1話
全身を包んだ光が収まると森の中にいた。
森の中と言ってもただの森じゃない。その全てが異常なまでに大きく、三メートルを超える巨大蜘蛛や五メートル級のトンボ、木々は高層ビルのようにそびえ立ち、ここが元いた世界とは全く違うことを実感させられた。そして何より、大気中に含まれている魔素の多さに涼は笑みを浮かべていた。
「ははは、なんだここ」
地球の数十倍の魔素がこの世界にはある。力が体全体に漲っているような感覚、勘違いでなければ魔力量も有り得ないほど増えている。魔素というのは魔法を具現化する力のようなもので、魔素が濃ければ濃いほど魔法は具現化しやすくなる。そもそも魔法とは魔力を使用してイメージしたものを具現化する奇跡のような力のことで具現化させるには大気中に含まれている魔力の素、魔素が必要となる。魔素が濃ければ濃いほどイメージが正確に反映される。
――楽園。
やはり俺は死んだのだろうか。そう錯覚してしまうほどにこの場所は、いやこの世界は魔法使いにとって夢のような場所だった。だがそれと同時に今いるこの場所が自分の知っている常識の通じない世界で、たかがトンボや蜘蛛が巨大化しているのを前に、もし普通の動物が現れたとしたらと考えると胸の鼓動が早くなった。
元の世界では悪の組織や国相手に戦うことも少なくなかったが、巨大な怪物と戦ったことなど一度もなかった。当然これだけの魔素が大気に含まれているのだから地球とは全く違う進化をした動物もいるだろう。
涼は瞬時に気を引き締め、透明化、気配遮断、索敵の魔法を自分にかけた。これで一先ず狙われることはないだろう。と腰を上げようとした瞬間、只ならぬ殺気を感じ、瞬時に転移する。
――ドドドォーーン。
何処から現れたのか、全身を金色の毛に覆われた十メートルはあろうゴリラが先ほどまで涼がいた場所を殴りつけていた。一度や二度では止まらない拳は涼がいないと気づいていて尚、止まることはなかった。
「あのゴリラはやばいな」
数分後、ようやく止まった頃には地面には数十メートル級のクレーターが出来上がっており、腕が六本に増えていた。その腕はどれもが背中から生えており、千手観音を思わせる風貌だ。最も、増えた六本の腕はそれぞれ大きさや形が違っており、人のものや獣のものまで様々で、とてもじゃないが神々しさは感じなかった。背中から人や獣の腕を生やしたゴリラなどただただ不快なだけだった。
獣の隠そうともしない強烈な殺気を前に、涼には逃げるという選択肢はなかった。元より敵対者には情け容赦ない性格だ。初めこそ驚いたものの冷静になってみれば恐れることはなかった。
「いい的だな『鎌鼬』」
百を超える透明な風の刃がゴリラを囲み、涼の一声で一直線に降り注ぐ、がそのどれもがゴリラの元へたどり着くことなく霧散する。その異常な光景に涼は一瞬、硬直した。その隙をゴリラが逃すはずもなく、一瞬にして涼の目の前へと移動した。拳が触れる直前、我に返った涼は転移で拳を回避したがその顔に先ほどまでの余裕な表情はなかった。
あいつは何をした?魔法が霧散するなんて今まで一度も......。とそこで涼は自分が未だに前の世界に捕らわれていることに気付いた。そうだ。この世界は前の世界とは何から何まで違う。魔法が効かないことだってあるだろうし、俺よりも強い敵も大勢いるだろう。この位のことで動揺するんじゃない。鎌鼬は消されたが転移は出来た。つまり具現化した魔法は効果がないがそれ以外は別ということ。身体強化は恐らく使える。問題は体術でゴリラに勝てるかということ。十メートルを超えるゴリラと近接戦闘をするなんて自分でも頭がおかしいと思うがやるしかない。勝てないと分かれば転移で逃げることも出来る。
「『身体強化』『換装:妖刀蒼月』『換装:侍之袴』『換装:スニーカー』」
身体強化とは自らの体内に魔力を循環させ、身体能力を数倍から数十倍まで引き上げる魔法だ。魔法といっても実際には具現化や大気中の魔素を必要としない。換装はその名の通り、装備を取り換える魔法で、予めセットさえしておけば瞬時に装備を変えることが出来る。
妖刀蒼月は蒼色の波紋が特徴的な妖刀で刀自体が魔力を帯びており、触れたモノを凍らせる。侍之袴は妖刀に合わせて特注したただの袴。スニーカーは下駄や草履では動きにくかったので動きやすい靴を選んだ結果こうなった。
換装と同時に涼はゴリラの背後へと転移し、刀を抜いた。
「我流抜刀術、断」
その一閃はあまりに早く、相手は斬られたことすら気付けない。
故に刀を鞘に収めたまま身動き一つしない涼に襲い掛かろうとするも一歩踏み出そうとした瞬間に自身の体の異常に気付く、首から下が消えていることに。
こうして異世界初の戦闘は幕を閉じたわけだが、涼は戦闘の呆気なさに驚きを隠せないでいた。
「でかいだけで弱くね?」
そんな涼の疑問に答えるように頭の中に聞き覚えのある声が響いた。
『なっ、なんでもう戦闘してるんですか!まだチュートリアルは始まってませんよ!』
「何この声」
『私です私!貴方をこの世界に送った神様ですよ!』
「そう言えば居たなそんな奴」
『忘れないでください!って、それよりもなんで戦闘してるんですか!しかもそんな化け物と!』
「いや、襲われたから仕方なく」
『襲われた!?ていうか何で巨人の森にいるんですか!え、あ......ごめんなさい私のミスで本来送るべき森とは別の森に転移してしまいました』
「ふーん、でここ何処よ。ろくに話もせずに転移させるからこうなるんだろ?ちゃんと説明しろ。あと次会ったら殺すから」
『殺さないでください!謝りますから!ちゃんと説明しますからぁ!!』
涼が転移させられた世界は0751という世界で、名前の由来は大体想像がつくだろうが、女神の管理する751番目の世界だかららしい。「安直じゃね?」とか思ったやつは想像してみればいい。一々個別に名前をつけていたらどれだけ大変か。覚えるのも大変だろうがそれ以上に名前をつけるのが大変だ。ちなみに俺を拉致、転移させた女神は千を超える世界を管理しており、配下には万を超える神が存在しているとか、全て女神の自称なので信じるには値しない。
『いやいや!これでも偉いんですからね!涼さんが特別なだけで、普段はもっと威張ってますから!』
特別というのは女神にとって特別という意味ではなく、俺の存在自体が特別という意味だ。魔法が使えること。地球にいた全ての神から祝福を受けていること。神ではない人間の身でありながら崇められ、信仰され、存在が神に近いこと。神を傷つけることが出来ること等々、女神曰く上げればキリがないらしいが千を超える世界を管理する女神でさえも戦えば無事では済まない程度の力を持っているらしい。
「初耳な情報ばっかなんですけど。祝福って何よ?俺何で信仰されてんの!?」
『祝福は神が気に入った人間に与える加護の上位版ですね。んーそうですね、親友に上げるのが加護だとしたら祝福は恋人レベルですね!正直何をしたらここまで神に愛されるのか私も知りたいです!』
「あー、お前誰にも愛されてなさそうだもんな」
『ぐさっ、いやいや、全知全能な世界の管理者である私が愛されていないわけないじゃないですかぁ~嫌だなぁ~』
「まぁいいや。んで信仰は?」
あんまりな物言いだが、お互いに全く気にした様子はない。
女神は長すぎる時間を一人きりで過ごしていた為、その様な感情を既に失っており、涼も適当に思ったことを口に出しているだけで女神が愛されていようが愛されていまいが興味がなかった。本来であれば女神に軽口を叩いた時点で無事では済まないのだが、女神が対等な相手として涼を認識している為問題にはならない。まぁ涼に関しては少しは気にしたほうがいいだろうとは思うわけだが。
『カタカタカタ、ターンッ!!なるほどなるほど、涼さん貴方以前に紛争を止めに行きましたよね?その時無償で食料を提供したり、怪我人を治療したり、薬を配ったり......。ってなんですかこれ!?めちゃくちゃいい人じゃないですか!これですよ!これ!これが原因です!』
「ん?そうか?そのくらいで信仰されるのか?それなら国境ない医師団とか絶対神だな。俺より全然凄いからなアレ」
『いや、確かにいい人達かもしれませんがその程度では感謝はされますが信仰はされませんよ。涼さん治療に魔法使いましたよね?間違いなくそれが原因です』
魔法が存在しない世界で魔法を使えばどうなるか。想像するまでもない。
更に付け加えるなら涼が身バレを防ぐ為に真っ白なローブを羽織り、顔を仮面で隠し、正体を聞かれた際に「全ては神の御心のままに」とか何とか適当なことを口走ったせいなのだが、当人は一切そのことを覚えていなかった。
「ていうか、カタカタカタ、ターンッ!!って神様もキーボード使うんだな」
『今ですか!?スル―されたと思ったネタを今いじるんですか!?』
「ふっ、冗談だ」
『どんな冗談なんですか!!意味が分かりません!!もうやだぁ』
「真面目に説明しないほうが悪い。全く話が進んでないだろ?」
涼の口にした通り、既に会話を初めて数十分は経つが得られた情報はどうでもいいものばかりだった。知りたいのはこの世界のことだったはずが、名前しか分かっていない。
尚、会話をしている最中も巨大蜘蛛や巨大カマキリなどの襲撃を受け、涼は常に戦闘を行っていた為、若干苛立っている。
『分かりましたよ!じゃあ本当に簡単に説明しますね!まずこの世界は0751。ありきたりな魔法世界です。涼さんの世界の漫画やアニメ、ゲームのファンタジーな世界を想像してもらえれば分かり易いと思います。国によって発展は様々ですが未だに移動手段が馬車って時点で察してください。トイレは壺ですよ!壺!お風呂も王侯貴族や大貴族くらいしか持ってません。ですが生活魔法がある程度浸透しているので衛生面はそこまで酷いわけではありません。中世ヨーロッパみたいに汚物が街に溢れているなんてことはないので安心してください。と言ってもお風呂はないので基本水浴びですし、水浴びすら面倒でしない人が多いです。紙はちょっとだけ高いですが普及しています。全て手書きとなりますが本も存在してます!識字率は国にもよりますが大体が六割程度。四則計算は三割。識字に関しては私が知識を与えたのでこの世界のありとあらゆる文字を読み書きすることが出来ます。当然話すこともできます!涼さんは元々計算が出来るので問題ないですね!んーあとは、そうそう!この世界には魔物がいます!あと人以外の種族もいますね!』
と女神が勢い付いてきた所で涼がストップをかけた。
『もう!なんですか涼さん!折角いいところだったのにぃ』
「いや、待て。取りあえず聞き直したいことがある」
『何ですか?』
「風呂がないってまじか」
『まじです』
「トイレが壺ってのも?」
『まじですね!まじでリアルです!』
「ぬおおおおおおおおおお」
――悶絶。
涼は風呂に入れず、壺に用を足す自分の姿を想像して悶絶した。
風呂に入れない?いやいや、無理でしょ。風呂は癒しですよ?知ってる?日本人て風呂とトイレくらいしか落ち着けない民族なんだよ?耐えられない。絶対耐えられない。そして想像の最中、一つ気付いたことがある。
「トイレットペーパーって」
『あるわけないじゃないですか。基本葉っぱか布です』
「いやあああああああああああ」
何もかもが巨大な巨人の森に一際大きな叫び声が響き渡った。
トイレが壺は本当に嫌だ。