2 ミミハポは寂しがり
パレンタは頭を抱えていた。
リヴァイアサン討伐クエストから数日、透視魔法の練習に身が入らない。それは自分の能力が不意に得てしまった過大な報酬によるもので、彼女を苦しめていた。
「こんなもの会得しなければよかった」
彼女の中で疑念が生まれていた。それは第一魔王のルダンカルガーツが生きている、事をほのめかす誰かの心の言葉を覗いてしまった事実に付随する。パーティーメンバーの誰かが心の中でルダンカルガーツにリヴァイアサンの鱗を食わせてやろう、と考えたことを覗いてしまったのだ。
しかし、未熟な透視魔法が急に真価を発揮した事も疑問に感じていて、何が本当で嘘が存在するのか疑心暗鬼に陥っていた。
「視るだけじゃないの……?」
パレンタ達はそれぞれ街に居住を構えている。彼女は一人暮らしに適した広さの一室で天井を見つめていたが、腕で視界を遮った。
「透けて視える魔法じゃなかった、第一魔王が生きているって心を読んだのは、透いて覗いたのよ」
脳を休ませて自分で作った暗闇を見ていた。パレンタはまぶたの裏に、終わりのないが手が届きそうな黒を感じていた。
コンコンココン。
扉が叩かれる音がした。ここは新しくない共同住宅の三階であるが、いつものような足音がしなかった。
パレンタは息を殺してその奥を透視しようとしたが、暑さに阻まれた。音をすり潰して扉に近づいていく。
ココンコンコン。
肩に緊張が走る。危うく声が漏れ出てしまいそうだったが、なんとか抑えた。恐る恐るドアスコープに目を貼り付け、手に滲んだ汗が音を立てないように注意した。
その奥には地面に目線を落としたミミハポがもじついていた。ああなんだミミハポか、とパレンタは胸をなでおろしてドアノブに手をかけた。まるで気にしていなかったかのように気を取り直してその手を回した。
「あら、どうかしましたかミミハポ、こんな夜遅くに?」
時針は日付を越えようとしていた。
ミミハポは近くに住まいを置いているが、それでもその格好は夜に出歩くような姿ではなかった。寝巻きにしては派手に見える暗い黄色のスウィーティーなワンピース仕様のつなぎ。化粧を落としていて僅かなそばかすが露見していた。入浴後、就寝の準備は済んでいるように見える。
「……寂しくなって」
胸の奥から吐き出した言葉は甘い声音ながら庇護欲を煽る口ぶりであった。後ろで手を揉んでいるかと思えば、枕を隠していて、上目遣いで枕を抱きしめると、廊下に首を振ってから一歩、部屋の中に踏み込んできた。
「入って入って、そんな格好じゃ寒いでしょう」
パレンタは入室を催促するとドアの鍵を閉めた。内廊下に施錠音が取り残された。
「暖かいお茶を入れます、くつろいでいてください」
「いつもありがとう」
ミミハポは時々こうしてパレンタの家にやってくるのだ。彼女もまた一人暮らしで、その年齢は成人の十六を超えた十八歳、彼女にとってパレンタは心細い部分を打ち明ける少ない相手で二つ年上の姉のような存在である。
「少し外に出るだけでも冷えたでしょう。最近は夜が寒いから、体を温めて寝るようにしているんです。丁度よかった、お茶を入れるところだったんです」
台所にてパレンタは、お茶セットがワークトップに並ぶガラス音を鳴らして話しかけた。彼女の方を見て、部屋の装飾、カーテンの皺、机の木目、置き物に目を移したミミハポは掛けてもらったブランケットに身をくるんでいる。
「パレンタの家は落ち着くー」
肩の荷を下ろすように、深く息を吐いたミミハポの元へお茶が運ばれてきた。透明感のあるオレンジ色の水面に天井の電灯がいびつに揺れる。二人分を机に置くと、砂糖はいりますか、との親切に頷いた。パレンタが棚から角砂糖を探している中、ミミハポは何度か椅子を引いて姿勢を整えた。ブランケットは膝の上に畳んで置いた。
「あまり夜は出歩かない方がいいですよ、私たちは良くも悪くも目立つんですから」
パレンタは椅子に腰掛けるとティーカップを両手で覆った。手を温めると波が立たないように息を吹きかけ、表面温度を冷まして口に運んだ。
「そうだよねー。でも」
「でも?」
「今は穏やかな方だよねー、ここに来る途中の裏道も前はゴミだらけだったし」
「私たちの功績が少しでも街を色付けているなら嬉しいですね」
「だけど、第一魔王は倒したのに平和がいつまで続くのかわからないんだよ」
ミミハポはお茶をあおると、熱が喉から全身に伝わって頬を赤らめた。
「魔王軍側は恐らくルダンカルガーツを失った事で勢力が分散して謀略を練っているのに、私たちの対魔族への前線が後手に回って停滞している今、街は束の間の平穏に活気づいて危機感を失っている。このままだと急襲による民間の混乱は避けられない」
「なら、私たちで少しでも軽減出来たら――」
「不安や心残りが、心につっかえる恐怖が、街には必要だと思うの」
パレンタは言葉を遮るようにした彼女の強い口調に呆気を取られた。ミミハポの言葉が繋がる。
「パレンタは、なんで街が豊かになったと思う?」
彼女は考えた。しかし在り来りな返答ばかりが頭に浮かんでは消して、その質問の意図を見透かそうと目の奥に力を入れたが、ミミハポの思惑には触れられなかった。
「魔王軍が一時的にも退いてゆとりが出来たから」
「私の考えは」
ミミハポもまた考えるように夜を透かして見た。
「パレンタとは正反対。ルダンカルガーツ討伐によって出来てしまった余裕が、民衆の不満を浮き彫りにした。ルダンカルガーツは必要悪だった」
その言葉にパレンタは目を疑った。温まった体、背筋が冷えゆくのを感じていた。
「街にはね、日々を死に物狂いで生きようとする人が沢山いたの。家、食事、温もり、愛を持たない与えられない人が街の汚れだと嫌われていた」
彼らは世の中の隅で生命を繋ぎ止めていた。家がなくまともな食事を得られないのは、どれだけ職をこなそうと不遇な扱いを受けた者、捨て子、破産者、病人、高齢者、中には自由人もいたかもしれない。
「彼らが一夜にして消えたのはなぜか。それは、彼らをよく思っていない人たちが、消したのよ」
「消した?」パレンタは顔が歪んだ。
「奴隷商に売りつけたという話もあれば、他国の特攻部隊に選出されたという話もあって……あ……と」
(あれ……ミミハポ……)
視界が歪んでいく。人間の顔が人間の顔でないように変形して見えた。パレンタは夢に吊り上げられていった。
「……魔王軍に差し出されたらしい。ん、眠たくなってきた? じゃあ、今日はここまでにして」
(なにいってるの……ああ、ええ……)
意識が薄れていく。何百枚と刷り上げられた紙に一秒が分散して写し出されたような希薄な記憶を刻んでいった。
パレンタの視点は床に広がる絨毯の端から端をゆらついて、ふらつく身体はひ弱な体に支えられた。
「そんな顔もできるんだねー」
最後に聞いた言葉さえも翌日には思い出せないほどに、体が疲れていたのかもしれない。そう思うようにして朝を迎えた。パレンタは体の痛みに違和感を覚えながらも状態を起こし体をまさぐったが感触に異質さはなかった。
「ミミハポは……」
台所の方から金属のぶつかる音が聞こえて、換気扇の微弱な風に掻き回された室内に香ばしい香りがした。眠気まなこを擦った。
いつものように顔を洗って、いつものように鏡の前で服を着替えた。クローゼットを開けて、引き出しから下着を取りだした、運動用に用いる締め付けのいいものを今日は必要としていた。
「キッチン借りたよー、いつもの作ったから冷めないうちに食べてー、お代は後で払うね手持ちないから」
ミミハポはパレンタ宅に泊まる際、毎朝、決まって作るものがあった。目玉焼きとグリルソーセージ、トースト、あればヨーグルトを添える。
「ありがとう」
普通に、食事を初めていくうちに、だんだんと目が覚めていった。雫が溜まったかのように重たかった瞼は光に手を伸ばして取り込み、脳を叩き起す。
(なんだかいつもより疲れが取れてる気がする)
そう思ったパレンタの胸中は、的をいていた。
「どうー美味しい?」
「んん、おいしい」口に黄身と白身を混ぜていった。
「今日はクエストに行く日だから、元気だしてこー」
「そうですね……あ、ミミハポお塩こぼしてますよ」
「あ、ほんとだ、ありがと」
「……それ」
「目玉焼きにお塩合うんだよねー」
パレンタの脳は冴えていた。それはそれはやけに覚醒していて、記憶の道中に置き去りにされた違和感が手を挙げたかのように、彼女は感じ取った。
ミミハポの機微に違和感を覚えたのは、長く顔を合わせてきたからだ。彼女は顔を逸らし、まるで何かを隠しているように見える。
パレンタは透視魔法を密かに発動した。しかしミミハポの心の中、考えていることを見透かすことは出来なかった。だが顔が青ざめるような出来事を目の当たりにした。平静を装って肩の力を抜いた。
(ミミハポが、私の下着付けてる)
それに気がついた時、彼女は喉が閉まる追い討ちをくらう。
(昨日の夜……私が着てた下着だ)
して記憶の断片は繋がる。
(睡眠薬……!)
パレンタは悟った。急激な眠気から目が覚めるまでの間に下着が変わっていて、それに気が付いたのは今朝、着替えたからだ。睡眠中に動かされようものなら起きるはずだが起きなかったのは、強い眠りに着いていたからだと、彼女は考えた。
しかし何故、そうするのか理由が分からないまま朝食を食べ終え、ミミハポは流れるままに帰宅した。取り残されたパレンタは一人頭を抱える。
「寝る直前の記憶……ミミハポはルダンカルガーツは必要悪だっていってた、気がする」
彼女の中で生まれた疑念は、ルダンカルガーツが生きている可能性があって、それを匿う存在がパーティにいること。それを満たす条件に、ミミハポは当てはまってしまった。
容疑者が一人。
「私の下着を使って魔王にどうこうできるものなの? それとも、私が記憶を覗いた事を勘づいてる?」
パレンタ脳は疑問符に埋め尽くされた。より一層、第一魔王ルダンカルガーツを生かしている可能性のあるメンバーを突き止めて話をしなければならないと正義感を抱いた。
彼女の目には、ミミハポは美しく映らなかった。