第5話:「社畜」と「王子」
ルビィの一件を終え、王宮を包んでいた死の気配が霧散した頃。
王宮の最上階にある空中庭園のバルコニーに、サラは一人でいた。
「……はぁ。さすがに、ちょっと疲れたかな」
夜風に当たりながら、サラは自分の両手を見つめる。
こちらの世界に来て、まだ一日も経っていない。
それなのに、伝説のグリフォンを救い、王子の守護竜を救った。前世での不眠不休の当直に比べれば、魔力を使ったことによる疲労はどこか澄んでいて、心地よい脱力感が全身を包んでいた。
「夜風は体に障るぞ、小さな救世主どの」
不意に背後から、低く、そして耳に心地よい響きの声が届いた。
振り返ったサラは、一瞬、呼吸を忘れた。
そこに立っていたのは、月光を一身に浴びたレオンハルトだった。
昼間の騎士の恰好から銀糸の刺繍が施された濃紺の礼装に身を包んだ彼は、まさに「絵画から抜け出してきた王子」そのものだ。
月光を吸い込むようなプラチナブロンドの長髪は、風に揺れるたびに真珠のような光沢を放ち、夜空の深淵を映したようなサファイアの瞳は、吸い込まれるような神秘的な美しさを湛えている。
彫刻のように整った鼻梁、薄く引き結ばれた唇は、優雅さの中に王族としての揺るぎない意志を感じさせた。
あまりに眩しいものを見たときのように、サラは少し照れくさくなって、わずかに視線を逸らした。
「あ……レオンハルト様。すみません、勝手に外に出ちゃって」
「気にするな。この庭園は私の気に入りでね。……それと、二人だけの時は敬語も抜きで構わない。君とは、立場を超えた『対等な協力者』でありたいと思っているからな」
レオンハルトはサラの隣に並び、大理石の手すりに肘をついた。
至近距離から漂う、わずかな白檀の香りと、鍛え上げられた騎士らしい凛とした気配。
(……本当に、綺麗な人だなあ。前世のアイドルや俳優だって、ここまで現実離れした美形は見たことないわ)
「改めて、名乗らせてほしい。私はレオンハルト・エル・エルディナ。このエルディナ王国の第一王子であり、聖獣騎士団を束ねる者だ。君をこの国へ正式に招待した責任者として、改めて礼を言わせてくれ」
「私はサラ・コレットです。もともとは、ここではない遠い場所で『獣医師』という仕事をしていました。……魔法は使えません。ただ、生き物の体の仕組みを知っているだけです」
「ジューイ、か。聞き慣れぬ言葉だが、君がルビィに見せたあの手際は、単なる魔導士のそれではない。君は一体、あちらでどのような日々を送っていたのだ?」
サラはふっと目を細め、夜空の向こうにある、もう戻ることのない故郷を思い出した。
「……休みも、夜も昼もなくて。誰かが休んでいる時も、誰かが遊んでいる時も、私はずっと……言葉を話せない患者たちの命を繋ぎ止めることだけを考えていました。
正直、ボロボロな毎日でしたよ。ボロボロの作業着で、泥と毛にまみれて。
でも、目の前の命が消えそうな時に、自分の都合で背中を向けることだけは、どうしてもできなかったんです。
それが、私のいた世界の『当たり前』でしたから」
その言葉を聞いたレオンハルトの瞳に、深い陰影が宿る。
彼はサラの指先にある小さなタコや、かつて手術器具を扱い、暴れる動物を抑えてきたことでついた古い傷跡を、静かに、そして敬意を込めて見つめた。
「……君のいた世界は、これほど勇敢な専門家を、それほどまで酷使していたのか。我が国は魔獣を崇めているが、その実、彼らの悲鳴を聞き届けられていなかった。祈るだけで、君のように『救うための手』を伸ばす術を知らなかったのだ。恥ずべきことだ……伝統という名の無知に、我々は甘えていた」
レオンハルトは、隣に立つ小さな横顔を見つめた。
華奢で、どこか儚げに見えるのに、その瞳には決して折れることのない意志の炎が灯っている。
「サラ。君の持つその知識と技術、そして何より『絶対に諦めない』というその意志に、私は賭けてみたいと思った。我が国には、君が必要だ。君の『獣医学』が、この国の魔獣たちを、そして騎士たちの絆を救う光になる」
「レオンハルト様……」
「約束しよう。君を二度と、前の世界のような『使い捨ての労働』にはさせない。君が思う存分、動物たちのために腕を振るえる場所を、そして君が君らしく笑っていられる環境を、私が命を懸けて保障する。……この国の未来を診てはくれないだろうか?」
その言葉は、最高級のリスペクトであると同時に、孤独だったサラの心を優しく包み込むような温もりに満ちていた。
(……ああ。私、この言葉が欲しかったんだ……)
サラは、胸の奥がじんわりと熱くなるのを感じた。
王子が向ける眼差しが、あまりにも真摯で、少しだけ眩しすぎて。
王子の手がそっと差し出される。
サラは顔を赤らめながらも、その手をしっかりと握り返した。
「はい、よろしくお願いします! 私の知識、エルディナのために全部使います。」
「ふっ、頼もしいな。だが、あまり無理をしないでほしい。 君の健康管理も、私の大事な仕事だ」
レオンハルトは満足げに目を細め、ゆっくりと手を離した。
月明かりの下、二人の間に結ばれたのは、立場も世界も超えた固い信頼。
そして、サラの心に芽生えたのは、新しい世界への希望と、自分を守ってくれる存在への、淡く、確かな安心感だった。




