第2話 鏡の奥の“誰か”
旅館の奥へと進むたび、空気はどんどん重く、ぬるくなっていった。
カナの耳には、ずっと――どこかで「きしむような音」が鳴っている気がしていた。
だが、ヒロコもサトミも何も言わない。
きっと自分の気のせいだ。そう思いたかった。
廊下の床は腐りかけていて、歩くたびに“みし……”と軋む。
だがその音が、まるで自分の足音に誰かの足音が重なっているような気がしてならない。
背中に、ぬめるような冷たい汗が伝う。
――おかしい。
“どこかから音がする”のではなく、“音のある空間に自分が踏み込んでしまった”ような、そんな錯覚。
そしてもう一つ――
皮膚の裏に、小さな棘が何本も逆立っているような感覚がカナを苛んでいた。
自分の体の輪郭が、外側からこじ開けられていく。
“何か”が自分の感覚の中に忍び込んでくる――そんな気配。
「ね、あれじゃない?」
ヒロコがスマホの光を向けた先に、大広間への扉が見えた。
半開きになったまま、黒く口を開けている。
「ここで“見えた”って書いてあった」
ヒロコがSNSの心霊投稿を見せてくる。そこにはこう書かれていた。
《鏡の奥に“もうひとつの顔”が映った》
「ここ、絶対出るやつじゃん!どこだどこだ〜?」
サトミが勢いよく扉を押し開ける。
広間の空気は――明らかに違っていた。
畳は所々で剥がれ、腐った木材の匂いが鼻を突く。
湿気を含んだ空気が、ぬるりと肌にまとわりついてくる。
天井の一部は落ち、破れた障子とガラスが無造作に積まれていた。
「うわ……うっすらカビ臭っ。やば」
ヒロコが鼻をしかめながら、奥を照らす。
その瞬間だった。
スマホの光が、何かに反射した。
「え、なに今の」
カナが思わず声に出す。
奥の壁に――一枚の古びた鏡が掛かっていた。
埃にまみれ、くもったガラスは割れていない。
だが、光を受けて、ぬらりと濁ったように反射している。
カナは、吸い寄せられるようにその鏡へ歩み寄った。
ヒロコとサトミの声が、遠くなる。
鏡の前に立つ。
そこに映っているのは――自分の顔。
だが、**その輪郭のすぐ後ろに、もうひとつ、ぼんやりとした“何か”**が映っているように見えた。
目を凝らす。
鏡の向こうに、“それ”はいる。
光の加減ではない。
カナを見ている――明らかに、じっと、こちらを。
心臓が、冷たい手で撫でられるようにざわつく。
――見ちゃいけない。
そう思い、目を逸らそうとした瞬間――
“ギィィィ……”
あの音が、薄暗い背後から確かに聞こえた。
振り返る。
誰もいない。
けれど、確かにわかる。
さっきよりも音が近い。
それだけは、はっきりとわかる。
カナの呼吸が浅くなる。
恐怖に身体が硬直し、視線を鏡に戻すと、
そこには――
“何かの顔”が、隣に浮かんでいた。
長い黒髪が、濡れたように顔に張りついている。
顔の中央、眼の位置に――何もない。
ぽっかりと空洞になった眼窩が、深く、黒く、えぐられている。
その“顔”は、目がないのに――笑っていた。
口元だけが、ぐにゃりと、ねじれるように。
そして、その“女の手”が、カナの肩にゆっくりと伸びてくる。
指が異様に細く、関節が逆に曲がるように震えていた。
「カナッ!!」
ヒロコの声が背後から飛ぶ。
「その床、抜けてるよ!!」
反射的に一歩、カナは後ずさった。
その瞬間――女の手は、空を掴んだ。
鏡の中の“顔”が、ぎゅ、と歪んだ。
それは明らかに、悔しそうに見えた。
「……見えた、のに……」
それは、鏡の中で、誰にも聞こえないはずの声で、呟いたような気がした。