バーテンダー
下ネタありです、苦手な方は迷わず戻るを押して下さい。
バーでは男が一人、静かにグラスを傾けていた。
上質な黒いスーツに靴、腕の時計は派手な装飾品では無いが一目で高価な物だとわかる。一見、地味な姿だが見る人間が見れば男が相当な金持ちだとわかる。
しかし、そんな人生の成功者である彼の表情は浮かなかった。全身から哀愁を漂わせ、視線はどこか遠くを見つめている。グラスを傾ける時だけ形の良い柳眉が僅かに動いた。私はそんな彼の前で静かにグラスを磨き続けていた。
バーテンダーである私の仕事にはバーテンだけでは無く、客の話を聞くことも含まれる。しかし、自分から話を聞きにかかるのは非常に無粋な事だ。客がそれを求めているなら別だが、感傷に浸っている人間に対して私のような部外者がそれを妨げるなどナンセンスだ。
私はただ黙々とグラスを磨き続けた。店内にはどこからともなく洋楽が流れている。意識しなければ聞こえない程度の音量。だが会話の邪魔にはならず沈黙を求めるものには友となる。店にいるのは男と私だけ。静かだった。
「マスター」
店内に男の声が響く。なにかに耐えるような低い声だった。
私はその声を聞き、微かにほほ笑みながら彼を見る。
「どうされました」
「…愛とは何なんですかね」
男はそんな事を聞いてきた。
…愛とは何か、か。普段口にするのはどこか抵抗が起こるような言葉も、ここでは極普通に聞こえるのはバーの雰囲気によるものだろう。そんな事を思いながら私はどう返答するか考える。
当たり障りの無い言葉を返すか、それとも真っ正面から受け止めて返すか。男が私に求めているものは何かと推測すれば答えは容易くでるだろう。
思考は一瞬の事。私は微笑を浮かべたまま、思った事をそのまま口にする。
「…無償の思いやりですかね」
その言葉を聞いた時、男の顔は激しく歪んだ。
何かに耐えるように男は拳を固く握る。沸き上がる目に見えぬ感情は怒りか憎しみ。それとも後悔か。私は男の感情の高ぶりを感じながらも、ただ静かにグラスを磨いていた。
雨音が聞こえた。外では雨が降り出したようだ。ここからでも聞こえるという事はかなり強い雨らしい。もう他に客は来ないだろうと感じた。
気がつけば男は何かが吹っ切れたような表情をしていた。重い重い苦悩を背負いつつも仕方が無いと理解した顔だ。
男が口を開く。
「マスター、少し話を聞いてくれないだろうか」
「かしこまりました」
私はそれに口角を少し上げて答える。
男は微笑を浮かべた私を見て、どこか透明な笑みを浮かべる。
「うんこ漏らしちゃった」
パリーン、とグラスが床に落ちる音がした。
「マスター。…愛はあるかい?」
「…いえ、ありませんね」
私は落ちたグラスの欠けらを拾い集めながら、いつもの微笑を浮かべて答えた。
男はそっと立ち上がる。少しがに股だ。そして、そのまま男は透明な笑みを浮かべたまま、よたよたと立ち去って行った。
ばたん、とドアが閉まる音が響く。
私は閉まったドアから視線を逸らし、また黙々とグラスを磨きだした。
店内には異臭が漂っていた。