうだと思ったまでだ」
友永は渋面が浮かんだことを自覚できた。確かに木嶋と比べればそうだろうが、胸を張れるほどのプライドを持ち合わせていないと言われるのは、気分のいいものじゃない。
「友永くん、少し身を軽くしておいて、素早く動けるようにした方がいいかもしれんぞ」
「はあ……」
日頃から様々な雑事に追われている所轄署の人間には、言わずもがなではないだろうか。
「なに、少し予感めいたものがあるのさ。この事件、我々の予想もしない結果が待っているかもしれないからな」
高村警部は自らの予感を、いい方向に解釈しているようだ。それが証拠に、達観する素振りは未だに崩していないのだ。しかし、言いようのない畏怖を感じた友永は、その予感について尋ねることが出来なかった。