第1話 肝試しの夜
――夜、午後十一時すぎ。
山の中腹に建つ、取り壊し寸前の廃旅館。
街灯すら届かない闇が、すべての光と音を呑み込んでいる。
風も虫も息をひそめるなか、その建物だけが、ぽつんと不気味に“残って”いた。
建物は風に軋み、外壁にはツタがびっしりと絡まっている。
看板の文字はすでに掠れて、もはや判読できない。
かつては名湯として知られ、観光客で賑わったというが、今ではその面影もない。
三人の女子が、スマホのライトを頼りに、その静かな玄関を跨いだ。
床が小さく鳴る。
その音だけで、“誰か”が奥で目を覚ましたような錯覚があった。
「うわ、マジでヤバくない?ここ……」
都市伝説好きのヒロコが、鼻を覆いながら言った。
空気はカビと埃、それだけじゃない。何か――もっと重くて、湿ったものが漂っている。
「うっわー、最高。ホントにヤバいね、これ」
ノリ重視のサトミは、はしゃぎながらスマホを掲げて撮影を始めた。
その声が、誰もいないはずの廊下にこだまする。
……その残響に、どこか“別の声”がかすかに重なっていた気がした。
霊感やや強めのカナは、一言も発しなかった。
一歩目を踏み出した瞬間から、背中に冷たいものがまとわりついている。
だがそれは風でも気のせいでもない。
毛穴がすべて開ききって、そこから冷気が体の奥へと這い込んでくるような感覚だった。
皮膚の裏側が凍りつくようで、呼吸が浅くなる。
そのとき――ふと、カナの視線が壁の一角で止まった。
剥がれかけたベニヤの壁に、古い新聞の切れ端が数枚、黄ばんだまま貼り付いている。
何枚かは水でにじみ、風でちぎれかけていた。
薄れて判読できない見出しの中に、ひとつだけ、ぼんやりと読めた文字があった。
「――〇〇温泉宿で、視力喪失を訴える宿泊客が……」
カナは小さく喉を鳴らす。
風もないのに、その切れ端だけがゆら、と震えた。
「てかさ、ここって、ただの心霊スポットじゃないらしいよ?」
ヒロコがスマホをいじりながら言った。
「また都市伝説ネタでしょ?SNSでバズったやつー?」
サトミが鼻で笑う。
「いや、違うって。うちのじいちゃんがさ、昔言ってたんだよ。
ここ、地元じゃ“剥ぎ取り様”って呼ばれてたって。
目を、奪うんだってさ」
「うわ、なにそれ……呼び名だけでヤバいじゃん」
サトミが眉をしかめた。
「なんかね、見られちゃいけないものを見ると、その人の“目”を剥がして持ってっちゃうんだって。
都市伝説ってより……なんか、もっと昔の“祟り”っぽいやつ?」
ヒロコは冗談めかして笑っていたが、どこか声が乾いていた。
それを聞きながら、カナはさっきの新聞の切れ端から目を離せずにいた。
「目を……」
思わず、小さくつぶやいたそのとき――
“ギィィィィィ……”
玄関の奥から、軋むような音が響いた。
三人は一斉に黙り、スマホのライトをそちらに向けた。
……だが、そこには何もない。
「今の……誰か聞こえた?」
カナが言うと、ヒロコとサトミは顔を見合わせた。
「音? えー、風じゃない?」
サトミが笑う。
「いや……違う。もっと……」
カナはそこで言葉を止め、唇を噛んだ。
音ではなかった。
気配だった。
何かが、廊下の奥で、自分たちの存在に“気づいた”音――そんな気がした。
「カナ、顔色悪いよ? まさか、ガチ霊感とかあったりして」
ヒロコが軽口を叩いた。
カナは答えず、ただ前を見つめていた。
その視線の先――旅館の奥の、黒い闇の中に、“何か”がいる気がしてならなかった。
何が怖いのか、まだ説明はできない。
でも、わかる。
この旅館には、「見てはいけないもの」がいる。
直感が、体の奥で、ゆっくりと警鐘を鳴らしていた。