第1話 春の陽だまり
【登場人物】
⭐︎宮田 凪
⭐︎五十嵐 夏海
中高時代、俺は自分の顔のせいでひどく疲弊していた。整った造形というものは、持ち主の意思とは無関係に周囲の人間を狂わせる。勝手に期待を押し付けられ、盗撮され、自分を巡って女子同士がドロドロの派閥争いを起こす。一方で、男子からは理不尽な嫉妬と僻みを買い、孤立を余儀なくされた。誰も俺の中身など見ていない。ただの鑑賞物か、トロフィーか、あるいは憎悪の対象。他人の好意も悪意も、すべてが鬱陶しくて吐き気がした。
だから、誰も俺を知らない大学に入学したのを機に、俺は徹底的に存在感を消すことにした。前髪を目の下まで伸ばした重いマッシュルームヘアで顔という最大のノイズを物理的に遮断し、服は無彩色のモノトーンのみ。教室では必ず一番後ろの、窓際の隅の席を定位置とした。
誰とも目を合わせず、深く関わらず、ただ背景と同化して息を潜めていれば、それで安全だと思っていた。
——彼女が、俺の前の席に座るまでは。
五十嵐夏海。それが彼女の名前だった。
必修講義の座席指定で俺の前に座った彼女は、俺とは真逆の生き物だった。少し手入れをサボって根本が黒くなっている金髪を、高い位置でポニーテールに結んでいる。彼女が笑ったり振り返ったりするたびに、その金糸が揺れ、微かに柑橘系の甘い香りが俺の鼻腔をくすぐった。
彼女は、太陽のような女だった。誰にでも分け隔てなく明るく笑いかけ、あっという間に教室の中心人物になっていく。当然、日陰に引きこもって周囲を拒絶している俺に対しても、彼女は容赦なかった。
「宮田くん、おはよ!はい、後ろの分!」
前からのプリントを回すついでに、彼女はわざわざ体を後ろに向け、満面の笑みで屈託なく声をかけてきた。
最初は眩しすぎて、そして不快だった。
何も知らないくせに、気安く話しかけるな。どうせお前も、俺の顔を見たら態度を変えるんだろう。そう思い、素っ気なくプリントを受け取るだけの俺を、彼女は全く気にする様子もなく、毎週同じように「おはよ!」と笑いかけてきた。
観察しているうちに、一つの事実に気がついた。彼女は、俺にだけ話しかけているわけではない。教授にも、大人しい女子にも、イキった男子にも、そして背景と同化している俺にも——相手が誰であろうと、全く同じ『温度』で接しているのだ。そこには打算も、下心も、偏見もなかった。ただ純粋な、裏表のない明るさ。その清廉さに触れるうち、俺の心の奥底で分厚く張っていた氷が、少しずつ、じんわりと溶け出していくのを感じた。
その清廉さに触れるうち、俺の心の奥底で分厚く張っていた氷が、少しずつ、じんわりと溶け出していくのを感じた。それは、足を滑らせて暗闇に引きずり込まれるような『底なし沼』への恐怖とは違った。長く冷たい冬の影で凍えていた俺を、ぽかぽかと包み込んでくれるような温かさ。いつまでもそこで微睡んでいたくなるような、柔らかくて、ひどく心地よい『春の陽だまり』。
いつしか俺は、前の席で揺れる彼女の金色のポニーテールを、無意識に目で追うようになっていた。彼女が隣の女子と笑い合う声を聞くと、胸の奥がくすぐったくなる。彼女がプリントを回すために振り返る瞬間を、密かに待ちわびている自分がいる。俺という無機質な世界に、彼女の存在がゆっくりと、しかし確実に浸透してしまっていた。
彼女のことをもっと知りたい。けれど、彼女の後をつけて生活を覗き見るような三流のストーカーまがいのことはしたくなかった。もし万が一バレて、彼女に軽蔑されることだけは絶対に避けなければならない。
そこで俺は、SNSで彼女のアカウントを特定することにした。彼女の周りにいる派手でいかにも陽キャな同級生たちのアカウントを足掛かりにして、交友関係を芋づる式に探っていく。ほどなくして、鍵の掛かっていない夏海のアカウントを見つけ出すのは造作もないことだった。
身構えながら開いた彼女のSNSは——拍子抜けするほど、穏やかで無害なものだった。お気に入りの新作コスメや、好きなブランドの服など、年相応の女性らしさが覗く一方で、今日食べた美味しそうなオムライス、面白い形をした雲、ふらりと出かけた場所の綺麗な風景など、彼女の『好き』だけが詰まった、他愛のない可愛らしい投稿の数々。
「ふはっ」
スクロールする指を止め、俺は思わず声を漏らして肩を震わせた。なんて、なんて可愛いのだろう。過剰な承認欲求を満たすための自撮りなど一枚もなく、そこにはただ、等身大の無邪気な彼女がいる。まるで自分もその隣を歩き、一緒に同じ景色を見て、笑い合っているような錯覚に陥る。
部屋のベッドの上で、スマートフォンの画面に映る風景や、たまに写り込む彼女の後ろ姿を指先でそっとなぞりながら、俺はひどく満ち足りた笑みを浮かべていた。
この『合法ストーキング』によって、彼女の日常や好みを完全に把握した俺が、次の一手を打つのは必然だった。
ある日の講義中。夏海の机から、ピンク色の可愛らしい消しゴムが転がり落ち、俺の足元で止まった。俺はそれを拾い上げ、講義が終わるまでじっと手の中に握りしめていた。ただ返すだけでは、今までの『前後席のクラスメイト』で終わってしまう。彼女ともっと関わりたい。彼女の温もりをもっと浴びたい。
講義終了後、俺は自販機で微糖の缶コーヒーと、彼女がよくSNSに載せているお気に入りの炭酸飲料のペットボトルの二つを買って席に戻った。そして、拾った消しゴムと一緒に、その二つの飲み物を彼女の前に差し出した。
「これ、落ちてたよ。……いつもプリント回してくれるから、これはお礼。どっちがいい?」
夏海は目を丸くした後、炭酸飲料のペットボトルを見てパァッと花が咲くような笑顔を見せた。
「えっ!うそ、消しゴム探してたの!助かる〜!おっ、しかもこれ好きなやつだ〜!」
彼女は微糖のコーヒーではなく、迷わず炭酸飲料に手を伸ばす。
俺が彼女のSNSを隅々まで監視し、その好みを完璧にリサーチ済みであることなど露知らず、彼女は屈託なく笑った。
「わざわざありがと〜!宮田くんってめっちゃ優しいね!」
その無防備でとびきりの笑顔を至近距離で浴びた瞬間、俺の奥底で、何かが決定的に音を立てて崩れ落ちた。
ああ、ダメだ。この心地よい温もりを一度知ってしまったら、もう元の冷たい日陰には戻れない。
と同時に、激しい渇きのような感情が込み上げてきた。この笑顔を、俺以外の誰にも向けさせたくない。俺だけのものにしたい、と。
「これ好きだったんだ。良かった」
俺は白々しくそう言って、彼女に向けて静かに微笑んだ。重い前髪の隙間から、至近距離で俺の素顔が見えたはずだ。だが驚くことに、毎日顔を合わせている彼女は、俺の顔の造形について何も言わなかった。
過去に俺を苦しめてきた、周囲の女たちが色めき立つこの顔に、全く反応しなかったのだ。前髪でよく見えていないだけか、それとも、俺の顔になどこれっぽっちも興味がないのか。
……少しは、男として意識してほしかったのに。予想外の温度差に密かに落ち込みつつも、同時に、彼女のその『誰の外見も特別視しない』清廉さがますます愛おしくなった。ただの『優しいクラスメイト』で終わるつもりはない。なんとしてでも彼女の懐に深く入り込み、俺なしではいられなくしてやる。
俺は静かに、しかし強烈に決意を固めた。
少しだけ距離が縮まった後、俺は次の手を打った。ある日、夏海が必修科目のレポート課題に頭を抱え、机に突っ伏して唸っていた。
「どうしたの」
「あっ、宮田くん……。この課題、難しすぎて全然わかんないの。あたし、単位落とすかも……」
ウルウルとした瞳で見上げてくる夏海。俺はカバンから、この日のために完璧に要点をまとめ上げた自作のノートを取り出し、彼女の机に置いた。
「これ、もしよかったら参考にして。……図書室行くけど、一緒にやる?」
「えっ!?いいの!?宮田くん、神!?天才!?一生ついていく!!」
夏海は俺のノートを拝むように胸に抱きしめた。
『一生ついていく』という夏海の言葉。なんて軽率で、信用のならない言葉だろう。俺は彼女のその場しのぎの言葉に喜びつつも、決して舞い上がることはない。
——でも、大丈夫。いずれ本当に、一生添い遂げることになるから。
『教える』という大義名分。これほど都合のいいものはない。これ以降、俺たちは空きコマのたびに図書室や空き教室で『二人きり』で過ごすようになった。
彼女の学業の生命線を俺が握ることで、彼女は俺に頼らざるを得なくなる。合法的な囲い込みの第一歩だった。
つづく




