【8:00AM】消えたチーズ
うだるような暑さの中、少女は目覚めた。
汗に濡れたシャツに顔をしかめながら、カーテンを開け放ち外を眺める。
街は、蜃気楼のようにゆらめいていた。
今日もまた少女の代わり映えのしない一日が始まる。
☆ ☆ ☆
朝起きたらチーズが見当たらない。
「チーズ?」
家中探した。
玄関、トイレ、居間、台所、冷蔵庫、卵の中、鍋、自室、クローゼット、屋根裏、財布、シャツの中、パンツの中。
でもダメだった。見つからなかった。
はぁぁああああああっ。大きく溜め息を吐く。
ぼんやりと思考に耽りながら朝食の準備をする。お皿を出して、パンを焼く。八枚切りの食パンに、牛乳にバター。いつもと同じ時間に、いつもと同じ朝食。
でもちがうこともある。
――チーズは消えてしまった、こつぜんと。
「ごちそうさまでした。」
二枚を胃に収めてから立ち上がり、外出の準備をする。
まずはトイレへと向かい小用を済ませる。その後は台所でお皿を洗い、ついでに顔を洗って歯を磨く。虫歯を予防しなければならない、たんねんに磨く。口をすすぐといちご味のハミガキ粉が舌に残った。腔内を舐め回しながら階段を上って二階の自室へと赴く。着替えるのだ。
クローゼットを開いて服を選別する。あまり多くはないバリエーションを眺めて膝丈までのスカートに淡い水色のTシャツにする。シンプルイズベスト、余計な装飾は素材の味を殺す。
鏡を見たら髪がボサボサのボサで、まるでオオカミ少女の風体だった。手ぐしを通してもまだピョンと跳ねてきて、しばらく迷ったけど気にしないで寝間着を脱いでシャツを着る。特に誰に会うということもない、だから、このままでも問題はない。
ハンカチをポケットにつっこんで階下に降りる。靴を引っかけてトントンと鳴らしかかとを収める。
そして、ドアノブに手をかけた。
「…………」
しばしの間。
「いってきます。」
意を決して、開いた。
「んっ」
光の洪水だ。
「――おりゃっ」
かけ声一番大きく足を踏み出した。
真夏の熱気が全身を包み込む。
チーズを、探しに行くのだ。
1【8:00AM】
「うっ……」
カッ!
と凄まじい太陽光線、思わずうめいてしまう。
手で光をさえぎっても時すでに遅し、目の前には蛍がチカチカと飛び交って何も見えない。 世界の色が、飛んでいる。
「…………んん」
眉間にしわを寄せているとやっと目が慣れてきて、世界が色を取り戻す。そして、見慣れた街並みが立ち上がってくる。青い空に白い雲、閑静な住宅街に、だらだらと続く坂道。
いつもと同じように、街はただ、そこにあった。
「…………あづい」
それにしても暑かった。灼熱だ、殺人級の熱気。
真夏の太陽がジリジリとアスファルトを焼いて、焦げたように湯気がゆらめいている。街の至る所で蝉がアンサンブルを奏でていて、いいかげん「もうわかったから!」と言いたくなってしまう。
まだ家から出たばかりだというのにもう汗をかいていて、シャツも髪も肌に張り付いてブラまで透けている。
もうっ、と思い見てみると、胸のふくらみがいくぶんか強調されて見えた。きゃしゃなアバラが浮き出てその分ふくらみが相対的に大きく見えるといった寸法だ。懸念していたブラだったが、実際のところ透けてはいなかった。そもそもわたしはスポーツブラで、透けても問題ナッシングだった。
なるほど、とあごに手をあててひとりごちる。なるほど。
けれど長い髪はこのままでというわけにもいかない、頬や首筋にひっついた髪をかき上げて後ろへと流す。
ふわり
「…………」
せっけんの清潔な香りが鼻孔をくすぐり、思わず頬が緩んでしまう。せっけんは乙女の香りだ、欠かすわけにはいかない。
鼻の穴を広げてクンクンしていると、ぐらりと体が傾いだ。
う、とよろめいて壁に手をつく。
「それにしても」
この暑さはほんとどうかしている。異常気象にも程がある。いったいなんだってこんなにも暑くなる必要があるというのだろう。神さまは、わたしたちを殺す気なのだろうか。こんなの貧血少女が耐えられる熱気じゃない。
やれやれ。
ハンカチを取り出して頭に乗せる。怖いのは熱射病だ、これだけでもだいぶちがうはず。わたしはこんなところで倒れるわけにはいかない。
んっ、とお腹に力を込めて歩き出す。
「…………」
ミーン ミーン ミーン
蝉の音が響く。道には、人の気配はなかった。見渡す限り誰もおらず、まるで自分だけが世界に取り残されてしまったかのような錯覚に陥る。
無人の街に、ひとりだけ。
蜃気楼の街。
けれどまあ、みんな涼んでいるんだろう。こんな日に外出しようとする方がおかしいのだ。なにせ医者にかかるのも一苦労の世の中、体調管理は万全にしておかなければならない。
――だけどそれでもわたしは行く。
チーズが待っているから。
汗が流れてあごを伝って零れ落ちた。息を切らしながら下げていた顔を上げると、坂の上には見事な入道雲が浮かんでいた。空は一面ペンキを塗りたくったかのような青色で、その中に浮かぶこれまた見事な白色とのコラボレーションはまさに『ザ・夏!』感を醸し出していて悪い気はしない。しないのだけどやはり暑いものは暑い。これで風でもあればまたちがうのだろうけど、さっきから軒先に見え隠れする風鈴は沈黙を貫いたままだ。風がないのはわかっているけどこうして視覚的に見せつけられるとけっこうクるものがある。風鈴は風を感じて涼しくなるためのものとばかり思っていたけど、こうして凶器にも成り得るんだ、などと思い至ってハッとする。裏面の心理、また一つ大人の階段を上ってしまった。
ニヤニヤしながら足を運ぶ。はひ、はひ、と舌が犬のように飛び出てしまう。前屈みになりながら老婆のように腰を曲げて坂道を上る。長い髪が垂れ下がって視界をさえぎってうっとうしい。ぶんぶん頭を振るとバランスを崩して転げ落ちそうになってしまった。ハンカチも頭から落ちる。なんとか体勢を立て直してハンカチを拾い上げ照れ笑いを浮かべる。順調に脳が茹だってきていたがどうにもならない。このままでは大人の階段どころかこの坂道すら上れない、そんなの許せない。
風よ、吹け。
けれど風は吹かなかった。仕方なくわたしは民家に忍び込んで麦茶をいただいた。そして帰り際にうちわを拝借してパタパタと仰ぐ。
「んぁああああああ…………きもちいいぃぃぃ……………………」
風がないなら自分で作ろうじゃないか、という逆転の発想だった。うちわ程度の風でも風があるだけでこんなにもちがうんだ、などと思い口元がだらしなく緩む。髪が風に揺れて麦茶も五臓六腑に染み渡った。冷たくてとてもおいしかった。やっぱり夏は麦茶に限る。ビバ・麦茶。麦茶ばんざい。
「……………………」
けどもちろんテンションが上がったのは一瞬だけで、すぐにわたしは現実に打ちのめされる。
「むり、むりだから、ほんとむり…………」
シャツの胸もとを広げてうちわで風を送りこむ。あづい。もうスポブラまでビショビショで、このおしり具合からしてパンツだってビショビショだろう。
スカートをバタバタとはためかせて風を取り込む。あまり効果もないのでお腹のあたりまでたくし上げてうちわで仰いで蒸れたパンツを冷やす。やれやれ、これじゃあお嫁にいけなくなっちゃう。
「待てよー!」
ビクンッ、として振り返ると角から子供たちが駆けてきた。抱えたバッグは透明で、プール用具が透けて見える。
人だ。
はしゃいでわたしの横を駆け上っていく。
「うわぁあほぉおおおおおおおおおおおおお!」
「ほぁあああああああああああああああああ!」
「おいー、走んなよー、あついだろー! ……あれっ、お姉さんパンツ!」
二人が嬉々としてわたしの横を通り抜けて行って、それをもう一人が気怠そうに追いかけていたのだが途中でわたしのパンツに気がついて目を丸くしていた。でも誰もが満面の笑みで、楽しそうだった。
夏休みのプール、といったところか。見たところまだ小学生、学校で水泳の夏期講習でもあるんだろう。
「……プールかぁ」
ぽつりと零れる。気持ちよさそうだ、こんな日にこそプールに入るべきなのだ。
抜けるような青空の下、蝉の音をバックにプールではしゃぐ子どもたち。泳いでさっぱりしたあとは駄菓子屋に寄ってアイスに舌鼓を打つ。自然と零れる笑み、みんなで笑い合って、しあわせなひととき。そして大人になったら思い返すのだ、あの暑い日の一コマを。
古き良き、少年時代。
「ふぅ」思わず息が漏れる。
いいじゃないか、乙なモノだ。そう考えるとこの暑さも許せそうな気がしてくる。そうだ、プールだ。プールに入ればわたしは救われる。この暑さだって思い出に早変わりだ。
なんとかして混ざれないものだろうか?
「…………」
フ、と鼻から息が漏れた。自分の思いつきに苦笑する。
――混ざるにはもう、育ち過ぎてしまった。
自分の胸を揉みしだきながら歩く。やわらかくて、きもちいい。
と、やっと坂の終りが見えてきた。このだらだらと続いた少女泣かせの坂ともおさらばだ。
「ご、ごーる……っ」
辿り着いてガッツポーズを決める。特になんのゴールでもなかったけど自然と出てしまった。事実ヒザは生まれたての子鹿のように震えている、やりきった感はあった。
「ん?」
と、道の端に何かを見つけた。大きな巾着袋かな、と思ってよくよく見てみると、それはしゃがみ込んでいる女の子だった。
肩は震えて、嗚咽が響く。
「うっ、うっ、ううううううっ…………」
どうやら女の子は泣いているようだった。理由はわからないが、短い髪に隠れた瞳から滴が零れ落ちているのが目に入る。雨粒のように降り注ぎ、やがてそれは水溜まりになるだろう。
水溜まりになる前に声をかけた。
「どうしたの?」
「うっ、ううううっ、ううううううううっ!」
けれど女の子はただうめくばかりで何も答えてはくれない。そもそもわたしに気がついているかも怪しいところだ。それほどの悲しみに打ちひしがれているのだ。
今度はヒザを落として肩に手をかけた。
「ね、いったいどうしたの?」
「――っ?!」
ビクンッ、と震えてビックリまなこで顔を上げた。やっぱり気が付いていなかったのだ。涙と鼻水でその顔はすごいことになっていたけど、驚きで目を丸くした表情はとてもかわいい。
口を半開きにしてポカンとわたしを見つめている。小さい体に赤らんだ頬が愛くるしい。まるでどこぞのお菓子のお店のキャラクターのようだ。
想像よりも幼かった。これは、幼女だ。
「幼女ね」とわたしは言った。「いったいどうしたの?」
「…………ほぇ」と幼女は首を傾けた。「え、えと…………?」
きょとんとしている。状況を把握できていない。
そっと諭すように、
「こわがらないで。わたしはお姉さんよ、あなたのお姉さん」
「お、おねえ、さん?」
「そうよ、あなたのお姉さん。だからこわがることなんてないのよ」
「あたしに、おねえさんなんて、いないよ?」
「比喩よ」とわたしは言った。「それくらいの気持ちでもって接するということよ。見知らぬお姉さんではあるけれど、わたしはあなたのお姉さんでもあるの。だからこわくないでしょ?」
「?」と幼女はよけいに首を傾げてしまった。「ん、えと」
「なぁに?」
「お、おねえ、さん?」
「そうよ」
「あ、あのっ」
「うん」
「あ、あの、あのっ…………あ、あああっ、あああああっ!」鼻の穴がピクピク震えてみるみる眉間にしわが寄っていく。
――いかん、とわたしは思う。けれど時既に遅し。幼女はなんとか耐えようとしたようだったが力及ばず、瞳は震えて涙は溢れ、ダムは、決壊した。
「ああぁああああぁぁあぁああぁああぁああぁぁぁぁあああぁぁあああぁんっ!」
う、とよろめく。すごい声だ。
「ぶあ、ぶあああっ、ぶあぁぁぁぁぁあああああぉぁぁぁおぁおぁあああああああああんっ!」
「ちょっ、なんで泣くのよ。泣かないで、泣いちゃだめ」
「ぶぁあ、あ、あっ、あぅ、うあああああああああっ、ひぁ、おっ、おぁああああああっ」
堰を切ったようにとはこのことで、幼女は小さな体を震わせて泣き叫ぶ。どうしたものかと頭を撫でてやると抱きついてきた。
「お」
「あ、ああ、ああああっ、あぅうう、ひぃいいいぃぃぃ、あぁぅううひぁぃいいぁあ…………」
ぐりぐりと胸に顔を押しつけられる。
「…………」
そっと頭を撫でてやるといっそうギュッと抱きしめられた。
「もう」
まるで、しがみつくみたいに。
*
「はい、チーン」
チーンッ
わたしが鼻に当てがったハンカチ目がけて噴出する。目をつむって手を握り、からだごと乗り出すように力を込めるその姿はとてもかわいらしい。
「はいもう一度」
チーンッ
「よくできました」
拭き取ってハンカチを離すとぴろ~んと伸びた。くるくる巻いてうまい具合にハンカチに収納する。
幼女が泣き止んだのは、たっぷり10分も経ってからだった。
「まったく、至れり尽くせりね」苦笑する。シャツもブラも涙と鼻水でぐしょぐしょだ。
「?」幼女は目を丸くしている。
「さて、もうだいじょうぶね?」
「……うん」小さく幼女はうなづいた。「あ、ありが、ありがちょ、ま……んくっ」
喉を鳴らす。うまく言葉が出てこないのだ。おどおどして、わたしの目もまともに見ることができない。腰をくねくねさせて、まるで宗教的な踊りのように手を動かしている。まだ慣れず、心細いのだ。
その手を握り、まっすぐに見据えてやさしく言ってやる。
「だいじょうぶだから、不安にならないで。おねえさんに事情を教えてくれる?」
「あ、あのね」と幼女。「あ、あの、お、おか、おかか、おかかかかかかっ」
「おかかかかかか?」
「お、おかっ、おかかかさんと、あの、はぐ、は、はぐっ、いなっ、いなくなっちゃったの!」
「……ああ」会得する。はぐれてしまったのだ。
「あ、あのね、あ、あのっ、あ、えと、あ、お、おか、おかかっ、おかかかかさん、き、きがちゅ、きがちゅいたら、ね、あ、ちゅ、ちゅら、あ、お、おかかっ、あ、おかっ、あ、ああっ、ああああああっ、ぴゃっ、ぴゃああっ、ぴゃあああああぁああぁあああぁぁぁぁぁぁあぁ!」
うっ、とまたしてもよろめく。すごい声だ、こんな体のどこからこんな声が出てくるのか。
「泣かないで、泣かないで、よしよし、よしよし」また頭を撫でてやる。
「う、うっ、うぎっ、うぎぎっ、うぎぎぎぎぎっ、ひぃーーーーーっ、ひぃーーーーーーーっ!」
歯を食いしばって握り拳を作る幼女。馬のいななきのように喉を鳴らし、肩をぷるぷると震わせて仁王立ちしている。こらえているのだ。
いい子じゃないか。
「よしよし、ありがとう。いい子ね」
「う、うん、う、うぎっ、うぎぎっ!」
今度はすぐに震えも収まって、幼女は赤い目を拭いながらも事の経緯を説明してくれた。それはとてもたどたどしく要領を得なかったが、一言でまとめると、まあお母さんとはぐれてしまったと、そういうことだった。
家にも帰れない、ようは迷子だ。
「なるほどね」ひとりごちる。
幼女はまだ小学校に上がったばかりで、この辺りの街並みにも見覚えがないらしい。それでパニックになって泣いてしまっていたのだ。その気持ち、わたしにもよくわかる。わたしだって小さい頃は少し遠出をするだけで大冒険だった。市をまたぐだけで別世界のように感じられた。今はなんの変哲もない街並みでも、あの頃のわたしには途方もないモノに映っていた。見知らぬ風景をくぐり抜けて無事に家に辿り着けたとき、なんだか誇らしくなったものだ。
子どもの世界って、そういうもの。
「あなたのお母さんも今ごろ探しているでしょうね。ほんとうに家はわからないの? 住所の一部でもいいんだけど」
「うん、わかんない……」
「そう」
ううん、とアゴに手をあて考える。どの辺りかだけでもわかるとまだちがうんだけど。
さすがにこの子をこんなところに置いてなんて行けない。
「うん、じゃあこうしましょう。お姉さんが手伝ってあげる、お母さんを探すのを」
「…………ほぇ?」と幼女は目をクリクリさせる。そしてまた首を傾げた。「ん、あ、えと」
「それともイヤ? 見知らぬ人に付いて行ってはいけないと言われてる?」
「うん」大きくうなづいた。「……あっ」
でもすぐにブンブン首を振って、
「どっちなの」
苦笑する。
「おねえちゃんとなら、だいじょうぶ」
「…………」
あどけなく見上げる瞳、なんの嘘もなく躊躇もなく、純真無垢で、
「――ありがとう。あ」
幼女の頬にはまた鼻水がくっついてしまっていた。首を振った拍子に飛び出てしまったのだ。 ハンカチで拭ってやりながら、
「じゃあ決まりね。よろしくね、かわい子ちゃん」
「…………」
幼女の顔に理解が広がって、
「――――っ!」
ひまわりのような笑みを浮かべた。




