6.袋叩きにあう男
乾いた風の吹く、大きな平原が広がっている。長い乾季のせいで、その平原に命の息吹はあまり感じられない。草のほとんどは枯れており、まばらに生えている木の枝には数えるほどしか葉が残っていない。
真っ直ぐに続くひび割れた地面は、川だったのだろう。干からびた藻や魚の骨らしき物が落ちていた。
その平原を見て、物悲しく感じる者もいるだろう。
だが、それはその平原が持つ一つの顔でしかなく、悲しむ必要などない。雨季が来れば、その平原も命で満ち溢れる。
植物達は種となって地中に潜っており、恵みの雨で再び地上に顔を出すだろう。乾季の間群で別の場所に移った動物達も、その草を求めて戻ってくるはずだ。
「へいっ! 毎度あり」
更にいえば、平原の一角にはどんな場所でも元気に活動する人間達が、かなりの数残って生活を営んでいた。平原の海に面した個所には、かなり大きなすり鉢状の湖がある。その平原を住家としている人の半数は家畜の群れとともに移動する遊牧生活をしているが、もう半分はその水を頼りに定住しているのだ。
「おっ、これいくら?」
海と交わっているその湖は、海側から離れれば離れるだけ塩分濃度が薄くなる。それに合わせて、魚等の湖に生きる生命は多様化した。種類だけでなく、数も豊富だ。定住している者達の多くは、湖での漁業を生業としている。
「このなめし皮と交換で……どう? 二つ? 三つにしてくれよ」
人々が住むその集落は、湖の海と反対側に作られていた。そちら側ならば、飲料水に使える淡水が容易に入手出来る。また、海からの妖魔がほとんど出現しない為、安全に過ごせるのだ。
「はい、はいっ! いらっしゃい! いらっしゃい!」
集落の簡素な建物が並ぶある区画は、前日から大勢の人で賑わっていた。その人々の目的は、市だ。日よけのテントとしてだけ作られている建物は、集落の住民が店として使っている。他所から来た行商人達は、地面に直接シートを広げて店としていた。
海での漁が難しくなったその世界では、湖で取れる魚にそれなりの価値が付く。それを求めていつの間にか、その集落には多方面から人が集まるようになった。そして、それに目をつけた商人達も集まって来た為、今ではおおよそ月に一度大きな市が開かれているのだ。
(くっそっ! 全然、空いてないっ!)
その市は許可さえ取れば、誰でも商売が出来る開かれた仕組みになっている。その為、買う者だけでなく売ろうとする者の数も多い。住民のように特定の場所が確保できない外来の商人達にとっては、場所確保からが戦いの始まりだ。特に今回は、その争いが激しい。
理由は簡単で、雨季が来る月だけは住民が忙しくなる為、市が開かれない。そのせいで、乾季最後の市には一年で一番人が集まるのだ。場所を取り損ねて商品を担いだままの商人が、悲しそうにうろついている場面も珍しくもない。
(あった、あった!)
乾燥して埃っぽい空気で喉を傷めないようにと、ハルは布を口元に巻く。そして、背負っていた荷物をおろし、道端に店の代わりになる布を広げた。寝坊して出遅れたハルだったが、区画内の端に空いた場所を見つけられたのだ。
(端だけど……。人通りもあるし、なんとかなるか)
市の中心部では様々な料理の屋台が並び、空腹を促す匂いが充満している。また、歌や踊りで金銭を得ようとしている者もおり、楽器の音色や歌声で賑やかだ。残念な事に、市の最端近くにしか陣取れなかったハルは、どちらも感じ取れない。
ただ、ハルは買う側ではなく売る側なので、それを残念とは考えていないようだ。用意した商品がどれだけ売れるかという事の方が、彼にとっては重要なのだろう。
(ふぅ。さてっと、始めますか)
商品と値段を書いた木札を並べ終えたハルは、膝を抱えて地面に直接座る。そして、客が来るのを待つ。
日よけとして帽子の代わりに布をかぶっているハルは、周囲に溶け込んでいる。集落の住民は皆、十九世紀中東風の恰好をしていた。今のハルは、ターバンを巻いたように見える為、現地住民だと言っても疑われないかもしれない。
ハルの前を様々な格好の人々が、通り過ぎていった。集落の住民である中東を思わせる服装の者を一番多く見かけるが、それ以外の者も多数いる。中華風の服装や、アロハシャツらしき物を着ている者までいた。遠い地区からも人が集まっているのだから、当然だろう。
人間だけでなく、飼い主に引かれた牛や羊等もハルの前を通り過ぎていく。木のかごに閉じ込められた大量の鳥を、馬車に積んで運ぶ商人なども目についた。
(まあ、確かに飽き難いけど。目の保養にはならんな)
集落の女性は、中東と同じで肌や髪をあまり露出させない。そして、他所からの女性達も日差しが強すぎるせいか、肌を隠している者が多かった。それが、ハルには不満らしい。
(もう暑いんなら、脱いじゃえよ)
ハルは、スタイルのいい黒人女性が、額の汗を拭きとるのを見つめていた。その視界を一人の男性が遮る。その日最初の客が来たのだ。
「いらっしゃいませ。ゆっくり見て行ってください」
口元の布を指で下げたハルは、目じりを下げて営業用の笑顔で客を迎えた。そのハルに対して、髭を生やしたインド系の男性は険しい顔をしている。
それもそのはずだ。ハルの販売している商品の多くが、胡散臭い物なのだ。
「これ……。本物か?」
木札を見ながら、客の男性は小瓶に入った液体を一つ手に取る。そして、訝しげな顔で眺めていた。
(本物だよ、この野郎)
「はい。全部本物ですよ。個人差はありますが、効果は保障できます」
黒い内面を一切表に出さないハルは、笑顔を崩さずに対応する。ハルの顔をじろりと睨んだ男性は、もう一度液体に目を向けた。どうやら、本物ならば買いたいと思っているようだ。それでも客の男性にとって安くない買い物であり、騙されたつもりで買おうとはならないのだろう。
(やっぱり、ブランド名とかないと信頼が足りないか)
医療の法案などほとんどないそこで、ハルが扱っているのは主に医薬品だ。粉状の痛み止めや液状の化膿止めが、並べられている。
ハルの知識的にいえば、よくて十九世紀程度の文明しかないその世界は、医療技術が低い。医者と呼ばれる者も少ない為、薬を欲しがる者は多い。だからこそ、ハルはそれを売ろうとしたのだ。
(本物なんだけどなぁ。ここで、ごり押しで売ろうとしても怪しまれるだろうし……。余計なおしゃべりはよくないよなぁ)
元々ハルが、医療に特別明るかったわけではない。その世界の住民よりは、抗生物質等の知識があっただけだ。ならば何故、その商品を用意出来たかというと、色々な意味で努力を惜しまなかったからだ。
生活の糧を探したハルは、町の状況を見て薬は売れるだろうと考えた。そして、それを作れる者を探したのだ。
最初は町で仕入れた品を売り歩く、行商人からのスタートだった。各地を回ったハルは、各部族の長老などが持つ秘伝とされる知識を、色々な方法で手に入れた。それを手に入れる為に、人にいえない手段も使っている。そして、自分の体等を使って実験し、商品化にこぎつけたのだ。
(山で取った薬草や鉱石で作ったから、元手はただみたいなものだけど……。値段は安すぎても、疑われるしなぁ)
木札に書かれた効能と品質保証期間を見つめる男性客は、ついに座り込んで悩み始めた。それほどハルの用意した商品が、魅力的で怪しいのだ。
(あぁ、こんな効果もあるのか)
男性客が座り込んだ事で、何があるのだろうかと興味を引かれた他の者が、数人集まって来た。それを幸運だとハルは考えた。
だが、外来らしき一人の男性客がきた事で、予想外の事態に見舞われる。
「おい。本当に、本物なんだろうなぁ?」
最初に悩み始めた男性客は、どうしても踏ん切りがつかないらしく。しつこくハルに問いかける。
(さっきからそう言ってるだろうが)
「はい。本物ですよ」
問いかけてきた男性客よりも険しい顔をした男性が、座り込むと同時に瓶に入った粉末薬を手に取った。そして、ハルにとって嬉しくない事を喋りはじめる。
「これは……。この薬は、俺も知っている。だが、これを作れるのは山の上にいる長老様だけのはずだ」
その男性客は、明らかに周囲が聞き取る大きさで独り言を喋り始めた。
(こいつ……)
男性の指摘自体は正しい物だ。騙したともいえる手段で製法を聞きだしていたハルの笑顔が、少しだけ崩れそうになる。
「門外不出の秘薬が、こんなに……。おかしいなぁ」
男性の大きな独り言で、周囲に集まっていた客達がざわつき始めてしまう。
「見るからに、長老様の秘薬……。いや……そっくりなのかな?」
薬瓶だけを見つめていた男性の視線が、ハルに向けられる。顎の髭をさすりながらその男性客は、にやりと笑う。その男は、年の若いハルを明らかに舐めている。そして、商売を潰そうとしていた。
(こんの野郎っ)
口々に偽物だと騒ぎ始めた客達を前に、ハルは焦りを顔に出す。商人として駆け出しのハルは、まだまだ未熟なのだ。
「おいおい、偽物にこの値段かよ」
「若いくせに腐った奴だ。この金で、いくら干物が買えると思ってるんだ」
集まっていた者達は、ハルの薬を偽物だと判断したらしい。外来の幾人かは立ち去ったが、地元の者は立ち去らずに罵詈雑言をハルに浴びせる。集落の大事な収入源である市で、不正があってはならないと考えての事なのだろう。
「いえ、あの。本当に本物ですから。落ち着いて下さい」
立ち上がったハルは両手を伸ばして、なんとか客を落ち着かせようとした。その為、事態の発端である男性から目を離す。
「もう少し安ければ、試してみてもいいんだがなぁ」
助け舟にも思えたその言葉が、ハルの耳に届く。もしハルが冷静なら、薬が偽物だと思い込んでいる客がその台詞を吐くはずないと考えられただろう。
「分かりましたって。値段交渉も受け付けますから、取り敢えず落ち着いて下さいよ」
先程の台詞を吐いたのは、発端だった男性客だ。その男は、ハルに値段を下げてもいいといわせたかったのだ。
望んだ言葉を聞けた男性客は、満面の笑みで立ち上がってハルを指さした。
「ほらみろっ! 本物なら、簡単に値引きなどするはずがないっ! ここにあるのは、偽物だっ!」
(しまっ! くそっ! はめられた!)
自分を失礼にも指さす男性を、ハルは睨むが時すでに遅しだ。ハルを取り囲んだ者達は、不届き者をつまみ出せとまで言い始めてしまう。
(最悪だ。ちくしょう)
そのような状態になる前に、ハルは少し強気な態度で男性の言葉を突っぱねるべきだったのだろう。そして、市の管理組合に試供品を提供して許可を取っているのだから、確認をそちらにとれと言えばいいだけだったはずだ。
「おじさんっ! ちょっ! 待って! 待って! てばっ!」
今にも掴み掛られそうだったハルを救ったのは、地元民である少年の大きな声だった。集まっていた客の多くが、その少年の知り合いだったらしい。少年の叫び声を聞いて、握った拳を開いていく。
「あの……。ごめんなさい。皆、悪気はないんです。その……薬を売ってくれますか?」
(このガキは……。ああっ! 昨日の!)
大人達をかき分けてハルの前まで来た少年は、前日一つだけ痛み止めを買っていった客だ。
「はい。毎度。幾つ必要ですか?」
少年に代表して謝られたハルは、落ち着きを取り戻した。そして、客である少年に少し優しい笑顔を向ける。
「あ……ちょっと待って下さいね」
その笑顔を見た少年は笑い返した後、ハルに背を向ける。大きく息を吸い込んだ少年は、集まった大人達に向かって説教を始めた。
人間の平均寿命が下がったその世界では、明確な成人の年齢が決められていない。その為、もう働き始めている少年を周囲は大人として扱っているらしい。
(十五……。いや、もう少し若いか? ふぅ、助かったぜ。くそガキ)
祖父の病気による痛みがハルの薬でおさまったと、少年は力説する。それだけでなく、騒ぎを起こした男性客の扱っている薬は、先月買って効果がなかったとも説明した。
(お前が、偽物売ってたのかよ! こんのぉやぁぁろぉぉぉ)
ハルは拳を握りしめたが、地元の男性客達にその殴ろうとした相手は引き摺られていく。
「まっ! 待てっ! 話せばわかる!」
「ああっ! そのつもりだっ! 全部吐かせてやるよ!」
騒ぎを起こした男性客は、薬売りだ。だからこそ、ハルの薬を本物だろうと見抜いた。そして、自分の商品が売れなくなると考えて、潰そうとした。
その男が扱っている商品は、一般的に出回っている薬だ。それらは効果が薄いどころか全く効果が無い物から、病気を悪化させてしまう物まである。秘薬とは効果が天と地ほどの差があるのだ。
(まあ、ここの文明レベルで作った民間療法薬なんて、しれてるよなぁ)
地元の男性達にぼこぼこにされる商売敵を、ハルは晴れやかな顔で見つめる。直接殴りたい気持ちはあるらしいが、黒い部分を表に出さないですむと納得したのだろう。
(あ、鼻の骨折れたな、あれ。ここの人達は、いい仕事してくれるなぁ)
「あの、改めて。薬を売って頂けますか?」
服の袖を少年に引かれたハルは、定位置に座りなおして商売を再開する。
「はい。では、幾つ必要ですか?」
腰につけた袋を、少年はハルに手渡す。袋の中には、その世界の通貨が詰まっていた。
「家のお金をかき集めてきました。これで買えるだけ下さい」
少年の真剣な眼差しを見たハルの顔から、作り笑顔が消える。相手の事情を、多少は察することが出来たのだろう。
(痛み止め……つかこれ、麻酔薬なんだよなぁ。かなり強い薬だぞ? これ)
医療技術の低い世界では、二十一世紀の時代では考えられない事で人が死ぬ。ウイルス性の風邪が流行しただけで、村が消えた歴史もある。
「あの……」
「少し、商品の説明をさせてくれませんか? この薬が、一番いいかもしれません。ですが、他に役立つ物もあるかもしれません」
平気で人を欺き、大事な事を煙に巻こうとするハルだが、商売に関しては紳士的に向き合うつもりのようだ。
「こちらは、鎮静剤です。高ぶって眠れないときなどに効果があります。で、これが化膿止め。抗生物質は……分からないか。体内で悪い物を殺す薬です。あ、勿論、効く病気と効かない病気はあります。あまり、日持ちはしません。で……」
商売敵を殴り終えた少年以外の客達も、再びハルの店に集まっていた。皆、ハルの話を真剣に聞いている。本物なのだから購入しようと考えているのだろう。
「こちらも試してみたいですが……。お金はこれだけしかありませんし……」
少年の言葉に、ハルは口角を上げる。眼差しが真剣であるその笑顔は、先程の優しい物ではない。明らかにハルが何か思惑を持っていると分かる。見る者が見れば、邪悪にも映るだろう。
「お忘れですか? お客さん。うちは、物々交換もやってるんですよ」
忘れていないといいたげな少年は、おずおずと腰につけた道具袋から何かを取り出してハルに見せる。少年が家から持ってきた水晶のように見えるそれは、精と呼ばれている結晶体だ。その結晶体に固有の色はなく、少年の持っている物も緑や赤と様々だ。
(おっ。純度高いのあるじゃん。いいね)
精とは簡単に言ってしまえば、魔法などと呼ばれる術の源だ。魔力結晶とも呼ばれている。ハルの今居る世界では、どこにでも落ちている特に珍しくもない物だ。
「家の道具から抜いてきたんですが……。こんな物で、この高価な薬には……」
術は基本的に使用者の体内にある生命力ともいえる精を、呪文や魔方陣などで変換して使用する。一度体外に出て結晶化してしまった物は、体内に戻せない。つまり、精は魔法の道具内に仕込んで増幅装置等にするしか、使い道がないのだ。その為、あまり価値がない。
(おっ! これも、高圧縮だ。いいじゃないのぉ)
少年の手から精をとり、日の光にかざしたハルの顔は満足げだった。異邦人である彼は、精の有効利用方法を知っているからだ。
「じゃあ、このお金と精、全部で……。これぐらいでどうですか?」
自分にハルが差し出した薬の量を見て、少年が驚きを顔に表現した。どうやら、思っていた三倍近い量がもらえたのが、信じられないようだ。
「えっ? こんなに? あの……」
驚いて受け取ろうとしない少年の言葉を遮り、口角を上げたままのハルが喋り出す。
「ここで私が利益を得られるのは、貴方のおかげといってもいい。正当な働きには、利益を払うのが当然です。ま、利益には利益をってね」
少し泣きそうな笑顔を作った少年は、ハルに深く頭を下げる。病気に苦しむ祖父を介護してきた少年も、今まで苦しんでいたのだろう。
だが、その心のこもった少年の礼を、ハルは汲み取らない。
「あ、そういうのいらないです。ただの商売ですから」
聞こえてきた余りにも冷淡な言葉に、頭を上げた少年は動きを止めていた。顔からは、表情が消えている。
その少年に、ハルは背嚢のポケットから取り出した小さな紙包み三つを渡す。
「それ、お試し用の小脇にしてあった物です。どれか効果があったら、また買ってください。薬の名前はそこに書いてますから。え……と、後、私はここに住んでますから」
「聖都ハルベリアの異邦人宿舎……」
少年は、紙包みと一緒にメモを受け取った。そこにはハルの住所が書かれている。
「異邦人……。ああ、それでこんな薬を……」
「それなら、納得だ。なるほどねぇ」
住んでいる場所を見て、少年や周囲の者はハルが異邦人だと分かったのだろう。
「あ、勿論お金か精は用意しておいてくださいよ。ただじゃありませんから。貴方が、雨季の間に溜めこんでくれると信じてますよぉ」
ハルに何か言いたげにしていた少年だが、最後にはもう一度笑顔を作っただけに留め、帰路についた。
「おい! 俺にも売ってくれ!」
「あっ! ああ、俺にもだ!」
少年との商談が終了すると同時に、他の者が我先にと薬を購入していく。
「はいはい。順番ですからねぇ。押さないでください」
ほくほく顔のハルは、常に三人以上を相手にしながら顧客を捌いていく。
(利益っ! お金っ! お金っ! うっほほぉぉいっ!)
区画の最端に開かれたハルの店は、驚くほど盛況で人だかりが人だかりを呼んでいく。一度購入を終えた者達も家に帰り、金と精を持って戻ってきており、人がなかなか減らない。その者達は、貴重な薬を可能な限り買い溜めようとしているらしい。
(もういいやっ! 明日の分も売っちまおうっ! お金っ! 大好きぃ! おっと……なんだ?)
「もうちょっとだけ、安くならねぇか?」
ハルに手を止めさせたのは、地元民である一人の男性だった。その男は、少年が来る前からハルの店を見ていた者だ。
「あいつには、安く売ってたじゃないか。な? 俺にもいいだろ?」
(なるほどねぇ……)
ハルは無言のまま、営業スマイルを男性に向けた。そして、値引き交渉をしてきた男性に確認しろと言う意味で、木札を持ち上げて見せる。
(貴様が、腐った奴ってさっき俺に言った事は、忘れてねぇかんなっ! この野郎!)
「なっ……なんだよ。分かったよ」
笑っていないハルの目に気が付いた男性は、言葉を詰まらせて通常価格で薬を購入していった。
トラブルに見舞われながらも、ハルの小さな店は大盛況のうちに店じまいとなる。用意していた商品が、たった数時間で底を突いたのだ。
「すみません。品切れでして。はい、すみません」
売り切れだと言って顧客に頭を下げるハルだが、心と財布の中は満たされている。当然、笑顔も崩れない。
(さて今日は、食事を少し豪華にでもするか? それとも……おっおう)
ほとんどの客が帰り始めた所で、ハルは店を畳もうとしていた。
しかし、最後まで残った客が知り合いであった為、動きを止める。立っていたのは人形のようによく出来た幼さを残す顔に、少し不釣り合いな凛々しい眉と厚みのある唇を持つ女性、イヴ・ミラーズだ。
「こ……これは……これは、隊長さん。えぇぇぇぇ……っと。すみません。売り切れでしてぇ。うっ!」
なめし皮と鉄のプレートで出来た軽装の鎧を着たイヴは、無駄の少ない動きでハルの胸倉をつかんだ。
(放せっ! このっ! ちっこいゴリラっ!)
顔をひきつらせたハルは、降参の意味で両手を上げる。ハルは彼女の力が強く、武術に長けている事を知っている。その為、無駄な抵抗をしようとは考えない。
「へっ……へへっ。勘弁し……うっ!」
(やめっ! マジで苦しい! 放せ!)
女性らしい体のラインと、なで肩のせいで分かり難いがイヴはかなり筋肉質な体を持っている。握力に至っては、男性の平均値をゆうに超えるほど力が強いのだ。
イヴに頸動脈と喉を圧迫されたハルは、咳き込む。それを見て、彼女はやっと手を離した。
だが、彼女の目から怒りらしき感情は全く消えていない。
「お前は、こんな所で何をしているんだ?」
「おほっ! おほっ! はぁぁ……。見ての通り、仕事で……うがっ! てぇぇ……」
腰を折っていたハルに、イヴは拳を打ち下ろす。そして、額を押さえたハルを睨み続けた。
すれ違いにより、今の二人は少し奇妙な関係にある。良好だった二人の関係をこじれさせたのは、無神経で行き当たりばったりのハル本人だ。