線引き
「さぁ今日もあと少しで通勤時間だ」
ポツリ、ひとりごちると主人公は心の中のスイッチを切り替える。
軽くエネルギー源を腹に入れ、お風呂が沸くまでの寸暇を楽しむ。
お風呂の音が鳴り、機械音声が告げる。
「お風呂が沸きました」
衣服を着脱し、ゆっくりと、しかしながら心の中は性急に、湯船へと浸かる。
手首が痛む。
この痛みが私を私たらしめているとするなら
この痛みに耐えきれなくなった時、私は解放され
この痛みに慣れきってしまった時、私は崩壊する
そんな気がするのだ。
肌色、焦げた茶色、鮮やかな赤色
そんな重なり合う幾重もの線引きに、今日も主人公は生きているこの体の実感を得るのだろう。
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幼い頃、知ったその線引きは、どうしてか主人公の目にはとてもなにか強い勲章のように見えた。
黒い感情の激流
死にたい、鬱だ、今日も切っちゃった
そんな荒波に自身を晒しつつもなお、その身の勲章を持って生きていく、自身にはない強みをそこに覚えたのだ。
主人公は線引きを知った時、将来はどのように死ぬかという希死念慮に溢れさっていた。
ただ、それよりも強く痛みを恐れていた。
その気持ちは強いのに、それを上回るほどにもう痛みはこりごりであったのだ。
かくして、主人公は自身が最も恐るる痛みを自らに課するその所業を、その線引きを神聖なもの、強く凛々しきものと感じるようになった。
とはいえ、その仕草は得てして悲劇のヒロイン風であり、自身が、自身だけが悲劇的であると述べているようでもあると思うこともした。
人は誰しも一つのことに対して一つの感情のみを抱く単純な生き物ではない。
つまり、そういうことなのだ。
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主人公はあくまでそういうキャラ付けであり、生来の気質とは異なるキャラクターで人々と接することになる。
お前は○○に似ている、あの呪われた血を引いているのだ。
言葉は違うが、そう言われたからには少しずつ、少しずつ自身を律し、もしくは自身を変化させねばならないと深く思った。
ただ、そういう仮初のものというものは強い衝動に対してはひどく脆弱であり、呪われた血を他者に言われるべくもないほどに強く自覚し、自戒されられるものであるものだ。
それはまた一層と主人公をそういうキャラたらしめるものでもある。
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あるとき、ふと道を歩いていた時、特に何もない日常の日々だ。
なぜか頬を大量に涙で濡れていた。
正直なところ、主人公は自身でも混乱した。
泣く理由が何もなかった。
悲しかった、苦しかった、楽しかった、そういったことが何もない、本当にただ何もない単なる日常の、その日々の中で、ふと泣いていた。
壊れてしまったのだと思った。
であるのであれば、またこれもそういうキャラにしてしまおうと思った。
そうすることで、あくまで泣いているのはそういうキャラであるから、と諦める言い訳を作った。
その後も、この現象は定期的に起こるようになる。




