第21話:影の黒豹
「あーーー!!」
サラの絶叫が、早朝の静かな診療所に木霊した。
「ちょっと殿下! さっきからどいてって言ってるのに! それからそこの黒豹さんも、影から尻尾を出さない! 踏んじゃうでしょ、危ないわね!」
サラは両手に抱えた特大の消毒薬の瓶を、診察台にガツンと叩きつけた。肩で息をする。
事の始まりは数時間前。
レオンハルト宛の極秘親書を運んでいた『シャドウ・パンサー』の夜一が、深手を負って診療所の影に滑り込んできたことだった。
治療自体はサラの的確な処置であっさりと終わった。
だが、問題はその「後」だ。
夜一はすっかりサラの腕前に心酔し、命を救われた恩義を感じたのか、サラが歩くたびに彼女の足元に伸びる「影」の中を、我が物顔で並走し始めたのだ。
一方、報せを聞いて駆けつけたレオンハルトは、第一王子としての機密情報を守るという建前を盾に、サラの至近距離にべったりと張り付いて離れない。
「サラ、危ないと言っているだろう。その豹はまだ傷が塞がりきっていないし、魔力も不安定だ。
私がそばにいないと、お前がうっかり影の深淵に引きずり込まれる可能性がある」
「引きずり込まれるも何も、殿下がそんなに密着してたら作業ができない! ほら、右足を出そうとしたら殿下の高そうなブーツに当たるし、左足を出そうとしたら影から夜一さんの尖った耳が見える。
これじゃ千鳥足で往診に行く羽目になるわ!」
「グルル……」と、不機嫌そうな唸り声がサラの足元から響く。
影の中から夜一が、鋭い金色の瞳をレオンハルトに向けた。
どうやら「この人間の女の影は俺が気に入った寝床だ、邪魔な男はどけ」と、かつての主人である王子に抗議しているらしい。
「……何を。ここは私の場所だ。サラの護衛と安全確保は、第一王子である私の義務、そして特権だぞ」
レオンハルトは、あろうことか一匹の霊獣を相手に、サラの影のポジションを巡って本気でムキになり始めた。
「二人とも、いい加減にして! 私はこれから隣町の羊たちを……」
サラが痺れを切らし、強引に二人を押し退けて一歩踏み出した、その時だった。
夜一がレオンハルトを威嚇しようと、反射的に影の魔力を増幅させた。
同時に、レオンハルトも夜一を影から引きずり出そうと、その腕に黄金の魔力を込める。
聖獣医の怒り、王子の魔力、そして霊獣の不安定な影の力が、狭い診療所の中で最悪の形で混ざり合った。
「――えっ、影が、浮いて……!?」
サラが驚きに目を見開いた瞬間、彼女の足元の影が、まるで底なしの沼のようにドロリと広がり、三人(一人と一匹と一羽)を丸ごと飲み込んだ。
「サラ! 私の手を離すな!」
レオンハルトが叫び、サラの腰を強く抱き寄せる。
視界が真っ黒に染まり、浮遊感と圧迫感が交互に押し寄せた。
数秒か、あるいは数分か。
次に目を開けたとき、三人は柔らかい砂の上に放り出されていた。
「……いたたた。ちょっと夜一さん、着地くらい……えっ、ここどこ!?」
サラが立ち上がり、周囲を見渡して絶句した。
そこはエルディナの緑豊かな風景ではなく、見渡す限りの赤い砂漠。
遠くには、見たこともないほど巨大な植物が、まるで塔のようにそびえ立っている。
「……影渡りの座標が狂ったか。夜一、貴様、傷のせいで制御が……」
レオンハルトが隣で砂を払いながら立ち上がる。
その表情は、第一王子としての険しさを取り戻していたが、サラの肩を抱く手だけは、まだ微かに震えていた。
「レオン、あそこ見て! 太陽が二つある……!」
「……大陸の南の果て、禁忌の砂漠か。あるいは、それ以上に遠い場所か。
とにかく、エルディナではないことは確かだ」
足元では、夜一が「やっちまった」という顔で耳を伏せ、申し訳なさそうにサラの靴を舐めている。
「もーーー!! 羊たちの検診はどうなるのよ! それに、今日のご飯の材料もまだ買ってないのに!」
砂漠の真ん中で頭を抱えるサラに、レオンハルトは苦笑して彼女の頭をそっと撫でた。
「安心しろ。どんなに遠い場所だろうと、私がお前を必ず連れて帰る。
……それに、ここには見たこともない薬草や、珍しい生き物がいるかもしれないぞ?」
「……。それ、私がその言葉に弱いって知ってて言ってるでしょ?」
サラが唇を尖らせると、レオンハルトはいたずらっぽく目を細めた。




