第20話:初めての訪問診療
「おっほっほ、サラ先生。準備はよろしいですかな? 忘れ物をして『もーーー!』と叫んでも、ワシは馬車を戻しませんぞ」
診療所の前、迎えの馬車のステップに足をかけたボリスが、茶目っ気たっぷりに目を細めて笑った。
「失礼ね、先生。忘れ物なんてしてないわよ。
消毒薬に、聴診器に、鎮静の魔法薬……。ほら、準備万端なんだから」
サラは真新しい診察カバンを愛おしそうに抱きしめ、ふわりと微笑んだ。
今日は彼女が聖獣医として正式に受ける、初めての訪問診療。
不安がないわけではないが、助けを待っている生き物がいると思うと、自然と胸が高鳴る。
「それは頼もしい。……ですが、今回の相手はあの『頑固者のゴドウィン』です。
王都の騎士団ですら門前払いを食らうという噂の男。サラ先生のような心優しい方が行けば、心ない言葉に傷ついてしまうのではないかと心配ですぞ」
「……どんなに厳しい言葉をかけられても、私は平気よ。
だって、一番辛いのは病気で苦しんでいる動物たちだもの。
飼い主さんが少し偏屈なのは、それだけ自分の動物を心配して、誰にも触らせたくないって思っている裏返しなのかもしれないしね」
サラの穏やかな、けれど芯の強い言葉に、ボリスは感心したように頷いた。
「おや、夜一。そんなところで丸まっていないで、サラ先生の影に潜り込みなさい。
殿下から『サラに羽虫一匹近づけるな』と厳命を受けておるのでしょう? あなたも、彼女の優しさを守る盾になりなさい」
ボリスが杖で地面を突くと、診察カバンの影から漆黒の耳がぴょこんと飛び出した。
夜一はどこか気恥ずかしそうに「グルッ」と短く鳴き、サラの影へと滑り込む。
「さあ、参りましょうか。聖獣医サラ、記念すべき最初の患者……月の光を編んだ羊、ルナ殿が待っておりますぞ」
「ええ。待っててね、ルナちゃん。今すぐ助けてあげるから」
期待と祈りをカバンに詰め込んで、サラを乗せた馬車は王都の外縁へと走り出した。
「もーーー!!」
サラの絶叫が、放牧地の一角にある古い羊舎に響き渡った。
サラが聴診器を握りしめて怒鳴る相手は、第一王子の教育係にして元宮廷魔導師のボリス。
そして、レオンハルトから「護衛」として無理やり付けられた、影の豹・夜一だ。
レオンハルト自身は王宮での軍事会議から抜け出せず、代わりに「魔法の権威」であるボリスが付き添うことになったのだが、これがまた別の意味でサラの頭痛の種となっていた
「ちょっとボリス先生! 適当な魔法で誤魔化さないでくださいってば!
それから夜一さん、影の中で寝てないで! 羊が怯えてパニックになっちゃうでしょ!」
サラが聴診器を握りしめて怒鳴る相手は、優雅に鼻歌を歌うボリスと、完全に影に溶けてサボり中の夜一だ。
「ケッ、聖獣医だか何だか知らねえが、こんな小娘とうさんくさい隠居じじいに、うちの『ルナ・フリース』が救えるもんか」
腕を組んで鼻で笑うのは、農場の主・ゴドウィンだ。
彼は、隣で紫色の煙を吐くボリスを指差して吐き捨てた。
「おまけに連れてきたのは、真っ黒な野良猫ときた。縁起でもねえ」
「おっほっほ、野良猫とは失礼な。これは第一王子の影を司る立派な霊獣ですぞ。
まあ、今の主人がいないのをいいことに、サラ先生の影で昼寝を決め込んでいるようですがな」
ボリスが杖で地面の影を突くと、夜一が「グルッ」と不機嫌そうに片目を開けた。
「……そんなことより、ゴドウィンさん。この子の診察をさせて」
サラは男の毒舌を無視し、横たわる巨大な白銀羊――月を冠する名を持つ『ルナ』の隣に膝をついた。
月の光を編んだような美しいはずの毛並みは、今は泥のようにくすみ、羊は荒い息を吐きながら苦しげに震えていた。
「……ひどい熱。ゴドウィンさん、この子に最近、何か変わったものを食べさせなかった?」
「あ? 西の崖に咲いてた『虹色の草』をひと束な。毛並みが良くなるっていう最高級の餌だぞ」
サラの瞳が、一瞬で氷のように冷たくなった。
「虹色の草……それ、『七色毒芥子』の若芽じゃない! 霊獣にとっては猛毒よ。
そんなことも知らないで、よく飼い主なんて名乗れたわね!」
「なっ……、このガキが! 俺に説教垂れる気か!」
逆上したゴドウィンがサラの肩を掴もうとした瞬間――。
ボリスの杖が、音もなくゴドウィンの鼻先に突きつけられた。
「……おや、おやめなさい。この娘は今、王家が最も重用する聖獣医。
彼女に指一本でも触れてごらんなさい、あなたの農場は明日には『王立更地公園』に変わることになりますぞ?」
ボリスの言葉は穏やかだったが、その背後には元筆頭魔導師としての、空気を圧し潰すような魔圧が立ち昇っていた。
「ボリス先生、圧力をかけるのは後! 手伝ってください! この子の胃に溜まった毒素を、魔力で直接分解します!」
「承知いたしました。サラ先生、ワシの手を」
サラはボリスの枯れ木のような、しかし確かな力を秘めた手を握った。
ボリスから流れ込む魔力は冷徹で精密なエネルギーだ。
サラはその魔力を指先で細く鋭く加工し、ルナの体内へと送り込む。
「夜一さん! 影を広げて体温を吸い取って! 今!」
夜一がようやく本気を出し、床一面に漆黒の影を広げた。
ひんやりとした冷気が羊を包み込み、熱が引いていく。
やがてルナが大きく身震いし、浄化された毒素を銀色の霧として吐き出した。
その瞬間、毛並みが一気にまばゆい輝きを取り戻した。
「……メェェ……」
意識を取り戻したルナが、ゆっくりと顔を上げた。
ルナは立ち上がると、心配そうに見つめていたサラの首筋に、自分の柔らかい鼻先をそっと押し当てた。
「ふふ、もう大丈夫よ、ルナ。苦しいのは飛んでいったから」
サラが銀糸のような毛並みに指を通すと、ルナは嬉しそうに喉を鳴らし、サラの頬をペロリと舐めた。
その瞬間、サラの脳裏に涼やかな月の雫が滴るような、穏やかなイメージが流れ込む。
「……えっ、ありがとう。あなた、とっても優しいのね」
ルナはさらに甘えるように、大きな体をサラに預けてきた。
「……すまねえ。俺が馬鹿だった。ルナがこんなに光り輝くのを……初めて見た」
「仕方ないわ、生き物と暮らすということは知らないものを知るのと同じことなんだから」
膝をついて謝罪するゴドウィンに優しく微笑みかけながらに¥、サラはルナの柔らかな首元を優しく撫で続けた。
「さあ、帰りましょう。殿下が首を長くしてお待ちですぞ。
……おや、夜一。そんなに急いでどこへ行く? まさか『影渡り』の練習でも始めるつもりですかな?」
ボリスが愉快そうに笑いながら、影の中に潜る夜一を見送った。
サラはルナにもう一度「またね」と声をかけ、馬車へと向かう。
この後、あの「影の事故」へと巻き込まれ、二つの太陽が昇る砂漠へと飛ばされることになるのだが――。
それは、また次のお話である。




