後日談:月明かりの水中散歩
人魚王との和解から数日後。湖の浄化作業も落ち着き、王都には再び清らかな水が流れ始めていた。
ある日の夕暮れ、研究室で顕微鏡の改良に没頭していたサラのもとへ、レオンハルトが訪ねてきた。
その手には、人魚王から贈られたばかりの、深海の色をした青い宝玉「海神の息吹」が握られていた。
「サラ、少し付き合ってくれないか。……君に見せたいものがあるんだ」
少し照れたように視線を外すレオンに連れられ、サラがやってきたのは、夜の帳が下りた「清流の湖」だった。
昼間の喧騒が嘘のように静まり返り、湖面には満月が銀色の道を作っている。
「レオン、ここって……。まだ夜は冷えるわよ?」
「大丈夫だ。これがあればな」
レオンが「海神の息吹」を掲げると、青い光の膜が二人を優しく包み込んだ。
彼はサラの手をしっかりと握り、そのまま躊躇なく湖の中へと足を踏み入れた。
水が肌に触れた瞬間、サラは驚きに目を見開いた。
冷たさを感じるはずの水は、まるで春の風のように温かく、そして肺には地上と同じように澄んだ空気が満ちていた。
二人がゆっくりと湖底へ沈んでいくと、そこには昼間には決して見ることのできない絶景が広がっていた。
「わあ……! 綺麗……!」
湖底の岩場には、浄化された水に反応して発光する「月光苔」が群生し、まるでおとぎ話の街灯のように辺りを淡く照らしている。頭上を見上げれば、水面を透過した月光が波に揺られ、銀色のオーロラのように降り注いでいた。
「昼間の調査では、泥やカビしか見ていなかっただろう? 君が救ったこの湖の、本当の姿を見せたかったんだ」
レオンの声は、水の中だというのにクリアに響いた。
彼は泳げない恐怖を完全に克服したわけではないはずだが、この「海神の息吹」のおかげで、今は余裕を持ってサラの隣を歩いている。
色とりどりの小魚たちが、二人の周囲を不思議そうに泳ぎ回る。サラが指先で月光苔に触れようとすると、レオンが背後からそっと彼女の腰を支えた。
「……あの日、君が沈んでいくのを見た時、心臓が止まるかと思った」
唐突な告白に、サラは動きを止めた。
「私は今まで、剣一本あれば守れないものなどないと思っていた。
だが、水の中や、目に見えない小さな虫……私の知らない世界で君が戦っているのを見るたび、自分の無力さを思い知らされる」
レオンはサラの手を自分の胸元へ引き寄せ、真剣な眼差しで彼女を見つめた。
「だから、お願いだ。これからも私の知らない『命の理』を教えてくれ。私は、君が守るべき世界を、君ごと守り抜く盾になる。……この深い水底から、あの高い空までな」
サラは、彼の真っ直ぐな言葉と、繋がれた手の熱に、胸がいっぱいになった。
「……レオン。私の方こそ、あなたがいてくれないと、どこかで足を踏み外して沈んでたわ。これからも、私の無茶に付き合ってくれる?」
「ああ。君が行く場所なら、地獄の果てまで付き添おう」
二人はしばらくの間、月光が降り注ぐ静かな水底で、寄り添いながら幻想的な景色を眺め続けた。
それは、激動の毎日を送る聖獣医と騎士にとって、何物にも代えがたい「秘密のデート」となった。
二人が幻想的な水中散歩を楽しんでいるその時。
少し離れた大岩の陰や、揺らめく水草の間から、いくつもの瞳がキラキラと二人を凝視していた。
「……ねえ、見て。あの人間の王子、宝玉をあんな風に使うなんて」
岩の隙間から顔を出したのは、ミーナ姫の侍女たちだ。
人魚特有の透き通るような声が、水の中で共鳴し合う。
「『海神の息吹』は、本来、荒れ狂う海を鎮めたり、水底の都市を築くための神聖な宝玉なのに……。ただの『夜のお散歩』に使うなんて、なんて贅沢なのかしら」
「いいじゃない、素敵よ。見て、あの殿下の腕。
サラ様が少しでもバランスを崩しそうになると、すぐに支えられるようにずっと腰の近くに手を添えているわ。……まるで、触れると壊れてしまう宝物を扱っているみたい」
「ふふ、でも殿下ったら顔が真っ赤よ。水の中だからバレないと思っているのかしら?」
すると、ひときわ大きな珊瑚の陰から、ミーナ姫本人がニヤニヤしながら姿を現した。
「本当ね。あんなに強くて恐ろしい魔圧を放つ御方が、サラ様の前ではただの恋する若造だわ。……でも、あんなに大切にされているサラ様が、少し羨ましいわね」
「姫様! 止めてください、そんな身を乗り出しては気づかれてしまいます!」
「大丈夫よ、あの二人は今、お互いのことしか目に入っていないもの。
……あ、見て! 殿下がサラ様の手を胸に当てたわ! くるわよ、愛の告白よ!」
人魚たちは一斉に口元を押さえ、黄色い歓声を(泡にして)上げた。
「……でも、サラ様も罪作りだわ。あんなに真剣に口説かれているのに、時々、通りがかった小魚の鱗の並びを観察するような目をするんですもの」
「あはは! それがサラ様よ。あの『見通す瞳』があるからこそ、私たちは救われたんだもの。殿下には、これからも苦労していただかないとね」
ミーナ姫は楽しげに尾鰭を振ると、いたずらっぽく指先から小さな光の泡を放った。
それは二人の頭上で弾け、まるで水中の祝福の花火のように銀色の粉を降らせた。
「さあ、みんな。これ以上は無粋よ。あのお二人は私たちの『命の恩人』なんだから、最高の舞台を整えてあげて、静かに引き上げましょう」
人魚たちはクスクスと笑い声を残しながら、静かに深い水底へと消えていった。
二人の特別な夜が、誰にも邪魔されないように。




