第3話 暗闇の侵入者
「ねえ……もう、帰らない?」
カナの声は震えていた。
鏡の中の女――“目のない顔”が、確かに自分を見ていた。
目はなかったのに、見られているとわかった。
あれは幻なんかじゃない。現実にいた。
「えー? なにビビってんの~、まだ全然回れてないじゃん!」
サトミが笑いながら、広間を出て廊下へと進もうとする。
「いや……私もちょっと寒気してきたし……帰るか」
ヒロコも冗談まじりに言ったが、その笑顔はひきつっていた。
カナは、鏡に背を向けられずにいた。
背中を向けた瞬間、“何か”に引きずられそうで。
そのとき――
“ギィィィィィィィィ……”
また、あの音だ。
だが、今までと違う。
もっと重く、ねばついた気配が混ざっている。
空気が歪む。
時間が粘りつく。
すべてが、妙に遅く、濁って感じる。
三人の視線が、音の方――廊下の奥へ向けられる。
「……誰か、いる?」
ヒロコが呟く。
誰も答えない。
“ぺたり。ぺたり。”
――濡れた裸足が、廊下を踏む音。
奥の闇の中から、それは這うように近づいてくる。
スマホのライトがかすかに照らすその黒い影は、前屈みで、髪を垂らし、ずるずると床を這っていた。
「うそ……何アレ……」
ヒロコが息を呑む。
「走ろっ!!!」
サトミが叫び、三人は一斉に反転して走り出した。
だが――
「ッひっ……うわああっ!!!」
階段を降りかけたサトミが、バランスを崩して転んだ。
ヒロコとカナが振り返る。
階段の踊り場で、サトミが後ずさりしながら叫んでいた。
その向かい側には、すでに“女”がそこまで来ていた。
黒髪が顔に張りつき、空洞の眼窩が、まっすぐにサトミを“見ていた”。
いや、“見ようとしていた”。
その焦点の定まらない視線が、まるで世界を手探りしているようだった。
サトミが叫ぼうとした、その瞬間――
女の口が、ゆっくりと開く。
音もなく、横に裂けるように。
「…………ミエナイ、ミエナイ、ミエナイ」
掠れた声が、空気を震わせるように響く。
カナは思わず、両耳を押さえた。
けれど、声は頭の中で響いてくる。
“耳”ではなく、“内側”に直接刺さってくるように。
ヒロコがカナの手を掴んで引っ張る。
「カナッ!!逃げよう!!」
その瞬間、視界の端で“何か”が動いた。
サトミが、叫び声も上げられずに崩れ落ちた。
女の顔が、サトミのすぐ横に迫っていた。
そして、女の口が大きく裂けて――
ぐしゃっという音がした。
骨の軋むような、生暖かい、何かが噛み合うような音。
「いやあああああああああっっ!!」
カナとヒロコの絶叫が、旅館中に響き渡る。
だが次の瞬間――
視界が、すべて真っ暗になった。
……カナが目を開けると、そこはさっきの広間だった。
鏡の前で、自分は座り込んでいる。
「……え?」
ヒロコが隣で頭を押さえて呻いていた。
サトミも、向こう側で、ゆっくりと立ち上がっていた。
「……夢? だったの……?」
あまりにもはっきりした記憶だったのに、まるで何もなかったかのような静けさ。
でも――
“ギィィィ……”
また、あの音がした。
背後の鏡は、光を反射して静かに佇んでいる。
だがカナには、わかる。
“さっきのことは、夢なんかじゃない。”
そして、広間もまた――“外”ではない。