灰に纏わるひとつの話
※人一人死に掛けてます。一応少々残酷描写あります。
全ての大元は、とある記事を依頼された事である。
「真冬のホラー特集、ですか?」
オカルト系の雑誌からの依頼だった。私は以前にもその雑誌で記事を書いたことがあり(嬉しいことにその記事の評判もなかなか良く)、そのこともあってか私に連絡をくれたらしい。なんでも私に頼みたいのは心霊スポットに関する記事だそうで、いくつかの場所の提案をされた。そして、その中からひとつの場所へと行くことになったのだ。
そこは結構有名な心霊スポットで、とあるトンネルだった。そこに纏わる話というのも、このトンネルで事故死した人間が出てくるとか、途中にいる女の人を乗せてはいけないとか、そもそもトンネルを立てる時点でいろいろいざこざがあったとか、よくあるものだ。
万が一車が動かないなんて事になっては困るので、少し遠くのところに車を停めておく。トンネルの近くに行くまで普通に携帯電話も繋がるし、カメラのシャッターも切れた。一人で歩く寂しさもあり、高校の頃の後輩と電話しながら進んでいたのだが。
「大の男が一人寂しくトンネル見学かー……」
『いいんじゃないですか、先輩らしくて』
電話の向こうの声が少しだけ笑みを含んだもののように聞こえ、ついついむっとしてしまう。
「……学生時代はオカルトな事一度もしてないんだけど?」
『当たり前ですよ、みんな先輩がいる時は止めてましたもん。本物が出るからって』
「なにそれ、私にとっては初耳なんだけど」
『本人に知らせてどうするんですか』
こんなところで結構大きなカミングアウトをされるとは思ってもみなかった。どうやら高校時代から私が霊に好かれることは知られていたらしい。……自分では小学生の頃から知っていたので、いつかどこかから伝わるだろうとは思っていたが。そして、最近改めてライター仲間と行った霊媒師のところでもそのようなことを言われたことを覚えている。その時は友人と震え上がったものだが、よくよく考えてみれば昔からのことだった。
懐中電灯の光がちらちらと辺りを照らす中、自分の声と電話の声がやけに明るく聞こえた。
『そういえば、どこのトンネルに行ってるんですか?』
「あれだよ、あの……有名な、名前がやたらと複雑な漢字のとこ。名前ど忘れしちゃってさ」
『……それって、もしかしてあのトンネ……の人が出……どこ……』
電波が悪いのか、電話の声にノイズが入り、聞き取りづらくなっていく。しかし、携帯電話の画面を見ても電波のマークにはしっかりと棒が三本立っていた。前を見る。いつのまにか、トンネルの目の前に来ていた。電話からはもうノイズ音しか流れなくなっている。通話を解除し、携帯をポケットにしまった。
「よくある話、か……」
周囲を確認しながら、トンネルの中へ進む。ここ数ヶ月車は通っていないだろうな、というところだった。汚れがひどい。長い間放置されているのが一目見ただけで分かった。当然のことだが誰もおらず、自分の足音がやけに響く。写真を撮ろうとしても何度かシャッターが押せなかったが、数回繰り返せば直る程度であった。風通しなのか『そういうもの』の影響なのか、やたらと寒気がする。これはまあ冬だから、という言葉で対処できるのだが、それ以上に誰かに見られているような感覚がやまなかった。お風呂で髪を洗っているときに後ろから誰か見ているような気がする、というのと同じ程度だったのだが。
「……感じ悪いなぁ」
とりあえず早々にトンネルを抜け、念のために周囲の写真も撮り、そそくさと自分の車へと戻った。遠くへ停めたことが幸いしたか、車のほうには何も起こっていないようだ。荷物を置き、エンジンとその後にお気に入りのアーティストの音楽をかけてから、明かりのある方へと車を走らせた。
――さて、そこから日付は飛んで一週間後。原稿も編集も大方終わりが見え、私の仕事はあまりなくなってきたので早めに帰ることのできる頃になってきた。こんな感じではどうせまたお金のほうも期待はできないので、またどこかでアルバイトを入れるはめになるのだが。
取材(と言っても行って写真を撮っただけなのだが)を終えたその翌日、電話をしていた後輩からメールが届いた。要約すると、「突然電話切れたんですけど大丈夫ですか」という内容だったので適当に返信しておいたが。今思えば、そこでうけ狙いでも「大丈夫じゃないかも」とでも言っておいた方がよかったかもしれない、と後悔している。
あれからというもの、頭痛と視線がやまないのだ。特に視線のほうが顕著に現れている。外にいる時は勿論のこと、家に帰った時にまで誰かに見られているような感覚がしてならないのだ。振り向いても誰かいる訳でもない。……逆にいたらそれはそれで怖いが。見られている気配がするというのは、決して居心地のいいものではない。分かりやすく言えば、常に観客の大勢いる舞台の上に一人立たされているような感覚だった。常に緊張させられる、神経が磨り減ってたまったものではない。
という訳で、前述したように仕事に暇ができた時期だったので、一日だけ休暇をとらせてもらった。家にいる間はまだ外よりは気分が楽だ。私は一人暮らしだから、家には誰もいないからこれは錯覚だと自分に言い聞かせることもできた。
とはいえ、家にいる間特に何かすることがある訳でもない。そう見たくもないテレビ番組をぼんやりと聞き流して時間が過ぎていった。少しだけだが気を紛らわすことができる。自慢じゃないが、私は生まれてからずっと霊を見たことがない。関わったことはあるものの、あくまで現象として現れたまでだ。視覚の面では心配する物事がなく、それに縋るだけでも随分と気が楽になった。その日の夕飯はいつものようにカップ焼きそばで済ませた。
しかしそれがいけなかったのか、翌日事務所に出かけて仕事中私は倒れた。倒れたそのときは「栄養不足のツケが回ってきたか」などと思っていたが、どうやら違ったようだ。意識がなくなる寸前に見えたのだ。無数の目が。
起きたときには恐怖でまともに会話もできなかった。視線がいつになく増しているのだ。大丈夫か、とか、ちゃんと食べないと、とか、少々馬鹿にする声も聞こえた気がしたのだが、どこからともなくのしかかってくる圧迫感に、反論さえできなかった。その様子を見かねたのか同僚の一人が「もう今日は帰ったほうがいい」と私に伝えた。それと、「明日は一日休んでいろ」とも。ふらつきながらタクシーで家に帰ったはいいものの、何もする気が起きない。食事を摂る気も、テレビを見る気も、起き上がる気も……眠る気さえ、私には起きなかった。見られていると思うと、寝ることができなかった。もう、「こちらから見えないからいい」という理論はとうに消え去っていた。
とはいえ、人間ずっと起きてはいられないものだ。何時間眠ったかは分からないが、気がつけば夜になっていた。相変わらず視線は消えていない。私の周りに何かがいるのだ。何かが私を見張っている。電話がかかってきたが、信用できなかったので電話線を引っこ抜いた。表示は見えなかった。
起きようとしても体が重い。体に鉛を縛り付けているような重さ、というよりは仕事をしてヘトヘトになってもう動けない時の体の重さに似ている。動く気を根こそぎ吸い取られるようだったが、尚も続く視線にいてもたってもいられなかった。なんとか逃げようと寝室からキッチンのある部屋へ這い出たが、視線はそこまで追ってきた。こちらにもいたのだ。無数の視線が体を貫く。重さでまた身動きがとれなくなりそうだったが、なんとか上半身だけ体を起こした。
「……だっ、誰なんだよ!?私を見てるのはっ!!」
たまらず叫んだ途端、気配が後ろで大きくなった。全体からの視線がひとつに集中していくように、圧迫感もひとつだけになっていく。後ろを向くのを本能が拒んでいるが、私の意識はそれと反して振り向くことだけに集中していた。
そこに、視線の元凶がいた。
形容するならば、目玉をいくつもくっつけた、赤黒くてどろどろしたものである。その目玉はいずれも私に向けられ、大きな手をゆっくりと私に向けてくる。
「あっ……あ……ああああああああああああああああああっ!!!!!」
考えはいらなかった。私は家を飛び出した。どうやってどの道を進んだかは自分でも分からない。ただただ走った。赤黒いあいつから逃げるために。後ろを見ると速度が下がるので振り返らなかったが、恐らくあいつは追ってきているであろうことだけは分かった。走る為の靴ではないため、当然速度はそれほど出ない。ましてや三十代半ばの何も運動をしていない男が大した速さで走れるはずもなかったが、そんな限界を振り切って私は走った。恐怖のせいもあり、動悸と息切れと震えが止まらない。顔は当然のごとく涙やら鼻水やらでぐしゃぐしゃになっていた。
体力の限界がきたのか、倒れこむようにして足が止まる。私は此処で死ぬのだろうか。あいつに殺されて。……誰が死ぬ?冗談じゃない、三十五年生きたとはいえまだやりたい事だってありあまるほど抱えているのだ。そう簡単に死にたくはない。だがもう逃げるには足が限界だ。立ち上がる事すらできない。ふと視線を上に上げると、暗いながらもどこにいるのか分かった。取材をしたあのトンネルの前である。まさか。来たときには何もなかったはずだ。少なくとも致命的なことはなにも。
そう考えている視線は赤黒い手でふさがれた。私を起こすように服を掴んだその手は鋭く尖っており、服だけでなく私の肩も貫いた。
「……うわあああああああああああああああっ!!」
激痛が走った。貫かれた肩からは心臓の鼓動に合わせて血が流れ出し、頭が硬いもので叩かれているように重くなった。相変わらず無数の目がこちらを向いている。嫌だ。怖い。涙で視界が滲んだ。ならばと今度は胸のあたりを掴まれた。こちらからも血が流れる。
「……っあ、が、……何、する……!」
必死に抵抗し、罵倒しようとしたものの、喉から血がせりあがってきてうまく喋ることができない。目がこちらを見ていた。やめろ。怖い。
今度は足を掴まれる。次は手を。そして腕を。そうしているうちに痛みが麻痺してしまっていた。
痛みは感じない。目の前が眩む。呼吸がしづらいような苦しみだけが響いてくる。目がこちらを見ている。
赤黒い手が私を離した。転がるように地面に落ちる。体のどこかを動かそうとしても、せいぜい首と目を動かすのが限界だ。『あいつ』の全貌が見えた。ひどく大きくてひどく怖かった。ふいに遠くで誰かの声が聞こえた気がするが、多分気のせいだ。
『あいつ』が私を覗き込む。空ろな目でそいつを見てやった。頬を伝っているのが涙なのかそれ以外なのかもう分からない。
『あいつ』が手を振りかぶる。――……ああ、私は今度こそ殺される。何で私が。どうして、何も私はしていないはずじゃないか。もう涙は出てこなかった。勢い良く振り下ろされる手を見て、たまらず私は目を閉じた。苦しみが私を襲う。息ができなくなりそうだ。たまらず目を開けようとするが、何故か開かない。なぜ。まさか目までやられてしまったのか。とも思ったが、何かに押さえつけられているような感触があった。手が乗せられているような感触。それもあの赤黒い手ではなく、もっと人間じみた手だ。苦しみは止まらない。たまらなく怖い。何かをされているのだと思うと余計に鼓動が激しくなってきた。それと同時に手がどけられる。どうなっているか分からないことに覚悟を決めて、瞼に力を入れた。
――恐る恐る目を開けると、見慣れた天井が目に映った。顔を次々つたうほどに、びっしょりと汗をかいている。――夢だったのだ。実にリアリティのある夢だった。痛みも苦しみも、そのままのようで……どこまでが現実でどこからが夢なのか、全くわからない。覚えていなかった。しかし今までに感じていた視線が途切れていた様子はない。まだ見られている。これもまた夢であればいいのだが、手の甲をつねっても目は覚めなかった。
キッチンに向かい、水を飲む。冷蔵庫に食べ物はあるものの、何かを食べる気にはなれない。頭もぐらぐらしていた。この様子だと、私が現実で眠ってからそんなに時間が経っていないのだろう。時計を見ると、朝の八時を指していた。秒針の動く音がやけに耳に障る。
こんな状態では、今日も仕事に行けそうになかった。時計の音さえ、家の前の道を通る学生の声さえ、家のきしむ音さえ、写真立てに置かれた写真さえ、携帯電話さえ、気になってしょうがない。いつ自分を殺すのかという思いが消せないのだ。自分は狂ってしまったのだろうか。精神病か何かか、それとも――
「…………そうか、やっぱり……」
そもそもが、夢の中で最後に来た場所を覚えていた時点で気づくべき事だったのだ。世間一般でもよくあるだろう、後ろに視線を感じるのに振り向いても誰もいないことが。今の私はそれが常になってしまっている訳だ。今でも誰かに見られている気がしてならない。私が何かしようとしていても、多分『見ているもの』にそれが分かってしまう。だがもう、手段を選ばずにはいられなかった。後ろに視線を感じる時に、よく原因とされる物事といえば。
「……あった」
名刺入れを乱雑に探り、一枚の名刺を取り出す。それはかつてとあるテレビ番組の企画に出演した時に、出会った人物から貰ったものだった。幸いにも彼の居場所は此処から行ける程度の場所にある。私の考えが当たっているならば、彼ならば私を救ってくれそうな気がしたのだった。
視線は止まないものの無事に名刺に書いてある通りの場所へ辿り着き、彼を呼ぶ。そう長く時間もかけず、彼は戸を開けて姿を現した。
「あれ……灰掛さん?」
「……八咫さん」