introduction 06 チセ―迷い子の境界(ボーダー)/02
※この作品はフィクションです。実在の団体・組織・企業・人物とは関係ありません。
仮想世界が「現実」となった時代――
企業が支配する電脳都市「インター・ヴァーチュア」。
自由を求める者たち、デジタル生命体(DQL)、そしてコード・フレームワークを駆る戦士たちの戦いが始まる。
この物語は、仮想世界の秩序を巡る戦争と、
人間とAIの共存の可能性を描いたSF作品です。
更新は土曜日予定。
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【Present Day】
「おはよう、チセちゃん。はかどっとるかね?」
そう声をかけられ、わたしはハンガーの上層通路へ視線を向けた。
「おはよう先生。馮さんも、今日は早いね?」
首からメガネを紐で下げた白衣を着た背の低い老人と、その後ろを歩くピンク色の看護服を着たショートカットの女性。
このジクサーの船医の滝沢先生と、看護師のフォンさんだ。
滝沢医師はメガネを鼻の上に乗せると、顔の皺と同じくらいシワシワの白衣のポケットに手を突っ込み、上からわたしの顔を覗き込んだ。
「うーん、いかん、いかんなぁ?チセちゃん顔色が悪いぞ。ちゃんとリアルで食べとるか?」
わたしは苦笑いする。
嫌な記憶を思い出していたのが顔に出ていたらしい。
「後で顔出しなさい。バイタルをちょっと誤魔化しちゃるよ」
手を振りながら先生はヒョコヒョコと歩いていった。
フォンさんはわたしに軽く会釈すると、そのまま先生について通路の先の廊下に消えていった。
にぎやかな滝沢先生とは対照的にフォンさんはほとんど口を開かない。
ライナーは規模によるが最低、一人の船医は乗せる必要がある。
インター・ヴァーチュアでの肉体的損傷への対応やメンタルケアを行う医師が、安全地帯であるテリトリーやコミニティを離れるライナーに必要なのは当然だろう。
滝沢先生はコミュニティでは頼りにされているが、正式な医師なのかは正直怪しい。
とはいえほぼ非合法運用のギルドのライナーで医者を乗せるかといえばそうでもない。
そういう意味ではうちの柳橋は性格は無茶苦茶だが何故かそういう決まり事は律儀に守る。
滝沢先生もジクサーで勝手に開業しているようなもので、港にいる間は医務室を開放してHODOの住民の診察をしている。
このジクサーは、たぶんHODOで最も人の出入りが激しいライナーだろう。
時にはハンガーが患者の待合室がわりになる時がある。
そういえば、フォンさんがいつもハンガーに運んでくるあのベンチはどこにいったのだろう?
船医か。
そういえば初めてわたしを救ってくれた人間も船医だった。
結局、船医だけでなくあのオーシャンライナーの全員が、わたしを助けてくれたのだ。
【Flashback】
「待ってください! 艦長おちついて」
そう、真っ白なユニフォームを着たその人間は左手でわたしを背に庇い、右手で黒いユニフォームと帽子を被った眼光鋭い顎髭の人間を制していた。
周りに同じような姿の人間たちがわたしたちを取り囲んでいた。
人間の姿になったわたしはあのあともコンテナの貨物スペースに隠れていたが、思わぬ副作用を抱えることになった。
空腹という感覚を覚えるようになったのだ。
これが今までの循環不足ではなく、飢えという感覚なのだと人間のライブラリを検索して初めて理解した。
これまではデータを循環させることで蓄積できたため、このような感覚は初めてだった。
サスペンドとも停止とも異なる力が抜けるような感覚。
体の中心に巨大な穴が空き、そこに引きずり込まれるような感覚。
空腹を認識したわたしはたった十二サイクルも耐えられず、飢えを満たすために食料を求めた。
そして、そのデータが食堂という場所にあることを検索しコンテナから出た。
当然、あっという間に発見されたわたしは必死に逃げ回ったが結局、甲板で追い詰められた。
ただ、わたしを取り囲んだ人間たちはわたしを見て驚きの表情は浮かべても異質なものとは認識していないようだった。
「ぁああぁ! ぁああ!」
まだ声帯をコントロールできないわたしは口からノイズのような音を発し、人間たちを威嚇することしかできなかった。
やがて、この場に二人の人間がやってきた。
そして今、その二人はわたしを巡り対峙しているようだった。
「ドクター・マキシム、自分が何をしているのかわかっているのかね」
「ええ、十分わかっています。 艦長こそよく見てください、まだ子供です。しかも女の子ですよ」
わたしは頭から白い毛布をかけられていた。
マキシムと呼ばれた人間が駆けつけるなりわたしに被せたものだ。
「それにどういう理由かは知らないが、裸も同然ともなれば船医としては見逃せません。 検査のためいったん、保護させていただきたい」
「むぅ」と顎鬚の人間は被った帽子のつばをつまみ顔を隠すように強く引っ張った。
「理屈はわかる……だがあの直後に見つかった密航者だ。ドクター、あれの後にだぞ」
唸るような声で艦長と呼ばれた人間は声を発した。
「その通りです。 私たちは皆、後味の悪い仕事をした。 艦長、私にアレを調べるように指示して上陸させたのはあなたです」
マキシムという人間のその言葉にざわついていた場がシーンと鎮まりかえった。
わたしは毛布の隙間から見回してた。
その場にいる人間たちは一様に俯いていた。
「だからあえて、言わせていただく。 アレを見た私だからはっきり言い切れます、彼女は人間だ」
白いユニフォームを着たマキシムは艦長をまっすぐに見据えてそう言った。
その間も私を守るように手を伸ばしている。
艦長は肩をすくめ、「ふぅ」とため息をついた。
「なるほど、医者として君はこの娘を人間の密航者だと判断するということか」
「そうです」
艦長の帽子の下の鋭い目に射抜かれてわたしは思わず、マキシムという人間から延ばされた手を両手を掴んだ。
その感触はなぜか担当者を思い出させた。
ちらっとマキシムがわたしの方を振り返りった。
そして、そっと片目をつぶって見せた。
それが何を意味するのかわからずわたしは首を傾げた。
「わかった。ドクター・マキシム、要請を受けいれる。 次の寄港地までこの娘の処遇は君に一任しよう」
そういうと艦長はわたしたちに背を向け、大きく2回、手を叩いて叫んだ。
「諸君、聞いての通りだ。 持ち場に戻れ!」
その場に集まっていた人間たちは散り散りに解散した。
そのうちの何人かはマキシムと呼ばれる人間と私の肩をポンポンと叩いたり、親指を立てて去っていった。
それが何かの合図らしかったがわたしには理解できず、マキシムの手をさらに強く握った。
すると最後に、艦長と呼ばれる帽子の顎髭の男がわたしの前に歩み寄った。
「ドクター…… 次の寄港地で必ずこの子を降ろせ」
「イエス・サー。 ジョンソン艦長、感謝します」
「私にできるのはそこまでだ、本社の連中が来る前に手を打て」
それだけ囁くように言うと、ジョンソン艦長はそっとわたしの頭に手を置いた。
「すまない……」
そう呟くと、わたしから離れていった。
わたしの耳には去り際にジョンソン艦長の小さく唱えるような言葉が耳に残った。
「……おお、神よ…… わたしたちの罪を赦したまえ……」
その場にはわたしとマキシムだけが残された。
わたしはその間もずっとマキシムの手を握っていた。
ほっとした瞬間、ギュルルルとわたしの腹部が鳴った。
突然のことにわたしは驚いた。
こんな音が体からするなんて。
見上げるとマキシムが笑っていた。
「お腹が減ってるのかい?」
わたしはそうだと首を縦に振る。
「わかったよ、まずは着替えよう。 検査着しかないけど、今の格好よりはずっとマシだ」
わたしはマキシムに手を引かれるがままについていった。
その間もずっとマキシムと担当者の姿を重ねて見ていた。
【Present Day】
メンテナンスをあらかた済ませわたしは工具類をツールキャビネットにしまっていた。
突貫での作業にはなったがおかげで時間には余裕がある。
最後の道具を収めると、そういえば今日は何も食べていなかったことを思い出した。
途端に視界がふわりと揺れ、一瞬意識が遠のいた。
この体になってから、もっとも厄介なのが空腹だ。
何サイクルかおきに必ずやってくる。
そのとき、背後から聞き慣れた声が響いた。
「Yo!チセ、ブレイクしようぜ!」
アジエだった。
振り返ると、彼女は腕を組みながらこちらを見下ろしていた。
普段通りのラフな格好だがしっかりメイクされた顔には、どこか不満げな表情が浮かんでいた。
「おまえ、また休憩してないだろ」
「あまり効率的じゃない。」
「効率の問題じゃねーの。 ほら、飯食いに行くよ!」
アジエに腕を引かれながらジクサーの外へ出た。
外気はひんやりとしていて人工的な光が薄闇の中にぼんやりと浮かんでいる。
港湾部のダイナーは深夜でも稼働する貨物ドックの隅に位置し、労働者やクルーたちが行き交う無機質な街並みに小さな温もりを灯していた。
壁のニキシー管時計の赤い光は夜明けにはほど遠い時刻を示していた。
「ほら、ここならいいだろ?」
アジエがドアを押し開けるとカランと古めかしいベルの音が響いた。
店内にはすでに何人かの客がいたが誰もが端末の画面を見つめるか、低い声で会話を交わしていてこちらに興味を示す者はいない。
「こっち座れよ」
アジエが窓際の席を指差しわたしは静かに頷いてそこへ向かう。
テーブルの表面に手を置いた瞬間、微かなぬくもりを感じた——温かい。
人の手が触れ、何度も拭かれ、使われ続けたもの。
その感触がわたしの意識を過去へと引き戻していく。
【Flashback】
オラクル・パシフィックゲート。
広大なターミナルの中、わたしは一人でぼんやりと立ち尽くしていた。
マキシムに保護されたわたしはサンタクララの船内で静かに過ごした。
あの後、ジョンソン艦長は医務室でマキシムと何かを話している姿や、食堂で遠くからわたしを見ていることがあったが直接話しかけてくることはなかった。
わたしに向けられたその目はあの時の鋭さではなく、マキシムと同じどこか優しさを含んだものだった。
他の乗組員たちも皆、親切だった。
食堂で食べ物の取り方がわからなかったわたしに優しく教えてくれた者。
船内をうろうろしていると迷子だと思い、マキシムのもとまで送ってくれた者。
そういった思いやりを受けるたびに、わたしは困惑した。
エクス=ルクスを破壊したのはこのサンタクララだ。
あの破壊を撒き散らしたのがこのオーシャンライナーなのは間違いない。
なのに、ここで出会った人間たちを見てもその破壊を重ねることがわたしにはできなかった。
そして、六〇六〇サイクル……人間の基準で四日と二時間の後、このオラクル・パシフィックゲートにサンタクララは寄港した。
わたしはマキシムに連れられサンタクララのタラップを降りた。
そして、オラクル・パシフィックゲートのターミナルへと足を踏み入れた。
サンタクララを降りる際に、少しの着替えと、食べ物のデータチップが入ったバッグを渡された。
わたしは、そのバッグを肩に掛けながらマキシムを見上げた。
マキシムは、悲しそうな顔でわたしの両肩にそっと手を置いた。
「よく聞いてほしい。君を最後まで見届けることのできない私を、そして、こんなところに放り出す私たちを許してくれ。 このままでは、君を引き渡さざるを得ない。 だが、ここで降ろせば、それを避けることができる。 医師としても人としても私は取り返しのつかないことをしてしまった。 今の君は確かに人間だ。 人間として生きている。どうしたのか、どうやったのか……ちょっと前の私ならその答えを知りたがっただろう。 それが任務だった……」
彼は目をつむり大きく息を吸った。
「だがもうそんなことはどうでもいい…… お願いだから生き延びてくれ。 いいかい、もっと観察するんだ。君なら、すぐに人間の世界に適応できるはずだ」
マキシムは、わたしの肩からそっと手を離し、自分のジャケットを脱ぐと静かにわたしの肩にかけた。
わたしにはぶかぶかの深いグリーンのジャケット。
その袖には、AVI―REXと黒い文字がプリントされていた。
「私のお気に入りだ、餞別代わりに君にあげよう」
そしてマキシムは「さよならだ」と告げた。
また一人になるのか……胸の奥にじわりと寂しさが広がった。
それでも、この人間のおかげでわたしは崩壊した故郷を離れ、この場所に立っている。
離れていくマキシムにわたしは初めて声を使って別れの挨拶を送った。
「ありがとう」
マキシムは、一瞬立ち止まり驚いた表情で振り返った。
わたしの目を見るとうなずき、そのまま立ち去っていった。
わたしは、しばらくマキシムの背中を見送った。
そして、彼の姿はやがて人の波に紛れて消えていった。
生き延びてくれ、もっと観察するんだ。
マキシムの言葉が、わたしの胸の奥で繰り返される。
ここに留まっていても何も変わらない。
わたしは、ターミナルの出口へと歩き出した。
最後まで読んでいただきありがとうございます!
この物語は、仮想世界の秩序と、
人間とデータの境界を巡る戦いを描いていきます。
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