3.闇から手を伸ばす者
数時間ほど続いた術の実技講習が終了し、ハル達は元の室内へと戻ってきていた。
先程と同じ席に座って腕を組んでいるハルの目は、真剣そのものだ。アルバートからの情報を、全て記憶しようとしているのだろう。
ハルは少し特異な思考をする事もあるが、頭の回転は悪くない。多くの情報を早く得る事で、以降の展開が楽になるとは考えられていた。
「町の東に広がるのが……。えぇ……この範囲ですね。これが、農耕地帯です。後……あ、家畜もここで育てています」
手元で開いていた本から顔を上げたアルバートは、兵士達に再び広げさせた町全体の地図を指さす。そこで初めて、彼は室内を包む空気に気が付いた。ハルを含む数人以外は、皆睡魔に負けてしまっているのだ。
術を行使すると体内の精を消費する為、運動後のような疲労感を覚える。その上で暖かな室内。部屋を吹き抜ける心地の良い乾いた風。アルバートの穏やかで単調な喋り。集中していなければ、眠くもなるだろう。
「しまった……。実技は最後にするべきでした……」
肩を落として息を吐いたアルバートは、寝てしまった者達ではなく自分を責める。それは、自信の無さがそうさせたのだろう。
(講師役は初めてだって言ってたし……。まだ、書いてある事を読むだけで精一杯ってところか)
アルバートが兵士達と小声で相談を始めた為、ハルは周囲へと視線を向ける。寝ている者の半分がすでに、机に突っ伏していた。
ハルの服を掴み続けていた女性は突っ伏してはいないが、頭をこっくりこっくりと上下に揺らしている。意識はかなり前からない。
(おまっ! 凄いな……)
髪の短い男が発しているいびきを聞いて、学生三人に目を向けた所でハルは両目を見開く。驚きから、組んでいた腕もほどけていた。
(特技なのか? なんか不気味だな)
ハルが驚かされたのは、いびきをかいている男にでも、涎を垂らしている学生服の女にでもない。学生服を着た長髪の男が、両目を開いたままなのだ。その男は座ったまま体を斜めに傾けており、眠っているのは間違いないが目蓋を閉じていなかった。
(まあ、あいつらは元々真面目って感じじゃなかったしな……)
その眠っている学生三人は、術の行使に慣れている。本来は、大した疲労感もないはずだ。
しかし、いちいち騒ぐ周囲の反応が嬉しかったのだろうが、必要以上に術を使い過ぎた。それでは疲れて当然だ。三人のせいで使い物にならなくなった杭は、二十本以上。数回試しただけに留めたハルの方が、その三人より疲れていないのだろう。
「はいっ! では、少し休憩にしましょう」
本を勢いよく閉じた音と、アルバートの声で眠っていた者のほとんどが目を覚ました。疲れていたとはいえ、慣れない環境で眠りが浅かったのだろう。眠り続けているのは、学生三人だけだ。
(おっと)
目を覚ました隣の女性が手を伸ばしてきた為、ハルはそれを躱すように立ち上がる。そして、洗面所へと向かった。
(駄目だな。まだ、情報が不足し過ぎていて、どう動いていいかも考えつかん)
用を済ませたハルは、桶に汲んであった水で手を洗うと廊下へと出た。
(ガラスはある……が、鏡はあるのか? 術で何が出来るかで、売れる情報も違うよな。うん? またか)
言葉の通じない異邦人達のいる部屋では、何かをわめきたてる男女が兵士達に押さえつけられている。扉の小窓からその光景を見たハルは、呆れたように鼻から息を吐いた。
「言葉って大事なんですよ。同僚も、苦労したと酒を飲むたびに言っています」
そのハルに声をかけたのはアルバートだ。
「私も異邦人ですが、運よく魔ほ……術も言葉も困りませんでした」
(へぇ。あの学生共と一緒で、一番恵まれてたわけね)
口にも顔にも出さない為、アルバートは気付かないが、ハルは人の言葉を素直には捉えない。人の良さそうな顔とは、正反対な性格をしているといえるかもしれない。
「残してきた家族もいて、ここに馴染むのには時間が必要でした。皆さんの気持ちは、一番よく分かっているつもりです。ですので、講師に名乗り出たのですが……まだまだで」
(そんな事、初対面の俺に打ち明けるなよ。お前よりも俺の方が訳分かんねぇし、不安だよ)
比較的根に持つ性格のハルは、理由が分かっていながらも槍を向けられた事を忘れようとはしない。
「あ、あの後ろの黒いローブの男性が同僚なんです。彼は元々言葉が通じなかったので、同じ世界の者がいた場合の通訳として……」
三十人以上の言葉が通じない異邦人。彼等のいる部屋には、元言葉が分からなかった異邦人と兵士が大勢待機している。その兵士達の多くは、体格がいい。腕の立つものがその部屋に集められたのは、必然なのだろう。
「あ、そういえば。これ。どうぞ」
(製紙技術はそこそこあると思ってたが、鉛筆も作れるのか。なるほど……)
自分に返事をしないハルに対して、アルバートは抱えていたノートの一冊と何本かの鉛筆を渡す。実技終了後、ハルがアルバートに要求していたのだ。
「どうも」
「では、戻りましょうか」
アルバートに続いて、鉛筆の精度を確認しながらハルも部屋へと戻っていく。
(勘弁してくれねぇかなぁ)
部屋にハルが入ると、それまで落ち着きなく左右を見回していた女性が笑顔を作る。その女性は、ハルが座ると同時に当たり前のように服を掴んだ。
彼女はけして不細工と呼ばれる類の女性ではない。むしろ、可愛いと思う男性の方が多いだろう。それでも、笑顔にあまり魅力がなかった。ハルはそれを、笑い慣れていないせいだろうと見抜いている。
(この手の暗い子って、あまり下手に刺激しない方が良いんだよなぁ。経験上……)
どうしても手を離せと言えなかったハルは、自分に言い訳をした。表情はいつの間にか渋くなっている。
「おや? ふふっ」
兵士達と一緒にノートと鉛筆を各机に配っていたアルバートは、ハルを掴んでいる女性に気付いて笑う。彼は何かを勘違いしたのだろう。
「他にも打ち解けている人が増えてくれました。雰囲気も良くなりますし……。こちらとしては、嬉しいですね」
実技講習中に喋れる程度になっている者達がいた。その事に自分も今気付いたと、わざわざアルバートはハルに耳打ちする。
(知らん)
アルバートは真面目に話を聞き、術がすぐに行使できたハルを気に入ったらしい。その為、仲良くなろうと考えて歩み寄ろうとしている。ハルの気持ちを読み取らずにではあるが。
「おいおい、あれ。こんなとこまで来て優等生してるよ。よくやるよなぁ」
「もう、取り入ってるし、必死過ぎよねぇ。キモ過ぎぃ」
周囲のおしゃべりのせいで目を覚ましていた学生のうち二人が、聞えよがしにハルを煽る。ハルがアルバートに気に入られたのが、彼等は気に入らないようだ。
「それに、これ言い出したのもあいつだろ? だっせぇ。全部覚えられないのかっつう話だよ」
髪の短い男が、乱暴にノートを机に放り投げる。そして、ハルに見下すような目線を向けてにやにやと笑った。
(ああ、もう。あっちも面倒くせぇ。絡んでくるなよ)
息を吐き出したハルは、学生達の方へとは視線を向けない。気分はよくないのだろうが、むやみに暴れて情報収集が遅れるのは嬉しくないと我慢した。
「へっ。だっせぇ」
反応しないハルを見て、何故か優越感のある笑みを浮かべた男は、床につばを吐き捨てた。
ハルの前で溜息を吐いたアルバートは、そのまま教壇へと戻っていく。自分が介入するのは余計に揉めると、彼なりに考えたのだろう。
「ほぉ……」
小物を相手にしても何の理もないと静しい顔のハルを、最年長の異邦人である男性が見つめていた。武術家であるその四十代の男性は、何かを理解したのだろう。
「さてっ! えぇぇ……次は、この国の政治的な仕組みです。この国は昔、今とは別の王族が支配していました。その王族達は圧政と重税をしいて、奴隷制度を作り……」
ハルは、他人の事など気にする余裕がないと割り切った。そして、アルバートの説明を聞きつつ、それまでに得ていた情報をノートへと書き込んでいく。
(化石燃料は、石炭と泥炭までで採掘量は多くない。動力のほとんどが、術っと……。あ、蒸気機関はあるんだったな)
興味をひかれてハルのノートを覗き込んだ隣の男性は、眉を歪めた。喋る言葉は一緒だが、彼が使う文字とハルの使う文字はかなり違っている。その為、ノートの文字が記号のようにしか見えないのだ。
「それを、隣国の長や異邦人の協力で追い出したのが今の王族です。それに協力した……えぇぇ……八人の騎士には貴族の位が与えられました。あ、ここ間違えてるな。今は、分家したり滅びたりで確か……十二じゃなくて十一ですね」
鉛筆を走らせていたハルの手が止まる。その目は、かなり細くなっていた。
(頼りなさすぎるぞ。お前)
頭を掻きながら幾度か溜息をついたハルは、再び鉛筆を握る。その日幾度目になるかも分からない、仕方ないという言葉を心の中で呟いたらしい。
時間経過とともに頭上にあった太陽が、地平線へ向かって落ちていく。それに伴って赤く変わった日の光に気が付いたアルバートは、講義を中断する。
「奴隷制度がなくなっても、どうしても社会格差は消えません。南には、今でも生活水準の低い人達が多く住んでいます。敵が攻めてくる北に貴族兼騎士が所有地を持っていますので、そこから……おっと。今日はここまでですね」
アルバートにつられて開け放たれている窓の外へ目を向けたハルは、大きく息を吐いた。手元のノートには、知り得た全ての事が書き込まれている。
「今から、抗議が終わってからの事を説明しますね。後、今から配る用紙に皆さんの名前等々を記入して頂きます」
(よく考えると、その身元確認って先にやった方が良いんじゃないの? 逃げる奴もいるんだろ?)
アルバートの助手である兵士から、ハルはナンバリングされている用紙を受けとった。そして、名前や生年月日だけでなく元居た世界の情報を書き込んでいく。
(科学水準の説明って、これだけで分かるのか? まあ、いいか。魔物? いませんよ。いたら怖すぎるだろ。せいぜい熊やライオンがいい所だ)
「ハル……さんか……ふふっ」
隣の女性に覗きこまれたハルは、眉間に深いしわが出来た。彼女はハルの名前を見て、自分が名乗るでもなく呟いた。その自己完結な言葉と構って欲しいオーラが、ハルに心の壁を作らせる。
十七才の正常な男性であるハルは、異性への興味が多分にある。だからと言って、見境がないわけではない。
「あれ? お前……。それ良いな」
「でしょ? 前から、この名前にしたかったのよねぇ」
隣からの視線を避けようと顔を逸らしたハルの耳に、学生達のひそひそ話が届いた。
(誤情報書くなよ。変な名前にすると、後で困るぞ? はぁ……どこの世界でも、人間関係って面倒なんだなぁ。やだやだ)
ハルが首を左右に振っていると、兵士が用紙を回収し始める。その兵士達は、用紙を回収するだけでなく各机へ、布の小袋を置いた。その置かれた音で、中身が金属だと推測できる。
「皆さんには、一週間ごとに雑費としてお金をお渡しします。ただ、慣れない間は外出時に誰か兵士を連れて出て下さい。些細な事でトラブルになるかも知れませんので」
小袋の中に入ったコインを数えながら、ハルは仮の住まいについて話を聞く。異邦人用の宿舎は別に作られているらしいが、しばらくは設備の整った今居る兵士用宿舎に住むことになる。
「食堂に使用人さん達がいる間は、何時でも無償で食事を出してもらえますので。後、入浴と水浴びも毎日できます。場所は……」
(まあ、兵士の宿舎ならトラブル時に、すぐ対応出来るだろうしな。それなりに色々ご苦労なこって)
アルバートは、番号のふられた用紙を全て確認する。そして、文字の読めなかった者だけに口頭で確認を行った。
「この情報を元に、皆さんにはこの身分証を発行します。大体、三日ぐらいで出来ますので、出来次第配りますね」
(ドッグタグ? あれも、異邦人が持ってきた情報からか?)
アルバートが首から下げていた金属のプレートを皆に見せ、その日は終了となる。各人が担当の兵士に連れられて、あてがわれた個室に向かった。
しばらくの仮住まいとなる狭い部屋には、木の机と簡素なベッドだけがあった。そのベッドに座ったハルは、腕組みをして頭と心を整理する。
異世界に来たのは、まごうことなき現実だ。受け入れるしかない。
だが、頭で分かっていても心が受け入れるには、アルバートの言っていた通り時間が必要だ。ハルのように大事な存在が元の世界にいる者は、より多くの時間が必要になるだろう。
(魔法がある世界で百年かけても、見つかってない……か。やっぱ、帰れないんだろうなぁ)
目を閉じて繰り返し重い息を吐き出していたハルは、周囲がかなり薄暗くなってから立ち上がった。机の上には持ち運びできるランタンと、ろうそくが置いてある。
(火打石? 使えない。使い方が分かんない。こっちは、火を出す魔法の道具か。こっちでいいな)
それは虫の知らせだったのだろう。ハルの背筋に、鳥肌が立つ。勿論、寒さが原因ではない。
(さて……ろうそ……いやっ! 俺の中の何かが、逃げろと囁いてくる。うん。逃げよう)
ハルはろうそくに火をつけようとしたが、それを止めて油の入ったランタンを持ち、火を発生させる道具をザックにしまった。そして、そのまま部屋を出る。
野性的なハルの勘は、的中した。それから五分もしないうちに、例の服を掴んでいた女性がハルの部屋をノックしたのだ。部屋に残っていれば、彼の心労は増えていただろう。
点々と明かりのつけられた廊下を、ハルは出口へと向かって一人で歩く。外出時に声を掛けてほしいと言った担当兵士の部屋番号は覚えているが、ハルは一人になりたかったのだ。訓練や仕事を終えて宿舎に帰ってきた兵士達は、自分達の事に手いっぱいでそのハルに注意を向けない。
「ああ? なんだよそれ?」
「いえ……その……自分、今あんまりお金がなくて」
玄関に差し掛かったところで、ハルは足を止めた。聞き覚えのある声が耳に届いたからだ。
「ええっ? 男が一回言った事守んないわけぇ? へぇ……あんたって、そうなんだぁ。へぇ」
学生三人組が、気の弱そうな若い兵士を囲んでいる。髪の短い男に肩を組まれ、女性にしなだれかかられているその兵士は、おろおろと狼狽えていた。
「あんまだせぇ事すんなよ。な? 分かんだろ?」
割り振られた部屋に案内される途中で、学生服を着た女性は担当兵士の手を握って意味ありげに話し掛ける。その女性からの要求は、食堂の料理が口に合わないので外へ食事に連れて行ってほしいという物だった。
「うんうん。ね? お願い」
女性の担当となったその兵士は、女性への免疫が余りない。その為、甘えるような声と仕草の女性を前に舞い上がった。兵士が下心から口にしたご馳走するという言葉は、見事なまでに利用されている。彼は残り二人の男性がその女性とセットになっていると、考えられなかったのだろう。
「こ……今回だけですからね……」
「よし! 決まり! 早く行こうぜ!」
髪の長い男と腕を組んだ女性を悲しそうに見つめる兵士は、髪の短い男に引き摺られるように宿舎を出て行く。
(あれはカモられるな。多分……一回じゃすまない)
柱の陰に隠れていたハルは、呆れたように息を吐いて自分も外へ向かう。
明かりを灯したランタンを握るハルは、橋を越えて舗装されていない道を進んでいく。彼の予想通り、異邦人を見慣れている住民はハルの服装を気にも留めない。
(あのチェスに似たボードゲーム……。どこかで見たな)
「おっ? なんだ、兄ちゃん? 一局勝負するか? 自信があるなら、賭けてもいいぞ?」
すのこに座ってボードを囲んでいた中年男性の一人が、ハルに勝負を持ちかける。それをハルは遠慮すると軽くかわして、露店の並ぶ通りへと向かった。
(おっ。あれにしよう)
言葉に困らないハルは、落ち着いて行動する事で周囲に溶け込む。誰も、彼がその日来たばかりの異邦人だとは思っていないようだ。
「一つ……あ、二つ下さい」
他の者が購入したのを見てから、露店の櫛にさして焼かれた肉と、隣の店に置いてあるパンをハルは購入する。他の者を観察してからにしたのは、買い方を覚えて値段を誤魔化されないようにする為だ。
「はぁ……」
歩きながら食事を終えたハルは、木の櫛を投げ捨てる。彼は町を見て回る事で、より多くの情報を得ようとしていた。
しかし、その日は気力が尽きてしまう。純粋な疲労もあるようだが、帰れないという現実が心に重くのしかかったのだ。人に弱みを見せたくないハルは、一人になって初めて本心が顔に出たらしい。気持ちがどんどん暗くなっていくハルは、俯いて歩く。そのハルの足は、自然と人の少ない場所へと進み始める。
聖都の東にある広い農耕地帯には、ぽつぽつと明かりを窓から漏らす小屋がある。その中では、見張りをする兵士や住民達が酒を飲んで語り合っていた。
(まあ、この町が平和って事なんだろうな……)
扉の隙間から小屋の中を覗いたハルは、有事の際に動けないだろうと考えたが、わざわざ注意をしようなどとは考えない。自分の考えを押し付ければ、火種になりやすいと彼はよく理解しているのだろう。
「はぁ……」
畑と家畜小屋の間には、樹木が生い茂っている地帯がある。その中の林になっている場所へ入ったハルは、地面から突き出している岩に上った。腰を下ろしたハルを、前日よりも少しだけ欠けた月が照らす。
(ごめんな……。俺、約束守れなくなった。俺は……お前の……)
月を見て、ハルは大事な女性の顔を思い浮かべる。胸の痛みに顔を歪ませたハルは、月に向かって手を伸ばすが届くはずもない。それでも、熱くなった目頭から涙がこぼれ出さないようにこらえ、精一杯腕を伸ばす。母を求める、無力な幼子のように。
(ええいっ! くそっ!)
弱弱しくなっていたハルの眼光が、見る間に鋭くなっていった。伸ばした手は、もうすでに強く握られた拳へと変わっている。
(諦められるかっ! くそっ! そうだ! 諦めてたまるか! やってやるよ、くそったれがっ!)
月を掴もうとした彼のそれは、気持ちを切り替える為の儀式だったのだろう。元の世界への渇望を認識する事で、ハルは気力を回復させた。口角を上げたハルの頭が、再び高速回転を始める。
(今優先するべきは、ここで生きて帰り方を探す事だ。うん。この際仕方ない。いい物があるんだから、使わないと損だよな。くくっ……命令なんて知った事か)
ザックの隠されたポケットにしまってあった、ナックルガードのついた白いグローブをハルは取り出す。
(この盗んできた多重次元グローブに……。あの研究中の紋章……。こっちの技術を使えば、使い物になる可能性は高いな)
ハルがいたのは、科学の発展した魔法など空想でしかない世界だ。その世界に住む者の大多数が、宇宙人は信じても魔法の存在は信じていない。
だが、中には魔法や呪いと呼ばれる、古代の人間が使えたはずの力を信じ続ける者達がいた。
その者達は本気で目に見えないそれらを求め、自分達が魔法に出会う為だけに権力や金を手に入れる。ある国の国家予算を使って、その者達は非常識で極秘な組織を作った。そして、ハルはそこにいた人間なのだ。
(っとなると……。今までの実験やら訓練も、無駄じゃなかったって事か?)
ハルの元居た世界で、魔法の実験は一度も成功していない。それでも、ハルの中には世界中から集められた、膨大な怪しい知識が詰め込まれていた。
(運命? ははっ……悪い冗談だな、こりゃ)
目から鋭さを消したハルは、頭を掻きむしりながら笑う。彼が笑ったのは、自分自身の信じ難い現実と人生そのものだ。
「はあああぁぁぁ!」
(なっ……なんだ?)
気合の入った女性の声を聞いて、笑っていたハルは肩をびくりと反応させた。そして、岩から飛び降り、何かを打ち付ける音のする方向へとゆっくりと進む。
元の世界で訓練を受けていたハルは、風の流れまで計算しながら気配を消している。月明かりの元で木に向かって棍を振るう女性は、そのハルにかなり接近されても気が付かない。
「はっ! はああぁぁ!」
(あのねぇちゃん。何してるんだ? こんな時間に、こんな所で)
一心不乱に棍を振るうイヴは、鬼気迫る表情をしていた。林の中で訓練をするイヴを見て、ハルは首を傾げる。彼女は、宿舎の訓練場を使えばいいはずだ。それでも、そこにいるという事は人目を避けるなんらかの理由があるのだろう。
(ま、理由も分からないし……。邪魔しちゃ悪いな)
しばらくイヴを眺めていたハルだが、息を潜めたままその場を立ち去った。
それからしばらく、ハルは情報を集める為に町の中を歩いて回る。そして、ランタンの油が心もとなくなった所で、宿舎へと帰った。
(うわあぁぁ!)
そのあくびをしながら扉を開いた彼を迎えたのは、闇の中から伸ばされた手だった。
自室に入った瞬間、気を抜いた自分へ伸ばされた手を見て、ハルは水中にいるエビのように廊下の壁まで下がる。恐怖に顔をひきつらせたハルは、壁に背をつけたまま固まってしまう。
真っ暗な部屋の中からゆっくりと出てきたのは、茶色い波打った髪を持つ女性だ。青白い顔の彼女は、恨めしそうにハルを睨んでいる。
(な……なんなんだっ! こいつっ!)
心臓の上に手を置いて呼吸を整えるハルは、声も出せずにただただその女性を見つめ返した。
「ハルさん……。酷い。私がこんなに不安なのに……」
独り言のように呟いたその女性は、ふらふらと自分の部屋へと戻っていく。その背中を見つめていたハルの背中には、冷たい汗が大量に流れ出していた。
(やべぇ……。あいつ、やべぇ)
廊下に座り込んだハルは、恐怖でしばらくの休憩を要する。午前中自分を襲ってきた妖魔よりも、立ち去って行くその女性のほうが怖いとハルは感じているらしい。
異世界に来たのが運命ならば、その女性と知り合ったのもハルの運命なのだろう。人間の人生は、ままならない物だ。