【短編小説】居抜き物件
「また建て替え工事してるね」
駅前のロータリーですれ違ったカップルがそんな会話をしていた。
つられて俺も視線をやると、確かに鉄パイプと防塵シートで囲われたビルはその隙間から古びた内部を晒している。
あそこには以前どんな建物があったのか、思い出そうとしても曖昧だった。
……いや、昨日の晩めしすら咄嗟に思い出せないくらい、物事に注意を払っていないのだから当たり前と言えば当たり前か。
晩めしどころか俺の人生がそんな具合だ。
自分のバイト先だってそうだ。この前の店、さらにその前の店、またその前の店。
なにひとつ覚えちゃいない。
俺はこの町に生まれ育って、それでもそこが居抜きであることしか分からない。
馬鹿なのかも知れないが、それ以上に何か欠落しているのかも知れない。
いまのバイト先が分かる程度のがあれば、そんな俺でも食って行ける。だがそのバイト先だって、その前に何の店だったかは覚えていない。
「お疲れ様です」
店の裏口から中に向かって挨拶をすると、中にいたのは店長ひとりだった。
他のスタッフはまだ来ていないのか、休憩中か、シフトに無いのかも知れない。
俺は店長と二人きりで労働が始まることにうんざりした。店長は嫌いだ。厭味ったらしいし、若いつもりでガキっぽい。
店長は俺に嫌われているのを知ってか知らずか、わざと裏声で「おつかれさまです」と挨拶を返してきた。
ムカつく奴だ。
いつか、殴ってしまうかも知れない。
ロッカーに荷物を押し込んでから制服に着替えていると、店長はスポーツ新聞を眺めながら
「今日から新しいバイト来るから、例のやつ説明しといてよ」
と言った。
俺はそのまま続きを待っていた。名前とか、年齢とか、性別とか、何なら国籍とか色々あるだろ、と思い店長を眺めていたが奴は
「午後イチで銀行に入金行ったら、その足で本社に顔を出すからさ」
と俺を見ずに話を終えた。
どうせ本社の帰りに泡風呂にでも行くんだろう、いつものコースだ。
電話連絡だってつきやしない。
おれはため息を噛み殺しながら
「そう言えば、23時になったら一回スタッフが外に出るっての、アレなんなんすか?」
と訊いた。
新人に教えるのは良いとして、理由を説明しなきゃいけなくなったら面倒だ。
俺のバイト先には変なルールがあった。
23時をまたぐ前後10分ほどは、誰一人店の中に居てはいけない。
クローズ作業中であっても作業を中断して出ること、タイムカードには手書きで30分の残業代をつけて良いということ。
その二点を守ればいい。
自分もそう聞いた。
そしてそれに従ってきた。何も不便は無い。むしろラクをして残業代が出るなら儲け物だとすら思っていた。
新しいバイトにはその2点を伝えれば良い。
先ほどの問いに店長は答えなかった。
スポーツ新聞を閉じると
「居抜き物件だからね、ここ。じゃあ、任せたよ」
と言って事務所を出て行った。
俺は新しく来たバイトに仕事を教えながらその日をやり過ごし、最後に例のことを伝えた。
「なんすか、それ」
バイトは当然の疑問を口にした。
「さぁ?そう言うもんらしいよ」
俺はそう答えるしかなかった。
──不思議そうな顔をしながらも、残業代をつけて良いならと言って、新しく来たバイトの学生は裏口から出て行った。
俺は誰も居なくなった店内で独り、23時になるのを待った。すると、
──ドン
と何かが物を叩くような音が聞こえた。
──ドン、ドン
辺りを見回す。
裏口のドアでは無い。机だとか壁や天井でも無い。
──ドン、ドン
その音は冷蔵庫からであった。
業務用の巨大な冷蔵庫は、言われてみると古い。居抜きとは、この冷蔵庫も含めての事だろうか。
その冷蔵庫の中から聴こえる。
──ドン、ドン、ドン
まるでだらしなく手をぶつけているだけのような力のこもっていない音が、古びた冷蔵庫から断続的に聴こえてくる。
──怖い。
だがそれが何なのか識りたいと云う欲求が勝る。
喉が渇いて張りつき、睾丸が縮み上がっていたとしてもだ。
俺は冷蔵庫に近寄り、取っ手に指をかけた。
ひとつ息を吐いてから、思い切ってドアを引くと、中にはぎっしりと人が詰まっていた。
その全員が眼を見開いて俺を見ながら
「ゆめゆめわすれるな、いずれはおまへもここにはいるのだ」
と言うと霞が散る様に瞬く間に消えた。
そこにあったのは普段の冷蔵庫であり、いつも見慣れた食材だった。
そう言えばあそこにいたのは前の店をやっていた老夫婦で、その奥にいたのはヤンチャっぽいバーを経営していた若者、その更に奥にいたのは無口なラーメン屋で……。
「そうか、ここは居抜き物件だったな」
俺は冷蔵庫の中に入り、内側からドアを閉めた。
心地よい闇が覆いかぶさる。
娑婆訶、と呟いてそれがどんな意味かも分からないまま、そっと意識を手放した。




