プロローグ
雲一つない快晴の空。その空はどこまでも青く、見る者の心を吸い込んでしまいそうなほど深い。
空がそれほど美しく見えるのは、早朝で空気が澄んでいるせいもあるのだろう。太陽が顔を出してから、まだあまり時間は経過していない。気温は上昇しきっておらず、何もしなければ寒く感じる。
砦と聖都を繋ぐ一本道の走る草原では、朝が早いにも関わらず鳥達の声が聞こえない。聖都側から見て草原の先には森があり、多くの鳥類が住んでいる。本来その時間には、目を覚ました鳥達がおしゃべりをしているはずだ。
鳥達は人間達の醸し出すきな臭さを感じ取り、森の中で身を潜めて様子を伺っているのだろう。
草原には、敵味方あわせて百人ほどの人間達がいた。彼等の多くは、兵士と呼ばれる職についている。幾人かは違うが、それはごく少数だ。
「姫! お下がりください」
聖都を防衛する側の兵士は約七十人。大将として戦場に立ったのは、国の第二王女シャロン・オルブライトだ。彼女の前には、三人の隊長に任命されている者達が並んでいる。
「いえっ! 下がりません! 皆も……皆の後退も許しませんっ!」
シャロンは、隣国にまで噂が届くほど美しい女性だ。艶やかな金色の長い髪をなびかせたその王女からの命令は、非情なものだった。王女シャロンは、外見に似つかわしくないほど気丈な性格なのだ。
だが、彼女は兵士達に意味もなくそのような命令を下すほど、冷酷でも馬鹿でもない。そうせざるを得なかったのだ。
夜襲を受けて砦は落ちた。その砦を攻略した帝国兵三十人が、国の中心部である聖都の目の前まで来てしまったのだ。その戦いに敗れれば、国自体がなくなってしまう可能性が高い。なりふり構っていられないのだろう。
「イヴ……。最悪の場合は……」
「ええ、分かっている」
三人いる隊長の内もっとも年齢が高い男性が、同じ隊長である女性に耳打ちをした。その女性隊長イヴは、敗戦が濃厚になり次第姫を逃がそうと考えているのだろう。それだけ、勝てるかどうかが分からない戦いなのだ。
人数的に優勢なはずの彼等だが、自軍の戦力に不安を抱えていた。シャロンの国はある部族との争いが激化し、王に率いられた主要な兵達は別の砦に出てしまっている。その隙をついて、帝国は精鋭を送り込んだのだろう。
シャロン側の七十人いる兵のほとんどが、非常勤兵士だ。平時は農業など別の職に就いている非常勤の者達は、兵士としての練度が低い。シャロンの下がるなという言葉に、怯んだ者も少なくなかった。
それに対して、帝国側は奇襲とはいえ三十人で二百人兵士がいる砦を落すだけの戦力を持っている。待ち伏せの策すら立てていないのだから、シャロン側の勝算は薄い。
更にいえば、帝国の先陣に立つ端正な顔を持つ男性が、もう一つの大きな問題だった。その男性は、勇者や英雄と呼ばれるほどの猛者だ。精霊の祝福を受けた聖なる鎧と剣を持つその猛者は、近隣地域で並ぶ者はないと評されている。
「たっ! 盾っ! 構えぇぇ!」
「弓兵っ! 矢をつがえろ!」
戦いを前に浮足立つシャロン側と違い、帝国兵達は一本道を悠然と聖都へ進軍し続けていた。そして、弓が届く範囲にまでなんの躊躇もなく足を踏み入れたのだ。
それを見た隊長二人が、泡を食って部下達に指示を出した。三人の隊長達は全員、敵が一度は立ち止るだろうと思い込んでいたのだろう。
隊長からの指示を受け、最前衛にいる盾兵は二メートルある木の盾を構え、盾の隙間から槍を突き出す。その後ろに控えていた弓兵は、矢をつがえた。
「なっ……なんなんだ? くそっ。放てっ!」
盾を構えもしない敵に疑問を持ちながらも、最年長である隊長は攻撃開始の強い言葉を発する。
「そんな……馬鹿な……」
弓兵達が矢から手を離した瞬間、王女達は敵の先陣を切る男性が何故勇者と呼ばれているかを知った。聖剣が辿った剣線は光の筋として空中に留まるだけでなく、進みながら肥大して光の衝撃波となったのだ。そして、それは矢を全て吹き飛ばしてしまう。
「くっ……。なっ! こんな……」
隊長の一人が矢を防がれて作ったしかめっ顔を、驚愕へと変える。怒りの表情を浮かべる勇者は、二度三度と衝撃波を放ってきたのだ。それによって、七十人以上いた兵士の半数が吹き飛ばされて戦闘不能になる。救いといえるのは、最前衛が盾兵だったおかげで、死人はまだ出ていない事だけだろう。
「い……嫌だっ! 死にたくない!」
命を捨てる覚悟など出来ていない非常勤兵士の幾人かが、その場から逃げようとした。
しかし、それを草原の地面から生えてきた人型が阻止する。泥の人型を百体ほど出現させたのは、マッドゴーレムと呼ばれている簡易の兵士を作る術だ。帝国側の最後方にいるローブを着た魔道士らしき男が、持っていた長い杖を地面に突き刺している。その男が、術の準備を歩きながら済ませていたのだろう。
術者を倒さない限り死なない泥の人型に、王女達は完全に囲まれてしまう。聖剣を構えた勇者は、尚も悠然と歩を進めている。王女達に残された退路は、聖都がある後方のみだ。
勿論、王女達は下がれない。国が滅ぼされてしまうからだ。
非常勤の兵士達はその場に膝を突き、隊長を含めた訓練を十分に受けている者達は槍と剣を握りしめて怒りに顔を歪める。
彼らは、自分達から術の攻撃を仕掛けない。それほど、その状況に絶望しているのだ。
「こんな……こんなっ!」
感情が限界を超えた王女シャロンは、目に涙を溜めて唇を強く噛む。彼女は、何も出来ない自分が悲しくて、民や国を守れない事が悔しいのだろう。
(いぃぃぃぃぃぃぃぃやっほぉぉぉぉぉっいぃぃぃ!)
王女の強く噛んだ唇から血が流れ出る少しだけ前に、兵士達が目を瞑ってしまうほど強い風が草原を吹き抜けていく。それは町の中にいる者が術で作り出した、魔法の風だ。
「きゃあっ!」
勘まで鋭い勇者と呼ばれている男性が、誰よりも早く視線を空へと向けて剣を構える。魔法の風に乗って草原上空に放物線を描いているのは、両手足を大の字に伸ばした男だ。
(えぇぇっと。そこだ、こんちくしょう!)
上空で槍投げでもするような体勢を取った仮面の男性は、左手に出現させたナイフを勢いよく放つ。重力の力まで得たそのナイフは、魔道士の男が地面に刺したままにしていた杖を砕いた。それにより、泥の人型達は崩れ落ちていく。
続けて、仮面の男性は右手のグローブから、五センチほどの光の魔方陣を出現させた。そして、自国と帝国兵達の間にある着地予定地点へと投げつける。地面に触れると同時にその魔方陣は、直径二メートルに大きく広がっていく。
(はい! 十点! 十点! 十点! 十点! 十点! っと)
黒い仮面をつけた男性は、魔方陣の上に見事な着地を決めた。そして、体操選手のように指の先までぴんと伸ばした腕を、頭上へと上げて全身でYの字を作る。勇者と呼ばれている男性は、そのふざけた男を見て顔から怒りを消して首を傾げた。
その男性がふざけているとしか思えないのは、態度だけでなく格好によるところも大きいのだろう。黒い金属の小手とすね当ては普通だが、それ以外がおかしいのだ。
膝付近に膨らみのあるズボンは、左右で黒と赤に色が分かれている。詰襟で膝丈までの長さがあるチュニックは、見る角度によってその金属光沢のある色が変わるようだ。顔を覆っている黒い仮面には、三日月状の赤い掘り込みが三つあり、人の笑っている顔に見える。
また、その男性を見て人が道化師を思い出すのは、もっともふざけている帽子のせいだろう。先が二股に分かれたその帽子は、左右で緑と赤に色分けされている。そして、帽子の先にはそれぞれ白い球体が付いていた。パーティー会場以外でそれをかぶるのは、ピエロぐらいしかいないだろう。
「な……」
顔に掛かった髪を急いでかき分けたシャロンは、絶句していた。仮面の男を、王女は知っているからだ。
絶体絶命の窮地に、王女も心のどこかでヒーローや白馬の王子に来てほしいと考えていた。
だが、まさか犯罪者として指名手配されているその男が来るとは、夢にも思っていなかったのだろう。変態などとも呼ばれている仮面の男は、王女の考えていたヒーロー像と余りにもかけ離れている。
「何を……しているんだっ! おまえはぁぁ!」
仮面の男性を幾度も捕まえようとして失敗しているイヴは、真っ赤な顔で怒声を口から吐き出す。彼を敵だとしか見ていないイヴは、相手が自分を救いに来たとは考えられていないのだ。
(今日は、怒られる事してないんだがなぁ。まあ、いいや)
仮面の男性はイヴを無視して左腕を腰の後ろにまわし、指を伸ばした右腕を胸元で直角に曲げる。そして、相対する両軍にそれぞれうやうやしく頭を下げた。
王女達だけでなく帝国軍の兵士達も、それを見て呆気にとられる。中には、口をぽかんと開けている者までいた。誰もそれが、彼の時間稼ぎなのだと気が付けない。
(馬鹿が見るぅぅっと)
兵士達が呆けている隙に、聖都の入り口である大きな門が開け放たれた。それを視界の端で捉えた男性は、仮面の中で口角を上げる。ただ、怪しい輝きを放つ男性の眼光だけは、鋭さを増していく。
(よっしっ! さあっ! 付き合ってもらうぜぇ!)
一度胸元で手を叩いた仮面の男性は、開いた掌を空に向けて両腕を限界まで伸ばした。その瞬間、右手のグローブから光の文字が仮面をつけた男性の頭上へ浮かび出してくる。
『紳士淑女の皆様。お待たせいたしました。楽しい楽しいショータイムの始まりです』