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破顔の術式  作者: 慎之介
一章:変態犯罪者、聖都に誕生
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8.全力で走る男

 まるで絹のように手触りの良い、きめが細かい肌をイヴは持っていた。顔や腕は日に焼けているが、日頃鎧や服で隠している腹部は透けるように白い。甘く清涼感のある香りを纏う彼女は、顔や体型だけでなく、他にも異性を魅了する武器を隠し持ってたようだ。

 そのイヴの鎧を脱がせ、肌を直接触ったハルの心拍数が跳ね上がり、呼吸が乱れる。育ってきた境遇のせいで女性に不慣れなハルは、異常に興奮していた。手を小刻みに震わせて目を充血させた彼が、職務質問をされる前に捕縛されても疑問は感じない。

(この……この、このこのこのっ! この布はっ! まさか女性用下着ってやつかっ! えっ? そうなの? 違うの? ちょっと、どうなっているか確認……)

 白く塗装されたコンクリートの上に横たわるイヴは、ハルに抵抗しようとはしていなかった。何故なら、ゴーレムの攻撃をまともに受けたせいで、まだ気を失っているからだ。

「お前は……。何をしてるんだい、まったく」

 ハルがイヴのシャツから下腹部に手を伸ばした所で、リンカの里の長老が呆れたように声を掛ける。

「違っ! 違うんだ! ババァ! これはあくまで知的好奇心的な、そうでもないような、何かなんだっ! あ……」

 あり得ないほど動揺したハルは、両手をイヴから素早く離すと同時に、長老へ言い訳を始めていた。つい素の言葉を出してしまったハルは、顔を真っ青にする。

 ハルに向ける目を細めた長老は、眉間に皺を作っていた。

「あ……いえ……その……。違うんです。えと……長老様」

 固まってしまったハルを、長老は小馬鹿にしたように鼻から息を噴き出す。その長老が笑顔を作らないのは、元々笑った顔を人に見せるのを好まない性格をしているからであり、不機嫌な訳ではない。

「ふん、まったく……。年長者を侮り過ぎると、いつか痛い目にあうよ。お前の本性など、こっちはとうの昔に見抜いておるわ」

(えっ? あれ? ばれてるの? このババァ……侮れん……)

 二度も自分の想定を超えてきた長老に、ハルは目を細める。そして、次の言葉で降参したかのように両手をあげる。

「それより……気を失ってるお嬢ちゃんに、変な事をするんじゃないよ。それ以上するなら……」

「やめてください。お願いします。このババァ」

 呆れたように首を左右に振りながら息を吐く長老は、イヴの腹部を指さす。

(うおぉ……。すげぇ)

「それを見せたかっただけなんだがねぇ。ここの光やゴーレムは、地脈の力を取り込む術で動いておる。その中に、ゴーレムが負わせた怪我だけを回復させちまう式も組み込まれているんだよ」

 ゴーレムの拳によって作られたイヴの痣が、見る間に消えていく。

「ここは御先祖様達が作った試しの間。何百年も、その仮面を手に出来る者を待っていたわけだ」

 リンカの里にとって、そのゴーレムを含む試しの間は、先祖から受け継いだ大事な遺産だ。そんな場所がある事は、里の外にほとんど知られていなかった。

 しかし、里の者達はその場所を故意に隠していたわけではない。リンカの里を訪れる者自体が少なく、訪れたとしても住民達が頻繁に話題に上げないせいで、知られる機会が極端に少なかっただけだ。

 里の若者が自分の力を確認する為に入る事もあるその地下の部屋は、基本的には出入りが自由になっている。そして、ゴーレムを制すれば外来の者にでも仮面が与えられる。そうする事が、長老達の先祖の意志であり、里の決まりなのだ。

 妖魔のいる山の頂上までたどり着ければ、自動的に外来の者も有資格者となる仕組みだと長老は語る。実際に、里を仕事で訪れた傭兵が挑んだ事もあったらしい。

「つまりだねぇ……ここは試しの間であって、侵入者を試すだけで拒まないんだよ。その番人も、人を殺傷する為の物ではない」

 ハルが壊してしまったゴーレムは、気を失った者を襲わないようになっていた。それだけでなく、ハルが受け取った鷹の描かれているメダルを身に着けた者にも、危害を加えない。里の者はその金色のメダルをつけて、今まで試練に失敗した者達を回収していたのだ。

(なるほどねぇ。あ、そうだ。他の兵士……)

 床に置いた仮面とメダルを眺めていたハルだが、イヴの部下の事を思い出して立ち上がる。

「その仮面を持つ者は、メダルの力も引き出すこ…………聞いとるのか?」

 ハルは壁際に転がるイヴ以外の兵士達も、寝顔が穏やかになっている事を確認し終えた。そして、話は聞いていると伝える為に、無言で親指を立てて長老に見せる。

「はぁぁ……。どうもお前は掴み辛いねぇ」

(もう、このババァには隠さなくて……。いや、隠すべきじゃないな。誤解を生みかねん)

「なんか、よくそういわれる。後、しぶといとか逃げ足速いとかも」

 兵士達の鎧を掴んだハルは、そのまま一人ずつ出入り口付近まで運ぶ。乱暴に扱われて頭や腕を床に打ち付けた、気を失ったままの兵士達の顔が歪もうとも、ハルは気にしていない。

「あ、で? 続きは?」

 釈然としないといった表情の長老だが、里の決まりを守る為に再度喋り出す。

「まあ……なんだ。仮面とメダルには決まり事と、制約がある。それを教えるから、今日はうちに泊まっていきな」

「あ……了解。商売もあるから、ちょうどいいや」

 長老の声でゴーレムが居なくなった事を知り、安心して入ってきた里の若者達とハルは、兵士達を不思議な地下道から運び出す。そして、長老が乗ってきた神輿に目覚めない者達を乗せ、ハルが護衛となって里へと帰還した。

「この子達はうちまで運んどくれ。それから……あんたも、それが終わったらうちに来な。いいね。勝手に帰るんじゃないよ」

 里へ帰り着くと同時に商売を始めようとしたハルに、長老は念押しをする。長老はハルの事を認めてはいるようだが、信頼はしていないのかもしれない。

「分かってるってば。しつこいなぁ。さて…………では皆様! お待たせいたしました。どうぞ、見て行ってください!」

 長老に対して不遜な口をきくハルに、首を傾げた者はいたが、皆すぐにその事を忘れる。商売を開始した瞬間、いつもと変わらない笑顔と口調になったハルの出す雰囲気に、全員が飲み込まれてしまったようだ。

「おっ? 干した魚か。うん? 今回は値札を作ってきてないのか?」

「あっ! この口紅綺麗っ! あの! 精結晶でも交換してくれるんでしたよね?」

 ハルの用意した隙間ばかりを狙う商品は、どんどん売れていく。

「はいはい。精で結構です。あ……野菜? 生鮮食品はちょっと……」

(いれ……入れ食いじゃああああぁぁぁ! ひゃっはあああぁぁぁ!)


 一時間と経過しないうちに、ハルの商品は全てお金、精、里特産の絹、鮮やかな刺繍の入った綿の織物に変わった。通貨をあまり使っていない里で、物々交換に応じているのも繁盛している理由なのだろう。

「あらぁ……。もう干物はないのね……」

「刺繍糸はないかしら? 娘の嫁入り道具に必要なんだけど」

 商品が全て無くなっても、里の者達は解散しなかった。商売の攻め時を感じ取ったハルが、その者達から欲しい物を聞き出しているのだ。

(今……売れる時に売ってお金をっ! そうすれば、帰って夜のお店に行けるっ! ぼったくりの店に入っても、生きて帰れる!)

 煩悩によって目をぎらつかせた笑顔のハルは、注文を取り終えると背嚢に荷物を積め、全力で走り出す。

「あっ! えっ? まさかあの人……今から仕入れに向かったの? 嘘でしょ?」

 ハルの術を知らない里の者達は、妖魔もいるし一人では危険だと止めようとした。

 だが、脳内の化学物質が多量分泌されている今のハルは、誰にも止められない。

(術の多用は、後で死ぬほど辛いが……。今は金だっ! 銭を稼ぐんだっ! 俺の精が尽き果てるまでっ! 根性だ!)

 走りながら右手にグローブをはめたハルは、買い取った精を砕いて取り込み、脚力強化の魔方陣を自分の膝にぶつける。そして、驚くほどの速度で山を駆け下りていった。


(金に目がくらんだ俺を! 止められるもんならっ! 止めてみろ! この野郎!)

 ハルが襲ってきた最初の妖魔を術で吹き飛ばしている頃、イヴ達が長老の家で目を覚ます。

「本当に……申し開きもありません。情けない限りです」

 長老に頭を深く下げたイヴは、悔しそうに顔を歪めている。

「気にせんでも、ええよぉ」

 イヴを慰める為に、長老は珍しく笑顔を作った。

「妖魔は運よく出てこなんだ。儀式も無事に終わったしねぇ」

 山頂からの帰り道で、自分の事を黙っていてほしいとハルから頼まれていた長老は、約束を守るつもりのようだ。ゴーレムの事も、長老は里の若者用に腕試しとして作られていただけだと、上手く誤魔化す。

「腕試し用だからねぇ。止められるようになってるんだよ。崩れるとは思っておらなんだ。驚かせちまったねぇ」

「いえ……。それは、構いません。あの……本当に申し訳ございませんでした。ほら、お前達も」

 長老の制止も聞かず、イヴは幾度も部下達と頭を下げた。その丁寧過ぎる謝罪は、プライドの裏返しなのだろう。それを察した長老は、仕方なくではあるがイヴに付き合う。

「では、これで失礼します。本当にすみませんでした。今後はこのような事のないよう、訓練を積んでまいります」

 半時間もの謝罪が済むと、イヴ達は帰る為に長老の家から出る。そのイヴ達に、長老達は二つの布袋を渡そうとした。一つは正規の料金が入った小さな布袋で、もう一つは野菜等が入った心付けだ。

 建国時に力を貸した里への兵貸出し料金は、かなり安く設定されている。それに対する感謝として、里の者達は負担にならない程度ではあるが、兵士への心付けを毎回用意していた。

「いえ。そちらは結構です。すみません……」

 ろくに働いてもいないと後ろめたい気持ちが強いイヴは、心付けを出してきた男にも頭を下げる。仕事なのでと正規の料金だけは受け取るが、イヴはそれすら恥ずかしく感じているようだ。

「隊長? 大丈夫ですか? あの……失敗ではありませんし……その……」

 肩を落として歩き出したイヴを、部下達も気遣うが彼女の気は簡単に晴れるはずもない。

「あの小僧が気にしていたのは、このせいかい……。プライドの高いお嬢ちゃんだ」

 イヴ達を里の出口まで見送った長老は、独り言を呟いた。

 どうやら、長老はハルが黙っていて欲しいと言った理由を勘違いしたようだ。ハルはただ単にこれ以上関わって怒られたくないと、彼女の拳を恐れただけに過ぎない。



 イヴ達が里を出てかなりの時間が経過し、空に綺麗な月が浮かんでいた。長老宅の板間では、ハルが大の字になってまだ荒い呼吸を続けている。

「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ、完。はぁ、はぁ、売。はぁ、はぁ、はぁ、はぁ、はぁ」

 どうやら、湖に隣接した集落ルーベでハルが再度仕入れてきた商品は、全て売り切れたようだ。

「じゃ、なにかい? 往復して帰ってきたと? お前……頭がおかしいか、悪いのかい?」

「うっせぇ! ババァ! はぁはぁ……はぁぁ、はぁぁ……。商売は……はぁ……タイミングなんだよ。くそ……はぁはぁ」

 白湯をすすった長老は、暖炉の火を見つめながらハルが回復するのを待つ。

(やべぇ! これ……思ってたよりきつい! 体力と精を同時になくすと、こうなるのか。くそ……きっつい)

 ハルは外部からグローブ内に精を取り込んでいるが、術発動時に体内の力を全く消費しない訳ではない。術の起点となる精は、ハル本来の力が消費されるのだ。百の力が必要な術でも一の力で発動できるが、例え一といっても消費は消費であり、いつかは底を突く。

 いくらハルでも、外部の精を体内に戻す術は持っていない。つまり、今は自然回復を待つしかないのだ。

「妖魔の多いこの山を、一人で二往復……。同じことが出来る者が……どれほどいるだろうねぇ」

 揺らぐ火を瞳に映した長老は、ハルから見えないように少しだけほくそ笑む。ハルが試練をクリアできたのは、偶然ではないと思えたからだろう。


 そこそこの時間をかけて呼吸を整えたハルは、曾孫までいる長老の家族に囲まれて食事を取った。長老以外に本心を見せる気がないハルは、笑顔で愛想よく長老家族に里の外の話を聞かせ、疲弊してしまう。

「喉痛い。あんた、何人家族いるんだよ。あ、後、ご飯ご馳走様でした。ババァ」

 ハルの口の悪さにすでに慣れ始めた長老は、気にもせず質問に答える。

「直接の娘と息子が三人。そこから、各自約三人で……勝手に計算しな。あ、娘や孫達の半分は他所へ嫁に出たから、それも忘れないようにね」

「ふわっとし過ぎてて、計算できねぇよ。あ……そうだ。忘れないうちに」

 仮面の話を聞く為に長老の部屋に入ったハルは、棚に並んでいる乾燥させた草や薬独特の臭いで、ある事を思い出す。それは、長老が秘薬の調合方法を持ち出した事を、咎めないと言った事だ。

「なんだい? この紙は?」

 背嚢の隠しポケットに入れていた紙の一つを、ハルは長老の前に差し出していた。

「他の集落や里で、俺が集めた薬の調合方法と、使用方法一覧だよ。五枚ほど書き写してあるから、一枚やるよ。読めるよな? これで、秘薬の件はチャラって事でどうだ?」

 ハルは、前回秘薬の調合法を聞きだし、そのまま逃げ出した事を気にはしていたらしい。

「ふん……。馬鹿なお前にも、最低限の道徳観念ぐらいはあるようだねぇ」

「人を異常者みたいに言うな。あんたは商売敵にならないだろうし、ここは薬以外でも利益を出せる。その材料ならここでも作れるだろ? あ……あの、後さぁ。なんでだ?」

 大きく息を吐き出した長老は、ハルからの一覧を受け取り、立ち上がって背後にあった木製の棚へしまいながら口を開く。

「薬の話をした時に、お前が十分な知識を持っていると分かったからだよ。後は、この書置きを信じてみただけさね」

 薬一覧をしまった棚から、長老はハルが前回残していったメモを取り出していた。そこには、用法容量を守って悪用しないと書かれている。

「お前も分かってるだろうが、薬ってのは作り方と使い方を間違えると毒にしかならない。だから、そこらのろくに知識もない薬売りなんかにゃ、教えられなかっただけだよ」

 受け継げるだけの知識がある外部の者がいなかっただけで、持ち出し自体は禁止ではなかったと長老は告げた。墓穴を掘って不必要な苦労をしたと頭を掻きむしったハルは、その里独特の刺繍がしてあるカラフルな絨毯の上へ座る。

「さて、じゃあ本題に入ろうかねぇ。まずは仮面からだ。それは、大いなる意思の力を引き出す鍵になるそうだよ。その方法は、この里にも残されておらん。自分で探せって事だろうね。まあ、日頃は頭を守って精を高める物として使えばええ」

 仮面の精増幅効果は、制約をつける事でさらに高められる。使用者の五感等を犠牲にすると、精が更に増加するのだ。

「内側の頬の部分に、印があるだろう? そこに指を置いて、どこどこを封じると念じればいいだけだそうだ。封じる機能によって増幅率が違うらしいから、いろいろ試すといい」

(視覚とか封じると、かなり上がるのか? まあ、動けなくなるからやらないけど)

 ハルに精は多少でも回復したかと聞いた長老は、メダルの使い方は実戦する方が早いと言った。

「その仮面をした状態で、そのメダルに精を流し込んで、初めて真の姿になるそうだよ。立って実践してみな」

 仮面をつけて立ち上がったハルは、メダルを握って精を流し込む様にイメージする。すると、光り出した鷹の描かれたメダルは、ハルの体に纏わりつき、チュニックへと姿を変えた。

「凄いなっ! えと……主に色が……。なにこれ? 玉虫色? メタリックだし、見る角度によって色変わってない? 着るのにかなり勇気がいる服だな」

 金属光沢を放つ、膝丈までの長さがあるチュニック。詰襟であるその服を見て、ハルは軍服を思い出す。

(ボタンがない。まあ、着脱があれだしいらないのか。あ、腰から下は両サイドにスリットが入ってるのか……。動きは妨げられないけど、これ着るのやだなぁ)

 あまりのも派手すぎる服を、着たまま色々な角度から見ていたハルに、長老は杖を向ける。そして、杖の先から炎を放った。

「うおわぁぁ! 何するんだ! ババァ!」

 腰から砕けるように後ろへ倒れ込んだハルは、杖を置いて白湯をすする長老を睨む。

「その服は、着けている者に危害が及ぶ術を識別して、効果を和らげるそうだ。まあ、弱い術なら見ての通り打ち消してしまうわけだね。実際に見たのは、初めてだがねぇ」

 服をメダルの状態に戻したハルは、服がどこも焦げておらず、火傷もしていないのを確認して大きく息を吐き出す。それが終わると、仮面まで外して怒りの表情を長老に向けた。

「見た事もない初めての事で、危険な事すんなよ! お前! 馬鹿か!」

「お前よりは、ましだよ。まだ、ぼけてもおらん」

 拳を握ったハルと違い、陶器の湯呑を床に置いた長老は、落ち着いた口調で最後の説明に入る。その最後の説明とは、仮面とメダルは里の宝ではあるので、使わなくなったなら返しに来いという事だ。

(なるほどねぇ……。しかし……これはかなりのレアアイテム。どれぐらいで売れるんだろう?)

「使える人間は限られとるらしい。他の者には、性能の証明も出来んじゃろうな。売れもせんのだから、お前も気軽に返せるじゃろ?」

 考えを見越されたハルは、両目をいっぱいに開いて絶句する。それを見た長老は、呆れたように息を吐いて湯呑へ再び手を伸ばした。

「どっ! どうかしましたか? 大丈夫ですか?」

「あ……いえ。なんでもないです」

 ハルの先程発した大きな声を聞いたらしい長老の孫娘と息子が、部屋に走り込んできた。それをちょうどいいと、涼しい顔の長老はハルを寝床まで案内しろと孫娘に告げる。

(こ……この野ろ……じゃなくて、ババァ。くそ……完全に上を行かれた)

「はい分かりました、おばあ様。では、こちらにどうぞ」

 説明が全て終わったのだと理解したハルは、膝が笑うほど疲れていた事もあり、長老の孫娘について部屋を出る。

「あの……おばあ様があんなに楽しそうなのは、久しぶりです。ありがとうございます。ゆっくり休んでくださいね」

(あれで? 楽しい? 俺に火の術をぶつけたからか! くそ……いつ……か……)

 部屋を出る前に長老の孫娘が言った事に、ハルは首を傾げた。そのまま布団の上へ座った首を傾げたままのハルは、倒れ込む様に夢の中へ落ちて行く。

 その日、ハルの夢に出てきた元の世界にいるはずの大事な女性は、とても悲しそうに笑っていた。



 翌朝、もう一日だけと引き留める長老の家族を振り切って、ハルは聖都へと帰還する。そして、丸一日の休息後すぐに活動を再開し、リンカの里で手に入れた絹等を、仲良くなった店主のいる店へ売り払う。

「これだけ一度に買うんだぞ? もう少し……」

「これ以上は勘弁してくださいよ。リンカ製の絹ってよく売れるんでしょ? 頼みますよぉ。こっちも、傭兵雇ってかつかつなんですからぁ」

 嘘までついて店主の値引き交渉に首を縦に振らなかったハルは、とても濁ったいい笑顔で店を出る。

(さてと! 軍資金はかなり溜まった……といいたいけど、もっと欲しい。薬の材料取りに行く前に、町で何が売れるか調べるか)

 町の庶民向け繁華街へ向かおうとハルは、小川に架かる橋の手前で回れ右をした。アニーが、橋の近くをふらふらとうろついていたからだ。

(よしっ! 今日は……えと、そうだ! あのまだ行ってない地区を調べよう! それがいい! そうに決まってる!)

 トラウマに背を向けたハルの逃げ足は速い。大通りから裏路地に向けて、風を思わせる速度で走り抜けた。たまたま通り掛かった、貴族の家で使用人をしている若い女性や、巡回中の兵士が驚いた顔を作る。



(噂には聞いてたが……。こりゃ、スラムどころじゃねぇな)

 ハルが足を踏み入れたのは、聖都内で最も荒んでいる地区だ。石畳がどこもかしこもぼろぼろになっており、雑草は生え放題で、道端に何かの大きな骨まで落ちている。

(人の骨? は、流石にないか。牛とかか?)

 痩せこけてみすぼらしい服を着た子供が路地裏で震え、物乞いをする者を大勢見かける通りを、ハルは一人で歩く。かなり危険といえるその場所は、ハルベリア国の負の遺産だ。

 奴隷制度があったハルベリア国の、奴隷達が住んでいた場所をハルは訪れている。小川の南側と違って、その地区は石畳が敷かれているが、ゼノビアになってから作られた南側よりも治安は悪い。そこに住んでいる者の多くは、低すぎると言っていい賃金で今も働いており、心にもゆとりがないらしい。

 その地区がそうなった理由はごく簡単で、奴隷だった生活から上手く抜けられなかった者達が、その地区に残ったからだ。抜けられた者は皆、小川の南に新しい家を作って、忌まわしい記憶が残る土地から越していった。

 暗い雰囲気を好む、非合法な事をしている者達も集まった事で、その地区は今に至っている。兵士達も不用意には入れない地区なのだから、念の為にとハルがグローブをはめているのは正解だろう。

(飯の種になるような事は、ここにもあるだろうな。多分、非合法だけど……)

 石の階段を降りたハルは、下り坂になっている広い道に向かう。狭い道を進むと、後ろからつけられている気配がして安心できないのだ。それもまた、偶然で運命なのだろう。


「うん? うおっ!」

「どきなさい! 馬鹿あああぁぁ!」

 坂道の中腹で、背後から迫ってくる音に振り向いたハルは、驚くほどの運の無さを発揮した。

「へぶしっ! あ……うぅぅ……え? ぎゃあああぁぁぁ!」

 ハルの背中に迫っていたのは、大量の荷物を積んでいた荷車だ。その荷車は坂道を進む間に、主人でも止められないほど加速していた。

 ハルも振り向いた瞬間に危険を感じ、飛び退こうとはしたらしい。

 だが、荷車を押していた女性の美しい金色の髪につい見惚れ、反応が数秒ほど遅れる。それが、命取りになった。勢いよく撥ね飛ばされて弧を描いたハルは、坂の下へ背中から着陸する。

 それでも十分だろうが、ハルの運の悪さは連鎖を起こす。その落ちた古い道はかなり傷んでいたらしく、衝撃に耐えられなかった。ハルベリア国時代の下水処理用らしき地下道へ、ハルは瓦礫と共に落下したのだ。


「あ、あぁ……うぅぅ……。がはっ! ごほっ! うぅぅ……」

(死ぬ……。ちょ……マジで……)

 泥だらけで倒れているハルは苦しそうに呻きながら、自分の落ちてきた穴からさす光を見つめた。今のハルには、目の前の土埃を払う力もないらしい。

「ちょっと、貴方! しっかりしなさい! いいですね! しっかりするのですよ!」

 穴を覗き込んだ金色の美しい髪を持つ女性は、取り乱している事もあるのだろうが、少し理不尽な事をハルに要求していた。

(いや……あの……人身事故! 助けて下さい!)


 ハルとあり得ないほど最悪な出会い方をしたこの女性が、ゼノビア第二王女シャロン・オルブライトだ。取り敢えず死にたくないとだけ願う今のハルは、今後彼女と自分がどう関わるかなど知りはしない。

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