魔法陣
魔法陣 深水湖水
その図書館には、奇妙なうわさがあった。
図書館にあるどれかの本のどこかのページには魔法陣が描かれていて、そのページを開くと願いがかなうという。
受験勉強で図書館に頻繁に通っている女子高生の時島佐奈は、誰から聞くともなくそのうわさを知っていた。
うわさが聞かれるようになって以来、図書館の利用者は増え、中には書架に収められている本を片端から開いてゆくような者も現れた。佐奈にはそれが気に入らなかった。図書館をなんだと思っているのか。
だいたい、この図書館の本は全て紙の本の形をした電子書籍なのだ。それらが WiFi でネットに接続されている。あとから落書きはできないはずだった。
*
その日も佐奈は図書館に来ていた。学校帰りだが、軽快なシャツにジーンズ姿だ。佐奈の通っている高校は私服通学を許している。
リュックを背負いながら書架を巡っていると、いつかは読もう読もうと思っていて後回しになっていた本を見つけた。それは量子力学の教科書だった。佐奈は素粒子物理学の研究者を志望していたのだ。
佐奈が見つけたその教科書は、大学生が量子力学の入門書として読むような本だ。高校生の自分が手に取るのはちょっと背伸びしているようで気恥ずかしいと感じていた。だからこれまで読まずにいたのだ。
今、書架の間の通路には誰もいない。佐奈は左右を確認する。左側はただの通路で図書館のカウンターに通じている。右側も通路だが、そこには窓があって、佐奈がよく見学に行く高エネルギー素粒子物理学研究所の巨大な建物が見えていた。そんな施設が隣接しているせいか、この図書館には物理学関連の書籍が豊富にあるのだ。
佐奈は手を伸ばし、書架から本を手に取った。開く。
タイトルが書かれているはずの紙面全体に複雑な文様が現れた。
なに、これ?
文様が発光する。あまりの眩しさに佐奈は目を閉じた。脳裏に文字が現れる。
――ああ、やっと戻れる――
視界が暗転する。気づいたとき、佐奈は床に倒れていた。
「大丈夫ですか?」
心配げな声に佐奈は目を開く。年配の女性がのぞき込んでいた。
「大丈夫ですか?」
佐奈は床に手をつき、ゆっくりと起き上がる。意識ははっきりしている。答える。
「大丈夫です」
「ほんとうに?」
「たぶん」
佐奈はさっと身体を点検する。どこも痛くない。立ち上がる。床に跪いていた女性も立ち上がった。
「大丈夫?」
「はい」
「疲れているみたいだからもう帰った方がいいわ」
年配の女性はそう言うとジャケットの内ポケットを探って名刺らしきものを取り出した。
「これ」
佐奈に差し出す。
「お家に帰るまでに具合が悪くなったりしたらここに連絡してね」
佐奈は名刺を受け取った。そこには、司書の上月冴子と書かれていた。
*
自宅の最寄り駅に向かうモノレールの中で、リュックを抱えて佐奈は考えていた。
図書館で起きたことはいったい何だったのだろう。
本を開いた。そしたら紙面が発光した。気づいたとき、床に倒れていた。ただの貧血だろうか。
いくら考えても答えは出ない。そうこうするうちに降車する駅に着いてしまった。車両から降り、大勢の乗客に押し出されるように改札を出る。そのとたん、佐奈は息をのんだ。
「なにこれ?」
目の前には高層ビルの群れがあった。自宅があるはずの集合住宅は影も形も無い。
「なに……これ……?」
佐奈はリュックから携帯端末を取り出す。画面を見る。アンテナが立っていない。圏外だ。そして思い出す。図書館の最寄り駅からモノレールに乗ろうとしたときにも携帯端末は使えなかった。やむを得ず現金を使った。どうしよう……
佐奈は駅から出た。集合住宅のあるはずだったあたりに行ってみる。そこにはひと際背の高いビルが建っていた。エントランス付近にはパラワールド・エンタープライズとアルファベットで書かれている。どうやら外資の企業らしい。どうしよう……
行き過ぎる人の波。佐奈はその中で呆然と立ち尽くす。お腹が鳴った。ほんとうなら母親が夕食の準備をしている時刻だった。何か食べたい。でも携帯端末は使えないし、現金もモノレールの運賃で使い切ってしまった。どうしよう……
佐奈は混乱していた。頭を整理しようとする。それなのに空腹が気になって何も考えられない。
あ! 佐奈は図書館でもらった名刺を思い出した。リュックから取り出す。表には区立中央図書館、司書、上月冴子とあった。裏面には図書館のSNSアカウントや開館時刻が書かれている。閉館は二十一時だ。今は十八時。歩けば二時間もかからず着くだろう。大丈夫、間に合う。あの人に事情を話して何か食べさせてもらおう。佐奈は歩き出した。
*
へとへとになって図書館に着いた佐奈は受付で冴子を呼び出した。彼女はすぐに来てくれて、佐奈は素直に事情を話した。冴子は相槌を打ちながら聞いていた。
「たいへんだったわね」
話が通じた。少なくとも佐奈にはそう見えた。だから訊いてみる。
「家がないんです。わたし、どうしたらいいですか?」
「うちに来るといいわ。わたし一人だけだから大丈夫よ。しばらくいていいから」
佐奈は拍子抜けした。あっけなく今晩の宿が決まったからだ。こんなことでいいのだろうか。佐奈はかえって不安になる。しかしその不安を空腹感が上回る。佐奈は言う。
「でも、お金が……」
「心配しないで。ホテルじゃないんだから」
「でも……」
「今日は遅番なの。二十一時半には帰れるから。閉館してもいるといいわ。一緒に帰りましょう」
そこで冴子は気づいたようだ。
「その前にご飯ね。入り口の喫茶店はまだ営業しているから何か食べてくるといいわ」
「でも……」
「ちょっと待ってて」
冴子はカウンターから席を外し、しばらくして戻ってきた。佐奈に二千円を握らせる。
「これで食べればいいから」
「でも……」
「でもばっかりね。気にしないで」
そこで佐奈の後ろに並ぶ利用者が咳払いをした。佐奈は仕方なくその場所を離れた。
図書館入り口の喫茶店に向かいながら佐奈は考える。冴子には簡単に話が通じた。まるでわたしが来ることを予想していたかのようだった。そういえば名刺だ。あの名刺がなかったら、自分は今でもビル街の谷間で途方に暮れていたことだろう。運がよかったのだ。
*
冴子の家までは車だった。冴子が運転した。ガソリン車だと言う。温暖化対策の厳しいこの頃では珍しい。
その車の中で佐奈は冴子が持ってきていた水筒からお茶を飲んだ。喫茶店ではチャーハンを食べてのどが渇いていたからだ。営業終了間際に食べられるメニューはチャーハンくらいしかなかったのだ。
一時間ほどで着いた冴子の家は一戸建てだった。司書とはそんなに高収入なのだろうか。佐奈にはわからない。
家に入るとすぐにリビングに通された。冴子は言う。
「とりあえず座ってて。テレビを見てもいいわよ。何か食べる?」
佐奈は示されたソファーに座る。今は何もしたくない。とにかく疲れていた。でも、その疲れをおしてでも聞いておきたいことがある。佐奈は口を開く。
「あの……」
リビングから出てゆこうとしていた冴子が振り向く。
「なに?」
佐奈は勇気を振り絞る。
「思ったんです。まるで……わたしが来るのを予想してたみたいだなって……」
その言葉に冴子が向き直った。佐奈を正面から見つめて彼女は言う。
「そうね」
「えっ?」
「あなたが来るとわかってた。正確には、あなたのような誰かが、いつかは来るって」
「わたしのような誰かが?」
「そう。図書館のうわさは知っているわね?」
「どれかの本のどこかのページに魔法陣が描かれていて、そのページを開くと願いがかなう?」
「そうよ」
「それが……」
「あのうわさはわたしが流したの」
佐奈はまるで寝入りばなのように頭がぼうっとしてきた。冴子は続ける。
「あんなうわさを流せば利用者が増える。特にあなたのような少女の利用者が。あなたたちの年頃なら、ああいううわさは好きでしょう?」
佐奈の頭がぐらぐら揺れる。支え切れない。そのままソファーに倒れ込む。部屋がぐるぐる回っている。冴子の声が聞こえる。
「ごめんなさい。少し調べることがあるの。しばらく眠っていてね」
佐奈の瞼に冴子が触れた。視界が閉ざされる。
「おやすみ」
佐奈の意識は閉じられた。
*
佐奈が目を覚ましたとき、そこはベッドの上だった。
朝だ。
起き上がる。
ここは寝室だろうか。
佐奈はパジャマ姿の自分に気づく。
すると、起きるのを待っていたかのように冴子が部屋にやってきた。
「おはよう。眠れた?」
昨日までの優しさとは違う温かさで冴子は訊いてきた。佐奈は訊く。
「なにか、した?」
「性経験があるか調べたの」
「!」
佐奈は布団を引き寄せ、身体を隠す。
「安心して、あなたは処女だった」
あいかわらず温かな口調で冴子は言った。とんでもなかった。車の中で飲んだお茶に薬でも入れていたのだろう。そして眠ってしまったわたしの衣服を脱がし、身体をまさぐったのだ。なのに――
「安心?」
佐奈は語気強く問うた。
「そうよ。安心してここで暮らしていいのよ」
「ここで暮らす?」
「そう」
「誰がこんなところで!」
「じゃあ出ていく?」
佐奈は言葉に詰まる。行く当てなどないのだ。だが言う。
「服を返してください。リュックも」
「いいわよ。でも下着は洗濯して干してあるけどどうするの?」
迷うことなどなかった。冴子はおかしい。一刻も早くここから出なければ。
佐奈は返された衣服に着替え、リュックを背負うと冴子の家をあとにした。
*
冴子の家から佐奈の自宅のあったあたりまでは徒歩で一時間もかからなかった。それでも、昨日から歩き詰めだった佐奈はくたくたになってしまった。
足が痛い。マメができているのかもしれない。佐奈は高層ビルの谷間のベンチに座り込む。
携帯端末のバッテリーはまだ生きている。でも使えない。キャッシュレス決済も通話アプリも起動はするが通信エラーのメッセージが表示される。
リュックの外ポケットを探る。何もない――はずが、何かが手に触れた。佐奈はそれを取り出す。お札が二枚。それに小さな便せんだ。開いて読む。
――いつでも帰ってきていいから――
それだけが書かれていた。佐奈は便せんを丸めて投げ捨てる。
冴子は異常だ。わたしを眠らせて処女かどうか確かめた。
図書館のうわさは冴子が流したと言う。わたしのような少女がやってくるように。
おびき寄せた少女を、なんらかの手段を使って篭絡するのだろう。
冴子のもとに戻るわけにはいかない。
佐奈は街をさ迷った。
二日が限界だった。
食事も、入浴も、なにより睡眠が。
最初のうちは区の窓口を探して歩き回り、探し当てた相談所で事情を話した。どこにも相手にされなかった。冴子のことに触れるとそこに戻れと言うのだ。野宿しか選択肢は無い。
だが深夜、寒さを我慢して街路のベンチで眠ろうとするとすぐに警官が近づいてくる。下手をすれば冴子のところに連れ戻されるかもしれない。警官を避けて一晩中歩いていると朝には意識がもうろうとする。二日目の夜にはもう立っていられなくなってしまった。
ベンチで眠りこけていると、警官に起こされた。詰所に連れていかれ、そして冴子が迎えに来た。名刺を捨てていなかったからだ。
今、佐奈はとにかく眠りたかった。冴子がどうとか、もう考えられなくなっていた。
*
佐奈は冴子の家で眠り、入浴し、着替えて朝食を摂った。
今日の冴子は休日らしい。図書館の司書はそんなに簡単に休めるのだろうか。
身だしなみを整えた佐奈はソファーで休んでいた冴子に声をかけた。
「お話があります」
「なに?」
冴子は佐奈を見ずに答えた。
「テーブルの席についてください」
「あらたまったお話なの?」
「はい」
「そう、仕方ないわね」
今日の冴子は冷たい。
佐奈がテーブルの席に着くと冴子も座った。佐奈は切り出す。
「何人目ですか?」
冴子がほうっという顔をする。
「よく気づいたわね」
「気づきますよ。誰でも」
そうなのだ。冴子は図書館に人が集まるようなうわさを流した。そして本に何か細工をしたのだ。そうやって年頃の少女を手に入れようとした。誰でも気づく。
はたして、冴子は答えた。
「あなたで五人目よ」
そうか五人目なのか。佐奈はつばきをのみ込む。
「わたしの前の四人はどうなりましたか?」
冴子はにやりと笑う.
「するどい!」
「真剣に聞いています」
「あなたが初めてよ。そこに気づいたのは」
「どうなったんですか?」
佐奈は勇気を振り絞って訊いた。その答えを聞くのにはさらに勇気が必要だろう。佐奈は身構える。
「あなたの前の四人は他の世界に行ったわ」
拍子抜けする答えだった。だが、考えようによっては空恐ろしい。
「他の世界?」
「そう」
「本当とは思えません」
冴子が居住まいを正した。
「これから真実を話すわ。少し長くなるけど、いい?」
「かまいません」
「お茶でも淹れるわね」
*
熱いお茶を一口すすると冴子は語り始めた。
「時島佐奈さん、あなたは素粒子物理学の研究者を志望している」
佐奈は意表を突かれた。
「……どうしてそんなことを?」
「知っているかって? あなたの貸し出し図書データを見ればわかることよ」
「わたしのデータが図書館にあったんですか?」
「図書館にはないわ」
「じゃあ何で……」
「あなたの携帯端末にあったの。倒れていた隙に確認させてもらったわ。アプリが起動したままだったから簡単だった」
「盗み見たんですね?」
「人聞きの悪い言い方ね」
「なんのためにそんなことをしたんです?」
「あなたがわたしの娘としてふさわしいか確認するためよ」
「ふさわしい?」
「わたしの娘も同じだったの」
「なにがです?」
「素粒子物理学の研究者を志望していたの」
「娘さんが?」
「今はいないけどね」
「いない?」
「死んだから」
「死んだ……」
「でも別の世界では死んでいない」
「何の話です?」
「順を追って話すわね。図書館の隣の大きな空き地、あれ、元は何だったと思う?」
「空き地?」
佐奈には冴子の言うことがわからない。図書館の隣には高エネルギー素粒子物理学研究所があるからだ。空き地じゃない。すると冴子は気づいたようだ。
「そうか、あなたの世界では空き地じゃないのね。あなたの世界の図書館の隣にはなにがあったの?」
あなたの世界、あなたの世界と冴子は言う。佐奈には意味がわからない。だから普通に答える。
「高エネルギー素粒子物理学研究所です」
長い名前を佐奈はすらすらと答えた。何度も見学に訪れた施設だからだ。冴子がうなずく。
「そう、やっぱりね」
「やっぱり?」
「こっちの世界でもそうだったのよ。四年前までは」
「だった?」
「そう。事故が起きて焼失してしまったの」
「事故?」
「高エネルギー実験をしていたの。わたしは非番だったけど、娘が見学に行っていた。夫も」
「非番? 見学?」
佐奈には話しが見えない。冴子は続ける。
「わたしはもともとあそこの研究員だったの。娘と夫が事故に巻き込まれて死んだわ。この世界ではね」
冴子は何度もこの世界と言っている。それが何を意味するのか。
「ねえ、佐奈さん」
「なんですか?」
「多世界解釈って知ってる?」
「並行世界論のことですか?」
「そうよ」
「事故が起きたとき、研究所はその実験をしていたの」
「実験?」
「そう。多世界解釈は現実だと実証しようとした」
「そして事故が起きた?」
「そう。そして開いてしまった」
「なにが?」
「別の世界への出入り口が。図書館に」
そんなばかな。まるでライトノベルじゃないか。佐奈はあきれた。冴子は続ける。
「その出入り口を通って、あなたは別の世界からここへきたのよ」
「そんなわけ……」
「ない? じゃあ、あなたの家がないこと、携帯端末が使えないことをどうやって説明するの? ぜんぶわたしがやったの?」
「それは……」
「失敗した実験の計画はよく知っていた。失敗したあと、別の世界への出入り口がどうなったのか計算してみた。そしたら図書館に開いていることがわかった。他の人は誰も相手にしてくれなかったけどね」
「信じられない………」
「信じなくていいわ。とにかくあなたは来た。わたしの娘となるために」
佐奈の心になにかがかちりとはまった。
「そうだったんですね……」
「納得した?」
「納得しました。娘さんも処女だったんですね?」
「そうよ」
「だからわたしが処女かどうかを確かめた」
「そう」
佐奈は息を吸い込んだ。
「あなたは狂ってる」
*
それからは修羅場だった。並行世界論が現実で、しかも図書館に他の世界との出入り口が開いていると冴子は信じていた。並行世界があるのなら、どこかに自分の娘が生きている世界もあると考えたのだろう。それがかなわなくとも、ここから近い世界に存在する自分の娘と同じような少女を呼びよせようと考えたのだ。
信じられない。佐奈は家を飛び出そうとした。そこに冴子が抱き着いて止める。しまいには刃物まで持ち出してきた。佐奈は椅子を振り回し、窓ガラスを割った。近所の誰かが通報し、警察がやってきた。佐奈も冴子も所轄の警察署に収監された。
そこで佐奈は思い知らされた。戸籍が見つからなかったからだ。自分はこの世界に存在しないはずの人間だったのだ。
佐奈は施設に引き取られた。
*
夜。
佐奈は施設を抜け出した。
そして自宅のあったはずのビル街で夜明けまで過ごした。
朝九時になった。図書館の開く時刻だ。
佐奈は図書館に向かう。
着いた。
入る。
冴子に感づかれないように慎重に、あの日の、気を失った書架に行く。
あった。
あの本だ。
手に取る。
「佐奈さん」
右側から声をかけられた。驚いて声の主を見る。冴子だった。
「帰るつもりなのね?」
その通りだった。結局、佐奈は冴子の言葉を信じた。それ以外に今のこの状況を説明する方法がなかったからだ。だからここまで来て、そして本を手に取った。そうすることで帰ることができるなら、冴子の言葉を信じる他ないではないか。だが、その冴子は言う。
「無理なのよ。帰ることはできない。並行世界は無数に存在する。出入り口の先は元の世界じゃないの。もう一つの別の世界なのよ。そんな世界に行ったらもっと苦労する。この世界で暮らしましょう」
懇願するような声だった。冴子の優しさや温もりは本物なのだろう。ならば異常さも本物だ。一緒には暮らせない。
佐奈は本を開いた。複雑な文様が浮かび、眩しい光が佐奈を包む。
その刹那、佐奈はこれまでの出来事を振り返る。
冴子が背にしている窓の向こうには広大な空き地が広がっていた。そう、この世界に高エネルギー素粒子物理学研究所はない。わたしの世界にはあった。この世界で起こったはずの事故は、わたしの世界では起こらなかったのだ。
ならば、だ。別の世界への出入り口と言うものが、なぜわたしの世界にもあったのか。その説明がつかない。わたしの世界では、別の世界への出入り口を開いたと言う事故が起こらなかったのだから。
それにもう一つ。わたしがもといた世界の図書館に冴子のような司書はいなかった。少なくともわたしは知らない。じゃあ、わたしの世界での、あのうわさは、いったい誰が、どんな目的で流したのか。この世界では冴子が流したと言っていた。自分の娘を取り戻すために。もといた世界で事故は起きていない。たとえ冴子がいたとしてもその娘は亡くなっていない。だから冴子がいてもうわさを流す必要などない。なにかがおかしい。そう気づいたとたん、佐奈の意識は失われた。
*
佐奈は目覚めた。
目の前には見覚えのある巨大な白い筐体がそびえている。
量子コンピューターだ。
ここは高エネルギー素粒子物理学研究所の量子コンピューター室だ。
佐奈は立ち上がる。
そのとき――
「量子コンピューター室に異常あり。量子コンピューター室に異常あり。演算が暴走します。危険です。退避してください。危険です。退避してください」
人工音声が大音量で避難をうながし始めた。
そして眩い光。
次に意識を取り戻したとき、誰か若い女性が佐奈をのぞき込んでいた。その誰かは言う。
「やっと戻れたわ」
佐奈は訊く。
――あなたは誰? ――
佐奈のその声は声にならなかった。だが、少女は答えた。
「わたしは上月美紀」
――上月? ――
「そうよ。高エネルギー素粒子物理学研究所の実験を見学中に事故が起きた。気づいたら本になっていた。量子力学の教科書に。今のあなたみたいに」
えっ?
佐奈はようやく気づく。
本だ!
わたし本になっている!
そんな!
そんなこと!
ありえない!
佐奈は恐慌状態に陥った。美紀が語りだす。
「驚いた? 本の中に別の世界からの出入り口が開いているようなの。わたしの世界では多世界解釈を実証する高エネルギー実験が失敗した。そのせいでわたしはこの世界の本の中に飛ばされた。たぶんこの世界では高エネルギー実験が失敗していないか、行われてもいない。そのせいで、わたしは本の中に閉じ込められてしまった。たぶんね」
そこで美紀の言葉が途切れた。佐奈はようやく落ち着きを取り戻す。美紀が訊いてくる。
「もとに戻りたい?」
――もちろん!――
「なら祈って。誰かがあなたを手に取ることを。そうすれば戻れるかもしれないから。あなたがわたしを手に取ったときのように」
突然、佐奈の視界が暗転した。本が閉じられたのだ。書架に収められるような感覚がある。遠ざかる気配。
静かだ。
狂いそうなほど静かだ。
これは現実なのか?
自分は本当に本になってしまったのか?
今、感情の狂騒は無い。
変わって感じるのはきらめき、きらきら光る電子の流れ。
そこで佐奈は思い出す。この図書館の本は全て紙の本の形をした電子書籍であることを。それらが WiFi でネットに接続されているのだ。
この図書館で、本は電子回路の塊だった。その回路が意識の受け皿になったのかもしれない。いや、身体として意識できるのは一冊の本だが、本体はサーバーにあるのかもしれない。ならばやり方はある。元に戻る方法が。
佐奈はネットにアクセスし、まず無料のメールアドレスを取得した。
そのアドレスを使ってSNSのアカウントを作る。
そして書き込むのだ。
その図書館には、奇妙なうわさがあった。
図書館にあるどれかの本のどこかのページには魔法陣が描かれていて、そのページを開くと願いがかなうという。
了




