後日談:空飛ぶ羊
砂漠から帰還して数日。
サラはレオンハルトの「安全を確保するまでは王宮の離れに滞在するように」という半分公私混同した命令に従い、豪華なゲストルームで過ごしていた。
けれど、サラが窓の外を見上げる回数は日に日に増えていた。
「ルナちゃん、元気にしてるかな……。あの後、ちゃんと栄養のあるものを食べてるかしら」
そんなサラの心配が、まさかあんな形で現実になるとは誰も予想していなかった。
それは、レオンハルトが執務の合間にサラの様子を見にバルコニーを訪れた、穏やかな午後のことだった。
「サラ、調子はどうだ。砂漠の疲れは……何を見ている?」
レオンハルトが声をかけると、サラは呆然と空を指差していた。
「レオン、あそこ! 雲が、階段みたいになってこっちに向かってくるわ!」
見れば、青空に浮かぶ白くふわふわとした雲が、まるで意志を持っているかのように一つ、また一つと連なり、王宮のバルコニーへと伸びている。
そしてその「雲の階段」を、軽やかに、かつ優雅に踏みしめて歩いてくる影があった。
「メェェ……」
「……ルナちゃん!?」
そこにいたのは、ゴドウィンの農場にいるはずの白銀羊、ルナだった。
ルナはサラの姿を見つけると、最後の一段を飛び越え、バルコニーの柵をひらりと飛び越えて着地した。
「まあ! 本当に会いに来てくれたのね!」
サラが駆け寄り、ルナの首元に顔を埋める。
ルナは嬉しそうに喉を鳴らし、月の光を宿した柔らかい耳をサラの頬にすり寄せた。
霊獣としての魔力を使い、空の雲を固めてここまで歩いてきたのだ。
「ルナ、あなたってば凄いわ……。こんな高いところまで。寂しかったの?」
ルナは「その通りだ」と言うようにサラの服の裾をそっと噛み、甘えるようにすり寄る。
その姿は、かつての神聖な霊獣というよりは、大好きな飼い主に再会した子犬のようだった。
その微笑ましい光景を、信じられないものを見るような目で見つめていた男がいた。
「……ありえん。王宮の結界をすり抜け、雲を渡ってまで一人の女を追いかけてくるとは。
この羊、一体どれほどの執念を……」
レオンハルトは、サラを独り占めしているルナに、隠しきれないライバル心を燃やした。
「おい、羊。離れろ。それは私の......いや。サラが重いだろう?」
レオンハルトがサラの肩を引き寄せようと手を伸ばすと、ルナはくるりと向きを変え、モフモフの臀部を王子の顔にぐいっと押し付けた。
「なっ……貴様……!」
「まぁまぁ、レオン。ルナちゃんはただ、お礼が言いたかっただけなのよ。
ほら、見て。毛並みがこんなに輝いてる」
影の中からその様子を見ていた夜一が、くすくすと笑いながら姿を現した。
「グルル(よくやった、羊。主人の負けだな)」
「夜一、貴様まで! ……ボリス! ボリスはどこだ! 今すぐこの羊を農場へ送り返す転移陣を書かせろ!」
レオンハルトが声を荒らげるが、ルナはどこ吹く風。サラの隣にどっしりと座り込み、「私はここから動かない」という断固たる意志を見せている。
結局、その日の午後は、サラとルナ、そして不機嫌そうな王子とそれを嘲笑う黒豹という、奇妙な顔ぶれでティータイムを過ごすことになった。
「ルナちゃん、本当にすごいわね。あんなに高い王宮のバルコニーまで、迷わずに来てくれるなんて……」
サラは、足元で満足そうに丸くなっているルナの、白銀に輝く毛並みをゆっくりと撫でた。
その手触りは、普通の羊の毛とは明らかに違う。
指を通すと、微かな魔力の熱と、ひんやりとした月光の心地よさが同時に伝わってくるのだ。
「……おやおや、サラ先生。ルナ殿がなぜ『白銀羊』と呼ばれるか、その由来をご存じかな?」
バルコニーの隅で、急遽レオンハルトに呼ばれたボリスが面白そうに目を細めながらパイプをくゆらせた。
ボリスが語るには、ルナのような白銀羊は、ただの希少な動物ではない。
古くからエルディナ王国に伝わる、『空と地脈を繋ぐ天の使い』なのだという。
白銀羊は、普通の草も食べるが、最も重要な栄養源は「月光」そのものだ。
夜、月の光を浴びることでその毛に魔力を蓄え、不純物を浄化する。
ゴドウィンが食べさせた「毒芥子」が恐ろしかったのは、その毒がルナの魔力伝導を阻害し、内側から月光のエネルギーを「腐らせて」しまうからだった。
「だから、あの時あんなにくすんだ色をしていたのね……」
サラの言葉に、ルナは「メェ」と小さく鳴いて同意した。
白銀羊の最大の特徴は、周囲の水分を魔力で固定し、実体化させる能力だ。
ルナが雲の階段を作って王宮までやってきたのは、単なる移動手段ではない。
本来、白銀羊は地脈が枯れ、雨が降らない場所に現れ、空の雲を呼び寄せて大地を潤す「豊穣の兆し」として崇められてきた。
「つまり、ルナ殿が王宮に居着くということは、この王宮が地脈の豊かな、素晴らしい場所だと認めた証拠ですな。
……あるいは、それ以上に惹かれる『太陽のような光』が、ここにあるのか」
ボリスがサラをちらりと見る。
サラは首を傾げたが、隣にいたレオンハルトは、ルナがサラに甘える姿を見てさらに眉間に皺を寄せた。
白銀羊の毛は、その時々の感情によって輝きを変える。
深い愛情や感謝を感じている時の毛は、『月の涙』と呼ばれるほど高い魔力伝導率を持つ糸になり、最高の魔導具の素材になるのだ。
「見てください、レオン。今のルナちゃんの毛、これまでで一番キラキラしてるわ!」
サラがルナの首元を撫でると、ルナの体から柔らかな銀の粒子がふわりと舞い上がった。
それは、ルナがサラに対して抱いている、純粋で絶対的な「信頼」の証だった。
「……なるほど、雲を渡り、月光を糧とし、感情を糸にするか。実に厄介な生き物だ」
レオンハルトは、サラの手をぺろぺろと舐めて離さないルナを、もはや「ただの患者」とは思えなくなっていた。
「サラ、その羊の毛にあまり触れるな。魔力が中て(あて)られて、お前が眠くなってしまうといけない」
「えぇ? そんなことないわよ、とっても気持ちいいのに。レオンも触ってみる? ほら」
サラが強引にレオンハルトの手を取って、ルナのモフモフした背中に乗せる。
その瞬間――ルナの毛が、パチッと静電気のような小さな火花を散らした。
「メッ!!」
ルナが露骨に嫌そうな顔をして、レオンハルトの手を鼻先で押し返す。
「……この羊、今、私を明確に拒絶したな?」
「おっほっほ! 殿下、どうやらルナ殿も、サラ先生を巡る『ライバル』を察知したようですな。
月の光は、不純な独占欲には厳しいようですぞ」
「ボリス!!」
王宮のバルコニーに、王子の怒声と、サラの柔らかな笑い声、そして勝ち誇ったようなルナの鳴き声が響き渡った。
「ふふ、ルナちゃん。今夜は一緒に寝る?」
サラのその一言に、レオンハルトが「それだけは断固拒否する!」と、砂漠での魔力暴走時よりも必死な顔で叫んだのは言うまでもない。




