ゾンビパニックのあとで
今世紀未最大のバイオテロと言われたパニックはたった一年で収束した。
おかげでゾンビと言われる人と死者の狭間だったモノたちが闊歩していた時期は、百年のうちの一年という短さで終焉した。同時多発的に日本各地で散布されたゾンビウイルスは、一年も経たないうちにワクチンが開発され、接種が終わると過去のものになった。各地のゾンビは駆除が進み、一年半が経ったいまではウイルスが散布された繁華街はいまでは人通りが戻って、かつての賑わいを見せている。
開発の速さから、製薬会社による自作自演や政府がテロ組織に大金を払ってワクチンを買い取ったという陰謀論がネットや週刊誌を沸かせていたが、ゾンビが町から消えると夏のたびに特集が組まれる怪談と同じような扱いになっている。
面白いのは、ごく稀に見つかったゾンビが人気になることだ。
大阪城公園で見つかったゾンビはSNSやテレビで『大ちゃん』というあだ名がつけられて、遠巻きに見に来る人々が絶えなかった。おかげで大阪府警は本来ならすぐに処分するはずのゾンビを一般人から守るために警護をすることになった。しまいには、『大ちゃん』の処分を撤回するように抗議運動を行う人権団体まで現れて大阪城の一部が二ヶ月に渡って閉鎖されてしまった。
ワクチンが開発されてもゾンビ化した感染者は、元に戻らない。変質してしまった細胞は元には戻せないのだ。できるのは感染を防ぐだけだ。だから、感染者については様々な意見が噴出した。
もう人とは違う性質に変質しているために死者だとするもの。
意識がなくとも動いているのだから生きているとするもの。
人とは違う生き物だと新たに定義して共生を語るもの。
人に害をもたらす害獣として根絶するべきというもの。
こういう意見の中で、ゾンビ化した親族を匿っていた家族が見つかると小さな事件が起きる。それらの多くはゾンビを匿った家族へ批判的で容赦がなかった。テレビやネットでは泣き叫ぶ家族から離される白濁した目のゾンビが檻に入れられて運ばれていく様子を繰り返し流した。
そんな映像を見ると私は不安になる。
――兄はまだどこかにいるのではないか?
一年半前、大阪のど真ん中で起きたバイオテロ。その中に兄がいたことは確かだ。だが、その後、公的に処分されたゾンビのなかに兄はいなかった。初期の混乱なかで私人によって処分されたのかもしれない。おそらくはその方が確率が高い、と思いながらも誰かに生かされているのではという不安は拭えない。いや、ゾンビとなっているのならば生きてはいない。だが、兄だったものは残っているのかもしれない。
私は休日のたびに元通りに戻った繁華街を歩いた。
それは兄の痕跡を探す旅であると同時に、私の知らない兄と出会う旅だった。
私の知っている兄は、自信家で金遣いが荒く、面が良いろくでなしだった。だが、この町では兄は割と人に好かれていたらしい。兄の名を出すと「ケンヤ。いい奴だったよ」や「ケンヤさんにはお世話になって」という好意的な人が多かった。
終いには兄が女性と交際していたことさえ分かった。
あまりに私の知らない兄の姿に私は別人の話をしているのではないか、と思うことが度々あった。あの兄が、他人を助けたり、誰かを愛したり、まるで普通の人間のように生きていた。まるでおとぎ話のようであった。
兄を探し始めて二カ月後、私はある女性と出会った。
兄が常連だったという店で話を聞いていたときだ。そこへ入ってきたのがアヤハだった。
アヤハは店に入ってすぐに私の顔を見るとひどく怯えた様子だった。そして、ばっと身を翻して店から駆け出した。私は一瞬のことで訳が分からずに「彼女は何者か?」と店の男性に訊ねた。男性は知らないのかと言いたげな顔をしたあとで「ケンヤのこれだよ」と小指を立てて見せた。
私は慌ててアヤハのあとを追いかけた。彼女がかかとの高い靴を履いていてくれたおかげで、追いつくのは容易だった。追い付いて肩を叩くとアヤハは二重の大人しそうな瞳で私を見てすぐに目をそらした。
「あなたが兄の恋人だったアヤハさんですか?」
私が尋ねると彼女は切れ切れになっていた息を一瞬停めて否定の言葉を吐きだそうとしたが、言葉は紡がれず、息を整えるのには十分な沈黙のあとで「はい」と答えると私の顔を怯えた様子でのぞいた。
「あなたはケンヤの……」
「弟です。カズヤといいます。兄から聞いたことはありませんか?」
「……あります。とても優秀な方だと」
兄が優秀だと言っていたことに私は驚いた。これまでの人生で兄から褒められたことはない。それどころか兄は私を見下していたように思う。多少勉強ができても私は秀才型で、天才型の兄のように努力一つせず成果をもぎ取るような才覚はなかった。だから兄は努力する私を鼻で哂っていたはずだ。
そんな兄が私を褒めるということが私には驚きで、その変化が目の前の女性と交際することで兄に起きた変化だとすれば、人がゾンビに変容するよりも大きなものだ。
「そんなことを兄が……?」
私はひどい顔をしていたに違いない。
アヤハは私に表情を見て怯えたような顔を曇らせた。
「本当です。嘘なんかついていません。本当です」
繁華街のど真ん中で懇願するようなアヤハの声に周囲の人が、私たちに不躾な視線を向ける。
「……ここではなんですから、そこの喫茶店に入りましょう」
私は半ば強引に彼女をつれて有名なコーヒーショップに入った。アヤハはたっぷりとミルクの入ったカフェ・オレを頼み、私は苦味と酸味で顔がしかむようなブラックにした。
「率直にお聞きするのですが、兄の行方を知りませんか? 一年半前の二月二十二日以来、行方が分からないのです。兄と交際していたあなたなら何かを知っているのではありませんか?」
ゾンビウイルスが各地にばら撒かれた日。テロ集団は事前にゾンビ化した数十人を繁華街に解放った。当日の映像は繁華街にいくつも仕掛けられていた監視カメラに残されている。そして、その一つに兄がゾンビに嚙みつかれたものがあった。だから、兄がゾンビ化したことは間違いがない。
「……知りません。私もあの日以来ずっとケンヤの帰りを待っています」
あの兄をずっと待ってくれている人がいる。私はどうしても驚きを隠せなかった。
「あなたも映像は観たのではありませんか? 繰り返しテレビやネットで流されていたはずです」
「観ました。観ましたけど私にはケンヤが必要なのです」
「それなら、分かるんじゃありませんか? あの状況で兄が生きているはずがないと」
「……普通ならそうです。でも、あなたもケンヤが生きているのではないか、と思っているのではないですか?」
アヤハがこちらを上目遣いで見つめる。
その眼を私はそらすことができなかった。
ゾンビ化したと思われる兄は見つかっていない。しかし、状況的には兄の死は確実だった。それにもかかわらず、兄を探してしまうのは、兄が生きているのではないか、と思ってしまっているからだ。
「そんなわけ……」
ない、という一言が出てこない。
私は安心したいのだ。兄が死んだという明確な答えが欲しい。自分の人生の上に大きくのしかかり、越えられない壁のように私を覆っていた男がもう本当にいないのだと信じたい。
アヤハはカフェ・オレに口をつけると何度も私の顔色を窺った。
「カズヤさんはゾンビをどう思いますか?」
「どうと言われても」
「……私はゾンビでもいいのではないかと思っています。もし、特別な感情を持つ相手が死んでしまったら二度と会えません。どんなに大事に保存しても、身体は朽ちるし、動きも声も発しません。でも、ゾンビなら少し身体は劣化するかもしれませんが、動いて声も聴けます。難しい話としては生きていないのかもしれません。でも、死んでもいないと思うんです」
ゾンビ化については、様々な説が言われているが、有力とされているのはウイルスが脳に感染した時点で、大脳の機能などは停止し、いわゆる脳死の状態におちいる。ウイルスは残された小脳と一部の器官を操作しているに過ぎない、というものだ。
そのため、政府などはゾンビ化したものはその時点で死亡とみなして、ゾンビを処分する際に加えられる危害については死後のものとみなしている。別のある説では、大脳などの機能は鈍化しているだけでゾンビ化した人間は夢の中にいるような状態だと言う。しかし、それではゾンビは生きていることになり、ゾンビを処理することは、人殺しになってしまう。
「意志を持っていないのに死んでいない、というのはちょっと無理がありませんか?」
「眠っているときは誰も意識がありませんよ」
「それは一時的なものだからです。ゾンビは二度と元には戻らない」
私はアイスコーヒーをあおる。苦味が喉から頭へ伝わる。
アヤハはしばらく手元のカフェ・オレの入ったカップを覗いていた。
「例えば、このカフェ・オレに砂糖を入れたら、入れる前には二度と戻せませんよね?」
「覆水盆に返らずじゃありませんが、元には戻せないでしょう」
「でも戻す意味ってありますか? 私にとって入れる前のカフェ・オレも入れた後のカフェ・オレも同じカフェ・オレだとしたら、何も変わりないと思いませんか?」
それはどんなに変わっても愛は変わらない、とか言う話だろうか?
私はアヤハの真意が分からずに首を傾げた。
「それはアヤハさんがそう思っているというだけで、他人からは別物です」
「そうでしょうか? 砂糖が入る前のカフェ・オレと入れた後のカフェ・オレを見た目で別物だと言える人がどれだけいますか? 例えば、カズヤさんがケンヤだと名乗ったら、多くの人がケンヤと思うと思いませんか?」
私と兄の見た目はよく似ている。
双子だから当然だ、とも言えるが、それならどうして私と兄で能力に差が出たのか、という仄暗い思いが口から出そうになる。私と兄は別だ。だが、見た目からそれを判断できる人がどれほどいるだろうか。
「私はカズヤです。ケンヤとは違います」
「それはあなたが思っているだけでは? 私や他の多くの人があなたをケンヤだと認めれば、あなたはどうやってカズヤさんだと証明するのですか?」
「やめてくれ。私は兄とは違う」
「……そうでしょうね。ひどい言い方をしました。すいません」
アヤハは申し訳なさそうに頭をさげた。
私は少しの怒りと恐怖を飲み込んで「いいえ、大丈夫です」と手を挙げてからコーヒーを一気に飲み干した。
「カズヤさんはケンヤに会いたいですか?」
「……生きているのなら」
そうだ。私は兄が生きているか死んでいるか知りたいだけだ。
「なら、私たちの家に来てください」
アヤハは私と言わずに私たちと言った。それはケンヤが生きているような言いようだった。
コーヒーショップを出て繁華街を南に歩いていく、地下鉄の駅一つ分移動したところにそのマンションはあった。そこそこ立派で、家族で住むには小さく、一人で住むには広い。そんなマンションだった。共有のエントランスを抜けてカードキーをエレベータに当てるとポンっと気の抜けた音でドアが開いた。
そのまま五階まで昇るとアヤハはまっすぐに五〇七号室の扉を開けた。
「どうぞ、入ってください」
どこにでもある白壁紙の玄関に女性物の靴に混じって男性物の靴が並んでいる。しかし、久しく使われていないのかどこか置物のような印象があった。少し覗き込むと『27.5』と私と同じサイズが印刷されていた。兄がここにいるのだとしたら。
私はカバンの肩ひもを握りしめる。ずっしりと重い力が肩にかかる。
ゾンビをもっとも簡単に無力化させるのは脳を砕くことだという。カバンの中にはラーメン屋で豚骨を砕くような骨割ハンマーが入っている。もし、ゾンビ化した兄があればこれを振り下ろす。私はすぐに取り出せるようにカバンを握りしめる。
「……お邪魔します」
アヤハは玄関脇に置かれたスリッパを並べてくれた。それに足を通して奥に入るとダイニングキッチンがあった。綺麗に片付いたカウンターキッチンに、テレビのほうを向いた二人掛けのソファが目に入る。そこに兄の姿はない。
「兄はどこに?」
アヤハは何も言わなかった。ただ視線だけが隣の部屋に向けられる。おそらくは寝室だろう。私はそのまま黙って寝室の扉を開けた。日中であったが、部屋の中は暗い。それでもおおよその輪郭は分かる。部屋の真ん中にダブルベットがあった。だが、そこに横たわっている人物はなく、空だった。
ベッドサイドのテーブルにはハムスターでも飼うようなケージがあるだけで、他には衣類をしまう箪笥とスーツなどを吊るしたスタンド。そして、アヤハが化粧に使うだろう大きな鏡のついた化粧机だけだ。兄の姿はない。
「ケンヤならそこにいるじゃないですか?」
背後からアヤハの声がする。
私は兄を失った彼女の心が壊れているのだと確信した。きっと彼女には兄が見えているのかもしれない。それは彼女だけが見える兄だ。私には見えない。私は張りつめていた気が抜ける気がした。振り返るとアヤハが化粧机のほうを見つめる。
「……アヤハさん、兄は」
そう口にしたとき、私は違和感を感じた。
なぜ、彼女は化粧机を見たのだろうか? 兄がいるとして兄は化粧机を使うだろうか?
私は化粧机のほうに向きなおる。薄暗い室内が鏡に映る。そこには一人の女性と男性がいた。アヤハと私だ。兄はいない。アヤハが私の背中にもたれかかるように手を絡ませる。薔薇のような香水のにおいがした。
「私は兄ではありません。離してください」
「そうね。あなたはカズヤさんだったものね」
彼女はそう言ってさらに私の背中に身体を押し付ける。私はそれを振り払おうと振り返る。その瞬間、バチンという音がした。より正確に言えば音がしたのは私の頭のなかだ。彼女の手にはスマホくらいの金属が握られており、電流の青白い光が見えた。スタンガンだ。
私は膝から崩れ落ちるようにその場に倒れた。意識はある。だが、身体は動かない。悲鳴をあげようとしてもうわ言のような声しか出ない。彼女は私を少しだけ見下ろしてから、手早く結束バンドで私の手足を拘束した。
「良かった。これでもっと一緒にいられる」
彼女は心底から嬉しそうな声をだした。そのまま彼女はベッドサイドのケージを愛おしそうに抱きかかえる。それが目の前に置かれる。薄暗い室内でもここまで近づけば中身が見えた。それは私とよく似た顔が入っている。
それはケンヤの頭部だ。首から下はない。だが、ケンヤの目は真っ白に濁りながらも私を捉えて動いた。肺がなく言葉を発せないはずの口は私を哂うようにパクパクと上下する。それは奇妙な体験だった。同じ顔が二つ並んでいる。
「ケンヤ。良かったね。身体がなくなって困ってたもの」
ケージから兄の頭部がとりだされる。
切断された首からは背骨と肉がだらりとぶら下がっているのに、頭部は動いている。彼女は私の顔のすぐそばに兄の顔を置くと「本当にそっくり」と言った。
「私は兄じゃない」
とぎれとぎれになりながら私が言うと彼女は「知ってる」と微笑んだ。そして、兄の口元に私の首筋を押し付けた。鈍い痛みと理性のない咀嚼音がする。兄が私に食らいついているのだ。私は悲鳴をあげていた。私が暴れると兄は口を離してゴロンと床を転がった。
その様子をアヤハはあらあらと優しく眺めて兄の頭部を抱え上げた。
「ケンヤ、ダメじゃない。そんな行儀の悪い食べ方しちゃ。あなたが私に言ったのよ。行儀が悪いと育ちが悪く見えるって」
そして彼女は兄の頭部を床へ叩きつけた。
べちゃんという水音と硬い何かが割れるような音がした。それでも兄の頭部は何やら動いている。
「ああ、汚して。ダメじゃない。ケンヤ、言ってたわよね。部屋を汚してはいけないって。それを守れないの悪いことだって、悪いことをしたら罰が必要だって」
アヤハはケージを掴むと思いっきり半壊した兄の頭に叩きつけた。
髄膜が潰されたのか何がつぶれたのか赤黒い液体が四散する。私の目の前で私と同じ顔が潰れていく。目一つ、口一つ動かなくなって彼女は私を見た。
「ケンヤ、また一緒にいられるね」
その表情はひどく嬉しそうであった。
「違う! 私はケンヤじゃ」
叫ぶ私の口にケージが叩きつけられる。前歯が血しぶきと一緒に床に転がる。
「大きな声を出すなんて行儀が悪い。ケンヤ、そう言ってたよね」
私はこのときになってワクチンを打ったことを後悔した。ワクチンを接種した私はゾンビになれない。
それは兄のように生と死の狭間で微睡むことが許されないことを示していた。




