introduction 09 Digitial Surrender - 降る世界と委ねる者たち /12
※この作品はフィクションです。実在の団体・組織・企業・人物とは関係ありません。
仮想世界が「現実」となった時代――
企業が支配する電脳世界「インター・ヴァーチュア」。
自由を求める者たち、デジタル生命体(DQL)、そしてコード・フレームワークを駆る戦士たちの戦いが始まる。
この物語は、仮想世界の秩序を巡る戦争と、
人間とデジタル生命体の共存の可能性を描いたSF作品です。
適宜更新予定。
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【Present Day】
アジエはあの出来事でチセに感じた自分との差を思い返していた。
チセは見事にアジエの理論の欠陥を埋めて見せた。
アジエ自身も、それに深く感動した。
だが、その時に最も大きく感じたのは、むしろ驚愕だった。
いったい何に? アジエにも説明は難しい。
強いて言えば、チセがあまりにも自然だったことだろう。
あの結論の導き方を知識差とは感じることができなかった。
むしろ感覚…… 生き方…… 習慣…… そんな根源的な、なんというか生物としての差というようなものを感じたのだ。
説明ができないので気持ち悪くて仕方なく、アジエは暫定的にそれを才能と定義することにした。
(まあ、そうやって何かを言語化しないと納得できないのが、私の限界ってやつかな……)
結局のところ、アジエも教授連中と同様に実証主義と機構主義が骨身に染み込んでいると思い知らされた。
どうしても自然現象に第三者の意識が介入することを拒んでしまうのだ。
観測者の意識が関与しなくても、環境との相互作用── つまり外部との情報の交換によって、量子的な重ね合わせは自然に崩れる。
それが現実世界の在り方であり、物理法則の姿なのだと信じてきた。
もし人によって結果の質が変わるとすれば、それは理論の限界を意味する。
どれだけ精密にモデルを組んでも、誰が扱うかで結果が揺れるなら、それは科学ではなく芸術だ。
どこまで行ってもアジエは科学者であり、それを認めることは自らの根幹を否定するようで、恐ろしかった。
それでもチセのあの、考え方と導きだした式はとても美しかった。
とても自然で、吹き抜けるように、流れる水のように。
そしてチセは本当に当たり前のように観測いた。
階段を登りながらアジエはその観測の結果がこの仮想現実どれほどの奇跡だったか――。
アジエが知る限り、それはビリー・オズニアック以来、初のインター・ヴァーチュアでの量子的発明だった。
【Flashback】
「……たった、腕の一振りでこれかよ――」
まったく、いったいあのジェスチャーアクションだけでどうしてこうなる。
チセが部屋から去った後、私は処理結果のログを漁った。
だが、跡形もなかった。
これでも、研究者だしメカニックだ。
私にもそれなりに、データやコードの扱いには心得はある。
ただのちょっとした削除ぐらいなら復元なんぞいくらでもできる。
――できるのだが、そんなバカなだ。
呆れるぐらいに綺麗さっぱり消えていた。
あの娘が作った贋作のブランド服――。
タグを見れば一発でバレるはずが、そこだけが完璧に消えてる。
あの時も中身がないのに見た目だけが完璧だった。
今回も、それと同じ――がらんどうだ。
腕の一振りでかき消えたディスプレイと共に、あのシミュレーションのログも完全に失われていた。
「なんだこりゃ…… 痕跡一つ残ってねぇ。 フォーマットツール連発とか、NULL埋めとか…… そんなチマチマしたもんじゃねぇな」
そう、これはもっとこう、最初からなかったとか言いようがないほど何も無い。
頬が引き攣ったのを感じた。
そして唇を噛み、舌打ちをした。
無自覚に、自然に、そんな行動をした自分に驚いた。
いや、まいった。
どうやら私は自分より優秀な存在というのに慣れていないらしい。
ファーック―― こいつが規格外ってやつか……。
すぅっと、意識を切り替えるように、短く息を吸い込んだ。
ふぅっと、息を吐いて、平常を取り戻す。
チセの贋作の服も見ていた。
たださえ手がかかるのに、あの胸から爆ぜて、コード・ベースを晒したγをこの短期間で修復してのけた。
私は諦めていたし、むしろ鬱陶しい骨董品が消えると喜んでさえいたのに、直してしまった。
事実は明白。
チセの才能は規格外。
そうやって単純な言語に落とし込んで、私は腹に落とす。
複雑を紐解くより、理解してしまった方が早い。
特に自分が太刀打ちできないなら無理に挑む方がアホらしい。
「ログからトレースできないなら、自分でやってみるまでだ」
幸いなことに、式は見ている。
あの発動までの瞬間に、黒い画面に踊ったあの式を思い出す。
Ψ_out(t) = Tr_O [ U_QNN ( |Ψ_in⟩⟨Ψ_in| ⊗ |O⟩⟨O| ) U_QNN† ]
元々の私の式は、
Ψ(t) = U_QNN × |Ψ_in⟩
で、ユニタリ変換だけに閉じた式だった。
チセはこれを確率混合状態も扱える密度行列形式に引き上げている。
さらに、観測者の状態 |O⟩⟨O| をテンソル積として加えた上で、出力からトレースアウトしている――。
「……外部系の状態ベクトルを乗せた上で、主系を観測的に射影したってことか……?」
概要はわかる。
その上で、この式におけるでっかい存在に
私は人差し指を額にあて、息を深く吐き、考えた。
「Oって……誰のこと?」
わっかんねー。
もそも私のモデルは誰も見てないのが前提だった。
演算さえ完璧なら、結果は出ると……。
まあ、出なかったんですけど。
改めてこうやって考えると、その抽象的な存在ってやつは定義して良いのか迷う。
仮想世界内のユーザーの意識?
|量子ニューラルネットワーク《QNN》学習時に与えた教師信号?
チセ自身の観測意識?
「ダメだ―― 考えても無駄だ」
今まで意識すらしていなかったものを考察するのはやめよう。
とりあえず、私からするとこの式は野生的すぎる……。
多分、あのまま私があの式を扱うことは不可能だ。
正直、あの娘が観測者として何を見たのかさっぱりわからないのにそのまま使うのは危険すぎる。
あれをそのまま使ったらどんな影響が出るかわかったもんじゃない。
下手したら。使った本人になんらかの逆流が発生する可能性がある。
このへんは、オズニアックに似て非なる部分か……。
オズニアックは多少なりとも、他人が使うことを考えている。
一方、チセのあの式は本人以外に使わせることを一才、考慮していない。
とりあえず、作りを変えてみるか。
私は端末を起動し、シミュレータのワークスペースを立ち上げた。
まずはベースだ。
チセの式に手を入れる前に、最初の構成を分解する。
密度行列で書かれたあの式──
つまり、
Ψ_out(t) = Tr_O [ U_QNN ( |Ψ_in⟩⟨Ψ_in| ⊗ |O⟩⟨O| ) U_QNN† ]
ってやつ。
こいつは表面的には綺麗だが、正体はブラックボックスだ。
演算子の順序も、干渉の条件も、チセの内部モデルにべったり依存してる。
まずいまずい。
やっぱりこんなもん、そのまま再現したら、使用者の自身の処理が破綻する。
データ的に一発で脳死して、強制排出だ。
多分、現実でも脳がやられるんじゃ――。
うーん―― まずは、逆にバラして構造に戻そう。
私は仮想レジスタの上で数式を再現し始める。
スカラーとしてのΨは捨てて、まず|Ψ_in⟩を外部環境とは独立した初期状態として定義。
|O⟩も独立変数として定義し、テンソル積を組む。
次にQNNによる時間発展 U_QNN を作用させて、|Ψ_in⟩ ⊗ |O⟩ を同時にブースト。
そこからOの自由度をトレースアウトして、主系の観測可能な出力を導出する──。
式の流れとしては同じだ。
けど、その流れをプログラムに落とし込むためには、いくつかの補助変数が要る。
そしてなにより――最大の問題は、観測者O。
「……こりゃまるで、観測者が立ってないシュレディンガー方程式みたいなもんだな」
チセが何を見たかなんて、私にはわからない。
けれど、彼女が見た結果なら、目撃している。
ならば、逆だ。
その結果が現れたということは、そのとき観測された状態が、確かにあったってことだ。
──つまり、観測者Oの状態を、逆算して仮定してやればいい。
私は仮定されたOの状態を、観測された結果に対応するベクトルとして定義した。
得られた現象から逆向きにたどる。
要するにこれは、観測者の未来の視点を、因果関係を逆照射するように代入する行為だ。
占いじみたエミュレーションだが……仕方ない。
私はOの状態をモデル観測者として構築し、静的な演算対象として挿入した。
当然、これはチセのそれとは違う。
でも、こうしないと、私には現象が説明できない。
だって、私自身が考えていた内容から結果が大きく逸脱したからだ。
もし私が考えている通りなら、この世界のインフラ構造を破壊する。
まずは結果を再現して、目の前で起きたことが私の推論した現象だったかを確かめねば。
Psi_out(t) = Tr_O [ U_QNN ( |Psi_in><Psi_in| ⊗ |O_model><O_model| ) U_QNN† ]
私はディスプレイを立ち上げ、修正した式を投入した。
ディスプレイが光を放つ――
ただ、チセが実行した時と違い、二つのO_model への変数を代入するプロンプトが求められる。
ここに私の知っている範囲で、意識から代入してやればいい。
起点と終点だ。
これなら仮に処理が失敗しても、非同期なので実行者に影響はない。
思考に連動して、変数が代入されるとディスプレイが像を結ぶ――。
観測の、はじまりだ。
【Present Day】
階段の折り返しのまで登ると、アジエは足を止めた。
壁に両開きのハッチがあった。
アジエの腰ぐらいの高さまであるに斜めに取り付けられた取手は銃把のようになっていて、トリガーのようなレバーがついている。
左の扉に手をかけ、人差し指でレバーを引くとガチンと掛け金が外れる音と振動が手に伝わった。
そのまま上方向に引き上げると、見た目によらず扉は軽く斜め上に向かって持ち上がった。
同じように右側の扉も開ける。
扉が開くと、半円状のトンネルがそこにはあった。
かがみこんでトンネルを覗き込むと、スゥーッと空気が流れんでくるのを感じた。
「Bullseye――」
アジエは立ち上がると手の平を顔の前で開いた。
ハガキほどのディスプレイが浮かび上がり、コール音が鳴る。
五回も鳴らないうちに繋がり、見上げるようなアングルで肩肘をついたチセの顔が像を結んだ。
「……何?」
どこを見ているのやら、画面からそっぽを向いた不機嫌そうなチセの背後には白い蛍光灯のようなグレート・フラットの空の光が広がっている。
「オマエー。 ずいぶんとご挨拶だな」
やれることに対して、やってることがほんとに幼い。
呆れて自然とため息が出る。
「いいから、降りてこい」
「イヤだ―― まだここにいる」
「ワガママ、こいてんじゃねーよ。 今、下来てっからこっちこい」
チセはブスーっ、余計に頬を膨らませる。
「メカニックなんだろ」
アジエの言葉に、やっとチセは視線をチラリと画面に向けた。
「ちゃんと乗り手に状態と注意―― メンドクセー機体の持ち主に伝えないとダメだろ」
アジエは画面越しにチセと視線を合わせた。
あの光ってるような緑色の瞳がこっちを覗き込んでいた。
「……わかったよ、降りる……」
数秒間の交錯の後、観念したようにチセは呟くとコールを切った。
ブチンという音と共に、ディスプレイは暗転し、スッと溶けるように消えていった。
しばらくすると、トンネルの奥の方からカンカンとハシゴを下る音が鳴り響いてきた。
その音を聞き、アジエは壁を背に寄りかかり、キャップの鍔を引っ張り、目深にかぶった。
メカニックとしての自覚は十分にある。
ああやって不貞腐れても、存外に職人気質だ。
義務に訴えれば、やるべきことは受け入れる。
結局は向いているのだ。
それに、あの娘が選ぶなら、ギルドなんてヤクザな生業をしなくても、持てる武器で食べていける道筋も与えている。
とは言っても、やはりアジエには不安が残る。
見ていないと何かをしでかしすようなそんな予感がある。
どこまでいっても、異質でアンバランスなチセという娘をアジエは持て余しているのだ。
その不安がチセを手元に置くという動機であることをアジエは再認識していた。
そして、その不安はあの検証の結果から始まった――。
【Flashback】
検証終了――。
私は、残った各種ログと結果の仕分のルーチンを実行して、テーブルの上で冷えたマグカップを手に取った。
半分以上飲まれたコーヒーの表面に少し大きな波がたった。
どうやら少し手が震えているらしい。
「Damn it! まずい、これは…… やりすぎだ〜」
カップを両手で支えて、コーヒーを啜った。
冷めたコーヒーの酸味のデータが口のなかで広がり、私に落ち着きを取り戻させた。
とはいえだ、確認してしまった事実に後悔でいっぱいになる。
とはいえ、これでも学者の端くれだ。
見てしまった以上、それは存在している。
自分に嘘はつけない。
都合の悪い結果というやつを黙殺できるほど私は、器用ではないのだ。
それに、都合が悪い結果?
いや、ちょっと違う―― これは立派に革新的な発明だ。
ただし、これを迂闊に外に出せば、いろんな連中を怒らせる。
きっと、インター・ヴァーチュアの利権で食ってる連中の都合は悪くなることだろう。
それに、そんな代物があることを連中が知れば、それを理解する者や、作った者を消そうとする。
あるいは、独占しようとするかも知れない。
ああー、ヤバイ―― 結局、私たちにも都合が悪いじゃないか……。
そもそも私が予想してい結果は、せいぜいコード・ユニットの過処理機構――。
要するにCFやライナーのスーパーチャージャーかターボチャージャーのような性能向上装置のつもりだった。
確かに元々、コード・ベースを使った乗り物の特性である空間の観測確定移動に元々の出力以上の距離や、干渉を与えるということを想定したものではあった。
「そもそも、そこかー。 そのアプローチ自体がその機能の上位互換になるってことを、なんで、気づかないかなぁ」
私は手で顔を覆った。
しかも、私がやったそれはチセがシレッとやって見せたことの劣化版だ。
チセはリアルタイムに自分を処理に繋いで行った。
おそらく、チセの場合は自分の知覚の許す限り、処理をしてしまうだろう。
要するに使い手のスペックに依存する。
本来はそういう代物なのだ。
私はそこに制限を与えて均一化した。
そこには使い手という概念をただの始点と終点という単純な概念に落とし込んだ。
結果、機体の出力に依存するという制限を設けることになったが、道具としてはおそらくこちらの方が正しい。
像は、結んだ。
O_modelに代入した状態が、あの瞬間と近似した演算を引き起こした。
現象としては似ている。
けれど、あのときとは違う。
チセがやったのは、再現じゃない。
もっと―― 本人にしかできない何かだった。
私は、それをまだ理解していない。
「……本当に、わかってないんだよな」
ログは消えて、データも失われて、式だけが記憶に残った。
それを組み直しても、あの瞬間に何が起きたのかはやっぱり掴めない。
私にできるのは、ただ仮定することだけだ。
過去からじゃない。
未来から、ああだったはずのOを代入して、辻褄を合わせる。
でも、それで世界が動いてしまうなら――。
それが本当にチセの感覚に由来するものなら――。
こいつは、危ない。
あの娘が、どこか他所で、誰かに使われたりしたら。
知らないところで、同じことをしたら。
「……手元に、置いておくしかないか」
それは、才能への期待でもなければ、育成でもない。
ただ、目を離せないという―― それだけの理由だった。
最後まで読んでいただきありがとうございます!
この物語は、仮想世界の秩序と、
人間とデータの境界を巡る戦いを描いていきます。
最後まで読んでいただきありがとうございます!
この物語は、仮想世界の秩序と、
人間とデータの境界を巡る戦いを描いていきます。
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外伝 デジタル娘は腹が減る:チセの日常飯日記
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設定などをインターヴァーチュア・ガイドで不定期に投稿しています。
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