5.帰らぬ者
夕暮れで部屋が橙色に染まる頃、異邦人と呼ばれる存在となった者達が、周囲の者達と会話を始める。アルバートによる四日目の講義が終了した為、各人が自由な時間を満喫しているのだ。勿論、その方法は様々で、数日前に出来た新しい友人と会話をする者だけでなく、柔軟運動をする者や早々に部屋を立ち去る者もいる。
(雨がよく降る時期とそうじゃない時期ねぇ。今は乾季みたいなものなのか? 水源の近くにしか集落がないのはこのせいか……)
いつもは誰よりも早く部屋を出ていたハルだが、その日は自席でノートを眺めたまま動かなかった。ハルは気まぐれななどでそのような行動をとったわけではない。ある理由から一度退室したアルバートが、戻ってくるのを待っているのだ。
「珍しいな」
十分に肩と首をほぐし終えたマハは、立ち上がってハルを見下ろしている。
「アルバートさんに少し頼み事をしたんで、待ってるんですよ。あ、お疲れ様でした」
「あ……ああ、お疲れ様」
マハはハルと日常会話を試みようとしていた。
しかし、話題が思い浮かぶ前にハルから挨拶をされてしまい、その返事をするしかなくなった。マハの喋りたいという雰囲気にハルは気付いているが、無駄だと思えたのか付き合わない。
少し残念そうに部屋を出るマハと違い、アニーはハルの横顔をじっと見つめ続ける。瞬きをほとんどせずにハルを見つめるアニーは、にやにやと笑い続けていた。顔はどんどん近づけている彼女だが、なぜか喋ろうとはしない。
(止めてくれとさえ、喋りかけたくない。はぁ……)
隣から届く不快な圧迫感に眉間をつまんで溜息をついたハルは、部屋に戻ってきたアルバートを誰よりも歓迎する。
「すみません。お待たせしました」
「いえ。無理言ってすみません」
革のバッグを肩にかけたアルバートは、ハルのいる机の前まで笑顔で近づく。そして、バッグを机に置いて、中身をハルに見せる。
「これは、一般的な術の知識について書かれた本です。術士の研究書ではないので、暗号化もされていません。後、術式道具専門店の場所は、えと……この町には十店舗です」
机の上に出された本をぱらぱらと流し読んでいたハルに、アルバートはしるしのついた地図を渡す。
「後、これも……でしたよね?」
「ええ。助かります」
最後に術式を書く為の羽ペンを受け取ったハルは、アルバートに頭を下げる。
「いえいえ。私のあまり使わない私物ですから、好きに使ってください。返却も、気が向いてで構いませんので」
(これだけあれば、取り敢えず始められる。情報収集の時間は……少し減らしても問題ない)
バッグもそのまま使っていいと告げたアルバートは、顔から笑みを消した。彼が申し訳なさそうに言ったのは、精が少ないハルは術開発の職に向かないという事だ。
「えっ? ああ、ご心配なく。術士にも道具作成の職にも興味はありません。ただ、術の事をもう少し知っておきたかっただけです」
「そ、そうですか。あの……失礼な事を……その、すみません」
(失礼だと思うなら、言うな。てか、話は聞いてたから、術士が無理なのは分かってるよ。俺を馬鹿だとでも思ってるのか? こいつ)
愛想笑いを返したハルだが、その内面はいつも通り黒い。それに全く気付かないアルバートは、気を取り直してバッグの中に入っていた道具の簡単な説明をし始めた。
「うっ……わぁ。見てよ。あれ」
その日の獲物である若い兵士を連れた学生三人組が、宿舎の庭で立ち止まって窓の外からハルを見つめている。
髪の短い男は玄関を出る際、若い兵士に組み付き、それ以降笑顔で相手の脇腹を殴り続けていたが、女性の声で立ち止ってハルを睨んでいた。
「あいつ……なんか、むかつかね? 俺、ああいうとろくてだせぇ、いい子ちゃんぶった馬鹿見てると、殴りたくなるんだよなぁ」
「確かに……雑魚が調子に乗っている。あの手の馬鹿は、本当にどこにでもいるな」
恋人である女性と腕組みをしていた長髪の男も、窓越しにハルを見ながら唾を吐き捨てる。
彼等にハルを嫌う明確な理由はない。強いて上げれば、優等生といえる講義中の態度が気に食わないぐらいだろう。それでも、彼等の敵意は何故か日増しに強くなっていた。
その事だけでなく、元居た世界で彼等が虐めという行為をしていた事など、ハルが知るはずもない。
「あ……いい事思いついた。ちょっと、相談っ」
ハルを蔑むような目で見ていた女性が、下卑た笑いを浮かべる。彼女は、陰湿な事を考えるのが得意なのだろう。
「うっしぃ。じゃあ、いつもの店で作戦会議って事で……どうよ?」
「さんせぇぇぇっ!」
学生達が金づるである兵士を連れて宿舎の敷地を出た頃、アニーは立ち上がって呆然と出入り口を見つめていた。説明を全て聞き終えたハルが、アニーの隙をついて部屋を素早く出て行ったからだ。
「あ……えと……えぇぇ……。ず……ずいぶん、お忙しいようですねぇ。ハルさん」
目を血走らせて歯ぎしりをするアニーを見て、アルバートは引きつった笑顔と共にその言葉をなんとか口から出した。そして、アニーに睨まれてそそくさと部屋から退散していく。
「い……いぎぎぎ……。酷い……」
ハルと夕食を共にできると考えていたらしい彼女は、自分のバッグを机に置いたまま走り出す。
「えっ? うわぁぁぁ……」
アニーは髪を振り乱して大股で、宿舎の廊下を走る。その恥も外聞もなくなっている彼女を見て、幾人かの異邦人と兵士達が口を開けて動きを止めていた。運動を不得手とするアニーの全力疾走は、それだけ不格好な物だったようだ。
(ふふん……舐めるなよ。俺の逃げ足は……あれ? なんだっけ?)
その日も必要以上によく働くハルの第六感が、主人に危険だと囁き掛ける。その原因が分かっているらしいハルは、ランタンと棍を少し乱暴に掴むと、急いで部屋を出た。
(よしっと……。えぇぇっと……なんて名前だったっけぇ……)
ドアノブを捻り、鍵がきちんと閉まっているかを確認し終えたハルは、早足で宿舎を出て行く。初日の夜の事があってから、彼は外出時に必ず部屋の鍵を閉めるようになった。
(えと……そう! 俺の逃げ足としぶとさはゴキブリ並だ!)
組織の研究員である東洋人が言ったその言葉を、ハルは正確に理解できていない。
(追いつけるものなら、追いつかないでくださいっ! お願いですからっ! 掴まってたまるか!)
ランタンに火もつけず走る彼は、夜の町に消えていく。
棍のぶつかり合う音に、その日幾度目かになる女性の不満を表した声が混じる。
「何故だっ! はっ! はぁ!」
「ですか……らぁ! げふっ……がっ!」
イヴをなだめようとして構えを解いたハルは、肩、腹部、頭部を棍で突かれてしまう。
(こいつ……マジで……くそっ! 落ち着け。落ち着くんだ。貴族様とやらに喧嘩売っても得はない)
「はぁはぁ……これ以上はオーバーワークです。後、私が構えを解いたら、止まって下さい。これ以上殴られると、馬鹿になってしまいます」
噴き出しそうだった怒りをなんとか飲み込んだハルは、不満げに頬を膨らませるイヴから少しだけ離れて座る。近くに座ると無理矢理にでもイヴが続きしようとする為、距離を取ったのだ。
「あ……分かった。すまない」
ハルが無意識に擦った肩を見て、元気をなくしたイヴもその場に座ろうとした。
だが、何を思ったかイヴは、ハルとの距離をぎこちない動きで詰め、隣にまで近づいてから座る。あさっての方向へ向けられたイヴの顔は、赤くなっていた。
(なんだぁ? 何がしたいんだ? こいつ?)
ハルからはイヴの顔が見えず、相手の心境を察する材料が不足している。
「あっ! そうだ。うちの庭で取れたんだがな。お前にも分けてやろう!」
イヴが自分用のランタンがある方へ手を伸ばし、布袋を掴む。その布袋から彼女が取り出したのは、青いリンゴらしき果物だった。それは、ハルがいた世界で食べられていたリンゴよりも小さい。まるで、品種改良される前のリンゴのようだ。
(分けてやろうって……。必要かどうかをまず確認しろよ。なんで強制なんだよ。うおっ!)
素手でリンゴらしく果物を二分割したイヴを見て、ハルの眉間に皺が出来る。
(やっぱりこいつ、ゴリラ並みか!)
多くの男性が見惚れそうな笑顔を作ったイヴは、果物の半分を差し出す。
「ほら。まだ酸味は強いが、美味いぞ」
「はい。頂きます」
イヴから差し出された果物を、ハルは両手で丁寧に受け取る。彼はイヴの笑顔に反応してそういった態度をとった訳ではない。力の強い彼女に殴られたくないのだ。
彼女の拳がどれほど痛いかを、数日間の短い付き合いにもかかわらず、彼はよく知っている。勿論、彼女に拳を握らせたのはほぼ毎回ハルの無神経な行動と言動だ。
(まっずっ! 酸味が強いとかのレベルじゃないぞ、これ)
酸っぱいものが苦手なハルは、二口目に進めない。果物をおいしそうに頬張るイヴへと視線を向けたハルは、相手からばれない様に一口だけかじった果物を自分のバッグ内へと隠す。
(ゴリラ……並ではあるんだよなぁ)
隣に座るイヴへ顔を向けているハルは、彼女の体へと視線を下していく。顔は言うまでもないが、彼女は体型的にも男性を虜にするには十分な物を持っている。
(あ、胸と尻は小さいか。まあ、些細な事だよなぁ。実戦とかで鍛えると、体って妙に細くなったりするんだよなぁ)
裕福な貴族だろうと、偏った食事をすれば栄養失調になる文明の遅れた世界にハル達はいる。その世界では、ボディビルダーのような体型の者もいるにはいるが少ない。科学的に考えられたトレーニングも食事もないのが、その大きな原因だろう。
幼い頃から父親に槍術を仕込まれたイヴは、筋肉質な体を持っているが、筋肉自体はさほど肥大していない。女性特有の丸みも残っており、筋肉隆々というよりはスレンダーなモデルに近い体を持っていると言える。
「そう言えば、おま……あ……ちょっと、あの……」
果物を食べ終えたイヴは、ハルが自分を見つめている事に気が付いた。その為、急いで顔を手で隠して、座った状態のまま離れていく。流石に今回は、イヴが頬を染めているとハルにも分かる。
(こいつ、もしかして俺に惚れ…………てれば、あんなに殴らないよねぇ。これだけ近くで直視されれば、恥ずかしいのは当然か。はいはい。勘違い、勘違い)
女性に対して奥手なハルは、期待をするなと自分を戒めた。どうやら彼は、自分にあまり自信がないタイプのようだ。
「あ……あの……なんて言うか。あ、そうだ。私の試験なんだがな。私のお父様が久しぶりにこっちへ帰ってきて、直々に見て下さる事になったぞ」
「へぇ。そうですか」
膝を抱えて真っ赤な顔のまましばらく揺れていたイヴは、沈黙に耐えかねて喋り始める。動揺しているその時の彼女は、ハルの心のこもっていない返事に拳を握らなかった。
「それで……お母様は私を生んですぐに……。お父様は、そのお母様を生涯で一人の女性と決めているんだ。だから、私が当主に相応しくならなければいけなくて……」
(うん。兵士共から聞いて知ってる。重い。重いよ。俺みたいな異邦人に喋る事じゃないぞ、それ。てか、親父さんは当主になって欲しいんじゃなくて、いい婿探せって思うんじゃないの? なんで、自らゴリラを目指そうとするの? 馬鹿なの?)
膝を抱えたままのイヴは、過去の思い出から始まり、嬉しかった事や辛かった事等自分の今までを吐露していく。父親の期待に応えなければと自分を追い込み過ぎていた彼女は、精神的に限界を迎えていた。いつ破裂してもおかしくない状態だったのだ。それが、小さな切っ掛けで溢れ出す。相手がハルだったのは、ただの偶然でしかない。
座って月に目を向けていたハルは、顔から表情を消して沈黙を続ける。それが彼の素顔なのかもしれない。
「それでも! 私は、頑張った! 頑張ったつもりだっ!」
イヴが喋り出してかなりの時間が経過していた。目から零れる水滴を必死にふき取るイヴは、いつの間にか声を大きくしていた。少し前から、それは叫び声と言ってもいいほどになっている。
「そう言い切れる自信はある! あ……いや……すまない。私は何を言っているんだろうな。忘れてくれ……すま……えっ?」
自分の大きな声で、イヴは我に返った。そのイヴに、緩い笑顔を作ったハルは親指を立てて見せる。
「人間……いくら努力して越えられない壁はいくらでもあります。ですがまあ……努力してきた過去の自分は貴方を裏切るつもりはないでしょうよ。多分……貴方が嫌がってもね」
何かを口に出したいようだが、今の泣いているイヴは言葉がうまく出せないようだ。
「あ、後、今回の試験は超えられない壁じゃないですよね? 隊長が他にいっぱいいるんですから。それに、失敗してもいい婿さん探せばいいだけじゃないです? 次もあるでしょうし。気楽にいきましょうよ。気楽にぃ。リラックスが本番で上手くやるコツですよぉ」
ハルの余りにも気の抜けた言葉で、イヴは笑い出してしまう。それまでとは違う種類の涙を出してしまうほどに。
ぐちゃぐちゃになった顔を用水路で洗ったイヴは、腫れた目を擦る。
「さて……今日はもう遅いな。宿舎まで送って行こう」
イヴからハルが目を逸らす。次に彼が呟いた言葉で、イヴは顔を真っ赤にしていた。
「帰りたくない……んです」
(何か嫌な予感がする。帰ると、またあの……恐怖が……)
ハルが帰りたくない理由は、直感からの警告を受けていたからだ。
「どっ! どど、どうしたんだ! 急に。あの……私の家は……その使用人も……」
「あ、今日はそこの見張り小屋にいる人と仲良くなってるんで、泊めてもらいます」
イヴの声に気付いた見張りの者もいた。そして、その見張り小屋の者を、イヴに気付かれないように上手く言いくるめて追い返していたのはハルだ。
「じゃあ、お疲れ様でした」
(どうせすぐには眠れないし、アルバートから借りたこれでも読もう)
背を向けてすたすたと立ち去って行くハルは、自分の背中に拳が迫っても反応できなかった。そんな彼は、殴られた頬を腫らして見張り小屋へと向かうことになる。
「どうしたんだ? 大丈夫か?」
「ゴリラに襲われた……」
見張り小屋の中で、濡れたタオルを頬にあてて術の本を読むハル。彼の予想通り、宿舎の部屋の前には、親指の爪を噛みながら座る女性がいた。
しかし、彼の予想に反する事も起こる。異様な雰囲気の彼女に、話しかけて手を差し伸べた者がいたのだ。翌日になってから宿舎へ帰り着いたハルが、その事を知るのはもう少しだけ後だ。
「傭兵という職もありますが、出来れば正規兵になって下さい。これは、私達からのお願いです。固定賃金ですが、正規兵の方が危なくはありませんので」
教壇で頭を下げるアルバートから、ハルは手元の配られた紙の束へ視線を落とす。ゼノビアは常に兵士を求めている為、兵士の求人だけは資料が用意されていたのだ。
(おおう? こ……これは……)
兵士について書かれた一覧を流し読んでいたハルの目は、ある特殊任務の部分で止まる。ハルが詳細を読み始めたのは、外交調査官についてだ。その役職は、正規兵士ではあるが単独で他国に渡り、情報を集めて王に報告するのが仕事だ。ハルの居た世界で、諜報員と呼ばれていた職に近い。
ゼノビアからバックアップを受けつつ、他国を回れるのだから、それはハルの求めていた職と言えるだろう。
(犯罪歴は……ないから大丈夫だ。あ、兵役を五年か……)
王や上官の目が届かない場所に向かう外交調査官は、相応の戦闘技能を持ち、信頼を得ている者しかなれない。
(いや、非常勤兵士も問わずだ。なら、あのねぇちゃんに口利きして貰えれば、いけるんじゃないか? これ)
正規もしくは非常勤兵士として働きながら、外交調査官を目指す。ハルの中で、当面の目標が決まったようだ。
(正規兵になったほうが安全か? いや、メインで他の職に就いて非常勤になったほうが金が……)
「ちょ、あれ見てよ。必死過ぎ」
「で……ですよね。あ……あの……か……かっこ……かっこ悪い……ですよね」
かぶりつく様に資料を見ていたハルを、学生達が笑う。前日までと大きく違う事は、その学生達と一緒にアニーもハルを貶している事だろう。
その日、アニーはハルの近くには座っておらず、学生達の隣に座っていた。今彼女は、髪の短い男の服を掴んでいる。それをハルは気にしていないが、マハは目を細めていた。
(なるほどね。ご苦労な事だ)
昼食時、ハルは大よそを理解して呆れたように笑う。同じ部屋で講義を受ける者達が、食堂にある長い机のほぼ中央に陣取ったハルを、避けるように座ったからだ。
「少し……いいか?」
いつもは食堂の隅でもくもくと食事をするマハが、ハルの隣へ座る。そして、小さな声で学生達からハルを無視しなければ自分達を敵に回すと、脅しのような言葉を掛けられたとハルに教える。
(後、三日の付き合いなのに……。変な方向のやる気だけはあるんだねぇ)
「いいのか? なんなら、私が手を貸しても……」
マハの強めた眼光を、ハルは緩んだ顔で受け流す。
「あ、結構です。特に困る事もないですしね」
(てか、むしろ好都合です。あの子が寄ってこないのは)
マハの行動が気に入らない学生達は、しばらくハルを含めて睨んでいたが、すぐにひそひそと陰口に花を咲かせて陰険な笑みを浮かべる。相手が繊細ならそれもある程度の効果はあるのだろうが、神経の太いハルには効果がない。
(何故に?)
これで講義が終わるまで静かに過ごせると考えたハルだが、マハの予想外な行動で顔をしかめさせられる。学生達の行動が気に食わないマハは、ハルの後ろを付いてまわるようになったのだ。それも、講義が終わるまで一日中。
(ちょっとやばい人がいなくなってくれたと思ったら、むさいおっさんが付いてくる! 何? このシステム)
「私は正規兵になろうと思う。それと……恥ずかしながら結婚をした事がないのでな。こちらならばと思い始めた所だ。君はどうするんだ?」
マハは会話が得意ではなく、話題をなかなか思いつけない。そのせいか話題を思いつくと同時に、時と場所を選ばずにハルへ喋りかける。
「まだ、決めていません。後、トイレの中までは勘弁してくれませんか?」
「そうか。以後気を付けよう」
背後からの圧力に耐えながらも、ハルはなんとか昼の時間を情報収集にあてた。ハルは多少の悪意ではびくともしないようだが、武術家からの圧力はこたえるらしく疲労を溜める。
(いや、もう。勘弁してください)
日中想像以上に疲弊したハルは、珍しく夜の情報収集を中断した。そのハルは、周りの店が共同で用意した路上のベンチへ座って、露店で買った食事をとっている。
(あのおっさん強いんだろうなぁ。なんか、凄く……。疲れるから、勘弁してくれないかなぁ。でも、おっさんの善意だしなぁ)
「ばっ! ちっ……げぇよっ!」
もそもそとパンをかじっていたハルは、聞き覚えのある声に反応して顔を向ける。
(あいつらの元気を……分けてほしい)
少し歪な紙カップと菓子パンらしき物を持った学生達は、ベンチと同じく周囲の店が用意した路上の丸い机に座り、大声で騒いでいた。同じ席には、少しおどおどとしたアニーと、財布である布袋を悲しそうに見つめる兵士も座っている。
学生達に宿舎以外で会うと面倒な事になるかも知れないと考えたハルは、露店と露店の隙間へ隠れる為に移動した。
「だろっ? あいつ絶対根性無しだってぇ! 絶対、社会出たら落ちぶれるねっ!」
「それに性格も悪いだろうな。勉強しか出来ない奴に多いんだ」
男二人に顔を向けられたアニーは、同意を求められただろう事が分かったらしい。
「で……ですよねぇ。うん。です。うん。な……なんて……なんて言うか……その……あの人……かっこ悪い。うん。かっこ悪い」
「おう! 俺の方が根性あるだろ? つか、やべぇ! テンション上がってきたっ!」
(相変わらず、会話が成り立ってないな。いや、男の方も話聞いてないから、いつもより余計にか?)
聞くに堪えない会話だと、ハルは食事の速度を上げる。どうやら、イヴのいる林へいつもより早いが向かおうとしているらしい。
「ほら、アニー落ち着いてぇ。私達、絶対あんたを裏切ったりしないからぁ。マブダチでしょ? ね?」
そのハルの動きを止めさせたのは、学生達が始めた昔話だ。
学生達三人は、今居る世界とハルの元居た世界を二で割ったような所から来た。文明的にはハルのいた二十一世紀と同等で、魔法も認知されていたらしい。その世界では、魔王と呼ばれる存在がおり、学生達は冒険者となるべく学校に通っていた。
そこまでは、情報として面白いと思えていたハルだが、学生達の言葉で顔が悲しそうに歪む。
「俺達をよぉ。落ちこぼれだのなんだのと、馬鹿にしやがる奴もいてよぉ」
「ああ。俺達の才能は、そいつらより上だった。それが悔しかったんだろうな」
(聞いた限りだと、お前達がさぼってる間に、周りから置いて行かれた様に聞こえますが?)
ハルが悲しそうなのは、学生達の思考がかわいそうだと思えたからだ。確かに彼等は、元々魔法が使えていた事で同時期に来た他の異邦人達より一歩先にいる。
しかし、その優位性は努力しなければすぐに消えるだろう。いくら才能があったとしても、その才能を伸ばさなければ他の者と同等かそれ以下にしかなれない。
「なんかよぉ。ちょっと、成績が良くなった奴が、調子乗ってさ。馬鹿にしてくるわけよ。練習しないからだとかさ」
「うん。そうなの。私達、結構かわいそうじゃない? 泣けるっしょ?」
(うん。かわいそう。主に頭が。一緒に頑張ろうって、気にかけてくれただけじゃないの? それ)
学生達の話を、ハルとは別の意味に捉えたアニーは、目を潤ませる。
「あの……あの……私……その……こう……あの、じゃないですか。うまく喋れなくて……虐められて……その……もっとひどくなって」
虐げられる痛みは誰よりも知っていると、アニーはかなり長い時間をかけて三人に伝えた。そのアニーに、三人は優しく見えなくもない笑顔を向ける。
「あ……あ、あ、あっ! あのっ! ジュース! おかわり! 買って……あの! 来ます!」
自分の居場所を見つけたと感じ、満面の笑みを浮かべたアニーは、露店へ向けて三人の返事も聞かずに走り出す。
「ねえ? ちょ……あの子。やばくない? きもいんだけど」
「いいんだよ。別にどうでも。面はましだから、やるだけやってぽいって所じゃね?」
「支給金が出る間は、財布にもなるだろうしな」
アニーがいなくなった瞬間に三人が吐いた言葉で溜息をついたのは、毎日連れまわされている若い兵士ではない。彼はすでに慣れさせられ始めており、溜息も出ない。
(はぁぁ……。やばいのはお前らだ。とはいえ……。部外者の俺は何も出来ないがな)
呆れたように首をふりながらその場を離れたハルは、学生達が自分に大きく関わる事をその時はまだ知らなかった。
一週間の講義終了後、学生達とマハはすぐに兵士見習いとなり、妖魔と相対する事になる。その結果、術のまだうまく使えないマハは足手まといとして扱われた。それとは逆に、異界の魔法が使える学生三人は、見習いとは思えない活躍をして兵士達からもてはやされる。
天狗のように鼻を伸ばし、ハルを見つけては馬鹿にしたように挑発する三人は、人生最高の時間を過ごす事となる。ただ、それはごく短い時間だった。
他集落の商人護衛任務中に、学生三人とマハのいた部隊は、妖魔の集団に運悪く出会ってしまう。体力も精神力も未熟な学生三人は、劣勢になるや否や自分達だけ助かろうとして逃げ出し、他の者を窮地に追い込んでしまった。
次の日、ハルと昼食をいっしょにと約束していたマハは、いつまで待っても帰ってこない。兵士ではない商人を逃がす為、最後まで最後尾に立ち続けたからだ。
その出来事が、ハルに道を選ばせた。兵士として戦い続けるのは危険だと考えたハルは、商売人を主として活動を開始したのだ。学生達やマハがいなければ、ハルがそのように決断したかは分からない。これも、運命と言えば運命なのだろう。非常勤兵になった事でイヴに文句をつけられたが、ハルは後悔をしていないらしい。
ハルは講義が終了して二日後、自分の世界にあった魔法を、今居る世界の術と組み合わせて完成させた。そして、それを最大限に活かして動き出す。
彼はイヴが隊長への昇格試験に合格した日、着飾って二人だけの秘密の場所で待っていた事を知らない。何故なら、彼はその日以降そこへは行かなくなったからだ。
試験が終われば練習はもう必要ないとしか考えられない彼は、もう少し人の心について学ぶべきなのかもしれない。