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異世界獣医師の聖獣カルテ!  作者: ぽぽろん


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第19話:人魚の鱗と、毒の海

王宮の緊迫した空気は、もはや外交問題へと発展していた。


王国の水源である「清流の湖」を統べる人魚族が、激怒とともに湖の周囲に魔力の障壁を張り、一切の立ち入りを禁じたのだ。


「人間の不浄な心が、我が愛しき娘を、美しき鱗を蝕んだ! この報いは、王国の渇きをもって償わせる!」


人魚王の怒鳴り声が響く湖畔へ、レオンハルトの護衛のもと、サラは足を踏み入れた。



「清流の湖」のほとり、岩場に横たわる人魚の姫・ミーナの姿は、あまりに凄惨だった。


エメラルド色に輝いていたはずの尾鰭は、至る所の鱗が剥がれ落ち、じくじくと赤い潰瘍が広がっている。


人魚の術師たちが「不浄を焼き払う」と信じて高位の治癒魔法をかけ続けているが、その眩い光を浴びるたびに、ミーナは「熱い、やめて……!」と、声にならない悲鳴を上げて身を悶えさせていた。


「魔法を止めて! 逆効果よ! あなたたちがしているのは、火に油を注ぐのと同じことだわ!」


サラの鋭い制止に、逆上した人魚の戦士たちが一斉に三叉槍を向けた。


「黙れ、無力な人の子よ! 我らが術を否定することは、我らの神性を否定することだ!」


だが、その殺気を切り裂くように、白銀の甲冑を纏ったレオンハルトがサラの前に立ちふさがった。


「退け。彼女は私の専属獣医、サラ・コレットだ。彼女の言葉は、私の言葉であり、王国の意思だ。この槍をこれ以上近づけるなら、湖を血で染める覚悟で来い」


レオンハルトから放たれた、氷の刃のような魔圧に、人魚たちは言葉を失い一歩退いた。



サラは跪き、ミーナの尾にそっと触れた。


指先に伝わるのは、生き物の体温とは思えないほどの異常な熱。


そして、患部を覆う粘り気のある白い膜からは、甘ったるいえた匂いが漂う。


「……呪いなんかじゃない。これは、目に見えないほど小さな『真菌カビ』の仕業よ」


「馬鹿なことを! カビだと? こんな神聖な湖に、そのような不浄なものが――」


「ボリス先生、準備を! 全員に見せてあげて、魔法が何を育てていたのかを!」


ボリスが巨大な水晶の板を掲げ、多層投影魔法を展開する。


ミーナの傷口が空中に百倍の大きさで映し出された瞬間、人魚たちは絶叫した。


そこには、純白の鱗の隙間に深く根を張り、肉を食い破りながら、不気味な胞子を振りまく糸状の怪物たちがうごめいていたのだ。


「治癒魔法の清浄な魔力は、この子たちにとっては最高の『餌』なの。あなたたちが魔法をかけるたびに、この怪物たちは姫の体の中で狂喜乱舞し、増殖していたのよ」


「な……我らが、姫を苦しめていたというのか……」


人魚王の手から、杖が力なく落ちた。


「原因がわかれば、対処はできるわ。……バルカスさんに作ってもらった、殺菌成分入りの軟膏を塗るわね。これは魔法じゃない、純粋な毒消しよ」


サラは湖の浅瀬に立ち、冷たい水に膝まで浸かりながら、ミーナの尾に丁寧に薬を塗り込み始めた。


傷口に触れるたび、ミーナがびくりと震える。


「大丈夫よ、もうすぐ楽になるからね……」


だが、人魚の粘液と苔に覆われた岩場は、想像以上に滑りやすかった。


立ち上がろうとした瞬間、サラの足元が大きく崩れる。


「あ――っ!」


視界が歪み、深い水溜まり……底の見えない湖の淵へと体が傾く。


その瞬間、視界の端で銀色の閃光が走った。


ドボンッ!! という、地響きのような着水音。


「サラ!!」


飛び込んできたのは、重厚な鎧を纏ったままのレオンハルトだった。


彼は泳げない。

それを誰よりも自覚しているはずの彼が、鎧の重量で入水した瞬間に「死」へと沈むことを理解しているはずの男が、一瞬の躊躇もなく跳んだ。


湖の暗い水底へ沈みゆくサラの腰を、強靭な腕が強引に引き寄せる。


「ガハッ……! 捕まえた、離さない……!」


レオンハルトは鎧の重みで沈む体を、底なしの意志の力だけで動かしていた。


水面に顔を出した彼は、気管に水が入り込みながらも、真っ先にサラの顔を確認し、その安否だけを求めた。


「サラ……無事か……? 怪我は、ないか……!」


浅瀬まで這い上がった彼は、ずぶ濡れで重くなった体を震わせ、サラを壊れ物のように抱き締めた。


冷たい湖水に濡れているはずなのに、彼女を包む彼の腕は、恐怖と熱情で驚くほど熱く、激しく震えていた。


「レオン……あなた、死ぬ気だったの? 泳げないって知ってるのに!」


「……君を失う恐怖に比べれば、溺れることなど、かすり傷にもならない」


彼は掠れた声でそう告げると、サラのうなじに顔を埋め、彼女が生きていることを確かめるように深く息を吐いた。



その後、サラの治療によって、ミーナ姫の尾には再び美しいエメラルド色の鱗が戻り始めた。


人魚姫ミーナの治療が一段落し、湖のほとりでレオンハルトがずぶ濡れのままサラを抱きしめていた時のこと。


それまで険しい表情で槍を構えていた人魚王が、重い沈黙を破ってゆっくりと歩み寄ってきた。


人魚王は、娘の尾に再び宿り始めたエメラルド色の光を見つめ、それから静かに三叉槍を地面に置く。


それは、種族の長としての「降伏」と「深い謝罪」の儀礼であった。


「……人の子の聖獣医よ。私は、我が身の無知を呪う。そして、お前に向けた無礼な刃を、心から恥じている」


王の声は、先ほどの怒鳴り声とは打って変わって、一人の父親としての弱さを孕んで震えていた。


「我ら人魚族は、この湖の主として、魔法こそが命を繋ぐ唯一の聖なる力だと信じて疑わなかった。

だが、お前が示した『真実』……目に見えぬ小さな怪物が、我らが聖なる魔法を餌に娘を蝕んでいたという事実は、我らの歴史そのものを否定されるような衝撃であった」


王はサラの前に跪き、大きな手を岩場につく。


「私が魔法を注げば注ぐほど、ミーナが苦しんでいたのは……私の愛情が、あの子の肉を削っていたということだ。父親として、これほど残酷な仕打ちがあろうか」


「王様、顔を上げてください」


サラは、まだ震えの止まらないレオンハルトの腕の中から、王に優しく声をかける。


「あなたは知らなかっただけです。愛情が足りなかったわけじゃない。

……ただ、これからは『見えないもの』にも、少しだけ想像力を働かせてあげてください」


人魚王は顔を上げると、今度はサラを抱きかかえたままの、ずぶ濡れのレオンハルトに視線を移した。


「そして、レオンハルト殿下。……先ほどのお前の跳躍、見事であった。重い鉄の殻を纏い、泳げぬ身でありながら、愛する者のために底なしの淵へ飛び込んだあの姿……。一国の主としてではなく、一人の男としての覚悟、確かに見届けた」


「……。当然のことをしたまでだ」


レオンは短く答えたが、その腕の力はより一層強まった。


王は少しだけ口角を上げ、懐からひとつの青い宝玉を取り出す。


「これは『海神の息吹』。これを持っている者には、いかなる水も牙を剥かず、水底にあっても地上と同じように呼吸を約束しよう。……殿下、これをお前に。お前のその『過保護』な愛が、次にサラを助ける時に、共に溺れることのないようにな」


「……有難く受け取っておこう」


レオンが気まずそうに、しかし大切にその宝玉を受け取ると、人魚王は最後にサラの手をそっと取り、その甲に誓いのキスを落とした。


「サラ・コレットよ。お前は今日、我ら一族を救っただけでなく、私が娘を殺すという最悪の過ちから救い出してくれた。

……これから先、この湖に毒を流す不届き者がいれば、私の三叉槍がその喉を貫くだろう。お前の歩む道に、清らかな水があらんことを」



バルカスが即席で作り上げた「浄化の塔」が湖の不純物を取り除き、水は本来の輝きを取り戻した。


「……人間の娘よ。お前は我らを見守る水の精霊よりも、命の理を知っているようだ。我らが無知を、許してほしい」


人魚王は深く頭を下げ、王国への永久的な友好と水供給の再開を誓った。


別れ際、ミーナ姫はサラに、淡く光る「人魚の涙の真珠」を贈った。


レオンハルトは、ずぶ濡れになったサラを自分の乾いたマントで包み込むと、周囲の視線も構わずに、そっと彼女の髪に唇を寄せた。


「次は、絶対に水辺へ一人で行かせない。……君がこの世界から消えてしまうくらいなら、私は世界を焼き尽くしてでも君を繋ぎ止める」


その言葉は、過保護を超えた、静かで重い愛の誓いだった。

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