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イランの怪異

作者: 犬墓久司

珍しいイランを舞台にした作品です。着想は竹原新著「イランの口承文芸」(渓水社)から得ました。

謹んで謝意を表します。

 イランに行こうと思ったのは捨て鉢な気分のなせるわざだった。石油が出るということしか知らない異郷の地で、臨終を迎えるのも悪くないなどと不遜なことを考えていたのだ。

 当時の僕は八方塞がりの状態だった。病気で会社を辞め、これから先の見通しが全く立たない状態だった。

 病気は精神的なもので、静養が必要ですと言われたが、そうするだけの蓄えが僕には無かった。

 かといって働けば症状が悪化するのは目に見えていた。結局家で悶々とするだけの日々が続いた。

 しかし何もしないというのは却って心に負担を掛けるものである。一日天井を見つめていると心が張り裂けそうになる。

 それに耐えかねてくだんの無茶をしでかしたわけである。片道切符で空港に降り立つと、そこは日本とは全く別の風景が広がっていた。空は晴れ渡り、空気は爽快だ。気分が高揚してくるのを覚えた。

 空港の玄関でぼうっと立っている姿はうすのろに見えたことだろう。早速客引きに捕まった。有無を言わさずタクシーに押し込まれ、拉致同然の有様で見も知らぬ土地を走り出した。

 僕は身を竦めながら最悪の事態を想像した。こいつらは強盗を生業にしているに違いない。僕は身ぐるみはがれ、野山に置き去りにされるだろう。悪くすれば殺されるかもしれない。

 言葉が通じないというのは逆にありがたかった。あれこれ言われて恐怖を味あわされるのはまっぴらだ。

 そのうち日が陰ってきた。犯罪にはおあつらえ向きの時間だ。と、タクシーが停まった。

運転手は振り向くと右手を差し出した。『財布を出せ』という仕草だと思った僕は黙って従った。

 もうどうにでもなれ、という気持ちだった。

 運転手はなけなしのドル紙幣を抜き取ると、財布を返してくれた。そして身振りで『出ろ』と促した。

 僕はタクシーを降りた。するとタクシーはぐっと急旋回してその場を走り去っていった。

 僕はしばらく茫然としていた。取りあえず命だけは助かったらしい。

 周りを見渡すがすでに日は暮れて、辺りは暗がりに包まれていた。どうしよう。途方に暮れた僕は頭を抱えた。

 どうやら小さな村に連れてこられたらしい。街灯などはなく、闇に目が慣れるまでは歩くことも覚束なかった。

 そろそろと歩きながら僕はこれからどうしようと思案していた。こんなところにホテルなどは無いだろうし、第一お金が無い。誰かの家に泊めてもらうにしても言葉が通じない。

 ないない尽くしで打つ手がない。覚悟を決めて来たはずなのに心が折れそうだ。我ながら不甲斐ないと思ってしょんぼりしていると、ふと行く手に明かりが見えた。なんだろうと歩みよってみると、太鼓を叩く音や歌声など、どんちゃん騒ぎをしている音が聞こえてきた。

 人のいる気配がすることが分かると思いの他安心感がした。そのため自然と足が向いた。

 たどり着いてみるとそこは石組の廃屋だった。こんなところに人が住んでいるのかと思えるほどの寂れかただったが、入口から覗いてみると、地下へ降りる階段があり、そこから物音が聞こえてきた。

 そればかりか美味そうな料理の匂いがする。腹の虫が鳴った。

 するとそれを聞きつけたかのように地下の扉が開き、男とばったり目があった。どういう表情をしようかと迷う矢先、男はにっこりと笑い、来いというように手招きした。

 それがあんまり親し気だったので、僕は誘われるように足を踏み出した。

 入ってみるとそこは結構広い部屋で、人いきれでむんむんしていた。楽器の音、歌、手拍子。それに合わせて大勢の人たちが踊り騒いでいた。

 それを見ていると僕までが踊りたくなってきた。丁度その時、一人の男が私の手を取り、踊りの輪の中に導いた。僕は誘いに乗った。日本ではディスコにも盆踊りにも行かなかったというのに。

 もちろん彼らの作法など知る由もなく、自己流で興の向くまま踊った。

 それがどれくらい続いただろうか。ふと何気なく下を向くと、踊り手の足元が見えた。瞬間僕は目を見張った。それが人間の足では無かったからだ。まるで馬の蹄のような形をしていた。

 僕は血の気が引くような恐怖に襲われた。そして一刻も早くこの場から逃げなくてはと思った。

 僕は誰にも悟られないようにそろそろと扉の方へ向かった。そして扉に手がかかるやさっと開き、階段を駆け上がった。すると背後で怒声がし、馬のような足音が迫ってきた。

 僕は今まで出したことのない全速力で駆けた。肩に何者かの手が触れた瞬間、入口にたどり着いた。日の光が顔を照らした。その瞬間、背後の気配は消え失せていた。

 僕が建物から走り出ると村人たちと目が合った、彼らは一様に恐怖の目で僕を見た。僕はいたたまれない気持ちになってその場を離れた。

 それから僕は日本に帰ることにした。ほうほうの態でテヘランにたどり着き、大使館の手を煩わせて帰国の途に着いた。あのときの恐怖に比べれば日本での生活など……。そう思うようになっていた。

 それだけでもイランに行った甲斐はあったというものだろうか。




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