第三章(1)
ジルベルトとの約束の日は、朝からフランシア家の屋敷中がそわそわとしていた。リガウン侯爵家のジルベルトがやって来る。それだけでも一大事であるのに、その目的がエレオノーラとあれば大大大事件だ。
「変じゃないかしら、変じゃないかしら」
襟元と袖口にフリルのついたシンプルなドレスを身に着けたエレオノーラは、口を開けばそれしか言わなかった。
「ああ。変装は得意なのに、変装しないで人に会うことは苦手だわ」
エレオノーラは恥ずかしくなって両手で顔を覆う。その隙にパメラがエレオノーラの髪を手早く結う。
「どんな髪型いいですか?」とパメラに聞かれても「変じゃない髪型」としかエレオノーラは答えることができない。それだけ頭が動かないのだ。
そもそもエレオノーラが素顔で外を出歩くことなど皆無に等しい。いつも、妖艶な美女やら可愛らしいお嬢様やら、そういった女性を演じることを意識しながら化粧をしているからだ。だが今日は、パメラの手によって薄く化粧をされただけ。どこからどう見てもエレオノーラである。
さらにパメラは、手早くドレスに似合う髪型にと編み込んだ。
「エレン、リガウン団長がいらっしゃったぞ」
ダニエルの声に、エレオノーラの全身に緊張が走った。あまりにも全身に力が入り過ぎて、ふくらはぎをつってしまうのではないかと思えるくらいであった。
「オレがついているから、大丈夫だ」
ダニエルがそう言ってくれるものの、今日は素顔である。いつもの仮面をつけることができないためか、エレオノーラとしては非常に緊張していた。本当に、身体の一部が引き攣ってしまうのではないか、というくらいに。
「とりあえず、パターン一で行動する」
ダニエルのわけのわからないその言葉に、ドミニクとアルフレドが頷いた。パターン一とは何か。エレオノーラはもちろん知るわけもない。
さて、こちらはジルベルト。
約束通りフランシア家を訪れたのだが。この屋敷に足を踏み入れ、初めてエレオノーラの素顔を見た時、本当にあのときの人物とこの目の前の女性が同一人物であるのか、と疑いたくなった。彼の思うあのときとは、あの任務で偶然出会ったとき、男装していた彼女のことである。あのときの彼女は完全に男性だった。短い髪に、スレンダーな体つき。触れなければわからない程の膨らみ。
だが、今目の前にいるのは可憐な少女。そう、まだ少女という表現が相応しい女性。
「エレオノーラ嬢。突然、お邪魔して申し訳ない」
大きな花束を抱えたジルベルトは、エレオノーラを前にしてそう口にした。
「私は、第一騎士団団長のジルベルト・リガウン。先日、任務先でお会いしたのだが、覚えているだろうか」
「はい、リガウン団長。私が、第零騎士団諜報部のエレオノーラ・フランシアです」
エレオノーラはドレスの裾をつまみ、背筋を伸ばして礼をする。
ダニエルが難しい表情をしていることにジルベルトは気づいた。彼は何か言いたそうに、ひくひくと口の端を震えさせていた。
「先日の窃盗団の密売の件は、エレオノーラ嬢のおかげで無事に解決した。ありがとう。ずっと、礼を言いたいと思っていた」
「いえ、それには及びません。それが私の仕事ですから」
「だが」
とジルベルトが口を開いたときに、エレオノーラの後ろに控えていたダニエルが口をパクパクとさせながら「は・な」と言った。「はな?」と同じようにジルベルトが口パクで尋ねると、ダニエルが頷いている。そして、何かを指さしている。その先にあるものは、ジルベルトが抱えている花束。ああ、そうかとジルベルトは思い出す。
「よろしかったら、これを」
言い、彼は花束をエレオノーラに差し出した。
「ありがとうございます。私、この花、好きなんです」
「それは良かった」
花束を嬉しそうに受け取る彼女を見たジルベルトは、きっとこれが本来の彼女の姿なのだろうと思った。そして、この姿は他の者は誰も知らないのだろう、という思いになぜか優越感に浸る。
「ジルベルト殿、お茶の準備が整ったようなのでこちらへどうぞ」
ダニエルがジルベルトに声をかけた。ここはダニエルが仕切らないと話が進まないぞと思っているようだ。エレオノーラと二人きりにされるよりは、まだ彼がいてくれた方が助かるという思いも、ジルベルトの中にはあった。
ダニエルの案内によって、ジルベルトはサロンへと向かう。
「あの、お兄さま。少しリガウン団長と二人で話をさせていただけないでしょうか」
エレオノーラがそう切り出したことに、ジルベルトは少し驚いたが嬉しくもあった。
ダニエルは不安そうに瞳を揺らしているが、それでもエレオノーラの希望を叶えようとしているのだろう。
「エレン、ジルベルト殿に失礼が無いようにな」
彼は、エレオノーラの耳元で囁いた。
「どうか、妹をよろしくお願いします」
ダニエルはジルベルトには頭を下げて退室した。
サロンに二人きり。出会いが出会いなだけに、気まずいとも言う。だが、エレオノーラはジルベルトに言わなければならないことがあった。
「あの、リガウン団長」
「なんだろう」
「あの、責任をとりたいとおっしゃっていると、うかがったのですが。ですが、あれは事故のようなものですので、団長が気になさる必要はありません」
背筋を伸ばし、凛とした口調で伝えた。
「いや、しかしながら。私も男ですから、ここはきっちりと責任を取らせていただきたい。どうか、私の妻になっていただけないだろうか」
まさしくそれはダニエルから聞いていた通りの内容であった。それと当時に兄たちがいなくて良かった、とエレオノーラは思った。そう思うくらい、顔が熱を帯びていることに自分でも気づいた。事前告知があったにも関わらず、面と向かってこのようなことを言われることに慣れてはいない。
それでも何か言わなくてはとエレオノーラは思う。
「もし、団長が責任を感じてそうおっしゃるのであれば。私も責任を取る必要がありますね」
エレオノーラは弾む胸を悟られないように、笑みを浮かべた。
「それは、いい返事をいただけると思ってもいいのだろうか」
少しだけ、ジルベルトの腰が浮いたようにも見えた。
「はい。団長の妻、今はまだ婚約者? 恋人? それを、責任をもってきっちりと演じさせていただきます」
エレオノーラは自信ありげに答える。
「演じる?」
ジルベルトは聞き返した。その言葉に彼女は頷く。
「はい。団長が責任を取って私を妻にとおっしゃってくださった。ですから私も責任をもってそれに応えます。団長の相手にふさわしいような女性になります。変装は得意ですから」
ジルベルトには最後の一言が引っかかった。だが、ふさわしい女性になりたいという彼女の気持ちは素直に嬉しい。だが、最後の一言が、変装が得意というその一言が気になる。
「エレオノーラ嬢。あなたの仕事柄、変装が必要であることもわかっている。だが、私の前では、その素顔のままでいてくれないだろうか」
まさか、彼からそのように言われるとはエレオノーラも思っていなかった。
「私がこの素顔を晒すのは、家族以外では団長が初めてです。ですから、どうかこの顔のことはご内密にしていただきたいのです。そして、外を歩くときはこの顔ではないかもしれません。それでもよろしければ」
「つまり、あなたの素顔を知っているのは私だけ、ということだろうか」
「そう、なりますね?」
恐らくそうだろう。エレオノーラは、この屋敷にいるときは素顔のままだが、ここから一歩外に出れば、変装をする。それは、第零騎士団諜報部潜入班に所属しているからこそで、他の誰かに素顔を知られてはならないのだ。素顔を知られてしまえば、仕事に支障をきたしてしまうから。
「そうか」
ジルベルトは呟いた。彼女の素顔を知っているのは自分だけと、どこか優越感に浸っているようにも見えた。
「エレオノーラ嬢。できれば近いうちに、私の両親にも会っていただけないだろうか」
求婚を受け入れてもらえた、となれば次の段階にすすみたいという思いが伝わってきた。
「そうなりますと、この顔ではないかもしれませんが、よろしいでしょうか」
「なぜ、私の両親に会うのに、顔を変える必要がある? きちんと君を紹介したいのだが」
「きっと、この顔では団長のご両親に認められないと思うのです。その、団長の婚約者として、認められない、というか。ですから、できればご両親に嫌われない方法を教えていただけると助かります」
エレオノーラは真面目にそう言った。ジルベルトは何か言いたげに口を開きかけたが、それが言葉となってエレオノーラの耳に届くことはなかった。