4.話を聞かない女
聖都にある兵士用宿舎の廊下を、濃い体毛の男性が歩いていた。早朝でほとんど人がいない廊下には、彼の重い足音がよく響いている。
濃すぎて繋がった眉毛と、よく手入れがされている口髭を生やしたその男性は、マハ・ラルベ。色黒の肌と体毛に負けないほど濃い顔を持つ彼は、ハルと同じ部屋で講義を受けている異邦人達の中で、最も年齢が高い。そのせいもあってか、朝起きるのがかなり早い。彼の活動開始時間は日の出直後からだ。
武術家である彼は、起きてすぐに日課である稽古をする。その日々の積み重ねによって、彼は自分の力強い体を維持しているのだろう。
食堂で朝食を済ませた彼の向かっている先は、勿論講義を受ける為の部屋だ。
ごつごつとした手で扉を押し開いたマハは、室内を軽く一望して少しだけ笑う。それは、彼よりも早く部屋へ到着していた者に気付いたからだ。一番乗りではない事を悔しがるほど、彼は心が狭くないのだろう。
「今日も早いな」
足を組んでノートを読んでいたハルは、自分の前の席に座ろうとしているマハに顔を向ける。
「おはようございます」
施設で育ったハルは、幼い頃から規則正しい生活を叩きこまれていた。毎日、ほぼ決まった時間に寝て起きている。
「うん。おはよう」
ハル達が講義を受け始めて三日目。マハがハルの近くに座り始めたのは、前日からだ。彼はハルの隙の少ない所作に、初日から目をつけていた。
席についたマハは、ハルに顔を向けずに声を掛ける。
「見た所、君もスポーツか格闘技をしていたんだろう? よければ、朝の運動を一緒にどうだ?」
ハルはノートの文字を目で追いながら、今度は顔も上げずに口を開く。
「遠慮させて頂きます。朝は体が硬い。貴方のように慣れているなら別でしょうが、私では怪我をするのがおちです」
「そうか」
明確な理由付きのはっきりとした返事に、マハは了解の言葉を返すしかなかった。
彼は、ハルが嘘をついたとは思ってもいないようだ。軍隊式ともいえる環境に慣れているハルは、朝から体を動かす事に何の支障もきたさない。
だが、朝を収集した情報の整理にあてようと決めている為、何の躊躇もなく嘘をついた。嘘をつき慣れているハルは、顔色が全く変化しない。
元々口数の多くないマハは、それ以上無理にハルへ話し掛けようとはしないようだ。目蓋を閉じて呼吸を整え、自席で精神統一をし始める。それも、彼にとって修練の一部なのだろう。
(自由と平和か……どこの合衆国だよ。しかし、危うい国だよなぁ……。ここって)
町の名前としてだけ残った、ゼノビアの前身であるハルベリア国最後の王は、酷い圧政を敷いた。その為、ハルベリア騎士団長だったゼノビアの前王によって、一族もろとも追い出されている。
(王だけでなく、大臣や……政に関わった奴等全員、国外追放か……)
軍の反乱によって作られたゼノビアは、元騎士達が国のトップになった。ある意味で軍主体の国家ともいえる。
それだけを聞くと、騎士達が王族に変わって力で国を支配したようにも取れるが、実際は全くの逆だ。彼等は国民を第一に考えて、行動し続けていた。
ゼノビア国民達を縛るのは法だけで、それさえ守れば自由に生きられる。それも、その法はハルベリア国時代に定められた法から、必要ないと判断した半分以上の事項を消しただけの代物で、本当に最低限と言っていい。
(白黒はっきりしてるのはいいが、やり過ぎだ。これじゃ、政治を分かってる奴が残らないじゃないか……)
騎士とは弱き者の為にという信念を、前王は死ぬまで貫き通した。その為、全国民から慕われ、死後偶像化されつつあるほどだ。
しかし、前王に政治的な手腕はほぼなかったのだろうと、ハルは予想している。現在の国王も同じらしいが、一年の半分以上を戦場で過ごしているのだ。
(こんな……王が砦から砦を移動して戦い続ける国なんて、聞いた事もないぞ)
ハルベリアから見て南には比較的穏やかで平和な集落が多く、前王の反乱に手を貸してゼノビアの一部となっている。ハルベリア兵が各集落の依頼で護衛等に出向くのは、同じ国だからというより建国時に手を貸した見返りに近い。
南とは正反対に、ハルベリアの北と西には敵対する国家や相容れない集落が多い。ほとんどが小競り合い程度だが揉め事が絶えず、軍の七割を率いたゼノビア王が直接対応している。
(前王の没は、七十二歳。死ぬ三年前まで戦場に出続けるって……偉いとは思うけど、馬鹿なのか? 三十年以上王だったくせに、自分で法律の改定もろくにしてないじゃないか)
この王不在が続く国は、いつ潰れてもおかしくないように思えるが、国民達の優しさによって成り立っていた。自分達の為に身を粉にする王を見て、国民達は自らすすんで税を納め、暗黙のルールまで作って国を支えている。
国民と王が本当に手を取り合っている、軍と民しかない自由の国ゼノビア。ある角度から見れば理想的国家だが、ハルの危ういという意見に頷く者も少なくないだろう。
(王族……貴族の戦場に出ない女達が、異邦人の持ち込んだ知識で頑張ってるみたいだが……。福祉なんかが不安定過ぎるぞ、この国)
ノートを机に置いたハルは、大きく息を吐いた。その瞳には、明確な不安が宿っている。
兵士達や住民からの聞き込みにより、ハルはゼノビアが周辺で一番生きやすい国だと認識した。その為、元の世界に戻る術を他国に探しに行くにしろ、ゼノビアを起点にしようと決めている。
その起点にしようとする国がどう見ても危ういのだから、彼が浮かない顔をするのも当然だろう。
(出来て間もない国……ってほどは新しくないしなぁ。はぁ……うっ! きやがった)
おどおどと俯き気味で入室してきたのは、波打った髪が特徴的な女性、アニー・ブルック。ハルはマハだけでなく、彼女にも目をつけられている。人当たりの良さそうな雰囲気をハルが出していると、彼女なりに感じ取ったのだろう。
(もう、あいつ嫌だ。なんか……嫌だ)
大事そうに両腕で抱えたバッグで自分の顔を半分隠しているアニーは、部屋に入ると立ち止まったまま眼球を左右に激しく動かしている。
「あの……悪いが……」
出入り口で立ち止まって動かないアニーに、入室したいらしい男性が声を掛けた。それに驚いたらしいアニーは奇声を発した後、部屋の隅まで素早く逃げる。
「いひぃ! あ……ああ……あの……ご……ごめ……ごめん。うん。ごめん」
アニーは、必要ないと思える場面で極端にゆっくり動いたり固まったりするだけでなく、奇声を発して突然早く動きだす。独り言を呟き続ける事も少なくない挙動不審な彼女は、三日目にしてすでに皆から距離を置かれ始めている。
ハルも初日の恐怖からそうしたいらしいが、刺されそうだという理由で我慢していた。それを彼女から受け入れられたと捉えられている事に、ハルは気付かない。
「え……えふふっ……えふふふふっ。おは……おはよう。えふっ。あの……あのね。あの……えっとね。あの……あのね。あのね。あのね」
(どもるのはいいとしても……。何回あのねを言うつもりだ)
ハルの隣の席に座ったアニーは当然のように服を掴み、バッグを持ったまま会話を始めようとしていた。眉間に皺を作っているハルは、顔を向けないどころか返事もしない。
「まっ……また。また……あの……出掛けた。うん。出掛けたよね。うん。あっ! あ……あ、あ、昨日ね。昨日。ふぅぅぅぅ……」
(なんかよく分からんが、焦るな。焦らなきゃ、普通に喋れるんだから。てか、まとめてから喋れ)
会話の途中でいきなり深呼吸を始めたアニーの言葉を、ハルは聞き流す。彼にはどう返事をしていいのかが分からないのだろう。
「わた……私。私は……寂しいって、言いました。聞こえませんでしたか。うん……聞こえたはず。えと……私……寂しがり屋じゃないですか。だから……」
(いや。知らないです。てか、俺の返事待とうとしないよね)
アニーの発する問いかけらしき言葉は、何故か自己完結されている。ハルは溜息を吐きだし、話が聞こえたマハは少しだけ口角を上げる。
「えと、あの。それが言いたかっただけ……です。はい。あ、あの、あのですね。実は昨日……私、面白い夢を見たんです。あのですね……」
(かわいい顔してんのに……。この子の過去に何があったんだ? まあ、興味ないし、あんまり聞きたくないけど)
「その話は……長くなりますか?」
他人の夢の話など聞いて面白かったためしのないハルは、仕方なくアニーに声を掛ける。
「えっ? あ……ああ。うん。ちょ……ちょっとだけ……ですけど」
顔を驚いた表情、笑顔、また驚いた表情と素早く変化させながら、アニーはハルに返事をした。
「なら、今回は遠慮しておきます。情報整理をした……」
「あの……あの……あのね。あの……私がね。ですね。あの……森の中に……えと、小さくなって……えぇぇっと。森の中にいてですね」
(どうしよう。会話が成り立たないっていうか、会話する気がない)
両目を強く閉じて眉間を強く指でつまんだハルは、息を吐いてから情報整理に戻る。アニーの言葉は、全て聞き流すと決めたのだろう。
「魔獣はあまり人前に出てきませんし、人間を積極的に襲おうとはしません。ですが、こちらから近付き過ぎると攻撃してくることもあります。えと、つまり野生動物と同じような物ですね」
アルバートの講義が始まって二時間後、ハルは鉛筆を走らせていた手を止める。講義とは関係ない事に、疑問を抱いたからだ。
「妖魔は様々な動物が変質したのですが、魔獣もその一部と考えられています。妖魔だけを捕食する事から、自然界の仕組みの一部として生まれたという説が有力で……」
「あぁぁぁ……。たりぃぃぃ」
兵士に無理矢理買わせた新しい服を着ている元学生三人の行動を、ハルは理解できない。
「マジだりぃぃぃ」
短髪の男は机に突っ伏して不満を呟き、女は気怠そうに自分の髪を弄び、長髪の男は窓の外を眺め続けていた。アルバートの話を三人は、全く聞いていないようだ。
(基本が終わった三日目からの講義は、出席自由。それに支援金も、講義を受ける受けないに関わらず貰えるのに……。何故、聞きもしない講義に出てるんだ?)
まともに学校へ通わせてもらえなかったハルに、学生の心理が読み解けないのは当然だろう。
彼ら三人は、敷かれたレールを大きく逸脱するほどの度胸を持ち合わせていない。
だが、何かに反発したいという気持ちは、人一倍強いのだ。それが講義に出席しつつも、話を聞かないという中途半端な態度で現れている。
「年を経た妖魔……後、魔獣もですね。術を使える場合があります。正直、人間が単独で戦える相手ではありません。基本的には……」
(わざわざ聞こうとは思わんが、訳の分からない奴等だ)
髪の短い男の、不真面目な自分が格好いいという感情など、ハルに理解しろと言う方が無茶なのかもしれない。
(よくそんなに眠れるよなぁ。もういいや。考えても分からない事は、考えない)
午後からの講義は術に関してのもので、学生達は元居た世界で習っており、聞く必要がない情報だ。ただ、三人が午後を寝て過ごしているのは初日からであり、講義の内容が別だったとしても同じなのだろう。
「術に必要なのは、大きく三つ。精神力、体力、生命力その物である精です。細かく分けると精神はイメージを固める事や、意志の強さになるのですが……。まあ、そこまでは考える必要がありません。知識も、術や道具を開発する者だけに必要なもので……」
(術式を書き込んだ道具か。精の結晶があるおかげだろうが、便利だよなぁ)
ノートを取りながら、ハルは自分の世界で学ばされた魔法について思い出す。深い知識と魔法に耐えられる体力を身に付け、必死で祈り続けて初めて魔法は成功すると、ハルの世界では考えられていた。
「体力、精神力は鍛えられます。ですが、精の量は生まれつき決まっていて、増やせないんです。あ、安心してください。昨日の測定で、極端に低い人はいませんでしたから」
妖魔と人が戦うには、肉体強化や攻撃の術が必要になる。その為、ごく稀にいる極端に精が少ない者は、術士だけでなく兵士にも向かない。
ハル達は専用の器具で、前日に精の量を測定し終えている。結果として、ハルの数値はごく普通の平均値並だった。もう少し正確には、中の下。低すぎはしないが、兵士にはなれても精を大量に使う術士には向かない程度の素質しかない。
測定後、中の上と出た学生達に馬鹿にされたが、ハルはあまり気にしていない。才能がないといわれ慣れているからだ。
学業だけでなく格闘術を含めた運動技能を、ハルは幼い頃から教え込まれた。当然ながらハルは普通の学生達よりは優秀で、並みの兵士と同じだけの動きは出来る。それでも、どれも特出するに至っていない。
特出した者を作り出したい組織にいた彼が、精神的に強くなったのは、そうならなければ生きられなかったからだろう。
「さて、ここまでで質問はありますか?」
(さっそくか)
人に教える事にまだ慣れていないアルバートは、ハルからのポイントポイントで確認するべきだという意見を、すぐに取り入れる。異邦人でありながら術士の長に選ばれた彼は、柔軟な思考を持つ優秀な人物なのだろう。
「次は……ないですね。では、ここで少し息抜きを」
アルバートは教卓の脇に置いておいた袋から、大きな黒い羽ペンと精の結晶を取り出す。
「このペンには、術式を書き込む用の術が仕込んであります。こうやって空中にも書けますし、結晶なんかには掘り込めるようになっています。興味があれば、私を訪ねて下さい」
アルバートは羽ペンの先を微弱に光らせて空中をなぞり、光の文字を浮かばせた。数秒でそれは消えてしまったが、精に書き込んだ側は光を失いながらも文字自体が消えない。
(術士は即席で術を組めるって言ってたが、あれを使ってか。なるほど)
「そろそろ休憩ですが、その前にちょっと余談を」
自分のいた世界での魔法について、アルバートは喋り出した。覚えなくてもいい話をして、皆に息抜きをさせようと考えたのだろう。
アルバートのいた世界には目に見える形で神や精霊がおり、それらの力を借りて魔法を使っていたらしい。
「この世界では使えませんが、精霊を呼び出して使役する事を召喚術といって……」
(やっぱり、他でもそうだよな。ここでだけ使えないって事はないんじゃないか?)
元の世界で神や悪魔の力を借りて起こす奇跡が魔法と教えられていたハルは、今居る世界での術の在り方に疑問を持っている。生贄という代償を払って、異形の力を借りるのも魔法と呼べる力だ。その時のハルは、まだ生贄の代替えになる物を思いつけていない。
彼が、アルバートのペンに仕込まれた術式を会得するのはそれから二日後で、精の結晶を取り込む術式をくみ上げるのは更に二日後。まだ先の話だ。
講義が終了し、自室へと戻ったハルは、いつもの様に学生達から少しだけ遅れて宿舎を出て行く。アニーに絡まれたくないというのもあるが、一番の目的は情報収集だ。
(製造も出来るし、他の集落から買ってるのか。酒は豊富だな。やっぱり、商売に繋がりそうなのは香辛料か?)
聖都に住む人々は、食事の味付けを食材本来の物か塩だけで済ませている。異邦人によってもたらされた砂糖の製造方法も、あまり行き渡っていない。情報収集の結果、そこにハルは着目した。あまり流通していない物を仕入れて売るのが、手堅いだろうと考えての事らしい。
妖魔と単独で戦えるだけの力をハルは求めているが、兵士といった戦う事をメインにする職には就くたくないようだ。元の世界に帰る方法を探すには時間が必要だろうと考え、その間に死なないような危険の少ない生活基盤を探しているらしい。
(でもなぁ。他地区に仕入れに行くと、兵士や傭兵雇わないと駄目だしなぁ。一人なら、結局兵士の方が安全か? でもなぁ)
回る予定だった場所を全て回り終えたハルは、露店で食事を済ませる。そして、農耕地帯がある町の東へ、あれこれと悩みながら向かった。彼が脇に抱えているのは、兵士が練習で使う木剣と棍だ。
畑と畑に挟まれている林の中では、今日も気合の入った女性の声が響いている。
(ったく……。俺の話分かってんのかねぇ? このねぇちゃんは)
気配を消して林の中に入ったハルは、棍を懸命に振るイヴを見ながら目を細めていた。彼が彼女に話し掛けたのは前日の夜だ。その日も彼女は、その森で一人訓練をしていた。
(まあ、眺めてても仕方ないか)
ハルはわざと地面の枯れ枝を踏み折り、持っていた棍と木剣の先をぶつける。自分に全く気付かないイヴを、驚かせないようにハルは気を遣ったのだ。
「あ……っと。今日も来たか」
物音でハルに気が付いたイヴは、笑顔を向けそうになったのが恥ずかしいらしく、一度俯いて真剣な顔を作る。ハルはイヴの表情筋がひくついている事に気付いているが、話題には上げない。
「昨日いった通りです。私も体を動かしたいので来ました」
食事後の休憩を使って兵士達に聞き込みをしたハルは、大よそではあるがイヴの事情を認識できている。イヴは隊長昇格の試験を一週間後に控えており、秘密特訓をしているのだ。それを彼女が秘密にしているのは、不安から訓練に逃げたのを他の者に知られたくないのだろうと、ハルは正確に推測できている。
「では、さっそく始めるか! うん? どうした?」
棍の先を自分に向けたイヴに対して、ハルは首を横に振った。そして、ゆっくりとなだめる様な口調でイヴに説明を始める。
「いいですか? 体をいじめても、筋力や体力が実際に上がるのはかなり後です。貴女が今するべきなのは、休養を取りつつ軽い運動をする事です。それ以上は、試験当日に悪影響を与えます。昨日も言いましたが、疲労が残るんですよ」
怒られた子供のように顔をしかめていたイヴだが、すぐに眼光が強くなり口を開く。
「だがっ! 私は……」
「はい。分かってます。ですから、私が昨日と同じで小手先の技を見せますから、軽く練習しましょう。それも努力の別の形です」
相手の不安を認識できているハルは、特殊部隊にいた退役軍人から仕込まれた技をイヴに教えていく。現地に落ちている鉄パイプや木の棒を利用しろと言った、その元軍人がハルに教えた技は純粋な槍術とは少し違う。棍術や杖術の技術も取り入れられており、変則的な動きも多い。
ハルは彼女の運動量を減らしながらも、達成感を持たせようとしていた。そして、基本が出来ているイヴにちょっとしたコツを教える事で、技の幅も広がるだろうと考えている。
そんなハルの一番の目的は、体を動かす事などではない。現在騎士団長を務めるミラーズ家当主を父に持つイヴへ恩を売る事で、今後何か利益に繋がるだろうと打算的に考えているのだ。女性に対してかなり奥手なハルだが、利益が絡むとそうではないらしく、自分から話しかけたりもする。
少々男勝りではあるが、純粋なイヴはその事に気が付いていない。ハルが善意で自分に付き合っていると本気で思っているようだ。
「ほっと」
ハルはイヴの突き出した棍を弾き、その反動を利用して自分の持つ棍を一回転させた。
(おっと、怪我をさせないように……っと)
「と……まあ、こんな感じです。本物の槍ならこっちに刃はありません。ですが、牽制にはなりますし、打撃のダメージも与えられます」
回転の勢いを殺しながら、相手の棍を弾いたのとは反対側の先をイヴの首筋につけ、ハルは一度構えを解く。
「なるほど……。妖魔相手では無理でも、敵兵士相手なら使えるか」
「はい。まあ、その場しのぎの小手先ですけどね。戦いは有利に進めるに越した事はないですから」
今ハルがイヴに教えているのは、剛ではなく柔の技だ。攻撃の芯を外させる事でいなし、相手の力を利用して反撃につなげる。常に相手を欺こうとするハルは、実より虚の技を得意としているのだろう。
「なるほど! これはカウンターになる訳だな? よし! 試させてくれ」
「あ……ちょっと、待って下さい」
それまでと種類が違う新たな技を見せられたイヴは、早く試したいのか鼻息を荒くして棍を構える。それに対して、羽虫の群れにたかられたハルは、手で顔付近を払う為に構えを解いた。
「がっ! あ……があぁ……」
気を抜いていたハルは、イヴが突き出した棍に全く対応できなかった。結果、側頭部と腹部に強い衝撃を受けて、倒れ込む。
「えっ? あ……よしっ! どうだ! 私の飲み込みも悪くないだろう? ふふふっ」
それまで本気で打ち込んでも、逃げに徹していたハルに棍を全て捌かれており、イヴは今回も当たらないだろうと思い込んでいた。それが今回直撃した為、爽快感から笑顔を作る。どうやら彼女は、ハルが敢えて当たってくれたと勘違いしているらしい。
(話……聞けよ! アホ女! てか、カウンターは自分から手を出す技じゃないんだよ! 最悪だ!)
笑顔の女性に見下ろされたまま苦しむハル。彼は気を抜いた自分ではなく、相手の膂力へ怒りを向ける。
「さあ、もう一本だ。うん? どうしたんだ? はやくしろ」
(立てるかっ! くそっ! お前、しくじると俺より力あるじゃないかよっ! この……ゴリラ女!)
喉の奥から逆流してくる酸味に耐えながら、ハルは倒れたまま笑顔のイヴを少しだけ睨む。それが今の彼に出来る、最大限の意思表示なのだろう。
月とランタンの淡い光に照らされた二人だけの秘密特訓は、それからもうしばらくだけ続く。